彼、あるいは彼女の話


”私は女優だ”
”おれは役者だ”

その意識だけがはっきりと残っている。
それ以外はまるで何も覚えていない。

例えば年齢、例えば性別、例えば性格、例えば生い立ち。
自分が何者であるのかさえも。

故にその人間には顔が無い。
誰でもあって誰でも無い。

だから何にでもなれるのだ。



クロコダイルは先日ベンサムの披露した余興をいたく気に入ったらしい。
ベンサムがMr.2として任務を成功させると、
その報酬の受け渡しをクロコダイル自身が忙しい合間を縫って行うようになった。

「これって『エコヒイキ』ってやつなんじゃなーい?」
「なんの話だ?」

ベンサムはいつもの戦闘服では無い、スーツ姿である。
クロコダイルは葉巻を吹かしながら、
ベンサムがタコのパルフェを突くのを無感動に眺めていた。

「前みたく郵送での受け渡しであちしは全然構わないのよぅ?
 そんなにこないだの余興を気に入ってくれたのかしら」

クロコダイルは口角を不敵にあげる。

「おれは優秀な部下を労っているだけだ。不服か?」
「いーえ、とんでもない!」

ベンサムは首を横にふり、少し考えるそぶりを見せた。

「んー、報酬に加えてご馳走になったり、色をつけてもらってるものねーい、
 ただでは帰れない。ゼロちゃんの興味を引けそうな”顔”は・・・、
 ああ、あったあった!ちょっと失礼」

ベンサムは何を思ったか、ジャケットを脱ぎ、
シャツのボタンを二つほどくつろげ、ベルトを外した。
それからすぐに左手で顔を覆う。

どうやら余興を始めるらしい。

クロコダイルはベンサムの変身を見届け、驚きに目を見張る。
ベンサムは今、クロコダイルも良く知る人物に変わっていた。

「フッフッフ! 驚いたか?」

話し方さえトレースしたかのようだ。
その男に、クロコダイルは不機嫌そうに眉を顰めた。

短い金髪にニヤニヤと笑みを浮かべている。
サングラスをかけていないその顔をクロコダイルは初めてみたが、
どうみても”ドンキホーテ・ドフラミンゴ”その人である。

「お前、その顔をどうやって手に入れた」

心なし警戒を滲ませたクロコダイルに、男は肩を竦めて見せた。

「方法は色々あるが、この男の場合は偶然だ。
 ――七武海も髪は他人に切らせるだろ?
 フフフ、仮にも刃物を扱う相手なんだから用心すべきだよなァ、
 もっとも、ただの髪切り屋風情にどうこうされるとも思っちゃいなかったんだろうが」

どうやら美容師に化けて手に入れたらしい。

クロコダイルは納得はしたが、しかし鼻を鳴らして見せた。

「飯が不味くなる、その顔をやめろ」

「おやァ? 気に入らなかったか?
 おれはこの”顔”、そんなに悪く無いと思うんだがなァ・・・」

人でも殺せそうな眼差しを向けられて、男は軽く手をあげた。

「フフッ! そう怖い顔するなよ。
 この男が惨めたらしく泣きわめく顔も、絶対に言いそうにねェ情けない命乞いも
 ご所望ならやってみるが、どうだ?」

思いもしなかった提案にクロコダイルはしばし沈黙するが、
やはり首を横に振った。

「そういうのは”本物”にやらせてこそ価値のあるもんだろうが」

クロコダイルの言葉に、男は虚を突かれたようだった。
顎に手を当てて、神妙に納得している様子である。

「なるほど、なるほど。
 なら”偽物”の使い道が浮かんだなら教えてくれ。
 別の顔か、・・・真新しくて面白い顔は持ってねェな」

再び左手で顔を覆い、男はまた別の、今度は平凡な男に変身した。
テキパキとボタンを留め直している。
柔らかな茶色の髪がふわふわと揺れた。
今度はクロコダイルの知らない顔である。

「そいつは誰だ?」

「人呼んで海軍所属の”カリスマ”美容師。
 マネマネの実の覚醒した能力者は、一度見た技術もマネできる。
 試して見てはいかがかな?」

クロコダイルはいたずらっぽく笑う男に、口角を上げた。

「・・・いや、遠慮しよう」
「ご賢明な判断だ、サー」

クロコダイルを相手に度胸があると言って良い類の冗談だ。
平凡な優男は人懐っこい笑みを浮かべ、くつくつ笑ってみせる。
普段ならあまり好意的に扱うタイプの受け答えではないが、
クロコダイルはその男に、不思議と苛立ちを覚えてはいなかった。

「――あの女の顔が一番しっくりくる」

クロコダイルが言うと、男は頷いた。

「かしこまりました」

男はまた左手で顔を覆う。
次に手を払って浮かんだのは、恐ろしく整った女の顔だ。
能面のような顔が少し傾いだ。

「この顔がお気に召しましたか?」
「おれは生憎、男に宝石を贈る趣味はねェんでな」

クロコダイルの言葉に、女は軽く目を瞬いた。
感情の薄い顔だが、驚いているのは分かる。

「・・・私、先日の任務で、何か特別なことをしたでしょうか?」
「今日はお前がMr.2・ボンクレーになった日だ」

テーブルに置かれたのは混ざり物の少ない琥珀だった。
女は軽く目を細める。

「ありがとうございます、サー、身に余る光栄です。
 ですが、こちらを社長が社員に渡すのは、依怙贔屓が過ぎるのでは?」

女の声に面白がるような色が乗った。
クロコダイルはそれに応えるように口角を上げる。

「個人的に贈ると言ったら?」
「・・・あまりお勧め致しませんよ、サー」

女は微笑んだ。

「ドッペルゲンガーと食事をしたいわけでないのなら、
 マネマネの実の能力者を誘うのは賢明とは言えません」

「クハハハ! なるほど?
 方法は”色々”あるわけだな」

クロコダイルは笑う。
この女の牽制の仕方は悪くはないと思っていた。



 思えば、”誕生日”に贈り物をもらったのはあれが最後だった。

ベンサムはなぜか”入社記念日”のことを思い返していた。

クロコダイルのユートピア計画は麦わらの一味によって潰され、
高位の男性ナンバーエージェントは皆インペルダウンに収監された。
無論ベンサムもその一人だ。

そして残りの人生をそこで過ごすことになるのかもしれないと思っていた。
海楼石の鎖をかけられた時、
もしかして忘れた”自分の顔”を取り戻せるのかもしれないと思ったが、
ベンサムの顔のままだった。

ベンサム自身、理由はなんとなく、想像がついた。
おそらくは”本物”と”偽物”との区別は自己認識によるところが大きい。

長い間、ベンサム、Mr.2として時を過ごしていた。
その口調も仕草も演技の範疇ではない。もうベンサムは”ベンサム”なのである。

「”役者”としては、冥利に尽きるわねぃ」

インペルダウンに収監されてからも、思い出すのはユートピア計画のことだ。
結局は頓挫してしまったが、国王の演技はとても面白かったものだ。
様々な人間の人生を演じ分けることはできても、それをどう使うのかは、能力者次第。
クロコダイルの、ベンサムの使い方は素晴らしかった。

モンキー・D・ルフィ主犯のインペルダウンの大脱獄劇。
その渦中の人物にキャスティングされたベンサムは、再びクロコダイルに相見えた。
クロコダイルはMr.1とともに再び海に出ようと言う。

Mr.1は怪訝な顔をしていた。
ベンサムとクロコダイルの奇妙な会食の件を知らなければ、当然の反応だ。

また面白い夢が見れるのかもしれないと思ったが、状況は変わった。

ルフィ達を確実に逃がす方法、
それはベンサムがマゼランのふりをして、
インペルダウン唯一の出入り口、正義の門を開くことだった。

ベンサムはマゼランの巨体を見上げる。
怒りに震えるその顔に、ベンサムはおどけた笑みを浮かべてみせる。

「まんまと引っかかったわねーい!!!
 そう・・・正義の門を開けたのは、あちしよーう!!!」

そして策は成った。
ベンサムの思惑の通りに。

「よくも・・・」

マゼランの憤怒の形相に怯むことなく、ベンサムは笑う。
すると、その時だった。

『ボンちゃん!』

ポケットに入れていたでんでん虫からルフィの声が聞こえてくる。
やがて、そのでんでん虫は叫び出した。

『一緒に脱獄するんじゃなかったのかよォ!!!
 おれ・・・助けてもらってばっかじゃねェかっ!!!』

思えば、敵同士だったと言うのに、奇妙な友情が芽生えたものだ。

ベンサムは口をつぐんだまま、ルフィに何も返さない。
そのうち、イワンコフの仲間達やMr.3、バギーらの声がベンサムの名を呼んだ。
気持ちの良い奴らだった。情が移る程度には。

しかし、そのうち諦めたのか、ルフィが苦しげに叫ぶ。

『ボンちゃん!!!っ、門がもう閉まる!おれたち、行くよ!!!
 ありが・・・わっおい、何すんだワニィ!?』

どうやらでんでん虫を取られたらしい、ルフィの騒ぐ声が聞こえる。

『・・・ベンサム、』

低く耳に残る声だった。

クロコダイルの声には、誘いを蹴って一人、
インペルダウンに残ったベンサムに対する怒りも惜別も、浮かんではいない。
ベンサムは静かに、言葉を待った。

『お前は誰だ?』

その問いかけに、ベンサムの目が大きく見開かれた。
それから吐息をこぼすように、小さく笑う。

「麦ちゃん!!!
 必ずアニキ、救ってきやがれ!!!」

でんでん虫が不機嫌そうな顔をする。
問いに答えず、ルフィに最初に声をかけたからだろう。

 案外自分をないがしろにされると、拗ねるようなところのある人だった。

ベンサムは頰に左手で触れる。
恐ろしいほどの美貌の女がゆっくりと口を開いた。

「私はMr.2、ボンクレー。
 共に理想郷の夢を見れたこと、身に余る幸福に存じます。
 ――ご武運を」

でんでん虫が小さく息を飲む。

やがてノイズが混じり、声も何も聞こえなくなっていく。
完全に通話が切れたのを確認して、女は再び顔を上げた。
マゼランの驚愕の表情を前に、うっすらと口角を上げて見せる。

「おや、あなたはこの”顔”を知っているようですね」

マゼランは突如現れた、ボア・ハンコックもかくやと言わんばかりの、
美貌の女に、驚きを隠せなかった。

「大女優、・・・!
 5年前に死んだはずでは?!それに・・・」

女はマゼランに目を細めて見せた。
かつてその笑みは、西の海のスポットライトに照らされ、
惜しみない喝采と賞賛の的だった。

薬物の過剰摂取で死んだと報じられたのも、熱心なファンにとっては昨日のことのようだ。
その女の”最盛期”と言うべき、20代の頃の顔がそこにある。
まるで時間が巻き戻ったかのように。

「そんな名前で呼ばれていたこともありました。
 そうですね、もう5年も前のことでしたか」

女はわずかに目を伏せる。長い睫毛が頰に影を落とした。

「この顔をあの方は気に入っていたようでした。
 私の作り上げたモンタージュの中でも、最も美しい顔でしたから。
 ふふふ、私、もともとは女だったのですね。
 誰かのために着飾るなんて可愛げが残っているとは、思いもしなかった。
 でも、この顔はすでに”死んだ顔”」

女は左手で自身の頰に触れる。
大柄なオカマ、ベンサムの姿に戻る。
なぜだか一瞬、マゼランは素朴な顔立ちの女を見た気がした。
田舎の町娘のような姿だったが、瞬きの内にその姿は消える。

一瞬の歪みへ怪訝に眉をひそめるマゼランに、ベンサムは武道の構えをとった。
マゼランは唇を噛み、囚人に向き直る。

「・・・残す言葉はあるか?」
「”本望”・・・あちしならそう言うんじゃなーい?」

ベンサムはマゼランに不敵な笑みを浮かべてみせる。
勝ち目も薄い、死に近しい戦いに臨むことを、恐れていないわけではないが
不思議と気分が良かった。

「あちしはMr.2、ボンクレー。見ての通りのオカマよーう!
 オカマ道の求道者、男でもあり、女でもある、マネマネの実の能力者
 ・・・死ぬまではこの顔が生きている”あちし”なのよう!
 死に顔くらいは、自分で決めなきゃねい」



クロコダイルは最後に聞いた女の声に、インペルダウンを振り返った。
正義の門が閉まる直前、つい先ほどまで己もそこにいたのだが、
もう随分前のことのように思える。

クロコダイルはでんでん虫を何が何だかわかっていない様子のルフィに渡し、大砲に腰掛けた。
操舵していたジンベエが首をかしげる。

「最後の女の声はオカマ君のものとは違ごうていたが、
 あれは・・・」

「さぁな。・・・まぁ、あいつは能力の使いようが上手い。
 運が良ければ死なねェし、その気になりゃあ脱獄も容易だろう」

クロコダイルはなんでもないことのように言ってのけて、
ジンベエと、そばにいたMr.1を驚かせていた。

「お前さん、随分とまぁ・・・信頼しとるんじゃなァ?」
「信頼?」

クロコダイルはジンベエを鼻で笑った。

「クハハ、このおれを相手に、”おれに化けて”飯を食おうとするような奴だ。
 そう簡単にくたばってもらっちゃ困る」

怪訝そうな二人をよそに、クロコダイルは海を眺める。
もう二度と見れるとは思わなかった景観だが、取り立てた感慨もありはしない。

 ここに、無貌のアンドロギュノスがいれば、何か変わったのだろうか。

クロコダイルにわずかな感傷と惜別がよぎるも、船は戦場へと進む。
また出会えるのかどうかは、あやふやな彼、または彼女次第だろう。