バスタブのある部屋
もしかすると、を船に乗せるのは間違った選択であったのかもしれない。トラファルガー・ローは柄にもなくそんなことを考えていた。
一度決めた方針を翻すような考えを抱くのは、ローにとっては珍しいことだった。
件のは猫足のバスタブの中、うたた寝をしている。
ローはそれをバスタブの縁に腰掛けて眺めていた。
手に持ったレポートはさっきからろくに捲られていない。
は蛸の人魚だ。
他の魚の人魚に比べて陸に親しみがある方だとは言え、
本来海の生き物であるは長く水に触れていないと落ち着かないらしい。
故にローはを船に乗せるにあたって潜水艦を増築した。
誕生祝いという名目でのための部屋を作ってやったのだ。
それが船長室の横に作られた浴室付の部屋である。
バスタブのある小さな部屋を、はとても喜んだ。
そして、時折ローをその部屋に引きずり込み、麻薬のような夜を共にするのである。
「悪魔の実の能力者って、不便ね」
いつの間に起きていたのか、が口を開いた。
レポートから視線を移したローと目を合わせたと思うと、その手をとって甲を突く。
「力が抜けちゃうのって、大変でしょう、海賊なら尚更」
「・・・海に落ちなけりゃ良い話だ。
こんな風に、海水を張った湯船に引きずり込むような奴は中々居ないもんでな」
意地悪く咎めるように言うと、はうなだれ、しおらしく肩を竦めて見せた。
「ごめんなさい、つい・・・」
先ほどまでローをバスタブに招き入れ、好き勝手にのしかかってきたとは思えない顔だ。
ローは黙ってその顔を眺めた。こうしてみれば最初に出会った頃の印象と、そう変わりはない。
しかし、は随分と変わった。
元々は海賊であるローの元に押しかけてくるような女ではなかったし、
脚をひた隠すことをしなくなった。時々前髪を払ったまま外を闊歩しているのも見る。
知的好奇心は旺盛なまま、研究にも熱心に取り組んでいるようだ。
あちこちの海を行く海賊になってからも、レポートは増え続けていた。
「お前はどんどん変わっていくな」
の頰に手を伸ばすと、は目を瞬き、ローの手に頰を傾けた。
「私を変えたのはあなたでしょうに」
「どうだか」
ローはシラを切った。が変化するきっかけがローであることはわかっていたが、
その変化の仕方を選んでいるのは自身のようにも思える。
は目を細めた。
金色の、瞳孔が横に広がった瞳は相変わらず静かで、どうも感情が読みにくい。
しかし、ローの手のひらに触れる指が手の甲をくすぐるように撫でるので、
ローは持っていたレポートをデスクへ放る。
それから間も無く、に腕を引かれ、
ローは未だに水の残るバスタブの中に引きずり込まれていた。
眼差しが絡み、唇が重なる。
の頰に赤みが走り、目の色が変わった。
まさしく目は口ほどにものを言う。
だが、ローは喉の奥で小さく笑った。
「構って欲しいならそう言えよ」
強引にことを進めようとするのは間違いなく自分の影響だと断じて、
ローは物言いたげに開いたの唇を塞ぎにかかっていくのだった。
※
バスタブに張られた海水は3分の1程度を残してほとんど外に溢れ出てしまった。
ただ、足元を浸す程度の海水であっても、
能力者のローにとってはあまり気分のいいものではないらしい。
常よりも緩やかで、ただし粘つくような交わりだった。
後ろから壁のタイルに押し付けられるような格好で、
は腕を額に当てて、鈍い快感に呻く。
顔が見えない。
だから目を瞑ると、触れられている箇所がひどく熱いことに気づく。
人魚は人間よりもずっと体温が低いのだ。
刺青の入った指が腰から徐々に上へと上がる、
肋骨から乳房を通り、喉から顎、唇へ。
「あっ、!? 」
「しばらく開けてろ」
唇をこじ開けられ、指が入ってくる。
が何をするのかと抗議しようにも、不恰好な言葉が滑り出るばかりだ。
ローはそれを面白がっているようだった。
「くすぐってェし、何言ってるか分かんねェな」
「ぅ、う・・・!」
どうやら喋ろうとするたび、の舌がローの指にあたるらしい。
はムッと眉をひそめた。
軽く指に歯を立てると、ローは小さく笑っているようだった。
それから腰を掴んでいた手のひらに力がこもる。
「ん、っあ、あ、あ・・・!」
緩く後ろから揺さぶられ、は思わず喉を反らした。
閉じられない唇からは唾液が溢れ滴り落ちていく。
ローの左手はの口内で遊んでいた。
歯を撫で、上顎の先を擽り、舌を摘んでいる。
右手は抱き寄せるように腰に回っているだけだ。
はみっともなく声を上げ続けるのが癪になり、
ローの指を唇で挟み込むようにして歯を立てずに舐める。
爪の形を舌先で探り、吸い上げた。
同じように足の数本がローの足にくるくると纏わり付いて、緩やかに締めて摩っていく。
しばらくはの好きにさせていたローだったが、
やがて指と、挿入していた性器とを引き抜くと、
の体を反転させた。
口付けながら、バスタブにもつれあって倒れこむ。
いつの間に、湯船の栓を抜かれていた。海水が音を立てて流れ出ていく。
それからのしかかろうとするローをは押しとどめた。
じとりとした目が不機嫌そうに細められたが、6本あるうちの足の先端が
ぐるりとぬるついた性器に巻きつくと、ぐ、っとローの眉間にシワが寄る。
は快楽に上擦った声で囁いた。
「ね、嫌じゃない、でしょ」
人の指では味わうことのできない、しなやかな感触のせいか、ますます体温が上がっていく。
はローの首に手を回し、自身の耳元で途切れ、
短くなっていく吐息を聴きながら、口角を上げた。
いつもこうだ。
どちらにも主導権があり、どちらにもないのだ。
そこにあるのは感覚的な、本能と呼ぶべきものだったのかもしれない。
ただ、互いが互いに集中して、反応を伺っていくうちに何も考えられなくなっていくのが、
たまらなく良かった。
にこれを教え込んだのは他ならぬローである。
蛸の触腕に翻弄され、眦を赤くしながら奥歯を噛み締め堪えているローに、
は優しく微笑み、頰に唇を寄せる。
「嫌じゃないでしょう。ねぇ、人魚の、この足に撫で回されるのも、
変わっていく私を見るのも、楽しんでる、」
喉の奥では笑う。
「私もよ。私もなの。
ああ・・・自分がこんなに、強欲で貪欲だったなんて知らなかった・・・!」
薄皮で隔たれた敏感な部分を、内側から引っ掻かれたような心地がした。
はローにしがみ付くと、震えながら足を絡ませる。
絶頂し、肩で息をするウルスラに、ローは未だギラギラと目を光らせたままだった。
眼差しは雄弁だ。「もう黙れ」と言っている。
はローの首にもう一度腕を回した。
何かが許す限り、続けたかったのだ。
いつまでも、いつまでも。
※
ローの知り合いに、大層目利きの男がいる。
宝石から古金貨、美術品まで、
相応しい価値をつけて取引を行うのでそれなりに信頼している男だった。
その男の屋敷でいつものように取引をしていると、
巨大な岩石が置物として鎮座しているのが目に入る。
以前の取引の際には見かけないものだった。
ローの背丈ほどもあるから単純に、邪魔だと思ったのだ。
その岩はよくよく見れば光が当たると紫色に変色していたが、全体的には黒っぽく、
美しいと形容するに至らない。
男はローの視線の先に気がついたのか、上機嫌に答える。
『ああ、これはねヴァイオレットサファイアの原石です。
加工すればそれはもう見事な宝石になるんですよ』
男にそう紹介されてもまだ、ローにはただの邪魔な岩にしか思えなかった。
男は気の無いローの態度に肩を竦めると、うっとりと原石を眺める。
『もちろん、加工されればその価値は一目でわかりますけども、
私は今の、このあらゆる可能性を秘めた原石の状態も味わい深いと思うのですよ』
唐突に、目利きの男を思い出したのは、横に眠るが、
まさしくローにとっては原石のようなものだったからだろう。
結局時間と体力の許す限り交わった、頭がバカになるくらいやった。
それでもまだ足りない気がするのだからお互いどこかがイかれている。
ローはため息を零すと、デスクの端に引っかかっている
読みかけだったのレポートに手を伸ばし、やがて目を通し始めた。
の書く論文は近頃は、より切り口が独特なものに変わっている。
語り口も小慣れて読みやすくなっていた。
再びローは眠るへと目を向ける。
以前の言った通り、きっとローと出会わなければ、
は今も魚人島に居て、あの小さくも魅力的な医院の片隅で
透明な薬品をかき混ぜて居ただろう。
「・・・私の顔、そんなに面白い?」
いつの間に起きて居たのか、半身を起こし、はあくびを噛んだ。
前髪が揺れて、金色の眼差しがローを射抜いている。
「ご存知でしょうけど、私はあんまり自分の顔を気に入ってなかったから、
嫌悪感や好奇心抜きにこの顔を見られるのは、不思議な気分になるのよね」
は首を捻った。
「人間の、・・・いえ、あなたの感覚と私の感覚がどのくらい似ているのかは
私には測りかねるところがあるので、少し、気になるかもしれない」
の手が、ローの目元を撫でる。
ローはの好きにさせた。特に邪魔にも思わなかったからだ。
人魚の手のひらは冷たい。先ほどまではずっと熱かったはずだというのに。
だが、その冷たさが今は心地よかった。
目蓋を閉じたローに、は首を傾げて見せる。
「何を考えているの?」
「お前のことを」
ローが何の気なしに答えると、は弾かれたように手を離した。
ローは目を開けて、不思議そうにを眺める。
「ロー。あなた、そういうことも言うのね・・・」
「何がだ?」
「・・・いえ、別に、何も」
はふいに目をそらした。
ローはよく分からないと言わんばかりに首を捻るが、
もう少し詳しく言った方が良かったか、と口を開いた。
「お前の使い道について考えていた」
はローの言葉に瞬いたが、すぐに納得したように頷いた。
「お好きにどうぞ?」
は口角を上げて見せた。面白がっているようだった。
「これでも海賊稼業を楽しんでいますから。
ハートの海賊団の皆さんの協力もあって
研究も申し分なく進められているし、旅は刺激的だわ。
・・・魚人島の外に出て、本当に良かった」
「海賊を”楽しい”と言い切るか。随分肝が太くなったな」
「そうね。私は人魚だし・・・少しは、怖いと思う時もあるけれど」
揶揄するようなローの言葉に、は目を細める。
「あなたが居るなら、あまり問題ではないので」
の言葉に、ローは黙り込んだ。
は変わっていく。
ろくでなしの海賊に誑かされたせいだ。わかっている。
ローはその目覚ましい変化を概ね好ましく思っているのだが、時折思うのだ。
そのうち手に負えなくなる日が来るのでは、と。
ただでさえ振り回されっぱなしだ。
しかしそれが、不思議なことに嫌ではなかったのである。