鬼舞辻ホラーショー

この世は舞台。人は皆役者。

鬼舞辻ホラーショー

 ……こんにちは。お招きいただきありがとうございます。

 まず、自己紹介から始めればよろしいかしら? 私は月彦の妻です。夫は貿易を生業にしておりまして、外国の会社と色々なものを売り買いしております。それで、その、お話がしたくて参りましたの。でも、段取りというのがありますわよね。どうしましょうか……。

 夫のことをお知りになりたい?
 ええと……そうですね。夫は貿易を仕事にしていると言いました。恥ずかしながら、私は夫の商売のことをあまり詳しくは知らないのですが、取引しているのは、美術品や食べ物、お洋服、本、お薬など、多岐にわたっていると聞いております。夫は外国語に堪能で、商談なども自分でやっておりました。夜に限って、の話ですけれど。

 夫は生まれつき日に当たると皮膚が焼けただれる体質なのだそうです。昼間はまともに出歩けないので何かと不便だと、よく零しておりました。私と娘と出かけるにしても日が暮れてからになりますから、行く先も限られました。なにしろ、お日様の光に当たらず生活するというのは、それはもう大変なことです。色々な工夫というものが必要になるのですよ。

 たとえば……住まいにはひときわ工夫を凝らしていました。
 結婚する前、夫の邸宅に招かれた時には驚いたものです。窓がほとんどなく、日差しというものがこれっぽっちも入ってこないつくりになっていたのです。日に当たらずとも窓から晴れた景色を眺めるだけでも気分転換になりそうなものですが、全くお庭には何も手をつけておりませんでした。温室を設けて、薬草を人に育てさせたりはしていたようですけど。

 ……もしかすると自分の触れることのできぬ景色を見るのは、それはそれで辛いことなのかもしれませんね。体が自分の思うようにならない苦しみと言うのが、いかばかりのものなのか、私には見当もつきませんでしたが、夫が己の体質をとにかく憎んでいたことはわかります。外国から夫が仕入れる書籍のほとんどは医学書で、書斎には実験の道具が並んでいました。もしかして、夫が貿易を仕事にしたのは、外国の医療や薬に触れる機会を得たかったのかしら、とも思うのです。

 夫の行方がわからなくなることはなかったか、ですか? それは、ええ。まあ。私も四六時中夫の側について回る訳ではありませんし、商談が長引けば離れて過ごすこともありますから。貿易の仕事が多忙なのは最初からわかっていたことですもの。

 ……おっしゃる通り、月彦さんとは再婚です。娘も、月彦さんの子ではありません。最初の夫とは死別いたしまして。

 事故だったんです。交通事故。車というのは大変便利ですけれど、危ないものですよ。
 あんな風に人のからだが、……いえ、きっとお聞きにならない方がいいわ。気分のいい話ではありませんから。私は警官に無理を言って直接お顔を見て、静夫さんとお別れしましたけれど、娘には見せられませんでした。
 お別れに来た人にもお顔を見せてはあげられなかった。

 月彦さんと出会ったのは、最初の夫、静夫さんのお葬式のときでした。
 月彦さんは最初の夫の取引相手だったんです。お葬式に来て、取り乱す私を窘め、励ましてくださいました。

 ……ふふふ、いいえ。まさか。夫が亡くなってすぐに愛とか恋とかにうつつを抜かせるような気力はありませんでしたよ。

 ただ、の家はこういうことに手を回すのが早いので、四十九日が明けてすぐ、月彦さんはに婿入りをしました。

 誤解しないでいただきたいのですが、そもそもの人間が好きとか嫌いとかで結婚相手を決めることというのは、まずありえません。
 最初の夫も例外ではなく。

 最初の夫――静夫さんが私の婿として選ばれたのは、家柄と、商才と体が頑健かどうか、でしょうか。兄の友人で、人柄がよく知られていたのも理由の一つかも。自分で選んだわけでもないので、確かなことはわかりませんけれど。

 でも、月彦さんが私の二度目の結婚相手に選ばれた理由というのはなんとなく、分かります。月彦さんは他人の娘である千賀子を育てることに難色を示さず、初婚でない私を妻とすることを厭わず、貿易に商才があって最初の夫の仕事を引き継ぐのに不足がなかった。そういうことなのでしょう。入婿になっても良いという男の人も、そんなに多くはありませんし。

 さて、どうかしら? 月彦さんははじめから私と再婚したいと思って近づいて来たのかもしれませんが、私は月彦さんと過ごしている時に野心のようなものを感じたことはありませんでしたよ。政界進出に血道をあげるようなそぶりというのは一切なく。兄もその点は意外に思っていたようですね。それこそ、熱中していたのは自らの体質を改善すること、だったのだと思います。

 辛くはなかったか、ですか。それは好きでもない人を伴侶にしたことが、という意味? それとも最初の夫を亡くして、すぐに二度目の結婚を強いられたことに対して?

 両方。なるほど、どちらも一般に不幸なことですものね。
 ですが、……私は実のところほっとしておりました。

 というのは、古くから政治に携わって来た家です。人脈が広いぶん、世間の目というのを他所様の二倍三倍も気にします。
たとえ事故で死別したのだとしても、夫と別れて子持ちの出戻り娘が居る、という状況は非常に外聞が悪い。その上、静夫さんは普通の死に方ではなかったのですから、私は縁起の悪い女だという見方をされてしまっておかしくもない。

 それに、まだ娘が――千賀子が幼いということもありましたから、生活を安定させねばなりません。静夫さんが経営していた会社を信頼できる方に任せる必要もありました。そのために、どちらにしろ再婚はしなければならない義務のようなものでした。という家の、という立場に置かれた私の義務です。私は月彦さんの力を借りて義務を果たすことができた。その安堵の方が大きかったのですよ。

 義務を放棄した人間は一切の権利を失います。そういうものでしょう?

 こんな言い方をすると、月彦さんとは打算だけで結ばれたように聞こえるかしら。でも……ふふふ。私は月彦さんとなら、幸せな家庭というものを作っていけると思っていました。千賀子もよく懐いていましたから。月彦さんは絵本を読んでやったり、簡単な外国語を教えてあげたり、足を伸ばしてお芝居を見に行ってくれたりもしました。お仕事で忙しい合間を縫って私と千賀子と過ごしてくれた。静夫さんのことで気落ちしていた私のことも大変慮ってくださったから、私、きっとやり直せると思ったの。
 ええ、そうです。結婚生活に激しい恋愛感情は必須のことではありません。大事なのは相手をきちんと信頼できるか。月彦さんは信頼できる相手だと、私は思っていました。

 思っていました。ですよ。

 私をこちらに案内してくださったとても体格の良い方、精悍なお顔立ちで……剃髪はされていなかったけども、お坊さんなのかしら? あの方、羽織に詰襟の制服を着ていらしたわね?
 あれと似たような洋服を着た男の子を浅草でお見かけしたことがあります。市松模様の羽織を着て、耳に花札のような耳飾りをつけた、年頃は十代半ばくらいの。

 そう、やはりお知り合いですか。

 あの夜、あの子が月彦さんを見る目、まるで親の仇を見るようでした。月彦さんは彼に覚えがなく、人違いだと言っていたけれど。詳しい事情を聞こうにもその時は、近くで錯乱した男の人が、連れの女の人に襲いかかる騒ぎが起きて、結局有耶無耶になってしまった。そのせいで男の子とはろくに言葉を交わさずじまいでしたが、男の子が叫んでいた言葉はよく覚えています。

『地獄の果てまで追いかけて、必ずお前の頸に刃を振るう。絶対にお前を許さない』

 穏やかじゃありませんでしょう? 私、驚いてしまって。それに男の子をよくよく見れば本当に腰に刀を携えているじゃありませんか!

 思わず月彦さんの顔を窺ってしまったんです。月彦さんは、ここまで人を追い詰めたことのある人なのかと思ったの。まだうら若い男の子に、人の首を刎ねて殺してやるとさえ決意させるほどのことを、何をしたのだろうか、と振り返ったら。

 月彦さん、今まで見たこともないような、恐ろしいお顔をしていました。

 憎悪と苛立ちに目の色が、赤く光ったように見えたんです。けれどすぐ、本当に瞬きひとつくらいの間に、いつもの優しいお顔の月彦さんに戻っていました。私と千賀子を先に家に帰すように車の運転手に頼んだ時も、物騒なことが起きたので、早めに私たちを帰らせて安心させようと気遣ってくれているんだと。

 そう思わせようとしてるんだな、とわかりました。

 あの、苦虫を噛み潰したような、おぞましく鬱陶しい害虫でも目にしたようなお顔のほうがこの人の“本当”。

 そう思うと、常の私や千賀子に対しての、配慮ですとか優しさですとか、そういうものが、ああ、とても丁寧に計算して作っているものだとわかるようになって。

 私、なんだかとても安心したんです。

 ようやっと月彦さんから注がれる配慮を遠慮なく受け取れる気がしました。それまでは、居心地の悪さを感じていたので。

 月彦さんはの婿に入っても、野心がない。国政を牛耳ろうなどとは思ってはおられない。私の父や母の前でも大変謙虚に振る舞っておられた。身分にこだわりがある素振りもなく、お金に執着もしません。だいたいにして婿入りする必要など全くない人のように見えました。正直なところ解せなかったんです。月彦さんは私と結婚することでなんの得があるのか、さっぱりわからなかったから。

 無償の愛。そんなものがこの世にありますか? 理由なく人に施そうとする人がいますか? 母が子に向ける愛にしても、それは「母が子に向けたい」と思っているから注ぐものです。一つの命を己の意思で産み落としたからには、育て上げねばならない責任というものがあります。責任がある以上、無償であるとは言えません。『義務を果たしている』というだけのことです。
 打算の無い愛情なんて信じられませんし、そういうものがあったとしても気色が悪いと思うのです。人に分け与えることが好きだから分け与える。そういう心持ちなら、わかります。けれど、自分は分け与えるのを好きだと思っておらず、与えることで得をすることもなく、ただ自らの心を他人に分け与えることのできる人は、意味がわからない上に、怖い。

 だから、私は月彦さんのことを幸福な家庭を構築する伴侶として信頼はしていても、私の理解の埒外にある人と思っていました。この印象が浅草の一件で逆転したのです。
 月彦さんは決して信頼できる人ではない。けれど、月彦さんは私とそう変わらない人なのだと思うようになりました。何か目的があって私と結婚したのだとわかりました。

 途端に月彦さんに興味が湧きました。
 私と結婚することで、月彦さんが何を得ようと思ったのかを知りたくなったの。

 それまでの月彦さんについて知っていることと言えば、妻子である私と千賀子に居丈高になることもなく優しいこと。私の両親と兄との折り合いもよくつけていること。お仕事も大変上手にされていること。日光に当たれない体質について気にしていて、克服しようと仕事の合間を縫って調べていること、です。

 の婿として月彦さんは大変よくできた方でしたので、月彦さん自身の考えていること、好き嫌いというのが掴みづらったのですけど、やはり、体質についてかなり気にされているのだな、というのが月彦さんの取引と、静夫さんの取引を比べて思ったことです。夫の仕事に興味がない、などという素振りはいけませんし、時々は何を取引しているのかのお話をしましたから、比較は容易にできました。

 取引する品物というのは当然お仕事ですから、利益が出るものを選ぶわけですが、個々人の好みというものはあります。商談を人任せにしていないなら尚更です。そうなると何かしらの偏りというものが生じる。月彦さんは医療関係と植物の取引に重きをおいているようでした。

 月彦さんのお仕事について理解を深めると同時に、私は静夫さんの死について、また、月彦さんの来歴について調べることにいたしました。というのも、最初の夫の死、あれが本当に事故だったのかがわからなくなってしまったからです。

 静夫さんは、本当にひどい亡くなり方でした。本当に、……交通事故であんな風になるのかという疑問が、私の中で首をもたげるようになったのです。

 これも浅草で帯刀した男の子に出会ったのが疑念を抱くきっかけでした。

 千賀子を抱いた月彦さんを見て、あの子は、何か信じられないようなものを見るように青ざめてもいました。でも、恨んでいる人間が子供を抱いていたからと言って、ああいう顔をすることは、あんまりないと思うんですよ。心底憎んでいる人が自分の子を愛しんでいるのを見たなら普通の人は、妬んだり、嫌悪の表情を浮かべるのではないかしら。

 あんな化け物を見るような顔、なかなかしないと思ったんです。

 ……ああ、そうですか。やっぱり月彦さん、人間ではないんですね。

 人喰い鬼。鬼舞辻無惨。……そうですか。私、知らず知らずのうちに、鬼の奥さんをやっていたの。じゃあ、あの男の子は、やっぱり……。

 え? いつから気がついていたのか? 何をおっしゃっているんです?

 確かに、浅草の一件の後、私は千賀子と月彦さんを二人きりにはしないように気を配りましたけれど、それは人から深く恨まれるような人を千賀子のそばに置くのは憚られたからですよ。

 …………なんて。全てお見通しなのですよね、あなたは。

 月彦さんは大変な聞き上手でした。きっと私のことならなんでもご存知だと思います。私がどんな友人とどんな学校生活を送ってきたのかも。代わりに、私は月彦さんがどのような人生を送ってきたのかを知る機会がほとんどありませんでした。聞いてみると非常に漠然とした答えが返ってくるばかりだったのです。

 だから貿易会社の社長になるまでどのように過ごしてきたのかを調べたのですが、あるところでたどれなくなってしまいます。プツンと、人のつながりが途切れてしまうのです。起業する前のことが全くわからなかった。

 私が月彦さんの来歴や、最初の夫の死について調べ直していることが月彦さん自身に露見したのは、調査を始めて二ヶ月経ったくらいの頃だったでしょうか。

 ふふふ。そうなんです。私、多分ギリギリの綱渡りをしていたんでしょうね。あの人が人喰い鬼だと言うのなら、運が悪ければ食べられていたのかもしれません。その時ばかりは月彦さん、とても怒っていましたので。

『好奇心は猫を殺す、ということわざが外国にはあるそうです。この世には、知らなくても良いことというのがあるのですよ、さん』

 そんなふうに言われました。

 私がこんな、脅迫めいた忠告を受けて、殺されるかもしれない状況でも、調査を続けた理由は一つだけ。

 あなた、きっと言い当てることができるでしょう?

「あなたは、鬼舞辻無惨に恋をしているのだね」

 ……ええ。はい。その通りです。

 それにしても、本当に何もかもをお見通しなのですね。そうですとも。私が恋をしているのは月彦ではなく、鬼舞辻無惨なのだと思います。

 理由。お聞きになりたいのですか? そんなに面白いものでもないと思いますけれど、他人の恋路がどのような道筋をしているのかなんて。でも、そうですね、確かに不自然だと思われるかもしれません。だって静夫さんを、私の最初の夫を殺したのも、月彦さん……鬼舞辻無惨なのですよね?

 証拠らしい証拠は本当に何もなかったのですけど、あの人が忠告したときの、首に触れた指の冷たさ、触れているのは手のひらの先だけなのに、首元に刃物を突きつけられているような感触、声の残忍さというのが何もかもを物語っているように思えました。おそらく、その場で『静夫さんの死はあなたが画策したことなのか』なんて尋ねれば、肯定の返事が返ってきたのではないかしら。

 尋ねなくて正解? 聞いていたら死んでいましたか、私。ふふふ。本当に綱渡りですね。落ちたら崖に真っ逆さまだったんですね。

 面白がっている風に聞こえました? でも、実際私は楽しかったんですよ。

 家に生まれて、私はずっと立場に沿った生き方を求められてきました。私の人生は生まれる前から決まっていて、少しでも外れようものならたちまち型に押し込められる。別に、それが良いとも悪いとも思ったことはありません。私は人に求められた振る舞いをするのがとても得意だったのです。だからとても退屈でした。

 退屈でした。誰の妻になろうとやることは同じです。社交の場に出て、当たり障りなく似たような会話を延々交わし、全く興味のない大勢の人の顔と名前と趣味嗜好を覚えて、夫の仕事に役立つよう人間関係を調整する。人に嫌われないようにするのも私に課せられた義務でした。人から好感を持たれるように振る舞うのも。私はそういうことができるように幼い頃から育てられてきたので、できますけども、面白くはなかったんですよ。誰にも何にも興味がなかったから。月彦さんの、あのお顔を見るまでは。

 好奇心が殺すのは猫だけかしら。退屈も殺してくれるのではないかしら。興味関心を持って物事を見るようになると、なんだか視界まで華やいで見えました。相手はおそらく極悪非道の人殺しだと薄々分かっていたので、言葉を交わす時もずっと緊張していましたが、それさえ私は愉快に思っていたのです。一挙手一投足、五体の隅々まで気を配り、私は浅草の夜以前の私を演じる。命懸けで。そうして生き延びた翌日というのは、私が掴み取った一日なのです。ただ漫然と過ぎゆく日ではなく、私が勝ち取った一日。私の人生は退屈と無縁になりました。

 あの人のそばで私は『生きている』という感じがしました。そういう感覚を教えてくれたのが人殺しの夫だった。それだけのことです。

 私の、月彦さんに対する好奇心は尽きぬことがありませんでした。『知らなくても良いことというのがこの世にはある』ですって? とんでもない! 私はあの人のことならなんだって知りたかった。けれど、死にたくもなかった。

 ですから、調べる対象を月彦、鬼舞辻無惨から、浅草で出会った男の子に変えました。

 今は大正の御世ですよ。このご時世で帯刀しているなんて目立つに違いないと思いました。着ていたものも制服のようでしたし。調べればきっと正体がわかる。あの人について知ることができる。そう思って、刀について詳しい方にお話を聞ければといくつか伝手をあたってみることにしたんです。

 そう、そこからあなたにたどり着いたんですよ。それともあなたが私をここまで導いてくださったのかしら。

 私がお話を聞いた方、鴻池さんは刀剣を蒐集しておられました。彼が今一番欲しいのは――彼は“色染め刀”と呼んでいましたが、刃の刀身が青や緑、黄色、紫色など変わった色をした刀だそうです。製鉄を生業にしている彼でもどうしてこのような色に変わるのかが理解できず、また鑑定によると、廃刀令以後の明治以降に作られたものも混ざっているようだと目をキラキラさせながら教えてくださいました。とても楽しそうだった。

 鴻池さんは大正の世にも侍がいて、人知れず崇高な使命のために戦っているのでは? 私の見た浅草の少年はもしかするとその一人なのでは? などと夢のような話を語っていました。

 あら、あながち間違ってもなかったんですか。ふふふ、浪漫のある話だと彼は大喜びするでしょうね。日輪刀。本当はそういう名前なの。あなたは日輪刀の蒐集家の一人で、市場に出回ったものはほとんど先んじて買われてしまうのだと悔しそうにしていましたけれど。

 それにしても、本当に驚きました。私が鴻池さんの家を出た頃、ずいぶん流暢に喋るカラスに声をかけられたんですもの。それも、ついさっきまで話題にしてた方の名代を名乗るカラスに。

『これ以上の詮索は身を滅ぼしますよ、さん』

 カラスの忠告を聞いて、誰も彼も似たようなことをおっしゃると思ったわ。

『それでも真実を知りたいのであれば、私と彼の後をついていらっしゃい』

 破滅したいわけではないけれど、あの人のことは知りたかった。だからここまで足を伸ばしたというわけです。カラスを肩に留めた男の人の後を追って。

 さて、私の目的というのは一応のところ果たされました。私の夫、月彦の正体は鬼舞辻無惨という人喰い鬼。あなたたちは鬼を倒そうとする組織なのですね。

 それで、私を招いて何をさせようというのでしょうか。

「その前に、まず、あなたの本当の目的を言い当てよう。さん」

 ……何を。

「あなたは鬼舞辻への恋を終わりにするため、ここに来たんでしょう?」

 ――病床の産屋敷耀哉が穏やかに言った言葉に、は口を噤んだ。



 それまで淀みなく話していたのが嘘のように、は沈黙する。
 産屋敷耀哉は病床に伏していたのを妻の手を借りて半身を起こすと、の方へ顔を向け、時折咳き込みながらも柔和な声色で確かめるように言う。

「あなたは鬼舞辻に恋をしているけれど、非常に冷静だった。鬼舞辻から娘の千賀子さんをなるべく遠ざけたでしょう?お兄さんの伝手を頼って外国に留学させているよね」

 は目を見開いて、耀哉の顔をじっと見つめていた。何かを探るような目つきだった。

「わかっていたんだね。鬼舞辻はあなたに、“の人脈”に、利用価値があるうちはあなたを殺さない。けれど用済みになれば、あるいは機嫌を損ねれば娘ともどもあなたは殺される。そういう相手と結婚生活を営み、幸せな家庭を築くことはできないと」

 耀哉の先見の明は、のことも確かに照らす。

「あなたは“月彦”の正体、過去とその所業を知る人間からその全てを聞き出す必要があった。鬼舞辻は大変狡猾な男だ。殺人の証拠は残さなかったはず。現在の夫があなたの思う殺人者であるという確たる証はどこにもない。『全ては自分の気のせいかもしれない』そういう可能性をあなたは拭いきれなかった」

耀哉は立て板に水を流すように言うと、のいる方に首を傾げて見せた。

「だから私と話してくれた。確信を得て、何もかも終わりにしなくてはいけない。そう思って全てを打ち明けてくれた。そうでしょう? さん」

 はまだ、沈黙している。耀哉はそれに、念を押すように続けた。

「あなたは正しく賢明だ。あなたの判断は、決して間違ってはいないよ」
「……あなたの、その声、」

 がようやっと絞り出すように口を開いて言ったのは、それまでの話題とはまるでそぐわない言葉だった。

「心に深く沁み渡るようです。幼少の頃を思い出します。『声を整えなさい』と、母からよく“指導”を受けました」

 何を思い出したのか、膝に置いたの手が固く握り締められて白くなっていた。

「発声、表情の作り方、立居振る舞い、処世術。の人間に相応しい人物になるべく私は教育を受け、良妻賢母として、“賢い女性”としての振る舞いを常に求められてきましたが、さて、近頃私は何が正しいのか、基準が曖昧になっているようです」

 は顔を上げ、病に爛れた耀哉の顔を見る。

「産屋敷さん、あなたの話を聞いても私はまだ、あの人を愛しています」

 耀哉の手を取っていたあまねの指先が小さく震える。だが、は俯いてなおも続けた。

「愛していますが、千賀子と引き換えにはできません」

 の声はそれまでと打って変わって固く、無機質に部屋に響く。

「私、今までのお話で一つだけ嘘を吐いたのかもしれません。何にも誰にも興味はなかったと言いましたが、千賀子のことはそうではなかった。大事でした。何よりも。私が自分で選んで産んだ子供だから。家が選んだ夫の子供であっても、私が産みたいと思って産んだ子供だから」

 真新しい畳の目に視線を定め、は淡々と言った。

「千賀子が居なかったら未練など一つもありはしない。いつでもこの世にお別れできた。千賀子が居たから死ねなかった」

 耀哉もあまねも口を挟まず、が言葉を続けるのを待った。
 はしばし間を置くと、心なし低く呟くように口を開く。

「私がいなくなっても千賀子はお金に不自由することはないのかもしれない。幼い子供を放り出すのは“外聞が悪い”ので。けれど、あの家が本当に千賀子の気持ちを考えてくれるとは思えない。あの家が必要としているのは人の形をした歯車」

 自分の置かれた身の上を受け入れているようなことを言っていたは、このとき初めてのことを冷たく詰るように語った。

「私は千賀子をとして“指導”しませんでした。誰になんと言われても許しませんでした。だって私の産んだのは歯車ではなかった。歯車でいることは、私にとっては安楽な生き方でしたが、同時に大変退屈でした。退屈が人間を腐らせたのだと思います。そうでなければ」

 初めて動揺に声が揺らいだ。

「私が人生に飽きていなければ、果たしてあの人に恋をしたでしょうか。危ないものを、相手にそうと知られずひっそり愛でることに喜びを感じたでしょうか。私が歯車じゃなかったならば、私が、血の通った、まともな人間の女だったなら、もう少し、違う心持ちで、違う判断ができたのかもしれない、そう思うと、」

 の唇がわななく。

「……静夫さんに申し訳が立たない」

 奥歯を噛みしめては固く目を瞑る。の脳裏を過るのは最期に立ち会って見た、最初の夫の酷い死に顔。

「静夫さんは、千賀子の父親は決して、あんな死に方をしてもいい人ではなかった……」

 はまたしばらく俯いて黙り込んだ。
 誰も言葉を発さない部屋には冬の寒さが満ちている。

 目を赤くしたはゆっくりと顔をあげ、挑むように耀哉に問いかけた。

「……あなたは一体、私に何をさせたいの?」

「鬼舞辻に、私の居場所の見当をつけさせようと思っている」

 耀哉は間髪を入れずに答える。

さん。あなたには刀剣蒐集家の鴻池氏から、彼曰くの色染め刀の蒐集に執念を燃やす好事家の話を聞いたと、鬼舞辻にそれとなく伝えてほしい。根津の骨董商に使いの人間が出入りしていると」

 耀哉の計略に、は怪訝に眉を顰めた。

「なぜ、そんな危険な真似を? 敵対しているのでしょう?」

「私もまた、生まれて死ぬまで産屋敷一族の歯車の一つだけれど」

 耀哉は穏やかに言う。

「私の子らには、歯車から血の通った人になる機会が与えられても良いと思っているんだ」

 はハッと息を呑んで、耀哉と、耀哉を支えるあまねを見やる。

「役目を終えればそれが叶うだろう。ならば、できる限り私が露払いをしておきたい。のちに憂いのないように。それだけのことだよ」

 驚きに目を見張っていたは、やがて静かにため息をこぼす。
 『役目を終えれば』『露払い』『のちに憂いのないように』どれもには不吉な予感を感じさせる言葉ばかりだった。だから単刀直入に、耀哉に尋ねる。

「殺すのですか、あの人を」
「殺すとも。産屋敷千年の悲願だからね。……あなたには、気の毒なことではあるけれど」

 申し訳なさそうな声色だが、全く躊躇のない物言いに返って毒気を抜かれて、はフッと笑みをこぼした。

「あなたは、ずいぶんと年季の入った絡繰なのですね」

 薬の染みた包帯のせいで分かりにくいが、耀哉もまた、愉快そうに口角を上げたように見える。
 は不思議と落ち着いていた。

「なら、結構。……千賀子の安全が保証されるから、いいですよ」

 夫の殺す人間の、ある種の共犯者となることを知りながら、は産屋敷耀哉の申し出を呑んだのである。



 冬の夕方、はほとんど窓のない屋敷の玄関先で、出かける支度を整える月彦を見る。
 外套と帽子を用意しながらうかがう、革靴の紐を結ぶ月彦の背中はどうも気が急いでいるようだった。
 よほど外出先に向かうのが楽しみなのだろう。

 紐を結び終えた月彦がすっくと立ち上がって、振り返らずに告げた。

「帰りは明日の夕方になると思います」
「わかりました」

 この、なんでもないような会話の一つ一つが、にとっては綱渡りだ。
 それにしても、今宵の月彦は随分機嫌が良い。

 は自分が少々気落ちしているのがわかって一人、苦く笑う。

 月彦の、ある種の白々しさを含んだ完璧な振る舞いよりも、素の、虚を突かれた顔や、怒りや苛立ちを含ませた所作に惹かれていた。
 温室育ちのには、それが随分と刺激的に、魅力的にも思えたのだ。だが、それを誰に伝えるべきでもないことをは知っている。自身それが愚かしい過ちであったことを誰よりも知っているのだ。

「では」

 ようやく振り返って、月彦が目を細めた。
 
 この、に向ける柔和な笑みの裏側で、おそらくは全く別のことを考えている。

 冷徹な男なのだろう。何しろ元々の夫を殺してその妻に婿入りするような男だ。狂っている。だがそうまでして求められたことに、は愚かしくも仄暗い喜びを覚えていた。

 凶暴な手段を躊躇無く使う月彦は、という女の理想的な夫を演じている。その本性をひた隠しにして……。
 なんて健気でいじらしい振る舞いだろうと思った。
 その一種の献身とも言って良い演技を目の当たりにするたび、は奇妙な高揚とときめきを覚えるのだ。

『あなた、本当は恐ろしい人なのでしょう』

 そう耳に吹き込んでやりたい気持ちにもなった。だが、理性がきちんと機能した。そんなことをすればどのような事態に陥るかは容易に推察できた。死を引き換えに呟くべき台詞ではないと理性が叫ぶ。は理性に従った。

 は生まれて初めての、胸を掻き毟るような激しい恋情を抱えながらも己を客観できていた。この恋は正気の沙汰ではない。不毛で、愚かで、一刻も早く、終わらせるべきものである。
 ただ、自分自身を全く完璧に動かすことができて、感情を制御し、適切に求められるまま死ぬまで永遠に演じ通せるなら、たぶん、それは、人間ではない。今まで容易くできていたことの方が不思議だ。

『きっとお分かりにならないでしょうけど、あなたのそばで私、初めて生きた心地がしたんですよ』

 しかしそれも打ち明けることはない。
 が最後の言葉に選んだのは、ただの、ありふれた、特別でもなんでもない言葉だった。

「いってらっしゃい」

 自分がどんな顔をしていたのか、には分からない。
 こんなことは初めてだった。

 の顔を見る月彦は一瞬、驚嘆に表情を失ったようにも見えたが、すぐに優しく口角を上げて、頷いた。

「はい、いってきます」

 扉は音を立てて閉まった。



 布張りのソファに腰掛けて、は月彦の帰りを待つ。

 実のところ、は産屋敷の悲願が叶ってこの家に月彦が帰ってこなくても、帰ってきたとしても、どちらでもいいような気がしていた。帰ってこなかったなら、なすべき事がなされたのだろう。多くを殺し踏みつけにしなくては生きていけない。そういう生き方しかできない人が一人居なくなるだけ。月彦を、鬼舞辻無惨をきっかけに不幸になる人が居なくなるだけ。

 帰ってきたなら、きっとは夫と初めて本心での会話ができる。何を話そうか、とは考える。
そうすると、不思議と口から、するすると言葉がついて出た。

「あなたは私や千賀子の、夫として、父としての役割を、しっかり演じてくださった。ありがとうございました。私のようなつまらぬ女のご機嫌伺いなど、苦痛ではなかったかしら、とも思うのですが」

 はソファの向かいに座る無惨の姿を思い浮かべる。
 冷ややかな目をした高慢な顔つきを、と千賀子の前では決して見せなかった顔が、ありありと想像できるのは、この屋敷にはまだ無惨の残り香が残っているからだろうか。

「それとも、少しは私や千賀子と接して、気持ちの安らぐことはありましたか? あるいは滑稽に思われたでしょうか? かりそめの妻と娘があなたの横で笑うのを見て『何も知らないくせに呑気なことだ』と」

 幻は何も答えない。

「私はそれでも良かったのです。愚かにも、私はそれでも良いと思ってしまった」

 幻は何も返さない。

「やっぱりあなたは、思い通りにならない身体に、悔しい思いをされてきたのでしょう。あなたが、私の家の伝手を使って調べたのは、お薬や、その原料となる植物や動物について。西洋医学から東洋医学まで、広く書籍を取り寄せておられた」

 は一人で話し続ける。本当は打ち明けたかったことを。理性が許さなかった吐露を。

「生きていたいと思う望みは、ありふれたものです。幸福になりたいという願いもまた、ありふれたものです。あなたの幸福が何かは、私には分からないけれど、生きることも幸福になることも許されなかったことを……、私は業腹に思います。ただ、」

 病床に伏した産屋敷耀哉の顔が脳裏を過ぎる。
 あの、病に全身を焼かれた男は千年もの間、一人の命を殺めることを悲願とした一族の長なのだという。無惨は浅草で出会った少年をはじめに、随分と多く、深く、憎まれていたらしい。

「あなたと同じ、他者が抱いたありふれた望みを、あなたはいとも簡単に踏みつけにしてきたのでしょうね。千年かけて摘んで、摘んで、摘み取ってきた。だから多くの人から恨まれたのですね。今日に至るまで、ずっと」

 は一呼吸置くと、幻の顔を見る。

「あなたの傲慢と狂気と、ある種の勤勉さと演技を、私は愛しておりましたが、私は“”の女なので、あなたを愛することが許されざる大罪であることをよくよく理解しているのです」

 幻は何も答えず、返さず、ただ、の向かいのソファに座り。

「あなた、私のことをどう思っておられたのかしら、お邪魔に感じないのなら、お側に置いていただくことはできないかしら」

 の一人芝居を黙って聞いて。

「……それとも、要らないかしら。こんな、おかしな女。ふふふ」

 真夜中0時の音がする。
 時計の鳴る音が屋敷に響く。

 向かいのソファには誰も居ない。残り香は消え去り、屋敷には一人。

 は静かにまぶたを閉じ、左の手のひらで目を覆った。

「あなたが私をこんな風にしたのに、あなた知らずに、居なくなってしまうのね」

 月彦が屋敷に戻ってくることはなかった。
 の前にその姿を見せることも、二度と。