濁流

夜空を溶かしたみたいな黒髪の青年。
コートの下のスーツが着崩された姿なんか想像できない。
真面目で几帳面。タバコも吸わない。酒も嗜み程度で溺れない。
細いフレームのメガネがインテリじみた風貌に拍車をかけている。
実際書類仕事が迅速で丁寧。しかし、いかにもホワイトカラーな細腕のくせしてめっぽう腕が立つ。
昔はかわいい部下だったのにもう追いつかれた。
そんな年下の同輩、が階級をつけてロシナンテを呼んだ。

「ロシナンテ中佐、お前が欲しい」

ロシナンテは盛大に飲んでいた酒を吹き出した。

「お、お前何言ってんだ?!」

まだ若々しい澄んだ瞳がロシナンテを射抜く。
目が大きい。睫毛も長い。しかし決して女性的ではない。
眉は凛々しく、控えめに言って端正な顔立ちをしている。
女に困っているとか、そう言う風には見えない。

「・・・さては酔ってるな?中佐?」

茶化してその場を凌ごうとした。
何しろ酒の席でのことだ。
幸い周囲もうるさいし、この男の、正気を疑うような爆弾発言は誰にも聞かれては居ない。
だがこの真面目でクールな海軍将校殿は軽く眉を顰めただけで、
ロシナンテの努力を簡単に水泡に帰してみせた。

「酔ってる人間の誘いが受けれないと言うなら、日を改めて素面なら応じるのか?」
「え?!いや、そういうわけじゃ・・・! 
 そもそもどういうつもりだよ?」

困惑するロシナンテには端的に言った。

「お前と寝たい」
「・・・直球すぎるだろ!」

ロシナンテは思わず頭を抱えた。

一体なんだこの男は。

はかつての後輩であり、今は同輩であり友人だ。
だが今までこんな突拍子もないことを言い出すような事は無かった。

年下のくせにロシナンテのドジを完璧にフォローしてみせる几帳面な仕事ぶりから、
よく仕事ではペアを組まされた。
それからぽつぽつ話すようになり、今では仕事じゃなくても会うようになった。

それが、何故。

「好きだからだ」
「え?」

はロシナンテの疑問に完璧に答えてみせた。

「お前が好きだからだ、ロシナンテ」
「そ、そうか・・・」

もはやロシナンテは呆れていた。
自身に降り掛かった出来事についていく事が出来なかったのだ。



鍵を閉めるのもそこそこに自宅の玄関先で口づけていた。
貪るように、なだれ込むように。
背伸びをするに応えるようにロシナンテはかがんでいた。

顎を掴む。服が散らばっていくのを他人事のように眺めながら、寝台にもつれ合った。
体格はロシナンテの方が勝っているが、どうしてか敵わない。組み敷かれて居た。

完全に流されている自覚がロシナンテにはあった。
が濁流を作り上げたのだ。

一体どういう魔法を使ったのか、
あの熱に浮かされたような黒い瞳がロシナンテの赤い瞳とかち合った瞬間、もうダメだった。

の骨ばった手の肌理は細かい。海兵の癖に、苦労知らずの令嬢のように綺麗だ。
その手が傷だらけの肌を這い回る。信じられないくらい良く馴染んだ。
ただ触れているだけ。撫でるだけ。それが途方も無い痺れを生んだ。

は常とは打って変わって根性悪で、おしゃべりだった。

「お前、うさぎみたいな目してる。真っ赤だ」
「何が怖い?何が恐ろしくてそんなに震えてる?」
「何を忘れたがってる?」

は一歩ずつ、ロシナンテの頭の中に踏み入って来た。
丁寧に、しかし容赦なく、蹂躙してみせた。

自尊心をドロドロに溶かされる。
痛みには慣れた傷だらけの身体が、慣れない快楽に震えている。
みっともない声を上げても、は止めない。止めてくれない。

「は、ぁっ、も、ダメだ、・・・ッ無理だ、むり、ひ、ぐッ」
「・・・嘘吐けよ、まだ平気だ」

は汗だくで笑った。
スーツを着崩したところなんか想像もできなかったはずなのに、
シャツを脱いで、散々にロシナンテを抱く姿は、確かにの本性のようだった。

澄まし顔で任務をこなし、滅多に感情を崩さない、が、
快楽に没頭して汗を流し、少しずつ欲望に忠実になり、与える動きから奪う動きになっていく様に
何故だか途方も無い快感を覚えていた。

死ぬ程良かった。

流されて絆されて馬鹿みたいに善がっていた。



「・・・中佐、次の任務なんだが、またお前とペアらしい。よろしく頼む」

ロシナンテが何事も無かったかのように、に声をかける。
は「そうか」と頷いてシルバーフレームのメガネ越しにロシナンテを見上げた。

「よろしく、ロシナンテ中佐」

腑に落ちない。

ロシナンテは駐屯所の廊下を歩きながら、腕を組んだ。

翌朝、目が覚めるとそこには居なかった。
残っていたのは色濃い情交の痕跡ばかりで、ロシナンテはその後始末をしながら
あまりの情けなさに気が遠くなるような心地だった。
それから頭に血が上るような感覚を覚えていた。

次にに会ったらぶん殴ってやる。

そう思いながら苛立ちを押し殺して仕事に就くと、あの態度だ。
まるで普段通り。何事も無かったようには仕事をこなしていた。
ロシナンテに対しても普通。それどころか。

「先週の金曜日なら、おれは家にまっすぐ帰ったぞ」
「・・・は?いや、おれと酒飲んでたろうが!?」
「本当か?金曜日だろう?センゴク大将からおかきの詰め合わせをもらったから
 すぐに持って帰ったんだ。そのあと出歩いた覚えはないんだが・・・?」

に詰め寄ったロシナンテは愕然とした。
は何も覚えていなかった。
そのあまりに堂々とした態度に、
もしかしてロシナンテの方が記憶違いをしているのかと思った位だ。
しかし、残念ながら記憶違いでないことは帰宅後確かめた、ゴミ箱の使用済みコンドームが示している。

・・・できれば夢であって欲しかった。記憶違いであった方が良かったのに、と
ロシナンテは膝から崩れ落ちた。

考えられる選択肢はおよそ3つ。

が嘘を吐いている。
ではない別人を褥に招き、なぜかそれをと勘違いした。
本当には”覚えていない”。

ロシナンテは頭を抱える。

「どれも最悪じゃねぇかよ・・・!」



犬に噛まれたと思って忘れよう。
あれは一晩見た夢だった。

そう思いロシナンテはあの日の出来事を胸の内にしまい込んだ。
とも完全に元通り、とはいかないが、普段通り接することも出来ている。

そもそも、はロシナンテの友人だ。不用意に失うようなことはしたくない。

そうして上手く、日常を回しはじめていたロシナンテに、また悪夢が襲いかかってきたのだ。

「最近やけに冷たくないか、ロシナンテ?」
、・・・そんなことねぇよ。どうした、急に?」

駐屯所からの帰り道、たまたまと帰宅時間が重なってしまった。
そのせいで二人きりだ。
あの日からなるべく二人きりになるのは避けていたと言うのに。

は口の端を緩やかに上げている。
ロシナンテは平静を装わねばと必死だった。

しかし、他ならぬがそれを許そうとはしなかった。

「おれと寝たのがそんなに気まずいか?」

ロシナンテは足を止めた。

今、こいつ、何て言った?

その言葉の意味を理解した瞬間、血が沸騰したような感覚があって、
ロシナンテは思わずを加減無しに殴っていた。
のかけていたメガネが吹っ飛んで割れた。
打ちのめされたはゆっくりと立ち上がり、
無惨にひしゃげたメガネを拾い上げ、ため息を吐いた。

「痛ェし、メガネが壊れたぞ。スペアはあるからまあ、良いが」
「お前・・・!しらばっくれてたのか!?」
「、フフ」

ロシナンテの怒りには笑った。
鼻血をシャツで乱暴に拭い、腕を組んでみせる。
浮かべる表情は挑発的だ。

「いいや?本当に何も覚えていなかった。・・・少なくとも”優等生”の中佐殿はな」
「何だと・・・?」

ロシナンテの訝し気な顔に、は笑みを深めた。

「教えてやっても良いが、立ち話もなんだな、店に入るか?
 それとも、おれの家に来るか?」

ロシナンテは自分の顔が今、どんな表情を浮かべているのかよく理解していた。
頭の血管がブチ切れそうだ。
は笑う。

「冗談だ」



は膝の上で指を組んだ。
個室のあるレストラン。真っ赤なワインが勝手に注がれるのを無視して、
ロシナンテは声を荒げた。

「説明しろ。何でお前あの日・・・!」
「そう急かされずとも、説明するさ。
 だが、順を追って話さなくてはならない」

ワインを飲み干し、は目を伏せた。

「”中佐”は真面目で勤勉。
 正義感が強く、訓練にはストイックに打ち込み、デスクワークもよくこなす。
 模範的な海兵、模範的な将校として出世街道まっしぐら。
 ・・・だがその実、この男の真意と言うのは正義などとはほど遠く、
 しかしこの上なく単純だ」

は淡々と言い放つ。

「他人を堂々と傷つけられる。殺せる。
 屈服させることができるから、と言う男は海軍に居る」

まるで他人事のように自身について語るに、ロシナンテは微かな違和感を覚えていた。
話の内容もそうだが、その挙動もよく見ればおかしいのだ。

はこんなにもよく笑う男だったろうか。
こんな風に気怠い雰囲気の話し方をしただろうか。

この男は、誰なのだろうか。

「だが、この男の厄介なところは、”純粋かつ高潔な正義”というものが自分の中にあって、
 その正義感に基づいて海兵をやっていると”勘違い”していることだ。
 海賊相手に銃を撃った時の震えるような興奮も、その場の空気に当てられただけだと思ってる。
 笑えるよ。海賊をぶっ殺して勃起してる男が、まともな正義感の持ち主な訳が無いだろう?
 臭いものには蓋。自分の感情を受け止めきれない哀れな臆病者。
 無自覚のサディスト・・・それが”おれ”だ」

「違う」

ロシナンテは首を横に振っていた。

「”お前”じゃないだろ」

はロシナンテの答えに、目を瞬き、それから口の端をつり上げた。

「・・・ご名答だ。説明をすっ飛ばして正解に辿り着いたな、ロシナンテ中佐殿」
「いつからだ?」
「ん?」

ロシナンテはを睨み据えた。
がこの話をロシナンテにしたと言う事は、
恐らく発端はロシナンテにあるのだろう。

「いつからお前は二重人格なんだ?

ロシナンテの予想通り、はこともなげに言った。

「お前に出会ったその日からだ。ロシナンテ」



「おれはお前の初めての後輩で、部下だったよな」

ぐちゃ、ぐちゅ、と粘度の高い水音がひっきりなしに響いている。

「かわいがってもらった」

だが、その音はどこにも届かない。
まるでこの部屋は無人だ。物音一つしない。

「優しい先輩に、歪んだおれはすぐに夢中になったよ
 初めてだった、誰かに打算の無い優しさをかけてもらうのは」

部屋に広がる、ドームの中以外では。

「お前にだけは嫌われたくなかったんだ。
 だから必要以上に演じてみせた。完璧な”おれ”を」

ロシナンテの耳元で囁くの声が麻薬のように脳を痺れさせてくる。
ロシナンテは防音壁を張りながらも、必死に歯を食いしばって噛んだ歯の隙間から息をしていた。
が陰茎を弄ぶ手練に、翻弄されながら。

「だが、抑圧された願望は長い時間をかけて凝固した。
 嫌われたくないけど、泣かせたくて虐めたくてしょうがなかった。ずっと、こんな風に」

「・・・う、ぁっ、あっ、だ、ダメだ!も、解ける、
 や、やめてくれ、声、こえ、あっ、漏れる、から・・・ッ!」

「ふふ、聞かせてやれよ」

にその手で締められ、ロシナンテはあっけなく他人の手の平に吐精した。
肩で息をするロシナンテに、は囁く。

「”優等生”は汚れ役を全部おれに押し付ける。
 だから目一杯汚れようぜ、ロシナンテ」

ぐずぐずに溶かされ、正常な意識をむしり取られ、ロシナンテは喘ぐ。
本来受け入れる場所でない場所に無理矢理踏み込まれて、喉が反り返った。

「お前の、全部を、独り占め、したいんだ」

甘ったるい言葉に身体が強ばる。
もう平常心なんか保っていられなかった。
防音壁を持続出来なくなったのがロシナンテ自身にも良くわかる。
腹の中をかき回されて快楽に屈服させられているのだ。

「お前が好きだよ、おれは、”あいつ”と違って、嘘はつかない」

ああ、ダメだ、落ちる。

1回は気の迷いで済ませられても2回目はダメだ。
ロシナンテは震える程の恍惚に取り憑かれていた。
多分この年下の同輩はロシナンテが情に、快楽に流される事を知っていた。

「まともな”あいつ”は全部朝には忘れてる。
 死ぬ程気持ちいいのに、もったいないよな?」

できればおれも忘れたいよ、とロシナンテは内心で零す。
こんな不毛で強烈な感触を知ってしまったら拒めない。

その日。とロシナンテは場所を変えて何度も欲望を吐き出した。
店から出た後はロシナンテの家まで行った。玄関先、風呂場、最後にベッド。
何も考えられなくて、その何も考えられないのが癖になりそうだった。

二人目のの宣言通り、朝になったらは居なくなっていた。



中佐、この間の書類なんだが目は通したか?」
「ロシナンテ中佐、・・・すまない。まだだ。今日中には提出できそうなんだが」

の言葉に、ロシナンテは眉を上げた。

「珍しいな、お前がデスクワークに時間食うのは」
「ああ、いや、最近どんなに寝ても寝た気がしなくてな。集中力が落ちている。
 言い訳にしかならないけどな。ちゃんと6時間近く寝ているはずなんだが。
 ・・・深く眠れていないんだろうか?」

はため息を吐いている。
ロシナンテは小さく苦笑した。
と同様に、ロシナンテも寝不足だったから。

「なぁ、
「なんだ?」
「お前どこまで気づいてる?」

ロシナンテの言葉に、は不思議そうに首を傾げた。

「なんの話だ?」
「いや、こっちの話」

ロシナンテはに詳しい事は何も言わなかった。
何か言いたげなの視線にも応える事無く、駐屯所の廊下を歩く。

根性悪の方のは”朝になったら全部忘れている”と言った。
では、”朝になって”ロシナンテの家を出て行くは一体どちらのなのだろうか。

ロシナンテは息を吐く。
”根性悪の正直者” ”真面目な嘘つき”
どちらでも良いと思っている自身に呆れたのだ。

流されやすいと言うのは、全く考えものである。