地獄変・泥眼

晴天・黒衣の君

三途の川

は曖昧な夢を見ていた。

巻かれていた絵巻物が何かの拍子に転げて、延々と開かれて行くのを
拾い上げもせずに、ぼんやり目で追っていく、妙な夢だった。

長く続く板張りの廊下に絵巻物は転がっていて、どういうわけか
廊下の先も、巻物の終わりも見えないでいる。

はそれを、追いかけて行く。
なぜなら廊下にも絵巻物にもいつか終わりがあるからだ。

 終わらせなければならない。

そういう、漠然とした衝動に駆られて、は足元に転がる絵を眺める。

赤子が女になるまでの物語があった。
女が鬼になるまでの物語があった。

そして、鬼が人になるまでの物語がある。

多分、これで終わるのがきっと良いのだろうと思いながら先を進んでいると、
空気を裂くように、凛とした声が響いた。

「待ちなさい」

振り返ると、上等の着物を着た女性が一人、をキッと睨んでいた。
目元の涼やかで美しい人なのだが、どうやら怒っている様子だ。
その手には巻物の端がある。

誰だろう、とは思った。
どこかで会ったような気もするが、 もや がかったような頭では
明確に女性の正体をつかむ事が出来なかった。

 ただ、この女性 ひと に睨まれると、どうも身が竦む。
 この女性 ひと ではない誰かを思い出す。誰を……?

が思索に耽る間に、女性はくるくると巻物を巻き取ってしまい、
それをそのままに突きつけた。

「どうして広げたままにするのですか。きちんと片づけなさい」
「まだ、最後まで読んでいなかったのですが、」

閉じられてしまった巻物を見て、
が残念だと言わんばかりに息を吐くと、女性は淡々と言う。

「これには最後というものがありません。
 結末というのが存在しない絵巻物なのです」

何もかもが妙だなぁ、とは思った。
終わりがあるはずの話を、女性は未完成だという。

「……キリの良いところで終わっていたように、思うのですけど。
 あら? 私これ、読んだ事があったかしら?」

は曖昧な記憶に首を捻った。
思えば確かに女性の言う通り、
この絵巻物が完結していると言う証拠はどこにもない。

女性は巻物を受け取らないに業を煮やした様子で、
ずい、と押しつける。

「まだ余白が残っているのだから描きあげなさい。
 描きあげてから、読むべきです」

「私が?」

続きを描けと言われて驚くを見て、
女性の方が逆に怪訝そうな表情になった。

「絵を描くのは得意でしょう?」
「まぁ……そこそこには」

亡くなった母親が和裁を趣味にしていたと聞いて真似をした。
刺繍の図案なんかも自分でよく描いたから、
人より多少はものを描ける方だろうとは思う。

そう答えてしまった手前、は渋々、丸めた巻物を受け取った。
やたらとずっしりと重いので、少しふらつく。
どこまでが白紙なのかは知らないが、これを完成させるとなると骨が折れそうだ。

「いやあ、完結させれば大作でしょうが、
 上手く描ける気がしないんですけどねぇ」

苦笑するを、女性は見上げた。

「無理に上手に描かなくても良いでしょう。
 懸命に描けば、多少拙くとも味というのになるのではないでしょうか。
 私は絵の方にあまり心得がないので、的を射たことは言えませんけれど」

「そういうものですか?」
「おそらく」

女性が不確かなことをきっぱりとした口調で、
あまりに真剣そのものの表情で言うので、
はおかしくなってしまった。

「うふふふふっ! 左様でしたか。なるほど。……そうだったのですね。
 で、あるならば、私にも描けそうな気がします」

巻物をしっかりと抱きとめたをみて、女性は表情を和らげた。
その顔が、始めの印象と裏腹に大層穏やかで、
安堵したように見えたので、が瞬いた瞬間、
ふっと後ろから誰かに抱きつかれた。

月季花の香りがする。

自分のものではない、長い黒髪がの肩にだらりと垂れた。
先ほどまで会話をしていた女性のものとは違う、甘やかな声が耳元で囁く。

「あんまり明峰さんを泣かせないでね、ちゃん」

驚いて振り返っても誰もいない。
それどころか、板張りの廊下に立っていたはずの
砂利の上に素足でいることに気がついた。

顔を上げれば霧が深く見通せぬ、広大な河がそこにあった。
白く濁る水に今にも足をつけそうだったことに気づいて、は思わず後ずさる。

「……ありがとう、さん」

姿は見えないのに、また声がする。
何も、誰にもお礼を言われるようなことをした覚えはないのに、と思った時、
何かに引き上げられるかのように、ぐるりと視界が反転した。



ぼんやりとした視界は瞬きをすれば徐々に明瞭になる。
天井に電灯が吊られている。
その意匠には見覚えがあった。蝶屋敷に使われているものである。

 まだ頭が重い気がする。眠気もある。

は右手であくびを隠そうとする。

カシャン、と繋がれた管が引っ張られて、点滴を吊るしていた台が音を立てた。
では左手を使うかと動かすと、あるべきはずの手が無くなっている。

それに気づいて、は状況を理解した。
上弦の参との戦闘後、意識を失ったきりだったのだろう。

どれだけ時間が経ったのかは知らないが、
体は重いわりに妙に意識ばかりがはっきりしている。
は深く息を吐いた。

「死に損なって、しまいましたか」

声が笑えるほど枯れている。一言いうだけで咳き込んだ。
水が欲しいな、となんとか体をずり上げて扉の方を見やると、
ちょうど誰かが入ってきたところだった。

「あ、千寿郎くん、おはよう、ございます」



煉獄千寿郎はその日、兄杏寿郎の代わりにを見舞いに蝶屋敷を訪れていた。

柱を降りてからと言うもの、
近場の鬼をほとんど狩り尽くすような勢いで鬼殺に励んだ杏寿郎は
数週前から遠出をして、遠方の鬼を狩っているからだ。

家にもろくに帰っていない。少なくとも千寿郎の起きている間には。

近頃、千寿郎が杏寿郎と顔を合わせるのは願を懸けるお百度を踏む時だけだ。
毎日、どんなに遠くまで出かけても、必ず決まった時間に杏寿郎は現れる。

それ以外はどこでどう過ごしているのかは知れない。
最近は千寿郎が心配するのでどこまで足を運んでいるのかも、
教えてくれなくなってしまった。

ただ、刀が何度も新しくなっているらしいのは知れた。
どちらかと言えば物を大事にする性質の杏寿郎だが、
手入れの追いつかぬほど鬼を斬っているのだろう。

願を懸けている間の杏寿郎は一言も喋らず、
お百度を踏んだ後は千寿郎に二、三言話して、
寸暇も惜しむように鴉とともに去っていく。

その日の朝も、杏寿郎が千寿郎に言ったのは用件だけの言葉だった。

「千寿郎、今日はの見舞いを変わってくれないか?
 往復になかなか厳しい距離でな!」

「……わかりました。お気をつけて」

心配を隠せぬまま頷いた千寿郎の頭を撫でて、
杏寿郎はまた煙のように消えてしまった。

どうも、杏寿郎は鬼を殺してはを見舞い、
殺しては見舞いを繰り返しているらしい。

胡蝶しのぶからは「いい加減にしろ」と苦言を呈されていたようだが、
杏寿郎は聞く耳を持たなかったようだ。

千寿郎がに花を持って門をくぐると、
蝶屋敷にいた神崎アオイと言う隊士の少女に
「見舞いの頻度を抑えることはできないか」と問われた。

「すみません、さんの件について
 兄は、何も譲らないと思います」

「……いいんです、わかっていました。
 ただ、しのぶ様が頭を痛めているので、一応言うだけ言っておこうかと」

嘆息するアオイに頭を下げ、千寿郎はのいる病室に足を運ぶ。

きっと、あのアオイと言う隊士は、
直接杏寿郎に声をかけることができなかったのだろうと思った。

今の杏寿郎は黙って立っていると、
刃物のような鋭さと張り詰めたような気迫が滲み出ている。
弟の千寿郎ですら気圧されそうになるほどだ。

確かに、杏寿郎は強くなっているらしい。

だが、張り詰めた糸がいつ切れるのか、千寿郎は気が気でなかった。

が早く起きてくれれば、と心から思っている。
そうでなくてはが起きる前に杏寿郎が死んでしまう気さえした。

花を抱く手に力が入りそうになるのをなんとか堪えて扉を開くと、
上半身を起こしたが千寿郎を見て、ヘラリと笑ったところだった。

「は?」

千寿郎は抱えていた花を取り落とした。
が起きている。

その上はさっきまで昏睡状態だったとは思えないほど気楽な所作で、
右手をひらっと振って掠れた声で「おはよう」と言う。
眉をハの字にして、首を小さく傾けた。

「申し訳ない、ですが、お水、頼め、ます?」

千寿郎は、申し訳ないと思うのはそこじゃないだろうと思った。
状況を飲みこむと、なんだか無性に腹が立ってきた。

「なんで、」

はつかつかと歩み寄ってきた千寿郎に瞬く。
今はそれですら苛だたしい。

「なんで僕の見舞いの最中に起きるんですか?!
 どうせなら兄上が来た時に起きて下さいよ!」

「いや、そんな、」

は訳も分からずたじろいでいる。
千寿郎は眉を顰め、を睨んだ。

杏寿郎がのために、どれほどの無茶をしているのかを
思い知るべきだと口を開いたが、何も言葉にならなかった。

「兄上は、兄上が、どんなに、ぅ、うああああ……!」

言葉の代わりに後から後から涙が溢れる。

「えっ、わぁ、泣いちゃった……」

の病み上がりの、それでいてやたら気の抜けた声が心底腹立たしい。
しばらく何も言葉にならず、ただ鼻をすする音ばかりが部屋に響いていたが、
ふ、と小さく笑う声がした。

「千寿郎くん、こっち見て」

顔をあげた千寿郎の肩を、の手が優しく叩いた。

「ふふふ。私のために、泣いてくださって、ありがとう」

はどういうわけか妙に嬉しそうだった。
そんな顔のまま「それとも、お兄さんの、ためかな?」
といつもの調子で笑うので、千寿郎は最悪だ、と口を開いた。

「なんなんですかっ、あなたって人は……っ!
 兄上に、こってり絞られればいいんです! 
 本当に、本当に、見たことないほど怒ってますよ!
 私だって、怒ってるんですからね……!!!」

「うふふふふ!……そうですか」

笑っていただが、杏寿郎が怒っていると知って肩を落とした。

その様になんとなく溜飲を下げた気分になって、千寿郎は止まってきた涙を拭った。
水を用意して差し出すと、はあっという間に飲み干してしまう。

「ありがとう、千寿郎くん。
 ……気を失う前に結構本気で叱られたのは、ぼんやり記憶にあるんですよ。
 多分その比じゃないんですよね、千寿郎くんの言い草だと」

どれくらい叱られたのかは知らないが、
杏寿郎が今までになくに怒っていることは確かだ。
千寿郎がこくりと頷くと、は深くため息を零した。

「……怒られるのかぁ、私。
 いや、人の怒ってる顔、好きですが。えぇー……? 
 正直腑に落ちません。それなりに頑張ったのになぁ。
 むしろ褒めて欲しいくらいなんですけど?」

方々に散々心配をかけてのこの言い草に、
もはや千寿郎は怒りを通り越して呆れていた。

は起きたばかりで心配をかけた実感もないことはわかっていたが、
それにしたってもうちょっと殊勝な態度でも良いはずである。

「……もう、僕は何も言いません。兄上がきっと叱ってくださる。
 でも最後に一つだけ。さんは寝すぎです。2ヶ月も寝てたんですよ」

「ははぁ……あんまりそんな感じはしないんですけどねぇ。
 それにしてはそこそこ元気だと思いますが」

確かには多少やつれてはいるものの、
水を飲むと、ほとんど昏睡する前と同じように喋れている。
恐ろしく口のまわるに、千寿郎は苦笑した。

「それはもう、見ればわかりますよ。
 ……起きてくださって、本当に良かった」

千寿郎が目を見て言うと、
はパチパチと瞬いて少し困ったように微笑む。

「はい、ご心配をおかけしました」

珍しく素直に答えたに千寿郎も笑顔で応える。

「兄上にもすぐに伝えますね。さん、鴉をお借りしますよ」

「えっ、もう?」
「えっ?」

が思わずといったように疑問を呈したので、
千寿郎は何を驚くことがあるのかと振り返る。

「あの、ちょっと心の準備をしたいので、
 煉獄さんへの連絡、待ってもらえません?」

決まり悪そうに言うを見て、千寿郎は全力で「ダメです」と言い渡し、
蝶屋敷の人々に連絡するのを差し置いて、杏寿郎への連絡を急いだ。