戒めの髪留め

煉獄杏寿郎は稽古場で、先竹の薙刀に縋るようにして息を切らすを見やる。

時計を見れば稽古を始めて随分経っていた。
走り込みから柔軟を経て摺り足、竹刀の素振り、先竹の薙刀に持ち替えてまた素振り、
そして杏寿郎との組み手打ち合いをこなしたのだから無理もない。

朝から始めて途中軽い昼食を挟み、再開してからきりも良かった。

「今日はここまで!」
「はい、ありがとうございました」

は息を整えながらも杏寿郎の声にスッと背筋を伸ばして応える。
には、どれほど疲れていようが挨拶の時だけ、意地でも姿勢を正そうと努める節があった。

その時ばかりは疲労を感じさせぬほど爽やかな印象を繕っているのが常のことだが、
今日はまとめていたはずの髪が頭を下げるのと同時に前へと流れる。
激しい打ち合いの最中、の髪を結っていた紐が千切れたせいだ。

しどけなく見えるが、不思議と目を惹いた。

杏寿郎が無言のうちにまじまじと妻を見ていると、
顔を上げて視線に気付いたらしい、
は気恥ずかしそうに苦笑してさっと手ぐしで髪を整える。

「……すみません、見苦しくて。
 今手持ちにある髪留めがどれも稽古に向かないものばかりで、
 有り合せのもので結っていたのですが、」

「見苦しいとは思わないぞ!
 ……しかし、ふむ。確かに近頃は稽古中、頻繁にほどけるようになっている気もするな!
 そういう場面の対処ができることは悪いことでもないが!」

杏寿郎は竹刀を持ったまま腕を組んだ。
ふと、すぐに対処できそうなことを思いついたので提案する。

「俺のを分けようか?」

杏寿郎も後ろ髪を半分束ねているので髪紐もいくつか持っていた。

しかし、は目を瞬いたかと思うと、
何かに気がついた様子で俯き、どんよりと答える。

「嬉しい申し出なのですが……私の髪、割と結い方を選ぶというか、
 たまに、いえ、結構紐をひきちぎるので、あまりおすすめいたしません」
「そうか……」

あまりにもが暗い顔で言うので杏寿郎もつられて静かに答えた。
どうもの髪は当人の気性と同じくすこぶる強靭らしい。

「そのくせ、いつのまに緩むとあっという間に何処かへ失せてしまったり……」

は自分の髪を一房つまみ上げると嘆息する。

「いっそ切ってしまおうかしら、短いのも流行っているようですし」
「せっかく美しいのになんだかもったいない気もするが、……ん? どうした?」

杏寿郎がやや残念そうに呟くと、は鳩が豆鉄砲を食らったような顔になっていた。
どこにそこまで驚嘆する要素があったのか分からず問いかければ
はぎくしゃくとした様子で口を開く。

「え? あ、いえ。べつに。
 ……短いと頻繁に散髪せねばならないとも聞きますから、それもそれで面倒です。
 今回は新しいものを用意するとしましょう。ええ」

「そうします。そうしましょう」と深々頷くに、
杏寿郎は以前はどうしていたかな、と妻が副官であった頃を思い出す。

副官となってからは学帽を被るようになったが、
それ以前から髪紐はずっと赤い飾り紐だった気がする。
そういえば、がころころと髪留めを付け替えるようになったのは、結婚してからだ。

「では、継子時代につけていたものは随分長く保ったのだな!
 気に入っていたようでもあったし!」

杏寿郎が言うと、は「気に入っていたと言いますか、思い入れがあったんですよ」と
小さく苦笑する。

「あれは女学校時代に後輩から貰ったもので、」
「今なんと?」

の女学生時代の話を杏寿郎は何度か聞いたことがあるが、
どれもあまりろくな思い出ではなかった。
そしての女学生時代で後輩が出てくる話と言えば、
退学間際にを慕う後輩から刃傷沙汰を起こされた件である。

「よもや例の後輩からの贈り物だったのか?!」
「ふふふ。そうそう。私をハサミで刺そうとした子からの」

まさかとは思うが、という気持ちで問いただしてみると、そのまさかであった。
は杏寿郎の反応が面白いのかクスクス笑っている。

「笑いごとではないぞ!……」

何故、未遂とは言え自分を殺そうとした少女からの贈り物を、
肌身離さず身につけていたのかが気になる。
言葉を選ぶ杏寿郎より先に、が自ら口を開いた。

「……私は、彼女のことをいたく傷つけてしまったので、」

苦笑しつつもその声色は落ち着いている。

「戒めも兼ねて彼女からの贈り物で髪を結っていました。
 仕舞い込むのも何か違う気がしたものですから」

杏寿郎は淡々と述べるを見て、恐らく相当に傷ついたのだろうな、と思う。
その後輩だけではなく、自身が。

だから杏寿郎は、そういうことなら一肌脱がねばという気になって、
笑みを作って提案した。

「なら、今度は俺が贈ろうか」

反応をうかがうと、まじまじと杏寿郎の顔に見入っている様子である。
呆けているようにも見える。はそろそろと右手を口元にやった。

「……あら、まあ」
「なんだその顔は」

その反応からして恐らく妙なことを考えていると悟り、杏寿郎はむっと唇をひき結ぶ。
しかしは心底意外そうに杏寿郎を眺めているばかりだ。

「あなたそういう……色気のある贈り物とかするんですね。へぇー……」

仮にも自分の夫に向かって全く失礼千万である。

、君は一体、俺をなんだと思っているんだ?!」

心外極まりないと言った様子の杏寿郎にはカラカラ笑って答えた。

「あはは! どちらかというと食い気の方を優先されるかしらと。
 結婚前は元気付けてくださる時、いつもご馳走して下さったし」

「それは時と場合と立場によるぞ!」

確かに継子・副官時代は一定の成果を上げた時などに
行きつけの店に連れて行ったりもしたのでその印象が強かったのだろう。
杏寿郎は納得とともにため息をこぼした。

「色々と気をつけていた! これでも!」
「なるほど」

訓練の厳しさに負けて逃げ出す者が多い中、逃げないだけでも根性に一定の評価ができる。
そこで師範となる者が余計な圧力だの情だのをかけて弱らせるわけにはいくまいと、
杏寿郎は一定の距離を保つよう心がけていた。

その距離を最後の最後に遠慮無しで打ち壊したのがであるが。

「そういうものですか。それもそれで楽しく、励まされたものですけど」

機嫌よく笑うに、杏寿郎は「それは良いとして、」と前置いて腕を組んだ。

「君が衣装持ちなのは知ってるが、母君ゆかりのものばかりだろう」
「はい」

亡くなった母親のお下がりをはよそ行きに纏うことが多い。髪留めも同じだ。

「ならば稽古に向くまい。向きそうなものをいくつか見繕うとしよう!」

「気兼ねなく使えるものの方が良いだろうしな!」と
張り切る杏寿郎には首を傾けた。

「……杏寿郎さんが選ぶんですか?」
「無論だ! しかし!
 婦人用の服飾品に関しての良し悪し、流行り廃りなどは正直なところよくわからん!
 店員にも大いに頼るぞ!」

自信満々に頷いたあとに専門家に頼ると堂々宣言した杏寿郎である。

「ダメかな?」

やや眉を下げて問いかけた杏寿郎に、はゆっくり首を横に振った。
口の端には薄く笑みが浮かんでいる。

「いいえ。ちょっと面白いですね」

『どんなものを持ってくるのか見ものである』と言わんばかりの
好奇心が隠し切れていない笑みだった。

「むぅ……何やらこう、あまり当てにされてない気がして業腹だな!」
「うふふふふ」

どうも納得いっていない様子の杏寿郎にはさらに笑って誤魔化す。
杏寿郎は気を取り直して、壁にかけていた暦を指差した。

「じゃあこの辺りに街に出るぞ!」
「え?」
が身につけるものなのだから君が居なくては話にならん! 当然だろう!」

このような顛末で、は杏寿郎と出かけることになったのである。

ちなみに仕事以外で、改まって杏寿郎と外出したことが数える程しか無かったということに、
は出かける当日になってから気がついた。



「こうやって任務もなにもなく街にお出かけするのは、
 それこそ、継子時代にご馳走してくださった日以来かしら……?」

「そうだな! 君が副官になってからは、任務のついでになることが多かった!」

が呟いたのが聞こえ、杏寿郎は頷く。

調べた鬼の情報から、一人では難しそうな任務だと判断した時に
を伴って行くことはあったが、
基本的には分担して警備巡回していたので共に出かけることはおろか、
協力して任務に出ることも近頃は減っていた。

「それはそれで息抜きになっていましたよ。お仕事終わりの食べ歩きも好きでした。
 でも、最初に連れて行っていただいたお店はやっぱり思い出深いですねえ」

にこにこと笑う
「あなたがお店に行くと、店員さんの静かな気合いがこちらにまで伝わってくるほどでした」
「そしてあなたは私そっちのけで順に出てくるお料理を召し上がっていらして」
などと愉快そうに話している。

楽しそうなを見て微笑ましい気分になりつつも、
その言葉を吟味するとどうも突っ込みどころが多い。
そっちのけだっただろうか、と杏寿郎は思わず問いかけた。

「そうだったか!?」
「そうでしたよ。あなたが健啖家なのはその頃にはもう知ってましたけど、
 こう、『食べるぞ!』と思って食べるのと、
 普段の食事とではやはり、意気込みが違いますよね?」

「……うん。それはそうかもしれん、」

「ふふふ。杏寿郎さんは本当に食べっぷりが良いので、
 私としては見ていてとっても面白……、
 興味ぶか……違うわね。言葉選びが難しい。
 とにかく、気分が上がりました」

あまり似てない物真似を披露されて、どことなく面映ゆい気持ちになりながら頷く杏寿郎に、
はやや考えるそぶりを見せながらも、面白がるような言葉を返した。

若干実験動物扱いされているような気がしなくもないが、に限ってはいつものことである。

「店員さんもきっと同じ気持ちだったんでしょう。
 我々が帰るときはみなさん大仕事をやり遂げたような、
 大変さっぱりしたお顔で見送って下さったから、
 私はちょっと笑ってしまったのだけど、あなた全然気にしてなかった」

「君は本当によく覚えているな!」
「ええ、紹介してくださったお店はお料理も美味しいし、眺めも良いところでしたから、
 よくよく覚えております。印象深かったもので」

「長い付き合いになるなら馳走を。
 馳走するなら景色の良いところを、と思ったのだ!」

実のところが言うほど、杏寿郎は食に走っていたわけでもない。

杏寿郎がを連れて行ったのは贔屓にしている料亭の一つで、
味はさることながら、手入れの行き届いた庭園が自慢の店である。

杏寿郎も覚えていた。
初夏の、若葉の茂る木々が作った木漏れ日が池にきらめく、晴天の日だった。
水面に鯉が悠々泳ぐ様を大きな窓から、は食事の合間に覗いていた。

『きれいですね、見事なお庭』

その日、が口にした言葉のどれにも残忍な気性の片鱗はなく、
ただ穏やかに「器が素敵だ」と言い、供される食事を「美味しい」と言った。

ゆったりと動く絵画のような景色を観ながら、
お造りから水菓子までを口にするのは、なんとも清々しかった。

「あれも緑がきれいで爽やかな時期でしたね。今日みたいな良いお天気で」
「そうだな。恵まれたものだ」

『彼女は刀など持たない方が良かった』と、最初に思ったのが、
きっとその日だったと、杏寿郎は今になって気がついた。



小間物屋の店先に座したは、
半ば呆れた様子で畳に並べられた色とりどりの櫛、簪、髪紐を見下ろした。
その数およそ一畳分。全て杏寿郎があれよあれよと店員に並べさせたものである。

後ろを通る客も珍しげにと杏寿郎を眺めては去っていく。
その視線をひしひしと背中に感じて、はため息をついた。

メガネをかけた男の店員は揉み手で上機嫌に様々商品を勧めてくるが、
杏寿郎は常の迅速果断は何処へやら、
に「これも良い」「こちらも良い」と流してくるばかりだ。

最初は「似合いますか?」と店員から渡される髪留めを髪に当てながら
杏寿郎の意見を聞いていただが、
どれをとっても「良いと思う!」と同じ答えが返ってくるので全く参考にならず、
それどころか次々新しいのが並んでくるので困惑していた。

「あの、杏寿郎さんちょっと……、お耳を拝借……。
 店にある髪留め全部買い占める気ですかあなたは……!?」

店員に聞こえぬよう、ヒソヒソとたしなめただが、
杏寿郎は顔を離したに微笑んで躱した。

「欲目も当然あると思うが、何を付けても似合うな! 君は! はっはっは!」
「えっ?! ……は、話を逸らさないでください。加減して!」

どす、と軽く義手で肩を叩かれても杏寿郎はどこ吹く風だ。

「ダメか!」「ダメです」

即答で断じられて杏寿郎は渋々考えるそぶりを見せた後、指を立てて提案する。

「では数を絞るかな!日替わりだったら30あれば良いか?」
「絞り切れてないんですけど?!」

驚嘆の声を上げるに、杏寿郎は鷹揚に笑う。

「ははは、ならば何か希望はあるか? さもなければまどろっこしいので全部買うぞ!」
「えぇ……?」
「君が全部似合うのがいけない!」

杏寿郎にしては珍しい理不尽な物言いである。

「なんですかそれは……。わかりました。わがまま言いますからね」

は諦めた様子で嘆息すると、口元に手をやって考えるそぶりを見せた。

「片手で扱いやすい……丈夫そうな紐だと助かります。
 なるべく太いものが良いですね。簡単には千切れないやつが」

店員は頷いて広げた髪留めを次々元の箱に戻していく。
杏寿郎はに「そう言えば」と声をかけた。

「君は頑なに、俺に髪を結わせてはくれないが」
「当然でしょう。日々の身支度にいちいち夫の手を借りませんよ」

何を当たり前のことを言っているのだ、と半眼になるに、
杏寿郎は不服そうに腕を組んだ。

「むぅ……俺はやぶさかではないので、いつでも頼ってくれて構わんのだからな!」
「はいはい。ありがとうございます」

クスクス笑って応じるに、杏寿郎はさらに問いかける。

「ともかくだ、いつも片手でどのように結っているのかが気になる。不便だろうに!」
「そうでもないですよ。普通に束ねてくくるだけですし。壁を使いますけど」

「……壁を?」

杏寿郎はの言葉を反芻する。
はというとそれが当然のようにこくりと頷いた。

「壁で髪を一旦固定するんです。案外何とかなるものですよね」

杏寿郎はの肯定にどことなく気落ちした様子である。

「俺は……、壁よりも頼りにならないのか……?!」
「いえ、そういうことではなく」

は真面目腐った顔を作り、手のひらを横にひらひらと払う。

「自分のことを自分でやりたいだけですから、」と
が苦笑して言っても、杏寿郎はまだ不服そうだ。

そこに店員が笑いを噛み殺しながら、
いくつかの言った条件の髪紐と櫛を盆に持って口を挟む。

「奥様は身支度を整えてから旦那様にお目にかかりたいんでしょう」

ふいっとは明後日の方向へ目をやった。

「ふむ?」
「少しでも旦那様の前では身ぎれいにしておきたいんですよね?」

不思議そうに首を傾げた杏寿郎を一瞥すると、
店員はメガネのツルを軽く押さえて、そっぽを向くへと目を移した。

杏寿郎もそれに倣うようにへと声をかける。

「そうなのか?」

は答えない。
杏寿郎はの袖を引く。


「……ええ。まぁ、はい」

観念した様子では頷いた。

「ほう! ほほう!! なるほど! なるほどな!! 理解した!!!
 ここにあるのを全部いただこうか!!!」
「店員さん、お勘定お願いします。この人が払いますので、この人が」

途端に上機嫌になった杏寿郎を横に、は半ば自棄になって、
店員からそれぞれ異なる花の飾りのついた髪紐を、色違いで五つ、受け取ったのだった。



日が落ちる前にと、帰路を歩む杏寿郎には問いかける。

「まったく杏寿郎さんたら、何やらムキになってはいませんでしたか?」
「それは君の方では、」
「私より先に! という話ですよ!……珍しい」

最後には照れたがなし崩しに髪紐の贈り物を受け取ったわけであるが、
杏寿郎の様子がいつもと違ったのは確かだと、は首を傾げている。

「ふむ……」

杏寿郎は顎を撫でて考えるそぶりを見せると、横にいるの結った髪へと目を移す。

「もしかすると君の後輩のことが、羨ましくなったのかもしれん」
「どうして?」

は心底不思議そうだ。
杏寿郎は腕を組むと、やや俯いて、静かに声を落とした。

「戒めだったとは言え、君が後輩の贈った髪紐を毎日身につけ、
 見るたびその女生徒のことを思い返していたかと思うと、」

杏寿郎はくわっと顔を上げての顔を見た。

「……けっこう妬ける!」
「は?!」

驚きのあまり素っ頓狂な声をあげたに、
杏寿郎はさらに声を大にして迫った。

「思い返すなら俺にしておけ!!!」

「えぇ!? そんな……、やきもち焼くんですか。あなた……。炎柱だけに?」

困惑しきりのが、何とか口からこぼしたのは、紛うことなき駄洒落である。

「ははは! そうとも。炎柱だけにだ!」

珍しく歯切れが悪いに笑って返して、杏寿郎はさらに続ける。

「それに自分を戒めるにしても、どうせなら前向きな方がいいだろう」

ハッとした様子で、が顔を上げた。

は人を傷つけて、それを繰り返したくはないと、傷つけた人から貰った髪紐で髪を束ねた。
が『人でなし』であることを忘れないための戒めだった。

「君が、今後万一道を踏み外しそうになったとしても、君の傍らには俺がいる! 
 必ず止めてみせるとも!」

杏寿郎はそう言って前を向く。

が自分を奮い立たせるのが『人を傷つけてしまった記憶』ではなく、
『人を傷つけないよう見守る人が、そばに居る記憶』なら、と杏寿郎は思ったのだ。

「そういう戒めならば、君の心持ちも幾分軽くはならないか?」
「……」

はしばらく言葉を探して、見つからずに黙り込む。
杏寿郎はへと顔を向け、優しく目を細めた。

「俺にしておきなさい」

「……はい」

は蚊の鳴くような声で頷いたあと、
しばし黙って横並びに歩いて、口を開いた。

「杏寿郎さん、」
「ん?」
「ありがとう」

「それが聞きたかったんだ、俺は!」

快活に笑う杏寿郎を見て、は眩しいものを見るように目を細め、微笑み返した。
多分この人に、一生敵うことはないのだろうなと、胸中密かに思うばかりである。