蓼食う虫

煉獄槇寿郎が息子、杏寿郎の柱復帰への先行きを励まして
話が終わるかと思われた時のことである。
杏寿郎は笑顔のまま槇寿郎に口を開いた。

「ところで父上! 
 が目覚めたら彼女を嫁に取ろうかと思うのですが! 
 いかがでしょうか!」

「は?」

全く予想だにしなかった杏寿郎の言葉に、槇寿郎は固まった。
言葉を咀嚼するのにも時間がかかる。

「お前、さんは目覚めてもいないのに何を……。
 未だ回復の目処もたっとらんのだろうに、」

は必ず回復します。させます」
「……」

杏寿郎のなんの根拠もない断言に、槇寿郎は無言で応えた。

もしも目覚めなかったらを口にするほど息子を追い詰める気もなかったし、
それ以上に杏寿郎の提案、もとい宣言の方が気にかかったのだ。

槇寿郎は反芻する。

「妻。……嫁」

 嫁。嫁とはつまり、あの娘が煉獄家の一員になるということ――。

そこまで考えたところで槇寿郎の脳裏によぎるのは、
のこれまでの所業である。

鬼を嬲り殺すことを好む残忍な気性、悪癖は徐々に、少しずつ落ち着いていったが、
人を喰ったような言動、ふてぶてしさここに極まる一切を嘲弄した態度は治ることがなかった。

そしてなにより印象深いのは杏寿郎との稽古で見せる、木製の薙刀を扱う恍惚とした笑顔だ。

思い返せば鍛錬であっても急所を迷いなく狙う挙動から、杏寿郎も半ば本気で相手をしており、
その組手は訓練と言うにはあまりにも激しいものだった。
試合は“死合い”に通ずると言うが、まさしくそれである。

そして始末に負えないことに、は杏寿郎に辛うじて一本入れ、
痛みに眉を顰める杏寿郎を見るたび、それはもう大変に嬉しそうなのである。
我が世の春にいる人間はきっとあのような顔をする。

しかしそんな顔を向けられた杏寿郎はと言うと、
『腕をあげたな、君!』などと呑気にを褒めていた――。

槇寿郎はいつだかの光景を頭から払うと、スッと居住まいを正し、杏寿郎に問う。

「お前はそれでいいのか」

万感の思いが篭った問いかけである。

だが、槇寿郎は至って真面目に杏寿郎を心配してもいた。

「確かに、あの娘が左腕を無くしたことにお前が責任を感じるのも無理はない。
 しかし、義務感のみで縁付くのは辛いことだ。
 特に失くしたものが目に見えてわかるならば」

の左腕は千切れ落ちてしまった。
もう二度と元には戻らない。

さんの腕を見るたび、お前は苛まれることになるぞ」

杏寿郎もまた父親の懸念はもっともなことだと頷き、きっぱりと答える。

「承知の上です。むしろ望むところでもあります。
 もう二度と鬼に遅れはとるまい、二度目は無いと、
 俺は自分を奮い立たすことができる。は俺を強くします」

杏寿郎が断言しても、どうも納得し難そうに口を真一文字に引き結んでいる槇寿郎だ。
杏寿郎は何が問題なのだろうか、と首を傾げた。

「父上はが嫁に来るのに反対なのでしょうか? ダメですか?」

槇寿郎はついに眉間を揉みながら口を開いた。

「いや杏寿郎……。ダメとか以前にだな。
 あの娘、お前に稽古で一撃入れるたび死ぬほど嬉しそうだったが、」

杏寿郎にも覚えがあったようで「ああ!」と手を打って納得した様子である。

は人の痛がってる顔が好きなので!」

なんでもないことのように述べられた言葉に槇寿郎は仰天して問いただす。

「なんでそんな特殊な嗜好をさらっと受け入れとるんだお前は!?」

杏寿郎は心外だと声を大にして異を唱える。

「受け入れてはいません!! できれば直して欲しいです!!」
「当然だろうが!? よくそんなのを妻にしたいと思ったな?!」

槇寿郎が思わず口にした言葉が気に食わなかったらしい、
杏寿郎はムッと眉を顰めてさらに声を上げた。

「父上聞き捨てなりません! は“そんなの”ではありません!
 ……確かに、確かに彼女に欠点が無いわけではありませんが!」

ぐぐぐ、と拳を握り憤懣やるかたないそぶりを見せる杏寿郎である。

むしろその欠点が何を差し置いても問題なのだろうに、と思う槇寿郎の内心をよそに、
杏寿郎は勢い込んで告げる。

「それでも彼女は自分の悪癖を克服しようと努力していました!!
 暇さえあれば鍛錬に明け暮れ、医学の勉強を欠かさず……!!
 俺の指導を信じて励んでくれた!! 人を守るためにです!!
 を見損なわないでいただきたい!!」

しかしながらこうもムキになる杏寿郎と言うのは珍しい。
思わずぽかんと瞬いて、槇寿郎は尋ねる。

「……杏寿郎、お前、そこまで」
「はい。俺はに惚れています」
「はぁ……?」

これ以上怪訝な声は出せまいという声であった。

杏寿郎も、頭ごなしに許さないと言われてはいないが、
歓迎されているわけでもないらしいと悟ったらしい。

「認めてはいただけないのでしょうか? ダメですか?」

「別に、ダメとは言っとらんだろう。言っとらんが……、むぅ……」

首を傾げた杏寿郎に、返す言葉は歯切れが悪い。

そもそも槇寿郎は息子の嫁について特別な希望はないと思っていた。
結婚したければ勝手に見合うか、見染めた相手を連れてくればいい。
槇寿郎自身が結婚するわけではないのだから、やれ家柄がどうだ。人品がどうだ。と
あれこれ指図するのもどうかと思っている。

 さらに正直に言えば、それなりにうまくやっていけそうなら誰でもいいし
 半分くらいはどうでもいいと思っている。

しかし相手はである。

 やたら熱心にお百度詣りに励むようになったあたりから薄々勘付いてはいたが、
 あの娘のどこに惚れる要素があったのか、さっぱりわからない。

思い返せば、見てくれは悪くなかった。
家事もよくできたし隊士としても腕は確かであるとも思う。

――特に健康管理についてはうるさかった。
献立の立て方は物凄く細かく、栄養学とやらに基づいた代物で、
食卓では隊士である杏寿郎に常々忠告していた。

『おかわりする時は好きなものだけでなく主菜、副菜、汁物。
 それぞれ一式を追加しますので全て食べ切って下さい。
 栄養に偏りがあってはいけません。
 満腹感が得られないこともあるからです。これは死活問題ですよ。
 ただでさえ煉獄さん満腹中枢がイかれてる節があるんですから』

『なに!? 君、俺はどこか悪いのか?!』
『えっ?!』

ギョッとした様子の杏寿郎と千寿郎をさておいては頰に手を当てて嘆息していた。

『たくさん食べる人を見るのは好きなんですけどね……。
 「今、この人の中にこの量の物体が入っているんだなぁ」と、
 こう、人形に綿入れするときのような気持ちになります』

君!! 俺の質問に答えてくれないか!!』
さん、何もかもどうかと思います……』

呆れていた千寿郎の言葉に、槇寿郎は表立っては何も言わずとも内心すこぶる同意していた。

仮にも上官を綿入り人形 ぬいぐるみ と同等の扱いをしつつ、
「満腹中枢がイかれている」などと暴言を吐き、
顎に手を当ててまじまじと杏寿郎の腹を見遣っていた
の好奇心に満ちた目を思い出し、槇寿郎は問いかけずにはいられなかった。

「お前本当にあの娘でいいのか!?」

「いいもなにも、俺が望んでいることですが!?」

きっぱり断言してもどうも納得しかねている様子の槇寿郎に、杏寿郎は胸を張って言う。

「わかりました! とことんやりましょう!
 何か不満があるのでしたら今おっしゃってください!!」

「必ず納得していただきます!」と意気揚々と声を張る杏寿郎に、
槇寿郎は奇妙な疲労感を覚えながらも、「ならば、」と適当に思いついたことを口にする。

「悪癖に手を焼くだろうに」
「慣れています!」
「間違いなく尻に敷かれるぞ」
「覚悟の上です!」

いずれもほぼ間髪入れずの即答である。
もうそこまで腹を決めているのならさっさと認めてやった方が楽なのではと
槇寿郎は半ば投げやりな気分になってきていたが、ふと、口をついて出た疑問があった。

「死ぬまで、……死んでも忘れられない連れ合いが、あれでいいのか」

杏寿郎は今度は即答しなかった。
自分から目を逸らした槇寿郎のむっつりとした顔に、苦笑して、答える。

「それに関しては、残念ながらもう手遅れです」

槇寿郎は困ったように眉を下げた杏寿郎を横目で一瞥する。

「そうか」

一言返したと思うと、槇寿郎は腕を組んだ。

「……うん。……お前がそこまで言うのなら……待て。本当にそれでいいのか?」
「父上!!!」

煮え切らない態度の槇寿郎に杏寿郎の方が業を煮やした様子である。
なかなか手強い、と歯噛みする杏寿郎であるが、槇寿郎は「そもそも」と前置いて言った。

「お前、さんに結婚を申し入れているわけではないのだろう」
「はい。まだです」

素直に頷く杏寿郎に、槇寿郎は至極まっとうな疑問を投げかける。

「断られたらどうするつもりだ?」

 あのが結婚の申し入れを早々承諾するとも思えない。

杏寿郎は嫁入りをまるで確定事項のように話すので忘れていたが、
これでこっ酷く振られでもしたら目も当てられないことになるのではなかろうか、と
槇寿郎は懸念したのである。

しかし杏寿郎は「そのことでしたら、」と自信に満ち溢れた所作で胸を張った。

「説得します。納得して貰えるまで粘ります!
 けれどは俺のことが好きなので! きっと承諾してくれると思うのです!」

が申し入れを呑むことを全く疑っていない杏寿郎に
槇寿郎は半信半疑で首を傾げる。

「それはまあ、さんがお前を好いてるのは分かるが。
 しかし天邪鬼だろう、あの娘。
 そうそう素直に承諾するものだろうか」

「えっ」

杏寿郎は驚嘆に目を見張る。
それまで自信満々だった杏寿郎が言葉に詰まったので、槇寿郎はますます訝しんで半眼になった。

「なんだ?」
「父上、それは、……いつから気付いていらしたんですか?」

槇寿郎ははた、と我に返る。口を滑らせたことに気がついた。
槇寿郎はまた目を逸らし、押し黙る。
が、杏寿郎がジッと妙に圧力のある眼力で見つめてくるので早々に沈黙を破り、白状した。

「……そこそこに前からだな」
「そこそこに前」

杏寿郎は反芻すると背筋をピリッと伸ばし、真剣な面持ちで槇寿郎を問い詰める。

「是非とも、何故そう思ったかの理由をお聞かせ願いたく」
「いや……理由と言われても、」
「納得がいきません! 俺は本人から聞くまで全く気づいていなかったんですから!」
「それはお前が にぶ いだけでは」
「納得が!! いきません!!」

「不服! 不服です!」と迫る杏寿郎に、
これは理由を言わねば引き下がらないな、と察した槇寿郎は深くため息を吐いた後、
ポツポツと話し始めた。

さんは人を喰ったような物言いばかりするが、あれで立場をわきまえていただろう」

はふてぶてしい態度ではあったが、仕事には真面目だった。
杏寿郎の指導についてもよく聞き入れ、
何より自分の心持ちや重荷を他人に背負わせることを避けていた。

杏寿郎に泣き言を言うこと、甘えることはなかった。
師範と継子、上官と副官。その線引きを跨ぐこともほとんどなく、
が線引きを越え、表立って煉獄家の親子関係に口を出したのは一度だけで、
それについても出すぎた真似をした、失礼だった、とはすぐに謝罪している。

「しかし、俺はお前の居ないところで、あの娘にかなり手厳しい苦言を呈されたこともある。
 それには薄々気付いていたな? お前も」
「はい」

明らかに槇寿郎の態度が変わった日があったのを、杏寿郎は覚えている。
が何かしたらしいとは察したが、それだけだった。

当時はそれまで程よい距離感を保っていたが、何故親子関係に口を挟んだのかの理由がわからず、
また槇寿郎に何か言ったという証拠もなかったので奥歯に物が挟まったような、
なんとも言い難い複雑な心境になったものである。

日誌を読んだ今となっては、杏寿郎はがどのような意図で行動したのか、わかっている。
そして直接と言葉を交わした槇寿郎にもそれは伝わっていた。

「お前が俺に無碍に扱われているように見えるのが、
 よほど腹に据えかねてのことらしいとは、少し考えればわかるだろうよ。
 ……なんだその顔は」

杏寿郎は眉間に皺を寄せて不服そうな顔になっていた。
心なし槇寿郎を見る目もじっとりとしている。

は俺に空惚 そらとぼ けてみせるばかりでしたのに、なぜ父上にはそんな素直に……」
「なんでちょっと羨ましそうなんだ。俺は散々痛罵されたんだが」

槇寿郎は呆れ顔のまま続ける。

「まあ、お前が気づかぬのも無理はない。
 さんの気性を考えればお前にだけは絶対気づかれまいとしていたに決まっているだろう。
 ……いや、お前そんなに不満なのか?」

杏寿郎はむっすりとした、“釈然としない”と言うのを絵に描いたような顔になっている。
眼帯に片目が隠れていてもありありとわかる膨れっ面に、
槇寿郎は露骨に溜息を零すと、はっきりと頷いてみせた。

「……うむ、まあ良い。お前の好きにしなさい」
「!」

杏寿郎はパッと表情を和らげる。
「ありがとうございます!!!」と喜色満面の笑みを浮かべた杏寿郎に、
槇寿郎は重々しく付け加えた。

「ただし、くれぐれも合意は得るように」



槇寿郎が杏寿郎に念を押してから2ヶ月後、
蝶屋敷にては目覚め、どうやら杏寿郎の申し入れはうまくいったようである。

の父親、明峰もあっさりと娘の嫁入りに頷いたらしく、
機能回復訓練を終えてが煉獄家に戻ってくる日に
改まって共に挨拶させてほしいと杏寿郎から申し出を受けたのはの戻る3日前のことだ。

杏寿郎が柱に戻るのと合わせるようにが回復しているので、
怒涛のように物事が進んでいるような気もする。と、槇寿郎がぼうっと庭を眺めていた時である。
玄関の戸が開く音と杏寿郎の朗々とした「ただいま帰りました!」と言う声がする。

前日、「父上、今日くらいは出迎えませんか」と、
おずおずと千寿郎が言っていたのを槇寿郎はふと思い出した。
たまたま、天気の良い日なので動く気になり、槇寿郎は立ち上がる。

そう言えばにはいつだったかの晴天に、
「こんなにいいお天気なのにお部屋にずうっと閉じこもっていらっしゃると、
 気分まで塞がりますよぉ、カビの仲間じゃあるまいし」
などと言われたこともあった。

「さて、憎まれ口も健在だろうか」と思いつつ槇寿郎が玄関先に顔を出すと、
千寿郎と何か話していたらしいが槇寿郎に気づいてすっと背筋を伸ばした。
紺色の羽織の下、左腕は失われ、髪で隠してはいるものの右の耳に欠けがある。

しかしその顔は、何やら憑き物が落ちたように晴れやかだ。

「ただいま戻りました。……ご心配をおかけして申し訳ございません」

目を細めたが深々と頭を下げる。
槇寿郎は鼻を鳴らしてそれに応じた。

「俺はそうでもない。杏寿郎と千寿郎は知らんが」
「父上……」

千寿郎は困っているようだが、の方は大して気分を害した様子もなく、
くすりと小さく微笑んで見せる。

「ふふ、かえって安心いたします。
 起きてからというもの、会う人会う人に怒られ通しでしたから」

顔を上げ、肩を竦めて苦笑する様も柔らかな雰囲気だ。
かつてはこうではなかった。
喋る大狐や狼を彷彿とさせていたのが、嘘のようである。

は確かにいつでも微笑んでいたが、貼り付けたような薄笑いだったはずだ。
それが何故こうも穏やかに見えるのか、槇寿郎には不可思議でならなかった。

 いや、本当はわかっている。

槇寿郎は黙ってから、横にいた杏寿郎に目を移し、またを見やる。
は槇寿郎のその所作を見て軽く俯くと、所在なさげに視線を泳がせて、また顔を上げた。

「あ……、ええと、戻って早々にご報告といいますか、
 お時間、お話しする、機会を頂戴することに、なりまして。ええ、はい……」

はらしくなく、しどろもどろである。
驚くべきことに、ドがつくほど緊張を露わにしていた。
あのが。

そんなに呆気にとられている槇寿郎に、
はじわじわと頬を赤らめ、困ったように眉を下げた。

「すみません。あの。やっぱり、いざ改まってこのようなお話をするとなると、
 ……照れますね。ふふふ」

 誰だ、お前は。

槇寿郎はのあまりの変わりように脳裏を過ぎった言葉をなんとか飲み込み、
自らを落ち着かせようと息を吐く。
そして、ニコニコと機嫌良くを眺めていた杏寿郎に目を向けた。

天邪鬼が素直になるとこうも変わるか。という驚きと、
それを成した杏寿郎の手腕に、槇寿郎は気づけば感嘆の声をこぼしていた。

「杏寿郎……。お前、凄いな……」

「なんの話ですか、父上?」

唐突に感心され、訳が分からなかったらしい杏寿郎が首を傾げたのは無理からぬ話である。