鏡の女・サンプル版

(前略)

「お帰りなさい」

杏寿郎はその日、一匹の鬼を退治して帰宅した。
煉獄はいつものように笑顔で無事帰った杏寿郎を出迎えると、
夫が顔を曇らせていることに気がついて小さく首を傾けた。
今日の杏寿郎は「ただいま」と言ったきりムッとして黙り込んでいる。

「あの……杏寿郎さん? どうなさったんですか?
 怪我でもなさったの? 見た限りはご無事なように見えるのですけど……」

心配そうなに、杏寿郎は常の通りの笑みを作ってみせる。

「……いや、大したことではない! 見ての通り怪我もないぞ!」
「うふふ。それなら良かった。お食事の用意は出来ておりますよ」
「すまないが、食欲が無くてな」

いつもならば丼10杯は食べる杏寿郎の言葉に、はパチパチと瞬いた。

「まぁ……! 調子がよろしくないのかしら。
 お怪我がないならお風邪を召しているのかも。
 すぐにお休みになりますか?」

杏寿郎は腕を組み、大きく首を横に振った。
「あまり眠くはないのだ」と言う杏寿郎に、は物憂うような顔になる。

言葉を呑んだを置いて、杏寿郎は履物を脱ぎ、すたすたと居間へと向かった。
三歩下がってついてくるへ、肩越しに声を掛ける。

「なぁ、寝入る前に、少し話を聞いては貰えないだろうか?」
「具合が悪いのでしたら起きていても体に毒ですよ。
 お休みになられた方が、私はいいと思うのですが」

「……愚痴を零すのはあまり良いことではないと分かってはいるが、
 君に聞いて貰えれば少しは気分が和らぐかもしれん」

常の杏寿郎ならばの忠告を聞き入れそうなものだが、この日は違った。
いつもと様子の違う夫の雰囲気に戸惑ってか、の態度も常よりしおらしい。
は深々とため息を零すと、仕方がないと頷いた。

「わかりました。でしたらせめて、お着替えを先に済ませませんか?
 そのほうがゆっくりくつろげますでしょ?」


有無を言わせぬような鋭い声色で名前を呼ばれ、は呆れた様子で「はいはい」と応える。

「……せっかちな方なんですから、全くもう」

が台所から茶を淹れて持ってきたものの、
座した杏寿郎は「ありがとう」と言ったきり手をつけもしない。
どうも機嫌のよろしくない夫には肩を落とした。
そのまま杏寿郎の向かいに座り、話を聞く体勢に入る。

「それで? どうなさったんです?
 せっかくご無事で帰ったのに、そんなに浮かない顔で」

「……今日、斬った鬼のことなのだが」

それまで口数の少なかった杏寿郎が、ぽつぽつと話し始めた。



その日、杏寿郎が鴉に案内されて向かったのは山の中にある集落だった。

近頃は山の麓が著しく発展し、
人が下りることが増えたため徐々に集落の人口は先細っていたようだが、
それでも未だに30人余りの人間が暮らしていた。

集落の中心には神社があり、季節には祭りなども催されていたらしい。
それがある日を境に、誰一人として姿を見せなくなったのだという。

麓まで薪を売りに来ていた集落の人間がぱったりと顔を見せなくなったのを、
不審に思った町の人間の何人かも、様子を見に行って戻らなくなった。

これは鬼の所業であると鬼殺隊が断じ、調査、鬼の討伐のため杏寿郎を派遣したのである。

鴉の道案内を受けるまま杏寿郎は山を登った。
山自体は霧が深いものの、特に変わった様子はなく、鬼が出ることもなかった。
集落まで特に苦もなくたどり着くことができたのは、
不思議と集落に近づくにつれて霧が晴れていったことも一因だ。

集落には確かに人がいる様子は無い。
そして案の定、神社を取り囲むよう家の点在するあちこちに鬼の気配が残っている。
塀、壁、玄関の引き戸などをよく見ると、隠蔽しようとしたのか否か、
拭われた血の跡、斬りつけたような傷がそこら中あることにも杏寿郎は気づいていた。
間違いなく、ここで人が死んでいる。それも一人や二人ではない。大勢だ。

一番鬼の気配の濃いのは集落の中でも立派な門構えをした家の中だった。

杏寿郎が遠慮なく屋敷に足を踏み入れると、そこには女の鬼が居た。

すかさず構えた杏寿郎を見ても鬼は不思議と攻撃する様子もなく、ひたすらしくしくと泣いている。

『集落の人間を喰った鬼は君で間違いないだろう!
 罪なき人々に牙を剥き!その平穏を脅かすならば!
 この煉獄、容赦はしまい!!!』

杏寿郎が日輪刀を突きつけると、どういうわけか鬼は三つ指揃えて頭を下げた。
震える声で絞り出すように言う。

『この首は差し上げますから、どうか、どうか、私の話を聞いてください。
 人を食わねば生きていけぬ、この身を哀れんで介錯してくださると言うのなら』

どうやら命乞いをする気は無いらしい。
杏寿郎はその鬼の態度に、最期の希望ならばと話を聞いてやることにした。

曰く、鬼はもともとこの集落の長の娘である。
祝言を控えた前日、訪れた客人に鬼にされ、理性を失った鬼はそのまま家族と婚約者を喰い殺した。
それに飽き足らず、鬼は本能の命じるがまま村中の人間を一晩で一気に殺し、1日1人の屍肉を喰った。
様子を見に来た人間も残らず殺した。

そうして少しずつ人肉を喰っていくうちに頭の霞が晴れ、理性を取り戻したは良いものの、
鬼は自身の置かれた境遇と、自分がもう、全く取り返しがつかないことに気づいたのである。

『だから待っていたのです。私を殺してくれる、誰かを……』

そう言って再び頭を下げた鬼に、杏寿郎は鷹揚に頷いた。

『うむ! 話は分かった ならば遠慮なく首を斬ろう!
 しかし自ら首を差し出すのに免じて、いたずらには苦しめまい!』

『ありがとうございます。ありがとう。ありがとう……!』

そう言って自ら喉を晒した鬼の首を、杏寿郎は一息に刎ね飛ばしたのだが。



「その鬼は今際に、微笑んだのだ」

杏寿郎が暗澹とした様子なのを見て、は「なんと言ったものか、」と言葉を選んだ。

「それは……その鬼はほっとしたのではありません? もう誰も殺さずに済むからと……」
「そうだろうか」

杏寿郎は淡々と応じる。
今回の鬼殺が杏寿郎の不機嫌の種になっていることは明らかだった。

「何か、思うところがあるのですか?」

杏寿郎はどうも“それ”を口にするのに抵抗があるようだ。
組んだ腕を強く握って口をつぐんでいる。それから不意に、杏寿郎はから目を逸らした。

「思えばあの鬼は」
「あの鬼は……?」

促すの声にもしばし躊躇って沈黙したあと、杏寿郎は低く呟く。

「君に、似ていたように思う」

の顔が、能面のような無表情になった。
それから取り繕うように口角を上げ、おどけるように自身の額を指し示した。

「……あははっ! よして下さいよ。縁起でもない!
 今の私が鬼に見えますか? ツノもないでしょ?」

明るく振る舞うに杏寿郎は苦笑して頷いた。

「そうだな。……だが、やはり少々堪えたかも知れん。
 いくら別個の者とは言え、妻に似た顔を斬りたくはないものだ」

は嬉しそうにクスクス笑った。

「うふふ。きっとお疲れなんですよぉ。おやすみになさいましょう」
「うむ……」

杏寿郎はに向かいなんとなく茫洋な返事をする。
はそれを愛おしげに見つめたあと、緩やかに口角を上げた。
布団の準備はできているのだと告げてから、静かに囁く。

「……ねぇ、添い寝は必要ですか?」

(後略)