砂糖と獣・サンプル版

(前略)

結婚して三日目。
引っ越し、荷ほどきも落ち着き、仮住まいでも家らしくなったことに満足したところで、
は台所から居間を覗き、ここで杏寿郎と二人、しばらくは暮らしていくのかと思うと感慨深く思った。

それと同時に、夫婦になることの実感がようやく湧いてくる。
仕上げに細々とした茶碗、箸、食器をしまいこみながら、
増えたりすることもあるだろうから
棚に余裕を持たせてよかったと考えたところで、はた、と気づいたのだ。

 あれ? ということは、私は杏寿郎さんと、子を設けたり、するのだろうか。

、こっちは荷ほどきが全部終わった!そっちはどうだ!」

ひょこ、と台所に顔を出した杏寿郎を見ては頷く。

「ええ。こちらも概ね大丈夫です。
 ようやく落ち着きましたねぇ。お茶を淹れますよ」
「いただこう!」

答えながら、人の親になる自分をあまり想像できないな、とは内心首を捻った。
杏寿郎にその気があるかも定かではないし、とも。

そもそも杏寿郎が結婚を申し込んできたのはが腕を失くしたことによるところが大きいと、
は勝手に思っている。

どうしても結婚したいのだと言われたから、責任だけを感じてを妻にしたわけではなく、
好意があるのだろうとは分かる。
婚約してから以前とは違って少し距離が近くなったり、
くすぐったいような眼差しを向けられることもある。

しかし、義手をとって傷を見せても、子を作る気になるものかしらと、
なぜか茶を沸かすをジッと眺めてくる杏寿郎を横目に思う。

 他にも色々、醜態を晒している気がする。鬼に向かって散々暴言吐いたのも見られている。

は考えるうちに、杏寿郎のことがわからなくなった。

 よく私と結婚する気になったな、この人。

「どうした?」

なんだか難しい顔で急須を傾けるを訝しく思ったのか、杏寿郎が声をかけた。
は胡乱な目を杏寿郎にむける。

「あなた、私がさんざ鬼に暴言吐いたり、必要以上に痛めつけているのを見てるのに、
 よく結婚する気になったなぁと思いまして……」
「控えてほしいとも、ちょっとどうかとも思ってるぞ!!」

杏寿郎は正直に答えた。
「そうでしょうね」と嘆息するを見やり、杏寿郎は悩ましげに腕を組む。

「しかし……、うーん」
「なんですか?」

しばし考えるそぶりを見せていた杏寿郎だが、
やがて一人納得した様子で頷き、に向かって宣言する。

「やっぱり言わない!」
「な、何を?」
「もったいないのでまだ内緒だ!」

にこにことに向かい悪戯っぽい笑みを向けた杏寿郎である。
は杏寿郎なりに理屈があってそのような言動をとっているらしいことは察した。
だが、深く追求する気にはならなかった。
杏寿郎のことだ。言いたければそのうち教えてくれるだろう。
だからが返したのは、極めてそっけない言葉である。

「はぁ。左様ですか」

それからつい、と視線を湯呑みに向け、杏寿郎に差し出した。

「居間でくつろいでてくだされば、お茶も持っていきましたのに」

杏寿郎はの乾いた対応に表情はあまり変えないものの、声量で不満をあらわにした。

「……!! 君は時々とても淡白だな!! 淡白!!」
「えぇ……? 初めて言われましたけどぉ?」

頭に疑問符を浮かべるに、尚も杏寿郎は不服そうである。



その日の夜のこと、未だ任務に復帰できずにいるは早々に床についていた。
朝に戻る杏寿郎を出迎えねばならないし、
怪我なく戻るようにと願掛けの薙刀を振るったあとはさほどする事もないからだ。

は寝付きも寝起きも悪くない。目を閉じて次に開くのは大抵が朝である。
だが、その日は夜のうちに人の気配、足音で目を覚ました。
スッと襖が開いた音がする。は襖の前に立つ人影に声をかけた。

「杏寿郎さん?」
、起きてたか?」

声の主はの察した通り、杏寿郎である。は起き上がって襟を正した。

「……ごめんなさい、お迎えもままならず」
「謝るな。君に落ち度は何もない。今日は俺が随分早く帰った」

それに無理に出迎えようとしなくても大丈夫だぞ、と杏寿郎は続ける。

どうやら今夜分の仕事をもう果たしてしまったらしい。
の肌感覚では現在杏寿郎が家を出てから4、5時間経ったところだろうか。
杏寿郎の言う通り、随分早い帰宅である。

「少し話がしたかったのだ。ここしばらくは立て込んだからな」

は首を傾げつつ、暗がりのままではよくない、電灯をつけなければと立ち上がろうとする。

「お話。なんでしょう? まだ暗いです。明かりをつけますね」
「そのままでかまわん。座ったままでいてくれ」

しかしを杏寿郎が遮る。は言われるまま布団のそばに座りなおし、軽く手櫛で髪を整えた。
暗がりの中でも纏う衣服の輪郭は見れば分かる。
杏寿郎はすでに隊服から寝間着に着替えているようだ。暗くて表情はうかがえない。

「……思えば、君に結婚を申し込んでからはあれこれと忙しなかった」
「そうですねえ、やることが、結構たくさんありましたから」

は頰に右手をやって嘆息する。
鬼殺隊の長、産屋敷耀哉は杏寿郎の降格願いを一度受理した代わりに警備地区を遠方に割り当てたので、
しばらく仮住まいを転々とすることになったのだ。
結婚式の準備に加えて引っ越しの準備も平行しなくてはならず、
杏寿郎の言う通り、最近は落ち着いて話すこともできなかったと思う。

「最初に出会った頃には鬼殺隊随一の問題児だった君を、よもや妻にもらうとは思っていなかった!
 全く、事実は小説より奇なりとはよく言ったものだ!」

「……ええ、私も夢にも思っていませんでした。不思議なご縁もあるものですね」

言われて感慨深くなる。
自身何度も思い、口にしたことだけれども、
未だに杏寿郎に嫁いだことを夢ではないかと思うのだ。

「ふふ。あまり良い趣味だとは思えませんが」

思わず苦笑したに、杏寿郎は少々声色を潜めた。

「それだ」
「え?」

瞬くを前に杏寿郎は腕を組む。

「うん。少し前から思っていたが、君は自虐が過ぎる。
 特に……なぁ、君は俺が結婚を申し込んだのは、
 腕のことが最たる理由だと思っているのだろう?」

「……」

その指摘に、は二の句が告げなかった。全くもってその通りだからである。
杏寿郎は口をつぐんだまま、何も言わないに目を伏せて、呟いた。

「やっぱりな。……本当に、何も分かってなかったか」

しかしすぐに顔を上げ、杏寿郎はに向かって朗々と宣言した。

「君は自分の悪癖や気質について酷く嫌悪しているから、そう思ってしまうのもわかる。
 しかし、しかしだな。俺は君を、生きている間必ず幸せにするとも決めている。
 腕のことはきっかけに過ぎないのだ」

杏寿郎は一拍置いて、断言する。

「あの夜、君が腕を失くさなくても、俺は君を妻にしただろう」

「……杏寿郎さん、」

は名前を呼ぶので精一杯だった。
それは、つまり、杏寿郎がのことを、
腕のことは関係なく気質を含めて愛しんでいると言う風に聞こえたからだ。
信じられなかった。名前を呼ぶ声には驚嘆が滲んだ。

杏寿郎はの感嘆を悟ったらしい。
に言い聞かせるように、優しい声を努めて作った。

「君は頑固だから、すぐに考えを変えられるとは思っていない。
 だが、俺は君の夫として君を不安にさせるわけにはいかないし、 
 少なくとも、俺が君をどのように思っているのかについてくらいは、
 出来る限り正しく認識してもらいたいのだ」

「……どう、思っているんですか?」
「もちろん、愛しく思っている」

たどたどしく尋ねたに、杏寿郎は間をおかずに答える。

「おそらく君が想像するより、はるかに、ずっと」

は俯いた。
照れと、喜びと、自分が杏寿郎をどこか見くびっていたことに気付かされて、心底恥ずかしく思ったのだ。
煉獄杏寿郎という人が、生半可な気持ちで誰かを娶ることなど無いと、分かっていたはずなのに。

「……やはりこういうのは、ちゃんと面と向かって言うべきだと思ってな!
 とはいえ、いささか気恥ずかしいので暗がりで伝えてしまったが! 許して欲しい!」

照れ臭そうな杏寿郎の声には俯いたまま首を横に振って、
今ばかりはその好意に素直に応えようと言葉を選んだ。

「……はい。あの、嬉しいです。とても……、本当に」
「よかった」

結局拙い言葉の羅列になってしまった、と後悔するだが、杏寿郎の返事は朗らかだった。
しかし、少しの沈黙のあとに続いた言葉は違っている。

「……すまん。まだ、伝え足りない」

その声にはまだの知らない感情が乗っている。
なんだか胸の奥がざわついて、は杏寿郎に呼びかけた。

「杏寿郎さん?」
「分かってもらえるまで努めたい。俺が、」

なにか、焦燥めいたものを感じ取った気がしたが、
にそれを見極める時間を与えず、杏寿郎は口をつぐんだ。

暗がりに音が消える。
静まりかえった部屋の中で、やがて拍動ばかりが、
の身体から響く音ばかりが徐々に高鳴っていった。



平坦な声色で名前を呼ばれる。は予感していた。
今から杏寿郎の、名実共に妻になる。

「そちらに行っても、いいか」



(後略)