煉獄のかぐや姫
煉獄家の一人娘、煉獄は琴に三味線、舞踏に通じ、華道を嗜む才女である。
の奏でる和琴からは春の小川のせせらぎを、
この上なく優雅にしたような音がする。
下の弟の千寿郎は姉がうっすら微笑みながら弦をつま弾いているのを見ると、
身内ながらに弁天様や天女様のようだと思うほどであった。
しかしの本領はやはり舞である。
全く重力を感じさせない振り。
彫像のようにぴたりと静止したかと思えば、
くるくると遊ぶように動き出すさまはこの上なく典雅。
舞妓も裸足で逃げ出すほどだと人は言う。
ちょうど双子の弟、杏寿郎が鬼殺隊の柱になったのと時を同じくして
は名取だったのに加え師範の資格を得たので、
その気になれば人に教えて生計を立てることもできるらしい。
季節の花々を好み、暇を見つけては花を生け、
着物にはその時期によって扱う花の香りが移った。
纏う着物の柄も花模様をよく選んだが、
意外にも普段から華やかに装うようなことは少ない。
というのも――は常々弟たちに己の信条を吐露していたが、
「わたくし自身の心根、立居振る舞いが華やかならば身に纏うもの、
髪に飾るものなどは質素なくらいで帳尻が合うというものです。
あまり煌びやかにしすぎても悪趣味ですから」
などと言って憚らなかった。
この信条からも分かる通り、煉獄は実のところ、
いわゆる大和撫子と呼ばれるような控えめで淑やかな女ではない。
確かに淑女の嗜みとしての芸事は一流だが、口を開けば勝ち気で豪快。
自信家でいささか傲慢。わがままで気位の高いところがあった。
そもそもがそういう気性なのである。
幼少の頃のは杏寿郎とはしゃいで泥の中を転げ回った挙句、
庭に植わった柿の木に二人でよじ登り、
あまつさえ塀に飛び移るともいだ柿の実をむしゃむしゃと食うようなおてんば娘だったのだ。
あまりの男勝りとわんぱくぶりを見かねたのか母、瑠火が
厳しいと評判の講師にを預け芸事を習わせたところ、頭角を表して今日に至る。
だから幼い日のを知る杏寿郎は、
興が乗ると三味線を手にする姉を見るたび「姉上も随分おとなしくなったなぁ!」
などとしみじみ呟くことさえある。
が、割合共に過ごす時間の長い千寿郎からすると、未だは相当のじゃじゃ馬に見えた。
なにしろこの姉、見合い話が来るたびに、
竹取物語、なよたけのかぐや姫よろしく、
無理難題をふっかけては申し入れてきた男たちを蹴散らしてしまうのである。
※
婿をとるなり、嫁に行くなり、せねばならぬと言うは易しだ。
相手がいないと話にならない。
青色吐息の煉獄が頬に手を当て憂鬱そうに呟くのを聞き、
双子の弟、杏寿郎がくわっと目を開いて迫るように口を開いた。
「とはいえ! 無理難題を相手に課すのはいかがなものかと思います! 姉上!」
鬼殺隊士の筆頭剣士、柱として忙しく任務に励む杏寿郎だ。
久方ぶりに実家に帰ってきて姉に小言など言いたくもないのだが、
千寿郎から聞かされた姉の見合いの顛末を耳に入れると文句の一つ二つ言いたくなったのである。
「無理難題とは人聞きが悪いわね?」
は唇をうっすらと持ち上げて小首を傾げている。
母に瓜二つの美貌を綻ばせるさまは身内から見てもそれなりに愛嬌があるのだが、
これは完全に猫をかぶっている時の顔だと杏寿郎にはわかっていた。
具体的に言うなら都合の悪いことを誤魔化そうとするときの顔である。
「見合い相手に開口一番『今から九州、鹿児島に向かって黒豚を一匹連れて帰って来い』と
おっしゃったそうですね!? これを無理難題と言わずしてなんだと言うのか?!」
「杏寿郎、『三日以内に』というのが抜けているわ。あと『子豚さんを』というのも」
「なお悪いが!?」
は帯に挿していた扇子を開いて口元を隠し、はたはたと顔をあおぎ出した。
これはの癖である。誤魔化そうとするに構わず杏寿郎は姉の横暴を堂々と指摘する。
「そんなのは俺でも骨が折れるぞ!!」
パンッと軽い音を立ててが扇子を閉じ、そのまま杏寿郎を指した。
「折れるからなんだと言うのですか。
それにあなたも『無理』とは言わないじゃない?
わたくしを本当に大事に思ってくださる殿方ならば、
この程度のお願いなぞ、多少無理を通したとしても叶えてくださるはずでは?」
あまりの言い草に呆れる杏寿郎を横目に、は芝居がかった所作で遠くを見る。
「わたくし、一度子豚を飼ってみたかったの。
特に九州の豚さんはお肌が黒いのだそうで、是非ともお世話がしてみたい。
可愛がって
昨日まではそのように思っていました」
「『昨日までは』?」
怪訝に眉を上げた杏寿郎にがにこやかに微笑んだ。
「ええ! でも、そういえばお父様は動物を飼うのを嫌がるわ……と思って。
それに、みだりに生き物を飼おうとするのは無責任かしら……的に、
わたくし、考えを改めたのです」
「最初から結論に思い至ってはくれないか!」
「ほほほ。杏ちゃんったら相変わらずせっかちですこと!」
「その呼び方も改めてもらいたい!!!」
大の男をちゃん付けで呼ぶのは止してほしい、と言う杏寿郎であるが、
はカラカラと笑うばかりで聞き入れる様子もなかった。
それから何を思ったのか、ふぅ、と息を吐くと顔色を曇らせる。
「そも、先方も条件を出した瞬間すごすごとお帰りになったので
破談は当然のことでしょう。
誠に残念極まりないですけど、仕方ありませんね。しくしく」
わざとらしく目元を拭うそぶりを見せるを、杏寿郎はビッと指さした。
「嘘泣きだな!!!」
「はい。嘘泣きだけれど」
しれっとした顔では頷いた。
「ところで、わたくしの見合いをあれこれ指図する前に
ご自分はどうなのですか、あなた?」
「むっ」
杏寿郎とは双子だ。姉が結婚を考え出す年頃なら、弟も然りである。
が、杏寿郎は多忙を理由に見合い話を割と断っているのだった。
は言葉に詰まった弟に、猫撫で声で諭すように言う。
「お勤めに励むのも良いけれど、そろそろ身を固めても良いのではなくて?」
「むむっ」
それまで小言を言っていたのが一転。
悩ましげな杏寿郎をは愉快そうに眺めるばかりである。
「選り好みが激しいのは姉弟で似るのかも?
これこそまさしく同病相憐れむというやつね、ええ。
まさしく、まさしく」
がしたり顔で言うと、杏寿郎は「それは心外だ!」と反論した。
「俺のは選り好みではなく!
未だ嫁を取るほど大成しておりませんゆえ、時期尚早だと思っているだけなのです!!」
「ならいつ大成なさるの?」
「むむむっ!」
反論に返ってきたのがグサリとくる一言だったので杏寿郎は唸った。
「杏ちゃん?」
「その呼び方はやめてくれ!」
タジタジになった弟に満足したらしい。
は杏寿郎の前に置いた膳を扇子で指し示した。
「そんなことより、お味噌汁の冷めないうちにきちんと食べてしまいなさい。
お姉様が手ずから拵えたご飯をありがたーく味わうのです。
豚さんのカツレツ。自信作なのだから。ほら」
促されるまま杏寿郎は箸をとる。
膳に並ぶのはまだ湯気の残る人参と玉葱の味噌汁。大きめの椀に盛られた白米。
たっぷりのキャベツの千切りと豚のカツレツ。
ほうれん草の煮浸しには削った鰹節が添えられている。
近頃は洋食作りに凝りだしていて、
ソースなどの洋風の調味料や珍しい野菜をどこからか仕入れてくるのだった。
杏寿郎は早速カツレツに手をつけた。
噛むたびサクサクとした衣、分厚く切られた豚肉の旨み、甘辛いソースの塩気が相まって、
確かに姉が自信作と言うのも頷ける出来栄えである。
「うまい!!」
素直に褒めた杏寿郎には鼻高々な笑みを浮かべた。
「衣をつけるのは天ぷらと同じだけど、より腹持ちが良いのよね、カツレツ。
千寿郎にもしこたま食べさせましょう。
洋食、お肉は滋養があるから元気になるって聞いたのよ」
が満足げなのを見て、突然黒豚を欲しがった理由の一端は察した杏寿郎である。
なんだかんだ言っても、は家族の健康を第一に考えているのだ。
なんとなくくすぐったい気持ちになった杏寿郎であるが、それにしてもと首を傾げた。
「しかし姉上、先方が本当に黒豚を連れ帰ったらどうなさるつもりだったのか!」
「それは当然、結婚いたしますとも。この煉獄に二言はありません!」
胸を張っては言う。
おそらく条件を提示した時に先方が黒豚を連れ帰るとは
微塵も思っていなかったのだろうとは思いつつ、
実際に先方がのわがままを叶えたならば言葉通り結婚するのがこの姉だ。
潔くキッパリとしているのはの長所だが、
とはいえ結婚の決め手が「すぐさま黒豚を連れ帰ってきたから」というのは
どうなのだろうかと杏寿郎は思う。
そもそも、が人を試すようなことをするのが不思議だ。
この姉は、竹を割ったようにはっきりしている性質である。
見合いにしても結婚したくないと思ったら「しない」の一言を先方に返して
終わりにするのがいつもの姉らしいのに、とも思う。
しかしが伴侶に求めるものは、
案外男兄弟の己にはよくわからないものなのかもしれないと、
杏寿郎はカツレツをたらふく平らげた後に言う。
「……のことだから何か考えがあるのだとは思うが、ほどほどにな!」
「そうね」
杏寿郎の忠告にはだいぶぼんやりとした答えを返した。
この響いているのかいないのか曖昧な答えを咎め、
もっと強く念押しすれば良かったと杏寿郎が後悔するのは、
次の姉の見合いが刃傷沙汰になったからだ。
※
任務から帰宅した杏寿郎が玄関に見慣れぬ履き物を見つけて、
そういえばの見合いの日取りは今日だったか、と思い至った瞬間のことである。
知らぬ男の怒声が応接に使う部屋のあたりから響いた。
杏寿郎は何事かと思い、すぐさまに部屋へと向かった。
途中、目の端に影のようなものを見るも、すぐに失せたので構わず進む。
まず目にしたのは床に転がる抜き身の刀。
愛用の扇子を手に持った。
顔面蒼白の千寿郎に、尻餅をついて脂汗を額に浮かべる身なりの良い男だった。
三人とも杏寿郎の帰還には気づいていない様子だ。
の見合い相手と思しき男には杏寿郎も見覚えがあった。
杏寿郎と同じく鬼殺隊士だ。扱う呼吸も炎で同じ。
おそらく煉獄の分家筋にあたる人物である。
さる任務に当たった時に指揮したこともあり、二、三言葉も交わしたはずだが、
人となりについては覚えていなかった。
「……こたびの狼藉、剣術に心得を持つ人間の所業とは思えませんが、
一体どういうおつもりなのです?」
が冷たく男に声をかける。
「炎の呼吸の真髄を究めたくばその性根を叩き直すところから始めなさい。
お引き取り願います」
その頑なな態度に、男の顔が怒りに歪んだ。
「――剣士でもない女が偉そうに!」
はピクリと眉を上げるが、ほとんど間髪入れずに言い返す。
「その女に扇子で白刃を取られる殿方が言う言葉ですか、それが」
しかしそれがよくなかった。
「このっ……!」
「姉上!」
に殴りかかる男を見て、咄嗟に千寿郎が床の間に飾られる刀に手をかけた。
が、杏寿郎が男の手首を掴む方が早い。
「君、丸腰の女子供に殴りかかるのはダメだろう! ……情けないとは思わないのか」
仲裁に入ったのが当世の炎柱とわかると男は途端に冷静になったらしい。
無言で大人しくなった。
ただし、杏寿郎の掴んだ拳は怒りか、羞恥かの激しい感情でわなわなと震えている。
千寿郎は兄の帰還にホッと胸を撫で下ろし、刀を床の間に戻した。
当のと言えば、涼しい顔で杏寿郎を見上げている。
「杏寿郎、いつ戻ったの?」
「ほんの今しがたのことです」
の問いかけに淡々と答えた杏寿郎は、男に向かい、拘束した腕を放して告げる。
「当然のことながらこの縁談はなかったことにさせてもらう。
義兄として君を敬うことが俺には全く出来そうもない。お引き取りを」
「な――」
なにか言いかけた男の言葉を杏寿郎は早々に遮った。
「……聞こえなかったか? 帰れ。二度と煉獄の敷居を跨ぐな」
杏寿郎の言葉に、男は舌打ちした後さっさと荷物をまとめて帰った。
場がいったん落ち着いたところで、が最初に口を開く。
「……失せましたか、あの男」
「うむ!」
「はい。もう影も形もありません」
杏寿郎と千寿郎が答えた。
特に千寿郎は一応廊下から玄関を見て答えるという念の入れようである。
杏寿郎は様子見に立っていた千寿郎を手招きする。
素直に従ってそばに寄った千寿郎を横に座らせて尋ねた。
「千寿郎は姉上を守ろうとしていたな! 鞘を抜く気はなかったようだが?」
千寿郎は床の間に飾られた刀を手にした時のことを聞かれたのだとすぐにわかったらしい。
「は、はい! 咄嗟のことでしたので無我夢中だったのですが、
その、剣士とはいえ丸腰の相手にみだりに刀を抜くのは、いかがなものかと。
鞘があるままなら、きっと大ごとにはならないだろうと思ったのです……」
「……うん! 千寿郎はえらい!」
姉を守ろうとする気概は立派だ。
あくまで〝鬼〟を滅殺すべしと刀をとる家の人間として、その判断は間違ってはいない。
とはいえ相手はそれなりの手練れだったから、
杏寿郎が戻らねばどうなっていたかはわからない間一髪の場面だった。
ただ、杏寿郎が家に帰ったことを千寿郎やは気づいておらずとも、
父、槇寿郎だけは気づいていたのではないかとも杏寿郎は思う。
帰宅してすぐに見た影のようなものは槇寿郎だったのではなかろうかと。
結局丁度よく居合わせた杏寿郎が対処したので本当のところはわからずじまいであるが。
杏寿郎はそこまで考えたあと、口数の少ないを見やる。
依然として上座で微動だにせず何食わぬ顔の姉は本当に肝が据わって見えた。
「しかし、一体何がどうなったらあのような刃傷沙汰になるのですか、姉上」
「……」
「姉上? どうなさったんです?」
問いかけにも無言のに、千寿郎も心配そうに声をかけた。
はそれに長いため息をこぼして、ようやっと口を開く。
「杏寿郎、千寿郎。……わたくし、腰が抜けました」
全く平然としていると思っていた姉の告白に、かえって弟達は度肝を抜かれた。
「えええ?!」
「さっきまであんな涼しい顔だったのにか!?」
「わたくしがあのような失礼千万の男に狼狽するさまなど見せるものですか!
あぁ、もう、怖かった!! なんなのかしら全く!!!」
は気が抜けたのか途端にぷんすかと怒りだした。
落ち着こうと手に持った扇子を開いたが、
こちらはビリビリに破けて桔梗の意匠がめちゃくちゃになっている。
白刃取りをしたというのだから当然のことではあるものの、は目を丸くして喚いた。
「あッ!? ちょっと何よこれ! お気に入りだったのに台無しじゃないの!!
ほんっとうに癪に障る……! 千寿郎! 塩を持ってきなさい!!
塩!!! 撒くわよ二人で!!!」
「えっ、はいっ! ただいま……!」
あまりのの剣幕に狼狽えつつも、千寿郎は素直に頷いてぱたぱたと廊下を急いで行った。
杏寿郎はその背を見送ったのち、嘆息する姉に改めて聞かねばならないことがあると、
の向かいに座って声をかける。
「姉上」
「なにかしら?」
「なぜ彼はあんなに逆上していたのですか?」
は途端にばつの悪そうな顔になって目を逸らした。
「……」
「」
諭すように続けると、は壊れた扇子で己の手のひらを軽く叩いた。
「ええ、ええ! 確かにわたくしにも悪いところはありました!
認めます!
もう少し穏便に済ませることができなかったかと言われればできたでしょう。
それはわたくしの落ち度だわ。
反省に値するけれど……でも、二度とやらないとはお約束できません!」
は目を伏せて呟く。
「家族を貶されて怒るなと言われても、無理よ」
苦々しさを隠しもしないに杏寿郎は瞬くと、すぐに問いただした。
「なにを言われた?」
「あなたには聞かせられませんし言わないわ。
口が腐ります。思い出しても腹立たしい」
は首を大きく横に振ると、
多少冷静になったのか今回の見合い相手についてをかいつまんで杏寿郎に教えた。
「……彼は鬼殺隊士。煉獄の分家筋の方です。
わたくしと結婚して炎の呼吸、
本流にのみ伝わる奥義〝煉獄〟を習得するのを目的としているようでした。
次代の炎柱になるべく野心を燃やしておられた。
これだけ言えばあなたのことです。
この手の、無闇矢鱈に出世欲が強く、他者を見ると勝者と敗者に選り分けずにいられない、
それを恥とも思わぬ人間が、何を言うかくらい想像できるでしょう?」
杏寿郎は眉を顰めて黙り込む。
どういうつもりかは知らないが、これは大方、父や弟を
少なくとも侮るような気配を滲ませる言動を相手の男がやったのだろう。
ならば、が烈火の如く怒ったのも無理はない。
「わたくしは恥知らずな人が大嫌いよ。
問答以前の問題です。
そういうことを告げたらあの方途端に逆上したので……最初から断ればよかった」
イライラと言うに、杏寿郎はさらに尋ねた。
「その問答のことだが。
姉上は無闇に人を試すような方ではないと、俺や千寿郎はわかっていますが、
よその人間にはわからないこともあるでしょう。
なぜ、かぐや姫のようなことをなさるのですか」
「ああ、それ、さっきの方にも言われたわよ。
まさしく〝煉獄のかぐや姫〟と。思い上がりもほどほどにしろとね」
は皮肉めいた笑みを浮かべると、やがて目を閉じ、静かに言った。
「……自分でもそう思うけれど、いかんせん、わたくしはこの家が心配です」
杏寿郎は口を噤む。
「わたくしが嫁に行ったら、家のことは千寿郎に任せることになる。
千寿郎なら一通りのことはこなせるでしょうけども、お父様のことは、」
は少し言い淀んだあと、苦笑して杏寿郎を上目に窺う。
「折り合いが難しいでしょう?
わたくしなら遠慮なく、お酒は控えろ、とか、
あまりぐうたらなさらないで、とか、
日の出てる時くらい散歩いたしましょうよ、とか言えます。
……大抵は無視されますけども」
終わりには何を思い出したのかジト目で腹立たしげに告げたである。
「でも、あなたや千寿郎が同じことを言ったら怒鳴るじゃない、お父様ったら。
そんなの誰も慣れないわよ。萎縮してしまって当然です……」
やはりが女であるからか、
槇寿郎の態度は兄弟に向けられるものよりはやや柔らかいようでもある。
ただ、かえってはそれを歯痒く思っているところがあった。
杏寿郎に告げる言葉にもどこか悔しげな様子が見える。
「だからわたくしが嫁ぐのならば
煉獄の家に少しは気を配れるようなところでないといけないし。
婿を取るにしてもお父様と上手にお付き合いのできる方でなくてはいけないし。
……と考えると、わたくしにぞっこん惚れ抜いている殿方を選べば
まあ、間違いないでしょう、多分」
杏寿郎は諸々抱いていた疑問が解消したのでスッキリとした面持ちで頷く。
「不思議と間違ってはいない気もするが、
それでかぐや姫に
しかしかぐや姫を参照したのはいかがなものかと杏寿郎は堂々と指摘した。
何よりもこの方法には欠点がある。
「……それに、こんなことを続けてはの評判が悪くなる一方だろう」
姉を慮る杏寿郎に、は口角をあげる。
「ふふ。いいのよ。あまり付き合いのない相手にどう思われたって。
実際わたくし高慢でわがままな女ですし?」
胸に手を当てて不敵に笑って見せただが、
それでも見合いの顛末には思うところがあったらしい。
頬に手を当ててもの憂うように呟く。
「でも、今回はちょっとひやりとしました。当分見合いは控えます」
「うむ! ほとぼりが冷めるまでは、そうした方がいい!」
の結論に、杏寿郎は大手を振って賛成した。
「しかし不思議なもので、このやり方で見合いを断るたびに
わたくしの踊りと音曲を見たい聴きたいという人が増えるのよね。
……ちまたではわたくしの悪評が轟いているんじゃないのかしら?」
〝煉獄のかぐや姫〟と巷で妙なあだ名までつけられたは、
己の成した計画が思わぬ相乗効果をあげたのだと杏寿郎に打ち明ける。
杏寿郎は腕を組むと「そうなるのはわからないでもない!」とに言った。
「姉上の芸事は身内の贔屓目を抜いても見事だからな!
案外悪評から転じて支持者を増やしているのかもしれんぞ!」
「あらやだ、褒めてもなにも出なくってよ! ほほほほほ!」
は杏寿郎の褒め言葉に素直に喜び、
強かに杏寿郎の肩をバシバシと叩いて高笑いしている。
「ははははは! 力強いな姉上は! すごく力強い!」
姉の豪快な喜びの発露を杏寿郎もまた笑い飛ばした。
は落ち着いたところで襖の向こうに声をかける。
「ところで千寿郎、塩は用意できましたか?」
杏寿郎もまた笑みを浮かべて弟がおずおずと出て来るのを待った。
「……はい。すみません、お話の最中に割って入るのはどうかと思って」
気まずそうに言う千寿郎だったが、
杏寿郎はそんなことよりも千寿郎が思いきり我が家の塩の全てが入った
大きな瓶を抱えていることに驚いていた。
「瓶ごと持ってきたのだな!?」
「足りないと困るでしょう」
さらりと述べた千寿郎である。
「千ちゃん、どれだけ撒く気なの」
も自分が言い出したことながら驚いたらしく、そんなことを言っていたが、
コホン、と咳払いすると気を取り直したように声を上げた。
「さて、何はともあれ撒きましょう塩を!!!」
「姉上、腰は大丈夫なのですか?」
腰が抜けたと話していた姉を気遣う千寿郎に、は快活に笑った。
「清めて悪縁を断つためならば戻ります腰ぐらい!」
普段の淑女らしからぬ仕草で豪快に自らの帯を叩くと、
はゆっくり立ち上がって杏寿郎に目を向けた。
「杏寿郎も撒きますか?」
「そんな節分でもあるまいに……いや、ふむ」
なにやら大ごとになってきた塩撒きであるが、
杏寿郎は節分に準じることとして振る舞うなら、
なんとなくそれはそれで縁起がいいような気がしてきた。
何より、姉や弟と揃って何かをする機会というのは限られているものである。
「かえって縁起がいいかもしれん! 撒くか!!!」
杏寿郎はの提案に大きく頷いたのだった。
ぞろぞろと、姉弟揃って玄関先に出て塩を撒く。
「悪縁退散!」と第一に景気良く塩を撒いたのが。
「鬼は! 俺が斬る!!︎」と堂々と宣誓して本当に節分のようなことになったのが杏寿郎。
そして意外にも一番豪快に塩を「えいっ!」と撒いたのが千寿郎だった。
「力士のようだったな!」
「千寿郎はこうと決めると思い切りが良いのよね。……ふふっ」
が言葉の途中で肩を揺らし、笑った。
「何をしているのかしら、わたくし達ったら! みんなで塩撒いて」
腹を抱えて笑い出した姉に、弟達は顔を見合わせる。
「姉上が言い出したことでしょう……ふふ」
「はっはっは!」
しかしつられるようにして皆結局大笑いになった。
は上機嫌に続ける。
「さて、せっかく杏寿郎が帰ったのだから、今日は美味しいものでも食べましょう。
わたくし、遅くならないうちは三味線も弾くわよ。今はとっても気分がいいから!」
杏寿郎と千寿郎はお互いに目を配らせ、姉の調子が戻ったことに安堵した。
勝ち気で豪快なが自信満々に振る舞う様を、
時々呆れたりすることはあれど、それなりに好ましく思っているのだ。
三味線を披露してやるとが言うので、
楽器のある部屋まで廊下を並び歩く最中に、ふと杏寿郎が口を開いた。
「にしても、姉上がかぐや姫のような振る舞いをするのは、
結婚はしたくないが想う相手は居るからでは? などと邪推してしまったのだが、
いやはや本当に全くの邪推だったな! 申し訳なかった!」
密かに思っていたことを打ち明けて謝罪した杏寿郎に、は振り返らずに言う。
「あら、別に邪推でもないわね、それ」
姉弟の間に流れる空気が一瞬、止まる。
「えっ?」
「何?!」
弟達がギョッとして立ち止まったのをは振り返って怪訝そうに見る。
が、己の失言にはすぐに気付いたようだ。
「あっ」
しまった、と口元を押さえた後に目を逸らす。
「……お気になさらず」
ふいっとまた進み出しただが、千寿郎と杏寿郎はそうもいかない。
「気にするなと言われても気になりますが?!」
「知りませーん」
「どこの誰に懸想していると言うのだ!?」
「教えなーい」
千寿郎と杏寿郎が矢継ぎ早に問いただすのもはろくに取り合わなかった。
「!!!」
「さて何を弾こうかしら、越後獅子でもやろうかしら、賑やかだから。ほほほほほ」
終いにはわざとらしくそら惚けて披露する曲目を思案するであった。