深雪のころ
月に一度の便りを待つ。
毎月第三水曜日に届けられるのはの描いた棋譜に、
墨で一手、駒を進めるだけの手紙だ。
枠線の外には大抵時候の挨拶が添えられているけれどいつもたった一言。
筆が捗ったらしい時は二言、三言が関の山の、極めて簡素なものである。
それでもなんとなく感情の機微がうかがえる気がするから
文字は不思議だとは手紙を優しく撫でた。
煉獄はいわゆる文通将棋をやっている。
さっそく棋譜を読みながら将棋盤に駒を並べて、
は幾ばくかの沈黙ののち「うーむ……」と唸った。
相手はなかなかに手強い。ここ数年は特にメキメキと強くなっている気がする。
以前は一日二日で返事を出せていたが、
最近だとおおよそ一週間くらい悩み抜かないと返せない。
勝負事においての辞書に〝適当〟〝投げやり〟〝接待試合〟他、
諸々の文字が存在しないので、そういうことになるのである。
しかし〝先延ばし〟の文字はなんとか残っていた。
盤上を睨むのを止めにして、
先んじて普通の手紙を書いてしまおうとは便箋をとった。
相手がろくに返信しないからといって返事を怠るようなこともしないのだ。
――息抜きにと始めた文通将棋だから、書くのはたわいもない話がいい。
季節の花が綺麗だとか、足を運んだ場所のこととかのちょっとした近況。
そういうことばかりを書いて送りたい。出来るだけのほほんとしたやつを。
と、は話題を選ぶところから始める。
放っておくと書き伝えたいことが多過ぎて便箋が十枚二十枚三十枚と
雪だるまのごとく膨らんでいくのでこの段取りは重要である。
ふさわしい話題を選んで、あまり雄弁になり過ぎぬよう筆を走らせた後は
朱墨の筆に持ち替えてひたすら推敲、推敲、推敲だ。
合間に家事をやったり楽器を弾いたりおやつを頂いたりすると
冷静になる気がするのではいつもそうしている。
『将棋は進めていただきたいけれど、多忙なことは存じてます。
こちらのお返事は結構ですから』
締めの挨拶と化した書きなれた文言を綴って、それから一番大事なことを添える。
『身体が資本です。くれぐれも御身お大事に』
はもしかして次の一手は永遠に指されないことも知っている。
素っ気なくも感じるただ一言が更新されなくなることもあるかも知れぬと薄々の覚悟もしていた。
生死にまつわる事情だったり、はたまた手紙を書くのが面倒と思われてしまったり、
いろんな理由であっけなく人と人との繋がりは失くなってしまうものだ。
――だから今このときが、あの方が時間を割いて返事を書いてくれたことが、
たまらなく嬉しい。踊りだしたいほど!
は興が乗ると一人でも歌うし踊るし楽器も弾いた。
鷺娘でも演ろうかしらと立ち上がったが窓の外をみると、
白いものがハラハラと風に吹かれている。
は粉雪を目で追って微笑んだ。
――あの日と同じ、雪が。
※
雪が降っていた。
昨晩からの猛烈な吹雪は東京、桜新町の街並みを一面真っ白にしてしまい、
一夜明けて朝方は青空も見えていた時もあったが、正午を前にまた雲行きが怪しく、
今となっては雪化粧の往来に、重ねてしんしんと降りつもっていくばかりである。
「厚化粧だわ」とは白いため息を吐いた。
朝起きて一番に見た庭は水墨画のようで美しく、
風情も感じたものだが時が経つにつれは色々のことが億劫になった。
しかし生憎、今日は一日みっちり踊りの稽古の予定である。
面倒に思いつつも「なんだかんだと動けば体も温まるだろうし、
やってみると意外と楽しかったりするものだ」と
いつも通りに教室へ足を伸ばしたが、はほんの少し後悔している。
何しろ勇んで向かった教室で出迎えてくれた踊りの師範は
「今日は人が集まらないと思ったの。あなたはよく来たわねぇ」と
を褒めつつも若干呆れていたし、
その後普通に稽古に励んだものの、
小一時間が過ぎたあたりで雪のちらつきだしたのを見て、
これが深くなる前に帰るべきと稽古を早々に切り上げたのである。
「これなら家で一人でお稽古してた方がよかった」とは唇を尖らせた。
雪の帰路を歩きながら、朝方に千寿郎が心配していたのを思い出す。
なるべく早く帰るように念も押されていたから師範の心遣いは正直なところありがたい。
教室を出るころは粉雪だったのがもう牡丹雪だ。
いつもは活気のある大通りですらひとっこ一人いない。
贔屓の小間物屋も薬屋も休業していてもの寂しい。
赤い和傘を渡されて「荷物になるから嫌なのだけど」と渋るに
「絶対にダメです。本当は出歩くのもダメだと言いたいくらいです」と言い、
襟巻きをの首に遠慮なく巻き付けぐるぐるにしてきた千寿郎が全面的に正しかったと認めざるを得ない。
傘が無ければもっと辛かっただろう。
「それにしてもさむい……」
は暖かい袖なしの外套と襟巻き、おまけに手袋までしているにもかかわらず、
お構いなしに寒いことに辟易していた。
特に足元が氷のように冷えているのが嫌だった。
――稽古に行くから洋靴を履くわけにいかず草履なのが失敗だった。
早く帰ってとびきり熱くしたお茶を淹れよう。
お花の形の干菓子も食べたい。どうせなので千寿郎も付き合わせよう……。
そんな皮算用をしながら手袋をしてもなおかじかむ指を擦り合わせる最中、
ふと目の端に何か不穏なものが映った気がして真横を向き、は度肝を抜かれた。
路地裏、建物の壁にもたれかかるようにして人が座っている。
頭やら肩やらに雪が積もって埋れていた。
どうやら長いことその状態だったことが見て取れて、は一も二もなく駆け寄った。
「ちょっとあなた大丈夫!?」
積もってしまった雪を払ってやる。
唇の端から白い呼気がこぼれたので、生きてはいるらしい。
ひとまずホッとして身なりを確認すると驚くべきことに、彼は鬼殺隊士だった。
湿った羽織と隊服はいかにも重たく冷たそうで、は可哀想に思って眉を下げる。
年頃はや杏寿郎と同い年くらい、十三、四歳だろうか。
「もし、隊士の方、大丈夫ですか?」
気を取り直して丁寧に呼びかけても答えはない。
「意識がありますか? 立てます? 歩けるかしら?」
「……」
の声にようやっと隊士の少年のまぶたが震える。
うっすらと開いて、また閉じた。
何か言わんと唇を戦慄かせているものの、声にはならない様子である。
「……失礼」
前髪を払って触れた額は焼けつくように熱い。は思わずさっと手を引いた。
どうしようの言葉で頭がいっぱいになる。
――藤の家紋の家はいずれも遠い。ここから一番近いのは自宅だ。
……彼は病気だろうか。怪我をしているの? ひどい熱。鴉は近くにいないの?
隠の方をすでに手配しているならお節介?
……でも、このまま放ってはおけない。だって死んでしまうかも、
の脳裏に母の顔が浮かんだ。
――助けよう。
は瑠火の凛とした強い眼差しを思い出し、励まされるようにしてなりふりを決めた。
決めたはいいものの、不安も過ぎる。
――本当にわたくしで対処できる?
お父様には助けていただけるだろうか。勝手な判断で家に入れてもいいもの?
次々浮き上がる不安に奥歯を噛むと、は己の頰を強かに平手で打ち付けた。
――狼狽えるな。しっかりなさい。落ち着いて対処するの。できることをやるのよ。
はぐったりとした少年と肩を組む。
――家まで速やかに運び、布団を出す。
額は冷やすから濡れ手ぬぐい、足元は温めるから湯たんぽの用意。
多分背格好は杏寿郎と変わらないから、
寝巻きに着替えさせて怪我の有無を確認、必要なら応急処置。
それが済んだら一刻も早く医者を呼ぶ。
その間千寿郎に家つきの鴉を使って、彼を保護したことを連絡してもらう……。
今度こそ腹を括った瞬間、は昔取った杵柄で呼吸を整えると
火事場の馬鹿力ともいうべき力で自分と同じか、やや大柄な少年を引きずるように自宅まで帰った。
※
煉獄家に生まれた以上当然の如く、には炎の呼吸に心得がある。
だがこれは謙遜抜きの〝嗜み程度〟の心得だった。
が呼吸を習っていたのは七つやそこらまでの話で、
そのあとはずっと舞踊や音曲の方に打ち込んだのだ。
舞踊をやっているから体幹は鍛えられている。
並の令嬢よりは体力はあるものの、自分で歩くのもままならない少年を、
雪の中肩を組んでそれなりに距離のある自宅まで連れ帰ってもへっちゃら、
というほどではない。
少年を連れ帰ってこれたのは気合と根性の成せるわざであった。
は自宅の門構えが見えた瞬間、
安堵したせいかドッと少年が重くなったように感じた。
少年と己を励まそうと、息切れしつつも口を開く。
「も、もう少し辛抱なさってね。もう少し、……もう少ししたら、休めますから、ね」
「……ぃ」
少年が「すまない」と言ったような気がして、は努めて朗らかに答えた。
「お気になさらず。大丈夫ですよ。大丈夫。あなたが謝ることはありません……」
しかし辛いものは辛い。傘をさしてなどいられない。
そうすると雪が殴りつけるように降りかかってくる。
自宅の玄関がこれほど遠く感じることなどそうそうない。
一歩が百歩の距離に思える。
は己にイライラとしながら悪態をついた。
「ああ、もう、わたくしったら非力ね! もう!
お父様と同じくらい力持ちだったらよかったのに!!!」
昔、もう随分と大きかったはずの杏寿郎とを二人同時に背中に負ぶさって、
ニコニコしていた父の顔を思い出した。
子どもらを背にしたままに槇寿郎が屋根ほど高く跳び、
虎や豹のように速く走るのが楽しく、
弟共々大はしゃぎ大興奮だったことを覚えている。
まだ物事の分別のつかない頃、
は槇寿郎のことを韋駄天の化身だと思っていたことも。
なんだか必要以上にむしゃくしゃした。
は玄関の戸を思い切り音を立ててガサツに開ける。
渾身の大声で「ただいま」を言った。
「姉上、お帰りなさ……どうしたんですか?!」
玄関に姉を迎えに来た千寿郎はゼエゼエと息を切らせて膝に手をついた姉と、
壁にぐったりともたれかかる、
兄姉と同い年くらいの見知らぬ隊士の少年とを
見比べてギョッとしていた。
は鬼気迫る形相の顔を上げると有無を言わせぬ調子で千寿郎に指示を飛ばした。
「千ちゃん、客室にお布団の用意を!
私のを使ってしまいなさい! この人道端で倒れてたのよ、ひどい熱なの!」
「す、すぐに!」
素早く応じた千寿郎に頷くと、は深々と息を吐いた。
そのまま草履を脱ぎ捨てる。
勝手に杏寿郎の寝巻きを一着拝借すると、そのまま意を決して槇寿郎の部屋に向かった。
普段は弟たちと共に、槇寿郎にあまり干渉しないよう気を付けているだが、
今ばかりは火事場の馬鹿力の延長で気が大きくなっている。お構いなしに父を呼んだ。
「お父様ァーーーッ!!!」
豪快に襖を開くと、布団に寝そべっていたかつての韋駄天の化身、
槇寿郎が何が何だか分からないといった様子でを見上げていた。
困惑しているらしいのは見て取れるがは全く取り合わなかった。
「隊士の方が道端で倒れていらしたので連れて来ましたわたくしこれから急ぎ医者を呼んで参りますのでお父様にこのようなことを頼むのは心苦しいのですが用意した寝巻きを彼に着せて寝かしておいてくださいませんか恐縮ながら怪我の有無などの確認もお願いしたいのですけれど!!!」
「なっ、おっ……?!」
一息に注文をつけてきたに槇寿郎は何か言いたそうだったものの、
はさらに言い募る。
「嫁入り前のわたくしがなんの他意もないからとはいえ!!!
見知らぬ殿方の身ぐるみを剥ぐような真似は大変にはしたないと思うので!!!
同性のお父様にお願いしたいのですが!!!
無理ならわたくしがやりますので結構です!!!
助平娘の誹りも受けます!!! 大変大変不本意ながら!!!」
「はっ!? お前、そん……!?」
混乱の極みのような顔をしていた槇寿郎だが、
が全く聞く耳を持たない上に妙なことを言い出したので諦めたらしい。
腹の底からのため息をついて、静かにこぼした。
「……早く医者を呼んで来なさい」
「ありがとうございます!!! では!!!」
この時は「勝った」と思った。
※
隊士の少年が回復してまともに喋れるようになるまでには二日かかった。
看護は主にが引き受け、時々千寿郎が手伝った。
槇寿郎は最初にに頼まれて着替えさせた以外にはほとんど何もしなかった。
医者を連れ帰ってきたに
「あれは怪我でも病気でもない。己の力量を見誤っただけの阿呆だ」と吐き捨て、
ピシャリと己の部屋の襖を閉めたあとは完全に我関せずの姿勢をとったのである。
槇寿郎の見立ては実のところ間違いでもない。
医者の話によると、少年が倒れたのは過労のせいだという。
睡眠不足と栄養不足に悪天候が祟って体を冷やしたこともあり、限界だったのだろう。
雪の中に放置していたら肺炎にまでなったかもしれない、
と医者が付け加えるように言うので、
は助けることにしてよかった、と胸を撫で下ろした。
が少年と出会った時に鎹鴉がいなかったのも雪のせいだった。
カラスは相方の調子が悪いのを悟り、すぐに隠へ連絡したのだが、
雪が深くなったせいで少年の元に隠を連れて帰れなかったらしい。
千寿郎からの連絡を受けて煉獄家を訪ねてきたカラスは、
眠る少年が無事とわかると心底安堵した様子でカラスなのに猫のように枕元で丸くなっていた。
――とにかく万事大事には至らずよかった。早いところ元気になればいいのだけれど。
は琴を前にして思う。
だがいざ弾くとなれば手元と音の良し悪しだけに集中する。
爪弾くのは千鳥の曲。波のような前奏を終え、唄の段になっては口を開く。
伸びやかに、琴と調和するよう声を張る。己の声を楽器に変える。
和歌を歌詞に据えた千鳥の曲は古典の美だ。
琴の一音一音を大事に、優雅に、名残りを残すように弾き、歌うのだ。
しかし演奏を続ける途中、は物音に気を取られ手を止めた。
少年の居る部屋の方から音がした。
が様子を見に行くと、布団から半身を起こした少年と目が合う。
どうやら手をついた時に水差しと湯呑みの入った桶を触って物音を立てたらしい。
はパッと目を輝かせて少年のそばに寄って座った。
「気がついたのね! お医者様は過労だと言っていましたけど、
雪で体を冷やしたからちょっと調子の悪いのが長引くかもと懸念してたので、
心配したのですよ。
なにしろわたくしが発見した時のあなた、雪に埋もれていたのだから……」
がやや興奮気味に言うのを少年はまじまじと眺め、
それから全く関係のないことを聞いた。
「あなたは琴を弾くのか?」
は唐突な少年の言葉に目を丸くする。
そう言えばと手元を見ると、演奏のための箏爪をつけたままだ。
「え? はい。……うるさかったかしら?」
そして今更ながらに具合の悪い人間のそばで楽器を鳴らすのはよろしくなかっただろうかとは不安になった。
しかし少年は首を横に大きく振ってみせる。
「死んだかと思った」
「?」
少年の言うことが理解できず、頭に疑問符が浮かびっぱなしのである。
少年は見かねたのか、補足するようにさらに口を開いた。
「目が覚めた時、琴の音色が聞こえて……。俺はとうとう現世から常世に来てしまったのだと」
常世――黄泉の国のことだ。
「まぁ! ほほほ! それは褒め言葉ね! ありがとう!」
少年の言葉を「天上の調べに聞こえた」と解釈したは屈託のない笑みを浮かべる。
少年はこくりと頷いた。
「世話になった。俺はもう行かねば……」
「えっ、まだ安静になさってください。病み上がりに無理は厳禁ですよ」
少年は立ち上がろうとするも、丸々二日はろくに何も口にしていない。
明らかにふらふらしているので、は袖を引いて止めた。
「しばらくは休養に努めるようにと医者から言付かっているのです。
そうそう無理はなさいませんように」
「しかし」
むすっとした顔でを見る少年に、は眉を逆立てた。
「あなた! そこへなおりなさい! お座り!」
少年はの剣幕があんまり凄まじかったからか、大人しく布団に腰を下ろす。
は己の帯に挿した扇子を閉じたまま少年の目前に突きつけて、尚も啖呵を切った。
「鬼殺隊士というのが激務であることは当然。悪鬼を屠るのは至難の技。
血反吐を吐くように鍛錬するのも必要なこと。なれど!
いたずらに体を虐めることと己を鍛えることは違います!
休めるときは休む! 気力充填、体力万全にしてこそ鬼殺を完遂できるというもの!
そんな押せば倒れそうな状態で鬼殺に出るなどもってのほかです!」
少年は唖然としてを見つめるばかりである。
はハッと我にかえって、さしでがましいことを言ったかも知れないと、
扇子を開いて口元を隠した。
「……わたくしは隊士ではありませんから、説得力がないかしら。
家の者を見ているとそういう風に働くのが理想と思うのだけど」
「身内に隊士が居るのか」
少年はに淡々と尋ねた。
の物言いに機嫌を損ねた様子でもない。は扇子を閉じて膝の上に置いた。
「ええ。父と弟が隊士なの。……申し遅れましたがわたくしは煉獄。
代々炎の呼吸の筆頭、炎柱を輩出する家の娘です」
「冨岡義勇。水の呼吸の隊士だ」
自己紹介がようやくできたと、微笑んだである。
「冨岡さん。わたくしのことはとお呼びくださいね。
お仕事で父や弟と一緒になった時に〝煉獄〟はとっておいてください」
義勇はなんだか居心地の悪そうな顔をした。
「……煉獄姉とか、娘とか」
「それだとちょっと味気ないので! 失礼ですが冨岡さんはおいくつ?」
「十四」
「あら、一つ年上だったのね。なら親しみを込めてちゃんと呼ぶのを許可します」
「勘弁してくれ」
即答である。おどけて言ったこととはいえにべもない、とは腕を組んだ。
なんとなく、義勇が暗い目をしているのが気にかかる。
頑張り屋なのは手のひらの肉刺や刀の状態などから見てとれたが、
起きた瞬間に自分の状態も把握できずにすぐ任務に出ようとするのは、
真面目を通り越して無謀ではなかろうか。
「ちなみにですけど冨岡さんを家に運んだのもわたくしです。
湯たんぽを取り替えたり濡れ手拭いを用意したのも。
着替えなどは下の弟に頼んだけれど」
の思い切り恩を着せて来る物言いに、義勇は目線を下の方に向けた。
「……手間をかけて申し訳ない」
「いいえ? でも恩人の言うことは聞くべきと思いますわよ。なので休息に努めるのです。
顔色がだいぶよくなっていますし、熱は下がったようですから、
今日は一日ゆっくり寝ていれば良いと思いますよ。
わたくしの呼び方もさん付けで許して差し上げますから。ほほほほほ!」
高笑いするを義勇はじっと眺めるばかりである。
が笑うのをやめても義勇は無言でを見ている。
独特な調子の人だな、と思いつつ、は首を傾げて尋ねた。
「冨岡さん、寝ないの?」
「目が冴えている。寝る気になれない」
「……なるほど。言われてみればあなた、
雪の日から三日は寝てるようなものですし、ふむ」
「寝過ぎても体がなまる」
ここぞとばかりに寝たくないのを全面に押し出してくる義勇である。
そんなに鍛錬、鬼殺がしたいのか、とは半ば呆れていた。
そうは言っても無理をさせてはよくないことも変わりない。
この結構頑固な少年隊士を大人しくさせる方法を考えて、はある方法を閃いた。
「冨岡さん、囲碁はできます? 将棋は?」
「できるが、」
「やりましょう。頭を使うのも、鍛錬のうちと考えれば納得がいくのでは?」
「……こじつけだろう」
「頭の鍛錬です」
その通りこじつけだったが、があんまりきっぱり言うのに折れたのか、
義勇はそれ以上、と将棋を指すのに文句を言うことはなかった。
※
部屋に駒の音が響く。何度目かの逡巡の後、義勇はに頭を下げた。
「ありません」
「ありがとうございました」
も礼を言って頭を下げる。義勇との実力は大体同じくらいである。
義勇が勝負を楽しんでいるのかどうかはよくわからないが、
の方は面白く思っていた。
「ふむ、これで十勝十敗ですか……。
この手の遊戯、実力は拮抗しているほど面白いものですね。
久方ぶりに腕が鳴るわ」
袖を捲ってぐるぐると肩を回すに、義勇が口を開く。
「弟とは指さないのか?」
「近頃はあまり」
は駒を並べ直しながら言う。
「杏寿郎――双子の弟の方と昔は多少やりましたけど、
少し歳の離れた弟もおりますからね。
自然と三人揃って楽しめるものを選ぶようになりまして。
となると、将棋とか囲碁はあまり選ばないのよ。
あれはどうしたって一対一の勝負になるでしょう。二人でやる遊びだわ。
でも、わたくしは対戦遊戯が好きよ。だって、」
――誰とでも全く対等な条件で勝負ができるから。
そう、口にしかけてはやめた。うかがった義勇の顔は全くの無表情に見える。
「……わたくし喋りすぎかしら? うるさい?」
「聞いたのは俺だ」
義勇はの目を見て聞いた。
「あなたは、弟が好きなのだな」
「ええ! もちろんです!」
「そうか」
即答したに、義勇は淡々と頷くばかりである。
はどうしてか「もしかしたら冨岡さんにもお姉さんがいるのかしら」と思った。
※
義勇はと将棋を指した翌日に煉獄邸を後にすることになった。
「見送りはいらない、早朝に発つ」と譲らなかったので、
だけが見送りに出ることにした。
「見送りはいらないと言ったのに」
「そういう訳にも行かないでしょう。黙って出て行かないだけ、義理堅い方だと思えばいいのかしら?
冨岡さん、そういうことを平気でやりそう」
「……流石にそこまでのことはしない」
義勇はどうも、自分を気にかけないで欲しいようだ。
しかしにしてみれば、放って置けるなら最初から助けたりしない。
見送りもするし最後まで面倒を見るのが筋であると思っているので、義勇の要望は割とはねのけていた。
「あなたには、たまの息抜きも必要だと思いますよ。
鬼殺は難しいお仕事です。気を抜くのが恐ろしい気持ちもわかりますけれど、
それで疲れて雪の中眠って死んでしまっては、あなただってやりきれないでしょう」
「同じことを身内にも言うか」
義勇の声には厳しいものがあった。
は目を丸くするも、唇を引き結んで、真面目に頷く。
「……そうね」
義勇は黙って聞いている。
太陽が義勇の背の方から昇って、どのような顔をしているかはわからない。
「父や弟が、死と隣あわせの仕事をしているのは心配です。
わたくしも同じように戦いの最前線に立って、守ってあげられるならどれほど良いか。
彼らを引き止められたらどれほど安心するだろうと思います。
……でも、それはわたくしのわがままですから」
は笑顔を作った。
七つの頃に母と、杏寿郎とも約束したことがある。
自分は隊士にならず、芸道に身を捧ぐこと。
それを家族にも応援してもらいたいと思ったこと。
そして自分も同じように家族の選んだ生き方を見守って、支えたいと思っていること。
「隊士であることが父や弟にとって誇らしいと思える生き方ならば、
胸を張って生きていける道ならば、応援してあげたい。
それが筋であるように思うのです。望むように生きていてほしいから」
は口元をてのひらで隠して、カラカラ笑った。
「なので『あなた、終始張り詰めていると
鬼殺と関係ないところでパンッと破裂して死にますよ』とは
身内にも言うでしょうね。ほほほほほ!」
「そうか」
吐息をこぼすように、義勇は呟いた。
は逆光になって表情のうかがえない義勇を見て腕を組む。
「でも冨岡さんは息抜きが苦手そうね……。あっ、そうだ! ちょっとお待ち!」
はサッと自室まで戻り、便箋に棋譜をスラスラと書き連ねると
走って義勇の胸に叩きつけた。
「わたくしと文通将棋をいたしましょう!
月に一度一手指して送り返してちょうだい。
将棋なら頭の鍛錬ということで罪悪感も薄い! 名案!」
義勇は目を白黒させながら便箋を受け取ると、に言った。
「こじつけだろう」
「誰がなんと言おうと頭の鍛錬です!」
腰に手を当てて自信満々のに、義勇は懐に便箋を仕舞い込んで頷く。
「……わかった」
「約束ですよ。くれぐれも御身、お大事に!」
義勇を大手を振って見送った、その日の夕方からは高熱を出した。
義勇から思い切り風邪を移されていたのである。