たとえ道を分かつとも
「どうしてだ……?」
呆然と呟く杏寿郎に、は平然とした様子で答える。
「お母様に勧められて、芸事を習うことにしました。
そちらに尽力するので、剣術は辞めます」
杏寿郎にとっては信じられない答えだった。
「どうしてだ?! 今だってほとんど互角だった!
二人で剣士として父上のように人を守ろうと、
……父上を助けようと言っていただろう!」
物心のついた頃から一緒に鍛錬するのが当たり前だった。
の鬼殺隊士になりたいという思いは自分と同じように強かったはずだと、
問いただす杏寿郎に、は眉をハの字に顰めて静かに言う。
「“わたくし”が女だからです」
「女の隊士だって、柱だって居るだろうと、が言ったんじゃないか!」
「“わたくし”が、“煉獄”の娘だからです」
“煉獄”と家の名を強めて言ったに、杏寿郎は虚をつかれた。
物言いは静かだが、その言い草に確かに苛立ちと怒りを感じて、驚いたのだ。
は口をつぐんだ杏寿郎を見て、半身を起こした状態から居住まいを正した。
正座して杏寿郎に向き直る。
「煉獄家は古くから続く鬼殺隊士の家系。
脈々と炎の呼吸を受け継いできた。……その血と技を絶やさないために」
は何かに耐えるように、固く目を瞑った。
「煉獄家に生まれた女の子は、わたしは、お父様や杏寿郎が志半ばで斃れた時のために、
適当な男と結婚して男の子を産み、伝わる技を教えなければならない」
杏寿郎は言葉を失う。と同時に、の様子がおかしかった理由がようやくわかった。
おそらく、父か母にこのことを告げられたのだろう。
ーー自らの手で家族を守りたいと願っていたに期待されたのは、
その家族が居なくなった時の保険としての役目だった。
にとっては、きっと耐え難いことだったに違いない。
「隊士として一番力がつく二十歳くらいには、子どもを産まなきゃいけないから、
わたしは隊士にはなれない」
それまで努めて作っていた平坦な表情が、杏寿郎と目があった途端に崩れ去った。
みるみるうちにの目に涙が浮かぶ。
「……じゃあ、わたしが男の子を産めなかったら、わたしは、役立たずになるの?」
「、なんてことを言うんだ」
そんなことはないと首を横に振った杏寿郎の言葉など、の耳に入っていただろうか。
「赤ん坊は天からの授かりものだってお母様は言ってた。
健康な子がいいとか、男の子がいいとか、そういうのは全部神様が采配するから、
親の思い通りになることはないって。
……そうよね。全部が全部親に望まれた通り、思い通りになるなら、
苦しい思いをする子供も親もこの世に一人もいなくて済む……」
の固く握った拳が正座した膝の上で白くなる。
「なのに、なんで自分でどうにもならないことで、
わたしが役に立てるか、立てないかが決まるのよ」
頬を伝う涙が煮えそうなほどの怒りがその顔に浮かぶ。
「納得できるわけないじゃない」
杏寿郎の思った通りの心情をはポツポツとこぼした。
「わたしが剣術を習ったのはこの手で人を助けるため。家族を守るため。
なのにもしもの時の保険としてのお役目しかもらえないなんて、承服できない。
わたしは身命を賭して戦っているお父様の力になりたい。助けたい。
そういう気持ちはそんなに許されないことなの?」
おそらく答えは求めていない。どうしようもないことだとわかっている。
けれど問いかけずにはいられなかったは、俯いて声を震わせた。
「杏寿郎とわたしの、志は同じなのに、なぜ? わたしが……」
最後まで言い切らずに、固く目を瞑ると、同じように固い声で告げた。
「こんな心持ちのままで、刀を振ってはいけないと思う」
杏寿郎は先ほど交わしたの剣を思い返していた。
容赦の無い一振り、荒れ狂うような太刀筋。
使い手の志が技に出ると言うが、まさしくの剣術には、
理不尽なしきたりへの怒りと憎悪が乗っていたのだろう。
そして自身が、それを良しとしないと決めたのだ。
「……だから、剣術をやめるのか?」
杏寿郎の問いかけに、は頷く。
「そうよ。そうじゃないと、わたしは、
剣術に恋々としがみついてしまうかもしれない。そんなのはダメ」
傍に置いた折れた竹刀に目をやって、はフッと口角をあげた。
「わたしは炎の呼吸が好き」
震えてはいても確かに嘘ではないとわかる言葉だった。
「刀を振るっている時に、きっと前代、前々代の炎柱やご先祖様たちが、
わたしと同じように鍛錬して、人を守るために、
強くなっていったのだろうと思えたから。守るための剣だから」
杏寿郎の目を見て、は泣きながら気丈に言った。
「わたしはそういう家に生まれたことが誇らしい」
かける言葉を無くしたままの杏寿郎に、は俯いて続ける。
「……嫌いになりたくない。憎むのはもっと嫌。
でも……このままではそれもかなわないと思う。
わたしには憎まずにいられる自信がないの」
ぽたぽたと、あごから雫が滴って手の甲に落ちた。
「だから、一番の夢を諦める代わりに……
“わたくし”は鬼殺隊士にならない代わりに、芸事で身を立てるのよ」
それがの選んだ精一杯の、自分が前向きでいられる選択だったのだろう。
は顔を上げた。
まるで自分で決めたことにしか価値がないと言うように、
剣士でいることを振り払うようにきっぱりと言う。
「わたしはわたしのやり方で、煉獄の家を伝えて繋ぐ、
“わたくし”がここに居たのだと名を残します。
望まれたやり方ではないのだと思うけど、わたしが決めたのよ。
“わたくし”が決めたことなの」
けれど、杏寿郎の顔を見ると、顔をくしゃりと歪めて頭を下げた。
「だけどちょっと……悔しかったから、杏寿郎に八つ当たりしちゃった。
わけがわからなかったと思う。本当にごめん……ごめんね……」
真夜中の果し合いの発端を打ち明けて、が泣いている。
は煉獄家に生まれた娘として炎の呼吸を習い続け
『もしもの時に備える』ことを拒んだ。
拒んで断固として剣の道、鬼殺の道から離れようとした。
しかし、そうと決めたはずのの心には燻るものがあったのだろう。
双子の弟は変わらず鬼殺の道を歩むのに、自分は一番の夢を諦めなくてはならない。
不公平だと思う気持ちがあった。理不尽だと憤る気持ちがあった。
それでもは家が好きだ。家族が好きだ。炎の呼吸が大好きなのだ。
だからは杏寿郎と竹刀を交えた。混じり気のない真剣勝負を挑んだ。
そうしなければ自分の気持ちと折り合いがつけられないと思ったからだ。
杏寿郎は泣き通しで謝るに固く目を瞑ると、
やがてピシャリと言い放った。
「本当だぞ! びっくりしたし悲しかった!! とんでもなく腹も立った!!!」
正直に打ち明けた杏寿郎である。
は肩をびくりと震わせて杏寿郎をそろそろと見上げる。
「だけど、この勝負をしなかったら、
がずっと悩んだり苦しんだりしたかもしれない! そんなのは嫌だ!」
杏寿郎は胸を張って鷹揚に言った。
「なら俺は! の気の済むまで受けて立つ!
納得いくまで胸を貸す! 納得いったならそれでよし!
万々歳でおしまいだ! そのことで四の五の言ったりはしない!」
すっぱりとのわがままを受け入れた杏寿郎に、はぱちくりと目を瞬くと、
不思議そうに首をかしげる。
「……何も言わずに思い切り打ちのめそうとしたのに許してくれるの?」
「真剣勝負がしたかったのなら致し方ない!!」
自分だってそうしただろうし、と杏寿郎はなおも続けた。
「が悩んでる理由を知って勝負に応じたなら、俺は本気が出せたかわからん!
でも、はそれじゃ納得出来なかったと思う!
俺だって嫌だ! 真面目にやっているのに手を抜かれるのは辛い!
相手が自分を慮ってくれるなら、なおさらに辛い!!」
そこまで快活に自分の気持ちを言葉にしていた杏寿郎だが、そこでをジッと見つめた。
「が言えなかった理由がわかる。
だから、こうしてちゃんとわけを話してくれて嬉しい」
ニコニコ笑っての顔を眺める杏寿郎には完全に毒気が抜けたようで、
止まってきた涙を指先で拭って、深々とため息を吐いた。
「ごめん……実は正直すっきりしたの。
負けたらなんか……しょうがないかって気になれたから」
口元に苦い笑みを浮かべたに、杏寿郎は意を決して頷く。
「わかった」
やけに重々しく肯定した杏寿郎に、はどうしたのかと頭に疑問符を浮かべた。
その疑問を打ち払うように杏寿郎は姉の目を見て宣言した。
「俺がの分まで頑張って、柱になる!」
が、は間髪入れずに首を横に振った。
「それはダメ。そんな風に思うのは許さない」
「な、なぜだ?!」
てっきり応援してもらえるものと思って高らかに宣言した出鼻を挫かれて、
杏寿郎はジト目のに問い返した。
「だって杏寿郎は杏寿郎の隊士になりたい理由がちゃんとあるでしょう?
それで充分よ。
わたしの分までなんて思うことはありません!」
はスパッと言い放つと、不意に眉をハの字に緩めて、
今夜初めて柔らかく笑った。
「杏寿郎はただでさえ、なんでも気負いがちなんだから」
深く傷ついていたに心を砕かれたのがわかって、杏寿郎は口を噤む。
は眉根を寄せる杏寿郎の前に手を差し出した。
「わたしは剣術を辞めるけど、頑張ることを止めたりはしない。
歩む道は違っても、誰にも恥じないわたしになる。きっとみんなを支えて見せるから」
の目がきらきらと輝く。
松明のように、憎悪ではなく希望に燃えているのがわかる。
「一緒に、頑張ろうよ」
杏寿郎は、唇を引き結んだ後、差し出された手をしっかりと握った。
「もちろんだ!」
これが杏寿郎との大喧嘩の顛末である。
その日の姉弟喧嘩はすぐに両親の知るところになり、
は剣術の稽古に一切顔を出さなくなった。
代わりに母に連れられて踊りや琴、三味線の稽古に出かけるようになり、
杏寿郎と過ごす時間も随分減った。
それでも稽古の休憩時に聞こえるの琴の音であったり、
障子に映る影が踊っているのを見ると、
は約束通りに頑張っているのだと、杏寿郎にはわかるのだった。
※
杏寿郎が初めての踊りの発表会に行ったのは、
真夜中の果し合いからしばらく経ってのことだった。
その頃にはが家で披露する踊りも、幾分手慣れて様になっており、
見苦しくギクシャクした動きになることはない。
とはいえ舞台に立つのだ。
大勢の人の前で踊るのは緊張するだろうし恐ろしいだろうと杏寿郎はハラハラしていた。
実際、会場には真剣勝負をする道場とはまた別の、
ピリッとした空気が満ち満ちているように感じられたので、
杏寿郎はの出番が来る前から固唾を呑んで、水もろくに飲まず、
そもそも家を出るときから飯も喉を通らずにいた。
見かねた母には「あなたが緊張してどうするのですか」と
呆れられているが、仕方がないと思う。
しかし、そんな緊張はが舞台に上がると吹き飛んでしまった。
演目は長唄 関の小万。
子供が手習に踊る、基本の曲目だとは言っていた。
関の小万は亀山通ひ 色を含むや冬ごもり
初春の祝いにて ぬふちょう袖の花笠…
この長唄に登場する関宿の小万というのは、亡き母の遺志を継ぎ、
女でありながら十八歳で父の仇討ちを見事に果たしたのだという。
『だけど唄には小万の仇討ちの物語を象徴するような歌詞はないし、あんまり関係ないのよ。
踊りの基本の動きや可愛らしい動作、唄の流れを楽しんでもらうものだと思うわ』
が舞台に立って、可憐な少女然として踊る姿には
一本の筋のようなものが通っているように見えた。
まるで端正に作られた人形が滑らかに笠を回し、
舞台の上で形よく手足を定め、踊りまわっているようなのだ。
この、可愛らしく見える動きが、本当は仇討ちを成した小万に負けずとも劣らぬ、
張り詰めた覚悟のもとで形作ったものだと知るからこそ、
杏寿郎には感じ入るところがあった。
『むぅ、仇討ちを成し遂げた方の踊りも見てみたかったな!』
『ほほほ、まぁ、舞台をご覧なさいよ』
普段のおてんば、男勝りな素振りなど微塵も感じさせない、
自然体ではなし得ない、人の手で形作って整えた踊りはどこか悲しく、
同時に有無を言わせぬほど見事だったからだ。
花笠を手には見事に踊りきった後、万雷の拍手を舞台の上で浴びて、
舞台袖に引っ込んだ。
杏寿郎はもういても立っても居られずに、傍の母を見上げる。
母は杏寿郎の気持ちを汲んだらしく、
杏寿郎が出番を終えたの元へ駆け出すのを止めはしなかった。
「天晴れだ!!!」
杏寿郎がの背を見つけ開口一番言い放った言葉に、
楽屋に向かう途中だったが振り返る。
「え? 杏寿郎? どうしたの? お母様は?」
「本当にいい舞台だったと伝えたくて先に来た!!!」
「ぅわ、ちょっと、大声……!」
が周りを気にしてキョロキョロと視線を彷徨わすのも関係なく、
杏寿郎は今にも飛び跳ねそうな勢いでの肩を掴んで褒める。
「見事だった!!! 普段の百倍可愛くておしとやかできれいだった!!!」
「杏寿郎?」
の口角がやや引き攣ったが、杏寿郎の目には全く入っておらず、
なお、興奮気味に続ける。
「舞台の上のは全然違う人のようだった!!!」
「杏寿郎」
いまやの声色は低く、目は据わっていたが、これまた杏寿郎は気づかず
「はすごい!!!」と、万感の賛辞を送ったところで、
の手のひらが勢いよく杏寿郎の頬を挟んだ。
「ぎゅ……!?」
の薄く化粧した顔がにこやかに微笑む。
ただしこめかみにうっすら青筋が浮かんでいることを、
三度めの正直で杏寿郎は見逃さなかったが、全くの手遅れである。
「杏寿郎、褒めてくれてありがとう。
それはそれとして『普段の百倍』は余計な一言だとお姉さまは思うわけですよ。
わたくしはいつでも可愛くておしとやかできれいですけど何か?」
「普段からおしとやかな人はこんな風に頰をつねったりしないとおも、」
「杏ちゃん?」
「俺の一言が余計だった! すまん!」
頰を圧迫された挙句に気圧されたので素直に謝ると
「わかれば良いのよ、わかれば」と頷きながらは手を離した。
そうしているとやはり、舞台の上のちょこちょこ動くとはやはり違って見えて、
杏寿郎は付け加えるように言う。
「なんだか、俺まで頑張らねばいけないと思ったぞ!」
「あら、当然よ」
はニッと微笑んだ。
「だって一緒に頑張ろうという、約束じゃないの」
小指を立てて見せる姉を見て、杏寿郎もまた微笑み返した。
たとえ道が分かれても、この姉ならば大丈夫だと確信していたからである。
※
子供が大人になるほどの年月が経ってなお鮮やかに、杏寿郎は姉の初舞台の日を覚えている。
何年振りかに思い出を振り返っていたのは杏寿郎と姉とがそれぞれに、
思う夢、思う将来の在り方を実現し始める年頃になったかもしれない、
と杏寿郎は感慨を覚えていた。
そうこうしているうちに生家の門構えが見えてくる。
秋の花束を抱え直して、杏寿郎は朗々と家の戸を開けた。
「ただいま帰った!」
「お帰りなさい」
千寿郎とが揃って杏寿郎を出迎える。
の方は杏寿郎の抱えた花束を見て目を丸くしていた。
「遅くなったが師範に昇進おめでとう!」
寿いで手渡すとは嬉しそうに頰を緩める。
「嬉しいわ。ずいぶん立派な花束ねぇ」
姉の機嫌が良いのにつられて千寿郎も微笑んだ。
「良かったですね、姉上」
「好きに活けてくれ!」
「ええ、腕が鳴るわ!」
が杏寿郎に勝気に返したかと思うと、はた、と何かに気づいたらしい。
花束と杏寿郎とを見比べて首を傾げた。
「あなた、これ持ったまま花屋から帰ったの?」
「うん? そうしないと渡せないだろう」
「……ふふ、藤娘の男版かしら。目立ったんじゃない?」
に日本舞踊、藤の花を担いで踊る演目と並べられて、
杏寿郎はそういえば人目を引いていたのかもしれないと気がついた。
何しろ両手に抱えるほどの大きな花束を抱えて往来を歩いていたからだ。
しかし。
「いやはや何も気にしていなかった!」
快活に言い放った杏寿郎には珍しく「あはは!」と気取らず笑って
「あなたが花を背負っても案外様になるものね、ありがとう」と
花束を慈しむように抱え直した。
その様を目を細めて見守る杏寿郎に、千寿郎が声を掛ける。
「今日は炎柱昇進のお祝いにと、姉上が腕を振るってくださったのでご馳走ですよ」
「千寿郎と頑張りました!」
が千寿郎に目を配らせて言うので、杏寿郎は履物を急いで脱いだ。
「それは楽しみだ!」
これは、杏寿郎が柱に昇進してすぐのこと。
が踊りの師範になって大舞台を終えた後のこと。
幼い頃の約束が、一度も破られたことはなかった、その日のことである。