千寿郎と刺繍
煉獄千寿郎はを初めて見た時、
『刀なんて持ちそうもない見目の女の人が来た』と思った。
挨拶をしてもはたおやかに受け答えをするので、
隊服を脱いでしまえば鬼殺隊の隊員だとは誰もわからなかったと思う。
だが、はどうも、とんでもない人物らしい。
が煉獄家に来て間もない時、
槇寿郎が珍しく稽古を眺めているところに出くわしたことがある。
槇寿郎は酒瓶を煽るのも忘れて杏寿郎との打ち合いを見ていた。
千寿郎がいるのにも気づかぬまま、半ば呆然としていたので、恐る恐る声をかけた。
「あのう、父上?」
千寿郎の声に、槇寿郎が眉を顰めた。
「なんだ、あの女は」
「兄上の継子候補の方ですよ。挨拶にみえたと思いますが、」
「違う、そうじゃない。技のことごとくが殺人技法だ。杏寿郎は気づいておらんのか」
いつになく険しい顔で槇寿郎はブツブツと呟いて、
最後には「不愉快だ」と吐き捨てるようにしてその場を去った。
千寿郎がと杏寿郎の打ち合いを見ても、
それがどう言う種類の技を用いているのかはわからない。
ただ。
木刀と竹製の薙刀を合わせる杏寿郎の顔は生き生きとしていた。
それまでは一人で剣を振るっていた杏寿郎にとって、
継子になるかならないかはともかく、
“まともな”弟子ができることは、喜ばしいことなのだろう。
千寿郎は眩しいものでも見るように二人の稽古を眺めて、
まるで逃げるようにその場を後にした。
※
千寿郎がの本性を見たのは、が杏寿郎と共に任務に当たった帰りのことだった。
杏寿郎は迎えに出て来た千寿郎に厳しい表情で、すぐに風呂を沸かすように言った。
後ろを見ると、全身余すところなく血みどろのが、にこにこと微笑んでいた。
「は、え? さん?! け、怪我をなさったんですか!?」
異様な風体に驚いたあまり、素っ頓狂な声を出した千寿郎に、
は声をあげて笑い出す。
「うふふふふ! 違いますよぉ、これは全部返り血です」
どういうわけか、心底楽しそうだった。
朝日の反射か、黒い瞳に金色の光が揺らめいている気がした。
ぞっとして怖気づきそうな千寿郎を我に返らせたのは、
他ならぬ杏寿郎だった。
肩を掴まれて、千寿郎は顔を上げる。
「千寿郎、頼む」
「は、はい、すぐに……!」
パタパタと走りながら、鼓動が早鐘を打っていることには気がついていた。
支度を終えてが風呂へと向かうのを見送ると、杏寿郎に声をかけられた。
「驚かせてすまなかった」
杏寿郎もどこか動揺しているようだったが、
落ち着いた様子でことの次第を、おそらくぼかしながらだろうが、千寿郎に伝え始める。
――つまるところ、と言う人は、
“何か”を傷つけたり苦しめたりすることが好きらしい。
その“何か”と言うのは今のところ“鬼”ではあるが、
“人”でも別に構わないかもしれないと杏寿郎が言うので、恐ろしかった。
「もしかすると今後もああいう有様になって帰ってくることがままあると思う。
その時は今日のような対応を頼む」
血の気が引いたまま、千寿郎はこくりと頷いた。
杏寿郎はそれを見て笑顔で応える。
「君は今のところ、鬼を苦しめることに執着している様子だから、
千寿郎や父上に危害を加えることはないと思う!
が、念のためだ。あまり彼女を刺激しないようにしてくれ。父上には俺から伝える」
そういうことがあったし、事実は何度も血まみれで帰ってくるので、
千寿郎はにまともに声をかけるのが怖かった。
普段は愛想が良く優しげな女性で、頃合いを見計らってお菓子なんかを差し入れてくれるのだが、
あの血まみれの笑顔を思い出すとどうにも体が強張ってしまうのである。
だから、宛に手紙が届いたのを見つけた時、
が部屋に居なければいいのにと思った。文机の上に置いておけば見てくれるだろうと。
しかし生憎と、は非番で、一日中家にいることを知っていた。
「――さん、お父様からお手紙が届いていますよ」
声をかけるのにどれだけ時間がかかっただろうか。
どきどきと嫌に緊張しているのを自覚しながら返事を待っていると、
が笑顔で襖を開けた。
「ありがとうございます。千寿郎くん」
「いえ、……?」
千寿郎は早く立ち去りたいと挨拶もそこそこに踵を返そうとしたが、
パッと襖の向こうから艶やかな色彩が飛び込んで来て、思わず目を見張った。
「それは……?」
は振り返って、千寿郎が何に目を留めたのか察したらしい。
「帯です。母が図面を引いて途中までにしていた続きを、私が刺繍しているんですよ。
気になるなら、近くへどうぞ」
「ぅ、し、失礼します」
促されてその場を離れられる雰囲気ではなくなった。
おっかなびっくりの後に続いたが、
肝心の帯を見ると、抱いていた恐怖は吹き飛んでしまった。
「わぁ……!」
絢爛豪華な代物だった。赤地に金糸で毬や大輪の牡丹が途中まで刺されている。
「女の人の着物のことはよくわからないけれど、すごいですね」
感心した様子の千寿郎に、はどこか得意そうに胸を張った。
「切ったり縫ったりには覚えがありますよ。これでも医者の娘ですからね」
「刺繍と医術は全然違う分野だと思うんですが……」
思わず突っ込んだ千寿郎に、は首を捻っている。
「そうかしら? そう言われればそうかもです」
はにこやかに笑い、ひと針ひと針、帯を刺していく。
そうしていると、恐ろしい性質の人間とは思えず、
以前見た血まみれの笑顔が嘘のようである。
「僕はあなたを、少し怖い人だと思っていました」
だからポツリと、そう零してしまった。
千寿郎は失言に気づいて、サァっと血の気が引いていくのが自分でもわかった。
しかし、口からこぼれた言葉は戻ってはくれない。
「うふふ。千寿郎くんは勘がいいんですねぇ、そうですよ。私は怖い人です」
だが、は面白そうに笑ったきり、怒ったり怒鳴ったりはしなかった。
それどころか、その手は淀みなく針を刺し続けている。
みるみるうちに金色の鞠の外枠が出来上がってしまった。
魔法のようだと思った。じっとその様を眺めていた千寿郎に、
は刺繍しながら問いかける。
「私が刺繍をしているのを見るのが、そんなに面白いですか?」
「……そうですね」
素直に答えた千寿郎に、は顔を上げた。
「やってみます?」
「えぇ?!」
驚いて目を丸くすると、はニコニコと笑みを深める。
「この帯は最後まで私がやりたいので他のやつで。
まずは簡単に、手ぬぐいや袴なんかに自分の名前を入れてもいいですよ」
「え、ええと」
突然の誘いに戸惑う千寿郎だが、はおかまいなしに図案を提案し始めた。
「悪鬼滅殺、とかでもいいんじゃないですか。
お兄さんの手ぬぐいに刺してあげたら。きっと喜びます」
確かに杏寿郎ならばどんな文字でも図案でも喜んでくれるだろう、だが。
「……軟弱だとは思われないでしょうか。
鍛錬の一つもしないで、と、怒らないでしょうか」
千寿郎は不安だった。自信がなかった。
軟弱だと思うのも、鍛錬をせずに他のことに現を抜かすことが後ろめたいのも自分自身だ。
はそれを見透かすように、首を傾げて見せる。
「お兄さんは、あなたが気持ちを篭めてこしらえたものを罵るような人ですか?」
弾かれたように、千寿郎は首を横に振った。
「いいえ!」
「なら大丈夫でしょう。もちろん、嫌ならいいですけど」
は話を振っておきながら、千寿郎が刺繍をしようがしまいが、
本当にどうでも良さそうだった。
それになんとなく面白くない気持ちになって、そもそも、とに尋ねる。
「なんで急に、そんなことを?」
「そうですねぇ、千寿郎くんがこんを詰めて剣を頑張っているので、
気晴らしになればいいな、と思ったのが一つと、
あなたのお兄さんの心を支えるものが、一つでも増えればいいと思ったので」
の言葉は、千寿郎にとっては意外なものだった。
「あなたのお兄さんねぇ、すごく強いじゃないですか。それで面倒見がいいでしょう。
鬼殺隊の柱として沢山の人を守って、とてもとてもご立派ですけど」
針を見つめる目が、ほんの少し眇められたように見える。
「煉獄さん、ずっと守ってばかりだから」
その言い分には、痛いほど覚えがあった。
杏寿郎が血の滲むような努力をして柱になったことも、
長い歴史を誇る炎の呼吸の継承者、炎柱として恥じぬよう振る舞っていることも知っている。
だからこそ辛いことがある。
「僕は、私が柱の控えになれないばかりに、」
千寿郎は炎柱の継子として、炎の呼吸の継承を途絶えさせないために、控えとして
剣を振るうようにならなくてはいけないが、
千寿郎が手に取った色変わりの刀に、全く変化は生まれない。
才能がないことは自分が一番よくわかっている。
それでも前を向かなくてはいけないことも。
だが、兄に何をしてやれるのかがわからなかった。
だから闇雲に剣を振り続けるのだ。の言う通り、根を詰めても。
俯いた千寿郎に、は慰めにもならない言葉をかけた。
「まぁ人間、向き不向きがありますからね」
「……」
千寿郎は歯痒さに奥歯を噛んだ。
という人が、誰かを傷つけたり苦しめることを好む危険人物であっても
杏寿郎が面倒を見ているのは、鬼殺においてが才能の塊のような人だからだと聞いている。
炎の呼吸の本流こそ上手く扱えないようだが、
それでもいくつかの呼吸と薙刀術を組み合わせて
新しい型を作ることができるような、力に恵まれた人だった。
「さんが羨ましい。兄と一緒に戦えるあなたが」
千寿郎の呻くような声に、は一度針の手を止めた。
「うふふ、千寿郎くん。それはね、無い物ねだりですよ。
私もあなたが羨ましいもの」
「え?」
だが、すぐにまた視線は手元へと戻る。
首をかしげた千寿郎に、は淡々と言葉を紡いだ。
「私は父から『気持ちの優しい良い子に、健康に育ってくれればそれでいい』と言われて
育ちましたが、私が優しい良い子になれたことというのは、たった一度もないのです」
指ぬきをつけた指が、行ったり来たりを続けている。
「あなたのように、兄のために、父のために、お家のためにと、散々もがいて、得意でもない剣を振って、
血まみれの私を見て真っ先に怪我を心配したり、私が怖いのに気遣って手紙を早く届けてくれる。
そういう、優しい良い子になりたかった」
「……」
千寿郎は、口を噤んだ。
自分をたった一度も優しかったことなどないと嘯くは否定するだろうが、
の言葉はどこまでも優しかった。少なくとも、千寿郎はそう思った。
「大事な人の期待に、どうしようもなく応えられないのは、辛くて苦しいことですよね。
よく、存じ上げていますよ」
その時ばかりは人の気持ちに、寄り添うような言葉だったから。
だが、の顔には貼り付けたような笑みが浮かんでいる。
まるで面を被っているようだった。
本心というものが全く伺えない顔だった。揺らがなかった。
悲しそうにも嬉しそうにも見えなかった。
裏腹にの手の中で魔法のように、牡丹の花が咲いていく。
花びらが重なり、葉をつけて、帯の中に命が茂ってゆくようだった。
千寿郎は意を決したように、名前を呼んだ。
「さん」
「はい、なんでしょう」
呼び方が変化したことに気づいているのかいないのか、
は特に驚いた様子もなく答える。
「刺繍は、私でも出来るでしょうか?」
「ええ。多分。よほど不器用じゃなければ」
のらりくらりとした返事をされたが、千寿郎はさらに続けた。
「さん」
「はいはい」
「やり方を、教えてくださいますか?」
ピタ、と帯の中に花を咲かす手が止まった。
目を丸くしたは、しげしげと千寿郎に顔を向ける。
「あなた案外、度胸があるんですねぇ」
「……煉獄杏寿郎の、弟ですので」
「あはははは!」
カラカラ笑うと、は頷いてみせる。
「良いですよ、もちろんですとも」
頷いて微笑んだ顔は心なしか生き生きと嬉しそうに見えたのだが、
実のところ、錯覚だったのか本当に心からの笑みだったのかはわからなかった。
何しろと言う人は、いつでも微笑んでいる人だったので。