地獄変・泥眼

蝶結びの縁・煉獄家の人々

槇寿郎と逆鱗 下

「すまなかった!」
「何に謝っていらっしゃるんです?」

杏寿郎の謝罪に、は夕飯の準備に取り掛かりながら答える。
その顔はいつになく穏やかで凪いでいた。

「父が、君にうるさく言うのを止められず……!」

「あはは! 煉獄さんが謝ることじゃないです。止めるのは無理でしょう。
 私も父の過保護を何度たしなめてもダメですもの。
 父親というのはみんなそんなものです。
 きっと我々をまだまだ10やそこらの子どもだと思ってるんでしょうよ」

は朗らかに笑い飛ばし、振り向いたかと思うとバツの悪そうに頰をかいた。

「私の方こそ、申し訳ありません。
 どうも、昔のことを思い出してしまって、ちょっと怒ってしまいました。
 折を見て、大師範には頭を下げておきます」

杏寿郎はに頷き、嘆息した。

「……昔はあのような人ではなかったのだがなぁ」

は杏寿郎の話を黙って聞いている。

「俺と千寿郎に熱心に稽古をつけてくれていた!
 教え方もわかりやすくて上手でな!
 実は君への指導の仕方はその頃の父を参考にしている! だが――」

思い返すのはかつて、熱心に息子たちに型を指導してくれていた時の槇寿郎だ。
杏寿郎が未だに目標とするのは、その時の父の、自信に満ち溢れた姿なのだ。

だがそれも、今は見る影も無い。

「いつからだろうな、突然、あのようになってしまわれた」
「……へえ」

の声は、その時随分低く聞こえた。
だが、口角を上げて首をかしげる姿は、普段と変わらない、
いつも通りの面を被ったような顔である。

「酒浸りは昨日今日の話ではないとは思っていましたが、
 ずいぶん前からなのですね。
 よく指導を受けられましたねぇ、柱になるまで大変だったのでは?」

「どうだろうか、そうでもないと思うが」

杏寿郎は当たり障りのない言葉を選んだ。
に自分がどのような苦労をしたかなど、語る気はさらさらなかったからだ。

「煉獄さん、いま、嘘をつきましたね」

しかしは驚くほど静かな声で、淡々と断じてみせる。

「指導なんて受けておられないのでしょう?」

は全く誤魔化されてくれる様子がない。
杏寿郎は逡巡のあと、深く息を零した。

「全く、君には敵わん!」

「――煉獄さんは、」

はぷつりと、言葉を切った。

そこにあったのは表情の抜け落ちた、人形のような顔である。

そうして黙っているとはどこか近寄りがたい雰囲気の持ち主であると、
改めて気づかされたような気がした。

ただ、それも瞬きほどの間のことで、もうの唇にはいつもの薄笑いが浮かんでいる。

「嘘を言う時、ちょっとした癖があるのですね」
「えっ」

杏寿郎は思っても見ないことを言われて動揺している。
は何度か納得したように頷いてニマニマ笑い出した。

「良いことを知りました」

「おい、君! どのような癖なのだ?! 初めて言われたぞ!
 自分では見当がつかないのだが!」

は真面目くさった顔を作って、首を横に振る。

「教えません」
君!」

それから夕飯の準備が遅れるからと台所を追い出された杏寿郎は、
の言う“癖”が本当のことなのか、
それとも場を和ませるための虚言なのか、結局わからぬままだった。



昼過ぎのことである。
炎柱の手記を槇寿郎が寝そべりながら読んでいると、
襖が音を立てて開いた。

ぎょっとして振り返ると、袴姿のがたすき掛けをして立っている。
槇寿郎と目があったはわざとらしく口元に手を当てて驚いてみせた。

「え〜、また昼過ぎまで寝てるんですか〜? ダメ人間の始まりですよ〜?」 
「うるさい! なんなんだお前は!」

煽るような言葉に怒鳴りつけると、は丁寧に頭を下げる。

です。よしなに」
「……」

槇寿郎は呆れて言葉もない、と言う顔をした。

のこういうのらりくらりとした態度を、
怒鳴り付けようが叱ろうが無駄だと言うことをすでに槇寿郎は嫌と言うほど知っている。

黙って布団から起き上がりがテキパキとそれを畳み始めるのを睨んだ。

「しゃんとしてくださいな。人間らしい生活をしてると、
 そこそこ中身も付いてくる気がしますから」

酒を水割りに変えるのもそうだが、の槇寿郎に対する態度には
妙な、心配のようなものも伺えて、槇寿郎は落ち着かない気分になった。
これが単に年長者を小馬鹿にする若者そのものの態度ならば、もう少し追い出しようがあると言うのに。

「ああ、そうだ、失礼しますね」

は畳んだ布団を傍に寄せると、正座で槇寿郎に向き直り、深々と頭を下げた。

「先日は大師範に失礼を申しまして、大変申し訳ございませんでした」

それが先日の稽古の後の問答のことだとすぐに察した。
槇寿郎は険しい顔つきで、から目をそらしながらも応えた。

「……構わん。こちらにも非がある」

はキョトン、と目を丸くすると手を合わせて首をかしげた。

「――あらぁ、珍しい。びっくりしました。非を認められるとは思いませんで」

「減らず口を叩くならすぐに出ていけ馬鹿者!」

口ばかりが達者なを怒鳴り散らすが、やはりに効果はない。
笑顔で首を横に振ってみせる。

「うふふ、嫌ですよ。お布団干さなきゃカビが生えますもの。病気になりますよ?
 私は他人の看病が好きですから、別に病気になってくださっても構いませんけれど」

しおらしい謝罪が嘘のようにいつもの調子に戻ったに、
槇寿郎はもう今日はこの女と会話などしない、と決めて背を向けるが、
はおかまいなしに喋り続けている。

「そうそう、びっくりと言えばですね。
 鬼殺隊に入って驚いたことがあるんですよ」

恐ろしくその口調は明るく、朗らかだった。

「私はてっきり、鬼殺隊は戦うのが大好きな人たちだとか、
 私のように鬼を殺すのが好きな頭のおかしい人たちばかりだと思っていたんですけど。
 違うんですね。みんな、普通の人を守りたくて、
 あるいは、鬼に大事なものを壊されて、その仇を取るために刀を取るんですね」

背を向けたままでも、の薄笑いが眼に浮かぶようだった。
は感慨深そうに息を吐くと、槇寿郎に尋ねる。

「大師範の代も、鬼殺隊というのは、柱とはそういうものでしたか?」

槇寿郎は答えなかった。
どうせこのまま無視していれば根負けして他所に行くだろうと思っていたのだが
はそのままそこにいた。

しばしの沈黙の後、冷えた声が、囁く。

「息子さんね、死にますよ」

の言葉に、槇寿郎は振り返った。

そこには能面のような無表情の女が背筋を伸ばして座り、
冷ややかな眼差しで槇寿郎を見ていた。

「……どういう意味だ?」
「言葉通りの意味ですが、何か?」

は抑揚なく答える。

「煉獄杏寿郎という人が、運よくあなたと同じように、
 柱を勤め上げて生き残るとでもお思いなのですか?」

槇寿郎は絶句する。の口にする言葉の意味が、すぐには頭に入ってこなかった。

「よそのご家庭のことだから、口を出すのはお門違いとわかってはおりますが、
 どうも、黙って見ているのが焦ったくなりました」

混乱する槇寿郎を他所に、は冴え冴えとした声で続ける。

「息子さん、私に言うのです。
『生まれついて人よりも多くの才に恵まれた者は、
 その力を世のため、人のために使わねばならない』と。
『強く生まれたからには弱い人々を守らねばならない』と」

槇寿郎にはその言葉に覚えがあった。懐かしい言葉だった。
瑠火が、かつての槇寿郎の妻が、病にふせりながらも杏寿郎に伝えていた教えだ。
は空虚に、それを褒めそやした。

「立派な志だと思います。それを実践できる人はそう居ないでしょう。
 だけど、息子さんはやってのけてしまう。
 世のため、人のため、自分のことは後回し……いっそ傲慢なほどです」

その時のの声は、苦々しさを隠そうとしていなかった。

「弱者すべてを救って守るなんて、
 人間にできるわけがないじゃないですか、仏様でもあるまいし」

「――お前、何が言いたい?」

「あの方は無理を通しすぎる」

間髪を入れずに、は槇寿郎の疑問に答えた。

「診療所にいた頃、若くして死んだ患者を何人も見ました。
 同じように無理を通していた人ばかりでしたよ。
 病を押して働いたり、安静にしろと言っても聞かなかったり……」

は冷え切った眼差しでここではないどこかを見ている。
その顔に感じ取れたのは僅かな怒りだった。

「気を配って気を張って、背負って背負って立ち続ける。
 “何がそうさせたのか”は知りませんけど、息子さん、きっと早死にします。
 笑って死んでしまう。悔いなんか残さず、晴れやかに、身勝手に」

そこまで言うと、はふ、と微笑んだ。

「私はそれを許したくないんですよね。申し訳ないんですけど」

その表情の落差に、槇寿郎は瞬く。
まるで人形が人になったような変化だった。

「まぁ、こんなことを言っておいて、私も重荷の一つなのでしょう。
 だからせいぜい足手纏いにならぬよう、鍛錬をするしかないのですが、」

は立ち上がって振り向いた。

「あなたはどうするおつもりですか?」

その顔は微笑んではいるが、目が笑っていない。

「いつまでも息子の重荷になって、死人の残した手記を読み続けるのですか?」

槇寿郎はが居なくなった後も、頭の中で反響する言葉を前に動けないでいた。



煉獄家では食事時あまり会話が弾まない。

近頃はがたまに突拍子も無いことを話題にし、千寿郎がそれに驚いたり杏寿郎が窘めたりするのだが、
槇寿郎はふてくされたようにもそもそと箸を動かすか、酒をあおってばかりだった。

ただ、その日はどういうわけか、槇寿郎は何か考え込んでいる様子だった。
千寿郎と杏寿郎はその変化になんとなくは気づいていたが、触れられずにいると、
もう食事も終えた頃に、槇寿郎が口を開く。

「杏寿郎」
「はい」

居住まいを正した杏寿郎に、槇寿郎は立ち上がった。背を向けて去り際に呟く。

「お前は、よくやっていると思う」

時間が止まったようだった。
杏寿郎は息を飲み、なんとか言葉を絞り出す。

「……ありがとう、ございます」

槇寿郎は鼻を鳴らすと、そのまま部屋を立ち去った。

しばし呆然としていた千寿郎と杏寿郎は、顔を見合わせた後、
涼しい顔で片付けを始めるを見やった。

君、父に何か言ったのか?」
「なんの話です?」

首をかしげるに、杏寿郎は何が起こったかうまく処理できない、という顔のまま尋ねる。

「父が俺を褒めるようなことなど、ここ数年ずっと、」

「大師範は赤の他人の言うことを、やすやす聞く人ではないと思いますよ。
 褒めたい気分だったんじゃないですか? 多分」

「えぇ? そ、そうでしょうか……?」

貼り付けたような笑みで答えたに、千寿郎は腑に落ちない、という顔をする。

杏寿郎は困惑していた。どこか、苛立ちさえ覚えていた。
だが、深く考えることをやめて、へと顔を向ける。

君」
「はい」

は笑みを崩さない。
その顔は、何を聞かれてものらりくらりとはぐらかす時の表情だ。

だから杏寿郎はを慮るようなことはしなかった。

「気を遣わせたようですまない。ありがとう」

上澄みであるが本心を口にして、いつもの弟子にならってはぐらかしてみせる。

「と言う気分だった! なので口にしたまでだ!」

は少しばかり驚いた様子だったが、
やはりいつもの笑みのまま、首を捻っただけだった。

「左様ですか。おかしな人ですねぇ」

その顔の下で、何を思っているのかを窺い知れないのが、
杏寿郎にとってはほんの少し、ほんの少しばかり、腹立たしかった。