公平な狂人

竈門炭治郎はその日、一匹の鬼と相対した。
猛烈な異臭を放ち、檻のような血鬼術を使う鬼だった。

鼻が利かない不利な状況下での格闘のすえ、
炭治郎は隙の糸をたぐり、なんとかその鬼の首を斬ることができたのだ。
だから常のように、珠世に鬼の血を送ろうと採取する。

その時だった。

炭治郎の背後に、影が落ちた。
振り返ると、目を血走らせた鬼が立っている。

 倒したはずだ、なぜ?!

炭治郎が息を飲み刀に手をかけた拍子、見計らったようにどこからか鴉がけたたましく鳴いた。

「カァアア! 命令! 命令! 短期決着! 短期決着!
 ハ鬼ヲ一撃デ倒スコト!」

「はァ、ひどいですねぇ、最近特に“縛り”が厳しくなってる気がするわ」

鬼の背後に人影が立った。
炭治郎と相対していた鬼が振り返る間も無く、その影は薙刀を振るう。

 罰の呼吸 壱ノ型 鋸閻魔 のこぎりえんま

鬼は轟くような断末魔の悲鳴をあげる。

瞬きほどの間に、鬼の身体は細切れになっていた。
切り口はどうやったのかわからないがズタズタで、
苦悶の表情を浮かべ、鬼は息絶え朽ちていく。

人影は薙刀をくるくると回して刃についた血を払った。

その人は鬼殺隊というよりも、巷にいるバンカラ学生のような出で立ちだった。

すらっと背が高く、学帽で顔が、マントで体も隠れていたから
炭治郎は最初、男だと思っていたのだが、
月明かりが白い顔を照らして初めて、その人が女性だと気がついた。
炭のように黒々とした目の中に、お月様が浮かんでいる。

「危ないところでしたね、たまにああいう分身を使う鬼がいるんですよ。
 それにしてもあなた、面白いことをしていますねぇ。鬼の血を採取しているんですか?」

炭治郎はぼうっとその人に見惚れていたことに気づいて、慌てて姿勢を正した。

「た、助かりました……!」
「いえいえ。あ、申し遅れました。鬼殺隊隊員のです。よしなに」

は自己紹介して学帽をあげる。
藤の花の家紋が刻まれた飾りボタンが、月明かりにキラリと光った。

「竈門炭治郎です。本当に、ありがとうござます」

炭治郎も頭を下げた。
異臭を放つ鬼が消えてようやく鼻が利くようになると、
炭治郎はが複雑な香りの持ち主だと気がついた。

上品な面差しと声色に紛れてはいるが、随分と強そうな匂いがする。
足運びや所作に無駄がなく、また隙もない。
鱗滝のような手練の気配とともに、からは全てを面白がるような嘲笑と侮り、
それと相反する自己嫌悪が香っていた。

そしてその香りは、警戒するようなものに変わる。

「ところで」

炭治郎のそばに置かれた桐の箱に目を留め、は眦を細くした。

「一体どういう了見なのです? 鬼殺しを生業とする人間が、鬼を連れているなど」

そこから炭治郎の反応する間などなかった。

顎に強い衝撃が走ったかと思うといつのまにか天を仰いでいる。
どうやら薙刀の柄で殴られたらしい、くらくらと揺れる視界に瞬くと、
眼前に刃先が青々と光った。

「ッ、は、話を聞いて、くれませんか!? 事情が……!」

あるのだ。と、口にしようとした矢先、桐の箱から鬼が飛び出して来た。
が距離を取ると、鬼は炭治郎をかばい立てるようにしてを睨む。

「禰豆子……!」

炭治郎がまずいことになった、と顔色を白くしていると、
はきょとんとした様子で禰豆子を見やった。
それから、口元に笑みを浮かべる。

「あらあらまあまあ、愛らしい少女の鬼ですねぇ。うふふ。どうしてくれましょう……」

むせ返るような、残忍な悪意が禰豆子に向けられていた。
は薙刀を弄ぶように回しながら禰豆子に徐々に近いていく。

禰豆子は唸りながら、警戒するようにの挙動を伺っている。

「喋らないんですね? うなるだけ? 自我が薄いのかしら?」

は首を傾げ、頰に手を当ててうっとりと微笑んだ。

「残念だわぁ。女の子の顔から、聞くに耐えない罵詈雑言や、悲鳴を聞くのも好きなのに。
 自我の薄い鬼の断末魔は、獣とさほど変わらないのです」

ゾッと、炭治郎の背筋に冷たいものが走る。
そこに水を差すように、鴉がのそばをくるくると旋回し、大きく鳴き声をあげた。

「カァアア! 命令! 命令! 短期決着! 短期決着!」
「うるさいな。一匹は一撃で倒したんだからこっちは好きにしていいでしょう?」

低く冷酷なの声に炭治郎はふらついているものの起き上がり、庇うように禰豆子の前に立った。

「やめろ! 鬼になって二年も経つが、禰豆子は人を喰ったことがないんだ!
 人を傷つけたりしない! 鬼殺隊の一員として戦えるんだ!!!」

叫ぶ炭治郎に、は薄笑いを浮かべたまま、はて、と顎に手を当てた。

「確かにあなたのことは襲いませんねぇ、その鬼。
 自我が薄い鬼は大抵見境のないものですが」

「俺は禰豆子を……妹を人に戻すために鬼殺隊に入ったんだ!
 妹を傷つけるような奴は、絶対に許さない!!!」

「……へぇ? なるほどね、血の採取は研究でもしてるのかしら」

は納得したように頷いて、ゆらりと体を動かしたかと思うと、
あっという間に炭治郎の目前に距離を詰めていた。

「まぁ、全く、どうでもいいですが」

恐ろしく素早い踏み込み。

刀を振る間も無く、薙刀の柄が炭治郎の足を払い、転ばされていた。

「うっ、!?」

そして、はマントと詰襟をはだけ、
禰豆子に抱きつくようにして、その首に薙刀の刃を当てる。

「これでも食べませんか? 鬼は人を噛みたがるものでしょう?」
「禰豆子!」

禰豆子の首から一筋血が滴り、の露わになった首筋に落ちた。
噛み付くそぶりを見せればすぐにの薙刀は禰豆子の首に振るわれるだろう。
禰豆子は汗をだらだらとかき、拳を握りしめながら食欲を耐えているようだった。

どのくらい時間が経っただろうか、がそっと、禰豆子から距離を置いた。
衣服を直して愉快そうに笑っている

「おや、本当だわ。驚きですねぇ、人を喰わぬ鬼がいるなんて。
 ふふ! その顔……とっても我慢したんですねぇ、えらいえらい」

口枷の端から唾液が滴っている。
禰豆子は肩を震わせるとから距離をとり、半身を起こした炭治郎の背に隠れようとした。
炭治郎の羽織を掴む、その手は小さく震えている。

禰豆子はひどく怯えていた。

炭治郎はキッとを睨みつけた。
だが、は動じず、ごそごそとマントの下から包帯や薬を取り出して見せる。

「竈門炭治郎くん、でしたね。
 応急処置をいたしますので適当に腰掛けてくださいな」

薄笑いを浮かべるからは、敵意の匂いが消えていた。



は手際よく炭治郎を手当てする。
鬼との戦闘で負った傷も、との格闘の際に負った傷も等しく対処するを、
炭治郎は複雑な面持ちで見やった。

さんは、」
「かしこまらなくてもいいですよ、で構いません」

「……さんは、鬼を殺すのが楽しいんですか?」

炭治郎の疑問に、は顔を上げて頷いた。

「はい。とっても」

その言葉にはどこか朗らかささえ伴っている。
炭治郎はぐっと眉を顰めた。

「手当していただいて、こんなことを言うのはおかしいのかもしれない。
 でも、……でも! どうしてそんな風に思えるんですか?!
 彼らは昔、俺たちと同じ、人だったものですよ!
 禰豆子だけじゃない、俺と戦ったあの鬼だって……!」

は苦しげな炭治郎に微笑んで見せる。
虫も殺さないような、たおやかな笑みだった。

「あなたは まばゆ い人ですねぇ。優しくて、強い。私の上官に少し似ています」
「え……?」

は治療に使った器具を片付けながら言った。

「“同じ人間”を普通の人は斬れません。
 みんな鬼を化け物とか、仇とか、罰すべきものとして見るから殺すことができる。
 鬼を“人間だったもの”として斬れるのは、あなたのように優しくて強い人か」

笑みを深くして、は自らを指差した。

「私のように、頭のおかしい人です」

炭治郎は、背筋が粟立つのを感じていた。
目の前にいる人間を恐ろしいと思った。
は自覚している。

心持ちの上で言うのなら、は快楽殺人者と変わらない。

炭治郎の恐怖を悟ってか、はクスクスと笑い出した。

「うふふ。安心してください。私は今のところ人殺しではないので、
 仲間を手にかけたりはしませんよ。こうして怪我を繕うことはありますが」

は禰豆子が中に入った桐箱へと目を向ける。
禰豆子はに怯えて、炭治郎が処置を受ける前に桐箱へと入ってしまってそのままだ。

「それにしても滑稽だわぁ。禰豆子さんはお兄さんを助けて、人を助けて、誰も殺さない。
 ならば私の方が、よほど鬼のような女ではありませんか。ふふふふふっ!」

はひとしきり愉快そうに笑うと、難しい顔をしたままの炭治郎に向き直った。

「もう分かってると思いますが、私はあなたの妹さんを斬ったりはしませんよ」
「本当、ですか?」

いぶかしむように眉を顰めた炭治郎に、は肩をすくめて見せる。

「ええ、この手の嘘は、さすがに不誠実というものです。
 いくら私でもお兄さんの前で妹を殺すほど鬼じゃありませんしね」

嘘の匂いはしない。

確かに、は約束を守ってくれそうだった。
炭治郎はひとまず、ホッと胸をなで下ろす。

少しばかり緊張を解いた炭治郎に、は首をかしげて見せた。

「ところで竈門くん、ちょっと伺いたいことがあります。
 私は禰豆子さんのことを誰からも知らされていなかったのですが、
 竈門くん以外に、鬼殺隊の関係者で、
 あなたが鬼を連れて任務についていることを知っている人はいますか?」

炭治郎には思い当たる人間が二人ほどいた。

「え、ええと、鱗滝さんという、
 俺を鬼殺隊の剣士に育ててくださった方と、冨岡義勇という剣士の方が」

炭治郎に剣士としての技を教えた鱗滝左近次。
そして彼を紹介した冨岡義勇。炭治郎が初めて出会った鬼殺隊の人間である。

は炭治郎の言葉に目を丸くする。

「育手と、冨岡……!? 水柱ですか!?」

「有名な人なんですか? 俺は鬼殺隊に入ったばかりでまだ内部のことには疎くて」

炭治郎は不安そうにを伺った。
は腕を組み、考えるそぶりを見せたが、すぐに納得して頷いた。
どうやら思うところがあったらしい。

「なるほど……なら多分、大丈夫だと思います。うん、多分。
 こちらに通達がないのにも訳がありそうです」

「……だといいんですが」

確かに妹とはいえ鬼を連れて、鬼殺隊を続けることは前代未聞のことだろう。

は手荒い手段をとったがそれでも炭治郎の話を聞き、
禰豆子が人を喰わないと知るとあっさり矛を収めてくれた。
それが珍しいことであるとは炭治郎もおぼろげに理解している。

「――竈門くん、鬼殺隊の人たちは物分かりの良い人間ばかりではないですよ」

だからだろうか、はそんなことを言い出した。
 
「禰豆子さんのことを明かす人は選んだほうがいいです。
 家族が鬼になった人も、鬼殺隊の中には多く居ますから。
 そういう人は禰豆子さんが人を喰わぬということを信じない。
 ……いえ、信じたくない、と思うでしょう。面倒ごとになると思います」

炭治郎は少し驚いたが、はっきりと頷いて見せる。

「……はい。ありがとうございます」

はどこか飄々とした調子だったが、
その言葉には確かに炭治郎と禰豆子、そして鬼殺隊の人間を慮る様子が見えて、
炭治郎は意外に思ったのだ。

鬼を殺すのを楽しんでいると肯定したは、
とても、人のことを心配するようには見えなかったのに。

炭治郎の疑念を知ってか知らずか、は立ち上がって微笑んだ。

「とはいえ、命が大事ですからね。
 妹の手を借りたい時もあるとは思います。その時はその時です。
 さてさて、ここの突き当たりを右にまっすぐ行くと
 藤の家紋のお宅がありますから世話になるといいですよ」

応急手当てをしたとはいえ、今夜警備を続けるのはやめたほうがいい、と、
は炭治郎に道を示して、挨拶するように帽子を上げた。

「ではでは、私はこれにて」

さんはどうするんですか?」

「私はこれから警備巡回に戻ります。
 ふふ、少し偉くなってしまったので忙しいのです。
 今度こそ、さようなら」

そう言って、はあっという間に炭治郎の前から姿を消してしまった。

炭治郎は禰豆子の入った桐箱を背負い、教えられた道順を通りながら、
のことを考えていた。

 ものすごく恐ろしい人でありながら、どこまでも公平な人だった。

その上実力は炭治郎のはるか先に居る。

藤の家紋の家で休んだらまた力をつけなくてはならないと、
炭治郎は決意を新たにするのだった。