魘夢
目を開ければ、そこは汽車の中だった。
は痛む頭にこめかみを抑えながらも、
状況を確認しようと薙刀を手に辺りを見回す。
真っ先に目に入ったのは一人だけ立ち上がっている杏寿郎の姿だ。
「煉獄さん!?」
だが、杏寿郎は起きてはいないようだった。
どういうわけか少女の首を掴んだまま眠りに落ちている。
「……なんて器用な寝方をしていらっしゃるんでしょうか。
煉獄さん! 起きてくださいな! もう! お弁当12箱も食べるからですよ!」
普通の眠りではないためだろうか。
が肩を揺すり起こそうとしても、うんともすんとも言いやしない。
杏寿郎が普通の状態なら、人の気配や声にはすぐに反応し、
起きそうなものだがてんでダメだ。
諦めてため息をついたはマントの端を引っ張られ、そちらに顔を向ける。
少し警戒したような顔の禰豆子がのことを伺っていた。
はひとまず優しげな声を作る。
「禰豆子さん、起きてらしたのね。……起きてるのは私とあなただけのよう、」
「あああああ!!!」
の言葉の途中で、炭治郎が叫び声をあげながら飛び起きた。
尋常でない様子に禰豆子は驚きの後ろに隠れ、は炭治郎へと声をかける。
「大丈夫ですか、竈門くん」
「……、さん?」
首を抑えながら青ざめた顔がと目を合わせた。
の顔を見て安堵したらしく血色の戻ってきた炭治郎は、
はっとした様子でに問いかける。
「そうだ、禰豆子! 禰豆子は!? 血の匂いがしたんです!」
「禰豆子さんならこちらに、怪我をしている様子はありませんよ」
炭治郎はの背からひょこりと顔を出した禰豆子を見て、
安心したように胸をなでおろした。
「あぁ、本当だ、よかった……!」
撫でろとねだる禰豆子に飛びつかれた炭治郎の手に、
焼き切れた縄の括られているのを見つけて、は眉をひそめる。
「竈門くん、その腕の縄は?
……よく見れば他の3人の手にも同じものがありますね」
が指摘すると、炭治郎は縄の匂いを嗅いだ。
「……微かだけど鬼の匂いがします。
焼けてるのは禰豆子の燃える血だと思うんですが」
「縄の先には一般人が繋がれているようですね。
ふむ、私の手首に縄は無し、」
は顎に手を当てて考えるそぶりを見せる。
「切符を切られてからの記憶がないので、おそらくその時に眠らされたんでしょう。
切符からもわずかですが鬼の気配がします。
……相当の血鬼術の使い手、手練れの鬼です。
竈門くん、刀をいつでも抜けるように」
「はい!」
の指示に炭治郎は二つ返事で従った。
座席の下に隠していた刀を手に取る炭治郎を横目に、
は表情の抜け落ちた顔でポツリと呟く。
「なるほどね。鬼は本来、私だけを起こす予定だったのか」
「さん? 何か……?」
不穏な匂いに、炭治郎は刀を片手にを振り返った。
は笑みを作って炭治郎に提案する。
「竈門くん、禰豆子さんと一緒に3人を起こしてもらえますか?
私は鬼の様子を見ますゆえ」
「えっ、一人で大丈夫ですか?」
思わず瞬いた炭治郎に、は不敵な笑みを浮かべる。
「うふふ。竈門くんったら、私を誰だとお思いですか?
“鬼より怖い”。炎柱の副官です。早々にやられはしませんよ」
その自信に満ちた姿にほう、と息を飲んだ炭治郎だったが、
は茶化すように肩をすくめた。
「まぁ、肝心の炎柱は立ったまま寝てますから、
説得力はないかもですけどね。あははっ!」
「さん……」
杏寿郎が聞けば文句を言いそうなセリフだった。
せっかく格好よかったのに台無しである。
「冗談冗談。冷静に、落ち着いていきましょう」
気の抜けた様子の炭治郎には微笑むと、客車のドアを引いた。
鬼の気配が色濃く、むせ返るようだ。
炭治郎も重たい匂いを嗅ぎ取って顔をしかめている。
だがすぐにに鬼の位置を伝えてみせた。
「さん……鬼は風上、先頭車両だと思います!」
は炭治郎の言葉に頷いた。
「ありがとう。承知いたしました。
……竈門くん、おそらくこたびの鬼、策士です。
まず間違いなく、運転士は味方につけているはず」
「え……?」
炭治郎の顔に疑問がよぎるが、は詳細を口にはしなかった。
いつもの貼り付けたような笑みで、炭治郎に忠告する。
「縄の繋がれた一般人にも気を配りましょうね。お気をつけて」
「さんも!」
炭治郎の声を後ろに、は列車の屋根へと飛び移る。
見送った炭治郎は未だ眠っている3人を起こそうときびすを返した。
「……すごく不機嫌だったな、さん」
さながら胡蝶しのぶのような、いや、さらに激しい香りだった。
一見普通に振舞っていて、声も顔も穏やかなのに、
腹の底からぐつぐつと煮立つような怒りと、震えるほど残忍な匂いがした。
だが、どうしてだろうか。
最初に会った時のような恐ろしさは感じなかった。
人となりを知り、は残酷であるものの、
抱えた怒りを理不尽に人に向けることのないよう、
努めていることを理解したからかもしれない。
……かなり物騒な性分なのは確かだが。
一人で鬼の様子を見に行くと言った時にも、「この人に任せれば安心だ」という、
今思えば根拠のない頼もしさを抱いていた。
「俺も頑張らなくては! 起きろ善逸! 伊之助! 起きてください! 煉獄さん!」
自身を鼓舞しながら、炭治郎は禰豆子とともに、鬼殺隊の面々を起こしにかかった。
※
は靴音を鳴らしながら車両の上を歩く。
機関車の吹く煙の中に人影を見つけて、足を止めた。
洋装の、身体中に血管を浮き上がらせた鬼、
魘夢が振り返り、に微笑む。
瞳に数字が浮かんでるのを見て、は目を眇めた。
左目に刻まれるのは“下弦の壱”。十二鬼月だ。
「やぁ、おはよう」
朗らかに挨拶する魘夢の声を聞いて、は不思議と、直感で理解していた。
この鬼は自分と同類だ。
「良い夢は見れたかな?
ああ、そうだ。君は違うんだったね」
数字の入った魘夢の目が弓なりに細められたことで確信する。
つまるところ魘夢は、の弱った心につけ込むか、
あるいは単に自分の愉しみのために夢を見せたのだろう。
万華鏡のようにくるくると場面の変わる、あの悪夢を。
「ごめんね、良い夢だけ見せるんでもよかったんだけど
君の頭の中、とても素敵だったから、俺はちょっとだけ欲をかいちゃって、」
はそれ以上の言葉を聞く気にはなれなかった。
だから瞬時に構え、薙刀を振るう。
罰の呼吸 弐ノ型
罰の呼吸の連続突き。
一つの突きが、距離をとっても鬼の体に穴を穿つほどの威力を誇る。
パン、と弾けるような音を立てて魘夢の体が穴だらけに穿たれて吹き飛び、
ぶつりと首が千切れ落ちた。
しかし、どういうわけか転がった首が表情を変える。
魘夢の首は全てを嘲笑うような笑みを浮かべていた。
「……怖い怖い。随分せっかちなんだね。
でも残念。俺は本体じゃないよ」
確かに魘夢の言う通り、は首を切ったにもかかわらず
まったく手応えを感じられずにいた。
仮にも十二鬼月だと言うのに体が柔過ぎる。
はふぅ、と悩ましげなため息を零した。
「そのようで。さて、本体はどこなのかしら、
分からなければ対処のしようがありません。困りものですねぇ」
「うふふふふっ、俺が教えてあげると思う?」
魘夢は面白がるように笑ってみせる。
は首を横に振った。流石にこの鬼はそこまでお人よしではあるまい。
「いいえ。……ふふ、でも、どうしてかしらね。
不思議とあなたの考えていることはよーく理解できるのですが。
例えば……ねぇ?
あなたが人間に良い夢を見せるの、別に慈悲のつもりじゃありませんでしょ?」
の疑問に魘夢の口角がつり上がる。
「ご明察だね。その通りさ。
俺は幸せな夢を見せてから悪夢を見せるのが一等好きなんだよ」
魘夢の言い分は想定通りだ。人の苦痛を楽しむ悪趣味な鬼。
全く嫌になるくらい自分に似ている。
ささくれ立つ思考を悟られぬようは薄く微笑んだ。
「なるほど、なるほど。とてもわかりますよ、その気持ち」
「だよね! 君を覗いた時はびっくりしちゃった!
君、なんで鬼狩りをやってるのかわからないくらい、俺とそっくりなんだもの!」
が答えた言葉に、魘夢はうきうきと声を弾ませて喜んだ。
まるで人混みの中で仲の良い友人を見つけた時のような反応に、
は笑みを浮かべたまま黙り込む。
魘夢はの顔を上目遣いに見上げ、覗き込んだ。
「まぁ、俺は君と違って自分のことが嫌いじゃないけどね?」
の薙刀を持つ手が小さく震えた。
魘夢は学帽の影に隠れたの表情がどうなってるか分からぬまま、
の心に分け入り垣間見た夢を思い出して、ほぅ、と恍惚の息を吐く。
「どろどろだったよね、君の心。
人の痛がったり苦しんだり悶絶する顔が見たくて見たくて堪らなくて、
なのに“つまらない人間ども”のために無理して抗おうとするものだから、
苦しくて苦しくて、死にたくてどうしようもなくなって、夢でまで自分を殺してさ……」
魘夢はうっとりと頰を紅潮させる。
「ふふふっ、すっごく良かったよ! 最高だった!」
生首のまま喋り続けていた魘夢は、を心底憐れむように、眉を顰めた。
「でも、あまりに他人とは思えないものだから、
君が無様に足掻いてるのを放って置くのは、なんだかしのびないんだよね」
魘夢はいっそ朗らかな調子である提案を口にする。
「“あの方”に鬼にしていただけるよう頼んであげようか?
人間とか、まして鬼狩りなんかよりそっちの方が向いてるよ。俺と一緒に上弦を目指そう。
そうすれば“出来もしない節制”も必要ないし、良いことづくめじゃない?」
魘夢にはがきっと強い鬼になると言う、妙な確信があった。
無惨は常に強い手駒を欲している。
優秀な人間を鬼にすれば、勧誘した鬼に
その血をふんだんに分けてくれることもあるのだという。
だから魘夢は、が無理をして人間のまま、
時に耐え難い自己嫌悪と自殺願望に苛まれながら、鬼狩りとして生きるよりも、
素直に鬼になってしまえば断然楽な生き方ができるだろう、と諭すように言った。
「人を食うのだって簡単なんだよ。本当、人間って愚かなんだもの。
ちょっと弱ったところで『幸せな夢を見せてやる』って一言言えば、
自分から進んで俺の協力者になってくれた上、腹に収まってくれるんだからさ」
クスクスと小さく笑いながら、魘夢は眦を細める。
「君にはさ、他の鬼狩りを殺して欲しいんだよね。
そしたら鬼にしてあげる。楽になれるよ。
苦しまなくて済むようになるんだよ。嬉しいでしょう?
わかる。わかるよ。君の気持ちがとっても。……だって俺たち同類だから!」
魘夢は恍惚と興奮に頰を染め、初めて見つけた同胞に、
手を差し伸べてやりたい気持ちで、言葉を続けた。
「死にかけで悪夢にうなされてる時の、
不幸に打ちひしがれて苦しんでもがいてる奴らを眺めてると
とっても楽しいよね、堪らないよね! 君だってそうだろ?!」
月明かりが差して、帽子の影に隠れて表情の見えなかったの顔が、
ようやく魘夢からも伺えた。
たおやかで、虫も殺さぬような上品な笑顔が、魘夢を見下ろしている。
薙刀を抱えながらもは両手を合わせてみせた。
「まぁまぁ! 本当に気が合いそうですねぇ、私たち!
お返しに近頃の私の“お気に入り”も教えて差し上げます」
魘夢は「あれ?」と目を瞬いた。
夜の闇より黒々と深く沈んでいる瞳の中に、
チラチラと金色の光が見えた気がしたのだ。
は柔らかい声で楽しそうに述べる。
「私はね、人間を“食われるだけの愚かな下等生物”として認識している、
自分を“絶対的な強者だと思い込んで勘違いしてる鬼”を、
力の限り蹂躙し、不死を悔やむ程の圧倒的な苦痛を与え、屈服させ、
無様な悲鳴と情けない命乞いを聞いた挙句の果てに殺すのが、大好きです」
「……」
魘夢は黙り込んだ。
の声はだんだんと弾んで、甘やかなものに変わっていく。
「私を非力な女の鬼狩りと見くびっていた、
“夜を這い回る虫けら”をこの手で駆除するように
ブツッとひねり潰した時の、あの絶望的な顔!」
頰に手を当て、嘆息する様は恐ろしく艶かしい。
それでいて、その眼に浮かぶ金色の光は危うげに揺れている。
「ふふっ、なかなか味わい深くていいですよぉ。
あぁ、全く! こんな話をしていると血が騒いで参りますわねぇ」
その声には確かな嘲りの色が見えた。
「あなたが陰湿で回りくどい質だとはもう分かっております。
きっといくつも策を巡らせたんでしょう?
精一杯知恵を絞ったのでしょうね?
たくさんたくさん、手間暇をかけて……」
言葉の途中、は薙刀の柄を汽車に叩きつけた。
ドォン! と轟くような音をたてて鉄の屋根が砕ける。
魘夢は鈍い痛みに眉を寄せてを見上げた。
「ねぇ? この汽車があなたの本体になるまで、どのくらい時間がかかったんですか?」
嘲笑する声が冴え冴えと響く。
ひたりと、首元に刃を突きつけられたような錯覚を覚え、
魘夢は交渉が決裂したことを悟った。
「気づいたところで無駄だよ。
この汽車の全てが俺の血肉であり骨となったんだから。
乗客200人余りが俺の体を強化するための餌で、人質なんだ」
は表情を動かさない。
その面を被ったような笑顔に、魘夢はつまらなさそうに息を吐いた。
「あーあ……。残念だな、つまらないな、
せっかく趣味の合う鬼ができると思ったのに。
それに全然顔色も変えてくれないんだね。……それもそうか。
人質なんて君、別にどうでも良いと思ってるでしょう?」
「あら、そうでもありませんよ。
私が“人間”で居たいなら、人の命を守るのが私の役目ですから」
魘夢は意外そうに眉をあげた。
「へぇ! なら君は守りきれるつもりでいるんだ?
この汽車の端から端までうじゃうじゃしてる人間全てを?」
は小首を傾げて微笑んでみせる。
「ええ、もちろん。できないわけがありませんでしょう?
これでも柱の副官ゆえに、守護に援護、補佐の類はお手の物……。
頭を使うのも得意ですけど」
謳うように言ったは、魘夢を明確にせせら笑った。
「あなたはそうでもないようですね?」
「言ったね……?」
ビキ、と魘夢のこめかみに青筋が浮かぶ。
「面白い。やれるものならやってみればいいさ。
見ものだよね、君一人で何ができるか」
冷ややかな声で囁くと、ドプンと汽車に沈むように、魘夢の姿がその場から消える。
はそれを見送って、口を開いた。
「はー……!」
深いため息を零した後、学帽を被りなおしながら一人呟く。
「やっぱりダメだわ、私。お喋りが過ぎるのも悪い癖……」
はきびすを返し、客車へと戻る。
次にどう動くべきかは、もうすでにわかっていた。