我慢
伊之助が客車の上に出て全力の
炭治郎も鼻を利かせながら杏寿郎に任された前方三両の客車を、
鬼の肉塊が人を取り込まぬよう注意して進んでいた。
その最中だった。
前から二両目の車両のドアを開けた時、と出くわしたのである。
炭治郎はすぐに異変に気づいた。
この車両だけ、異様に鬼の肉塊の動きが鈍い。
「あら、竈門くん。調子はいかが？」
は炭治郎に気がつくと振り返り、たおやかに微笑んで見せた。
「皆さんは起きたようですね。ありがとうございます。
さっき眠ったまま客車を守る我妻くんと会いましたよ。
あれ、すごい器用ですよねぇ。とても真似できないわぁ」
切迫した状況とは思えないほど穏やかに話題を投げかけられて、
炭治郎は思わず後ずさりそうになるのを堪える。
からは、先ほど別れた時から増して怒り狂った匂いがするのだ。
ものすごく必死に平静を装っているのがわかる。
顔だけ見れば菩薩のようなのに、夜叉のような内心で佇んでいる。
「味方に怖気付いてどうする」と炭治郎は唾を飲み込んだあと、声をあげた。
杏寿郎からの伝言を伝えねばならない。
「さん！ 煉獄さんから伝言が、」
炭治郎が言うのを、は首を横に振って遮った。
「私の役目は『乗客の安全確保と全体の援護』ですよね。当たってます？」
「！」
炭治郎は目を丸くした。
「はい、そうです……。 煉獄さんもそう言ってました！」
はまるで、杏寿郎の指示をすでに聞いていたかのような様子である。
驚く炭治郎には笑う。
「ふふ。これでも副官ですので、上官がどのような作戦をとるかくらいは、
なんとなくわかっておりますよ」
は炭治郎に前方への道を譲ると、浮かべていた笑みを深くした。
「竈門くん、おそらく鬼の首は前方車両にあります。
一応後方も見ておきますが重点的に探ってくださいな」
「はい！！」
頷いた炭治郎を横目に、は蠢きだした肉塊へと薙刀を軽やかに振るう。
それは攻撃には見えなかった。
ふわりとした、呼吸を乗せないただの突き技。
それも突き刺すようなものではなく、様々な場所をつん、と刃先で押しただけのようだ。
血も全く出ていない。
しかし、突かれた肉塊は動きをピタリと止め、その後小さく痙攣している。
が何をしたのかよく分からず、瞬いた炭治郎には振り返る。
「竈門くん」
帽子の影から覗く黒い瞳の奥に、金色の炎がチロチロと燃えているような気がした。
むせ返るような悪意が吹き出るのを堪えながら、の身体中を渦巻いている。
「短期決着をお願いしますね？ 君たちなら、できますでしょ？」
「……必ず！」
炭治郎はコクコクと頷くと急いで一両車両に向かう。
それと対照的には緩やかに、三両車両のドアを開いた。
※
は靴音を鳴らしながら車両を練り歩く。
の行く先々の肉塊は、を見つけるとすぐにギョロギョロと目玉を生やし、
襲いかかろうとしてくるのだが、
はそれをほとんど意に介すことなく、肉塊をふわふわと刺して回った。
それで肉塊は沈黙する。動きが鈍る。
無論その効果は永続的なものではない。
しばらくすれば肉塊は動き出すが、の他の隊士が対処したり、
移動するには十分な時間を調達できる。
肉塊にある急所を、は正確無比に刺激することで麻痺させているのだ。
の特筆すべき武術の才覚を、人体理解が補強する。
鬼が人間の体を基礎としている以上、
鬼には人間の体の機能を踏襲しているところがある。
その上、時には生きたまま、時には毒で死んだ死骸を腑分けし、
数えきれぬほど鬼を解剖してきたにとって、
鬼のツボを見抜き、抑えることなど簡単なこと。
逆に、痛い目に遭わすこともこの状況では同じくらい容易い。
実際、の脳内では、魘夢をのたうち回らせる方法が何度も立案されていた。
その衝動を打ち払うように、はこの上なく軽やかに薙刀を振るって回る。
痛みなく、優しく、ただ痺れるように。
「平常心、平常心。我慢、我慢……」
がブツブツと呟きながら後半の車両のドアを開けると、
ドン、と音を立てて移動してきた杏寿郎と目があった。
肉塊がを見て動きだす。
杏寿郎は恐ろしく素早く斬撃を入れ、
が杏寿郎とは対照的に、軽やかに肉塊を刺激し、沈黙させる。
の対処が意外だったのか否か、杏寿郎はどこか感心したように目を輝かせた。
「思ったより落ち着いていて安心したぞ！ 調子はどうだ君！ 」
「はいはい、乗客の安全確保と援護担当のです。
見ての通りでなんとかやっておりますよぉ」
にこにこと微笑んで返事をしたに、杏寿郎は眉を顰めた。
「む！ やはり随分機嫌が悪そうだな！」
杏寿郎の指摘に、は表情を失った。
しばし沈黙した後、口を開く。
「ええ。……ええ、全く」
そして、真顔のまま頷いた後、
身体中を渦巻いていた悪意を言葉に吐き出した。
「正直なところ、あの、死ぬほどいけ好かない、鬼の本体となったこの汽車を、
ギッタギタの、メッタメタに、痛めつけて、
なますにしてやりたい気分ですけれど……！」
怒りのあまり語気が強まるのをなんとか抑えて、
地団駄を踏むの堪えるように、は深く息を吐いた。
今にも暴れまわりたいのを必死で抑えているのだ。
「私がおもむくまま技を思い切り使うと、
暴れられては我らはともかく、乗客はひとたまりもない。
乗客のお命、お身体優先。手加減、手加減……！ 我慢、我慢……！」
奥歯を噛み、ぎりぎりと薙刀を持つ手に力が篭る。
杏寿郎はその様を見て、感嘆に息を飲んだ。
「おお……！」
あの、鬼を見れば朝まで拷問しないと気が済まない、
『隙を見て逃げられたらその時はその時だ』などと本気で口にしていたが、
悪癖を必死に堪え、その上乗客の命を最優先に考えて行動している。
杏寿郎は恐ろしく不機嫌なの肩を叩いた。
「君！ 俺は今、猛烈に感激しているぞ！！！
俺の指示がなくとも、君がここまで自分を律することができるようになるとは！！
成長したな！ 喜ばしいことこの上ない！！！」
喜色を前面に押し出した声で、杏寿郎は手放しにを褒めた。
はなんとか笑みを浮かべて見せたものの、
目がこれ以上なく据わっている。
「ありがとうございます。
でも、竈門くんたちには早めの決着をお願いしたいところですけどねぇ。
私、結構ギリギリですので……」
また蠢き出した肉塊をふわりと突き、動きを止めながらは低く囁いた。
「あの鬼、あの鬼。よりにもよって、私に、
……ああ、もう、本当に腹が立つ！
皮と言う皮を剥ぎ、内臓と言う内臓を潰してやりたいですよ、本当に」
いつもは冗談めかして聞こえる物騒な言葉も、今は完全に本気の色を見せている。
杏寿郎は刀を振り抜き、肉塊を切り捨てながらもを励ました。
「我慢だ！ 君ならできる！」
「はい。もちろんです。やり遂げます」
も鬼の肉塊を手際よくさばきながら応える。
「それにしても、君の行く先々の肉塊の反応がやたらと早いのはなぜだろうな！？」
「鬼と相対した時にかなり挑発してしまったので、
私がいるところに攻撃が集中しているのだと思います。
ふふ、その辺りご留意くださいな」
杏寿郎の疑問を受けて、ようやくの顔に、
常の通りの全てを嘲弄するような笑みが戻ってきた。
内心の調子が落ち着いてきたことに安堵しつつも、杏寿郎はを叱った。
「なんだと！ せっかく褒めたのに君と言う奴は！
やたらに鬼を挑発するなといつも言っているだろうに！」
は例によって暖簾に腕押しで、くつくつと喉を鳴らすように笑って、
鬼の動きを止めている。
「未熟者ですみません。……でもまぁ、囮役は適任でございましょう。
私は私にできることを、精一杯務めさせていただきますよぉ」
そう言い捨てて、は杏寿郎の進行方向とは反対の客車へと歩を進める。
杏寿郎も別の車両の乗客を守りに別れた。
は、直接頸を切ろうと鬼に相対すれば、悪癖を抑えきれない状態だった。
その自覚もあって、後輩らに鬼の相手を任せてきたのだろう。
自身の状態を把握し、悪癖を堪えた状態での最善を尽くし、
我慢の上限を徐々に引き延ばすのが、目下の課題なのだが、
その方法を考えるのは今回の鬼を倒してからにすべきだと、
杏寿郎は五両分の乗客の守護に戻った。
※
その時は、意外なほどあっけなく訪れた。
ゴッ、と鈍い音がして車両の一部が転がり落ちる。
「ギャアアアアア！！！！」
それからつんざくような断末魔とともに
鬼の肉塊が勢いよく吹き出し、車両が弾み、横転した。
はその場にいた車両の乗客を、
持っていた紐でできる限り椅子に縛り付けながら受け身をとった。
横転が落ち着くと、は肩についたホコリを叩いて払う。
ひとまずこれで我慢はしなくて良くなったと
気を緩めたはその顔に酷薄な笑みを浮かべた。
「さーて……生き汚い鬼だとまだまだ頭、残っておりますよねぇ、
死に顔でも拝みに参りましょうか。塵になる前に急がねばですね」
は弾む心で外へと飛び出す。
恐ろしく軽やかな足取りで車両の前方へと向かうと、
炭治郎が腹を抑えて地面に寝そべっていた。
どうやら怪我をしたらしい。
ははた、と足を止めた。
だが、手当に向かおうとするの視界の端に、
炭治郎に向かって手を伸ばそうとする肉塊があるのに気づいて、弓なりに目を細める。
崩れかけたそれへと、弾んだ足取りで近寄った。
「あらあらまあまあ！
ちょーっと往生際が悪いんじゃありません？ ねえ、眠り鬼さん？」
炭治郎の方へと伸ばした魘夢の手を靴底で踏みにじりながら問いかけると、
数字の刻まれた眼差しがギロリとを睨んだ。
は魘夢の手を踏みにじったまま、しゃがみこんで目を合わせる。
「うっふふふふ！ 憎たらしいことばかり言う口も、
ご自分で無くしてしまったんですね！
ねえねえ、今ご自分がどういう有様になってるかお分かりですかぁ？」
ビキ、と肉塊に浮かぶ血管が強張る。
言葉がなくとも感じられる、
魘夢から向けられる確かな怒りの感情に、はうっとりと頬を染めた。
そして、あたかも慈しむような眼差しで、魘夢を見下ろしたのだ。
「せっかく慎重に術をかけたりコツコツ頑張ってらしたのにねぇ？
あなたの言うところの“愚かな人間たち”を一人も殺せなかったどころか、
ご自分が死んでしまうなんて……」
全く出てない涙を拭う振りをして、は哀れっぽい声を作った。
「はぁ……とってもお可哀想……お気持ちお察しいたします。
ふふっ……本当に残念無念ですねぇ！ 無様無様！ あっははははっ！！！」
しかし結局、手を叩いての大爆笑である。
朽ちながらも最後まで残っていた魘夢の数字の刻まれた目が、
怒りに血走り、眇められたようにも見えた。
「君、その辺にしておけ」
背後から心底呆れたような声を投げかけられ、は哄笑をやめて振り返った。
いつの間にか炭治郎のそばに立つ杏寿郎が頭痛を堪えるようにこめかみを抑えており、
炭治郎はおそらく怪我以外の理由で青ざめている。
二人とも控えめに言って引いていた。
は「おっと、いけない」と言わんばかりに口元を抑える。
「あら、お恥ずかしい！ はしたないところを見られてしまいましたね。
すみません、すっごく腹が立っていたものですから、
一言二言三言……言ってやらねば気が済まなくて。うふふ」
「いつものことながら、なるべく控えてほしいものだな！」
言葉と裏腹にけろっとした様子のに杏寿郎は嘆息すると、
の残酷趣味に慣れていない炭治郎を気遣った。
「驚かせてすまないな、竈門少年！
君は鬼殺が終わると、割とこんな感じなのだ！」
「そうなんですか……」
炭治郎は深く突っ込んではいけないとひとまず頷いた。
は炭治郎の方へと近寄って、怪我の具合を目視で測る。
「ふむ、汽車が横転した時の傷じゃなさそう。
腹部を刺されちゃったんですかね。凶器は錐状の何かかしら、
いずれにせよ、早めに処置すれば大丈夫ですよ」
がマントから治療道具を取り出そうとすると、
杏寿郎がそれを制した。
「いや、その必要はない！」
素直に手を止めたに、杏寿郎は朗らかに言う。
「竈門少年は全集中で止血させる！
君は残りの隊員とともに乗客の避難誘導、応急処置に移ってくれ！」
「なるほど。かしこまりました」
「え……？ え？」
炭治郎は治療器具をしまい出したを見て、頭に疑問符を浮かべた。
「治療、してくれないの……？」と言わんばかりに呆然とした様子の炭治郎へ、
はにこやかに微笑む。
「今回竈門くんたちは本当にいい仕事をしてくれました……。
聞きましたか、あのみっともない断末魔……大変良かったです。
溜飲が下がりました。なので、」
は薙刀を抱えながら両手を合わせる。
「ご褒美に、帰ったら皆さんにみつまめを奢ってあげます！ 煉獄さんが」
「おい」
勝手なことを言うに思わず突っ込んだ杏寿郎へ、
はケラケラ笑って見せた。
「うふふっ、うそうそ。冗談ですよぉ！
柱は結構忙しいので、私がご馳走いたしますからね」
「ありがとうございます……？」
何が何だかわかっていない様子の炭治郎に、は優しく囁いた。
「ですから頑張って全集中の止血、覚えて帰ってくださいよ。
頑張らないと……みつまめ、奢れなくなっちゃうので」
炭治郎は青ざめた。「それは死ぬってことですか」と口にする前に、
はさっさと乗客の避難と応急処置をしに、客車の方へと走って行ってしまう。
「竈門少年。あれは君なりの発破なので、そんなに気にすることはないぞ！」
「はい……」
やたらと明るい杏寿郎の声に、炭治郎は力無く頷いた。
と言うより、そうするしかなかったのである。