地獄変
押しつぶされそうなほどの気迫、
触れなば切らんとする佇まいのを見て、
杏寿郎はを叱りつけた日のことを思い出していた。
※
木陰の入る縁側で、具合の悪そうに寝そべるの顔を、杏寿郎は覗き込んだ。
「君は! 本当に! 馬鹿じゃないのか君!
無茶をするにもほどがあるだろう!!!」
「……申し訳ないです、煉獄さん。返す言葉もございません」
罰の呼吸の技を開発していたに杏寿郎は何度か立ち会っている。
先竹の薙刀を使って披露した中に、その技はあった。
罰の呼吸
が練り上げた、罰の呼吸の真骨頂がこの型である。
この技は5つの動作の集合でなり、
それぞれの動作に“
“真蛇”で斬り、“般若”で打ち、“生成”で突き、“泥眼”で捉え、“女”で止めを刺す。
の心技体、全てを昇華した技、“地獄変”はまさしく切り札ともいうべき威力で、
真剣を使っていないにもかかわらず、技の冴えは見事なものだった。
何しろ先竹の薙刀で森の一部を吹き飛ばすような威力だ。ただし。
「技を出すたび倒れるようなのはダメだ! 後先を考えろ!」
「未熟者で、すみません……」
が技を披露した後パタリと倒れてしまったので、
杏寿郎は慌てて介抱する羽目になったのである。
山から煉獄邸の縁側に運ぶ途中、負ぶったの体は冷たく氷のようで、
杏寿郎はよもやが死ぬのではないかと肝を冷やした。
訓練で死ぬなど笑い話にもならない。
は横になったまま、自分の状態を確かめるように口にする。
「技を使った後、全集中はおろか、まともに呼吸を保つのが難しくなりました。
急激な体温の低下は、血の巡りを無理やり良くした反動、ですかね?」
「俺に聞くな……!」
死にかけておきながら、さっくりとした様子で分析するに、
杏寿郎はこめかみを抑えた。
「だいたい、そんな恐ろしい技をなぜ作った!?」
「いえ、できると思ったので、」
今までもの開発した技は、
なぜか断面がズタズタだったり、ねじ切れたような痕がついたり、
骨を粉砕するような代物だったりと物騒極まりないものばかりだったが、
使用者にやたらめったら負担をかける技はこれが初めてである。
「鍛えれば何とかなるようなものなのか、その代償は」
「あー、ある程度はマシになるでしょうが……」
歯切れの悪いに、杏寿郎は嘆息した。
びし、と指を突きつけてに通達する。
「君。その技は使用禁止だ!」
「……はい」
※
その時素直に応じたのが嘘だったかのように、
今、目の前では地獄変を展開する。
この型を使う最中、は何も顧みない。
後先考えず心拍を上昇させ、痛みすら遮断する。
体が動く限り、目の前にある標的を責め殺すことに神経を研ぎ澄まし、
刃を振るうことだけに集中する。
その姿はまさしく鬼の如し。必然、広がるのは地獄絵図。
故の“地獄変”。
杏寿郎は嫌が応にも“の本懐”を思い出さずにはいられない。
「ここで死ねばこんな私でも、人を守って死ぬことができると、
私の悪癖も人の役に立って死ねると思ったからです」
「私は“
はずっと望んでいた。
強力な鬼と相打ちで死ぬことを。
※
その一戦は、恐ろしく長い時間がかかったようにも、
あっけないほど短い間の出来事にも思えた。
はじめにが踏み込んだ勢いで土煙が立ち上る。
猗窩座の足元の羅針はを強く指し示す。
その気迫に猗窩座が笑みを湛えた瞬間、
の髪が踊り、空中に流れるような線を描いた。
地獄変・真蛇
猗窩座の腕が飛んだ。
瞬時に再生される間に今度は足が飛ぶ。また再生する。
首を狙われて仰け反り躱し、距離を取ろうとする前にまた刃が飛んでくる。
攻撃に転じる前に足が、手が、切り落とされる。
「
髪の隙間から覗く見開いた目が、猗窩座を睨む様はまさしく能面の般若。
いや、それより深く鬼と化した女に見える。
「……! 面白い!」
凄まじい速さで行われる攻防。間違いなく己の命をかけての最後の果し合い。
拳を交え、蹴りを入れ、刃を振るわれ躱す中、
の一挙手一投足が洗練され、研ぎ澄まされていくのがわかる。
猗窩座は景色が遠のいていくような錯覚を覚えた。
のあまりにも深い集中に同調するように
羅針は展開し、猗窩座自身もとの戦いに没入する。
それは刃で刃を研ぐような、研鑽にも似ていた。
かすめた技からですら恐ろしく鋭い、痺れるような痛みが走る。
薙刀の先についた黒い粉が、肉を再生するたびに爪立てるように疼く。
は猗窩座の技を最低限避けてはいるが、
少しの負傷なら気にも留めないと言った風情だ。
腕も足もズタズタになりながら向かって来る。
幾人もの鬼狩り、柱を屠ってきた猗窩座だが、これほどまでになりふりにかまわず、
凶悪な技を使う相手に当たったのはが初めてだった。
何より、薙刀がもたらす全身の神経という神経が断裂するような強烈な感触は
今まで味わったことのない激痛。
だがそれすらも、猗窩座は愉しんでいる。
力のぶつかり合いに心を躍らせた。
“鬼気迫る”とはこのことを言うのだと。
人にあって人に非ず。
武において並々ならぬ才気を持った、選ばれた者だけが
“人ならざる領域”に手をかけることを許されるのならば、
確かににはその資格があった。
猗窩座は奇妙な感慨に笑みを深くする。
鬼舞辻無惨の血を分けられたわけでもない、
ただの人間であるところのを、同類として見ている。
この女は鬼だ。
地獄変・般若
ちぎれ落ちた腕から血を滴らせながらの嵐のような猛攻。
それでいながらの体幹は崩れない。
その所作に疲弊も何も感じられないのは、が後先を考えていないからだ。
この一瞬に全てをかけている、煌々と命を燃やしている。
猗窩座にもそれは理解できていた。
振り抜かれた刃が猗窩座の胸を裂く。
なんという苦痛! なんという愉悦!
惜しむらくは、この女の肉体が人間であるがゆえに、
必ず終わりが来ると言うことだ。
この攻防を一分一秒でも長く続けていたいというのに!
地獄変・生成
猗窩座の頭が半分吹き飛ばされた。
ここに来て、技の威力が上がっている。
瞬時に再生した猗窩座も負けじと、の頭を狙い拳を放つ。
は最小限の動作で避けようとした。
紙一重避けきれず、の耳の半分と髪の一房が弾け飛ぶ。
血が噴き出す。だが、は悲鳴一つあげない。眉一つ動かさない。
この女、痛みを感じていないのか?
猗窩座はの目の奥、金色の炎が、一際美しく輝くのを見た。
刹那、は血を流した左腕を大きく払う。
尋常でない量の血煙が猗窩座の目を覆った。
呼吸を使って血の巡りを良くしての、捨て身の目潰し。
地面が一気に真っ赤に染まる。
そうして作った一瞬の隙。
の薙刀が回転しながら振り上げられる。
噴き上げるような黒い炎を幻視するほどの一撃。
地獄変・泥眼
轟くような音を立てて、猗窩座の腹を、薙刀が貫いた。
「かは……っ!?」
猗窩座は串刺しに地面へと縫いとめられた。
遠心力もあったとはいえ、片腕の女とは思えぬ膂力は驚嘆に値する。
限界を超えた、命を引き換えにするような振り絞られた力。
迫るの目が、弓なりに細められた。
※
猗窩座は人間を侮っている。
だから技を受けてから再生して、攻撃するような真似をする。
相対する人間の身につけた、武芸、呼吸の真髄すべてを吐き出させようとする。
まるで鬼である優位を楽しむように。
人の修練を嘲笑うかのように。
そっちがその気ならそれでいい……目にものを見せてやる。
は猗窩座の慢心に憤るとともに、それを唯一付け入る勝機と見たのだ。
串刺した猗窩座を前に、は腰に下げた短刀を抜き、踏み込んだ。
今ならその首を落とせると確信して。
地獄変――
だが、が最後、とどめの技を展開しようとしたその時、
猗窩座を貫いた薙刀の柄が音を立ててへし折れる。
拳で鉄の柄を砕いたのだ。
驚愕に目を瞬いた瞬間、の手に衝撃が走った。
振るった短刀は確かに猗窩座の首に食い込んだが、その刃も拳撃で折られてしまう。
飴細工のように刀身が壊れてしまった。
あぁ……! 届かない……!
の眉が絶望に顰められる。
私ではこの鬼を地獄へ落とせないのか――。
でも――。
はとっさに距離をとる。
猗窩座はそれを追った。
ほとんど丸腰で満身創痍のの目前に拳が迫る。
避け続けるのは難しい。の体力はすでに限界を超えている。
鉄を砕いたような拳で殴られれば、
人間の頭など瞬く間に潰されてしまうだろう。
「ふふ」
しかしは逆光の中で、笑った。
猗窩座は目を見開く。
の表情が状況にそぐわぬほど穏やかだったからではない。
“逆光”
の後ろから背光のように光が差す、
雲の隙間から細い光が漏れ出している。
猗窩座の前に、遠ざかっていた景色が戻ってきた。
空が白み、夜が明けはじめている。
猗窩座は自身が深い集中に陥っていたことで、興じ過ぎたことで、
時間の経過を忘れていたことに気がついた。
最初からの狙いは、朝日で猗窩座を焼き殺すことだったのだ。
羅針は強くを指し続けている。影から遠い。逃げ遅れる。
「お前……!!!」
覚えた怒りに任せ、猗窩座は最後の攻撃を仕掛ける。
もうにそれを避ける気力はない。
拳が届くまでの刹那、は勝ち誇った笑みを浮かべる。
どんなに強靭だろうとも、私の刃を砕けても、
鬼である限り、日輪を殺すことはできない。太陽には勝てない。
鬼は黎明に焼け落ちる運命。ここから先は人間の時間。
猗窩座は私以外の命を奪えない。
私は人を守って死ねる。
は柔らかく言った。
「“おはようございます”。往生なさい」
けれど、朝日がその場を照らしきるより先に、
が目を閉じる前に、めらめらと燃える炎が見えた。
まるでそれは日が昇るように。
斬撃が円を描く。
炎の呼吸 弐ノ型 昇り炎天
両断された猗窩座の拳が宙を舞った。
杏寿郎の体がと猗窩座の間に入り、太陽を遮る。
我に返ったように猗窩座は一目散に日光に背を向け、
身を焦がしながらも、その場を走り去っていく。
が最後に見たのは、
朝日に照らされ
――結局、私は最後まで、守ってもらって終わるのだなぁ。
の身体は五感を全て放棄したように
立つこともままならず無様に地面へと崩れ落ちた。