君の心 私知らず
はなんとか一命をとりとめた。
父親の明峰が丸一日掛かりの手術を自らやって、
の命を救ってみせたのだ。
手術の助手を務めた胡蝶しのぶは「これは奇跡のようなものだ」と感嘆する。
が一命をとりとめたのにはいくつか要因があった。
全集中での止血を行なったことで、
ぎりぎり失血死しないですむ量の血を体にとどめて置けたこと。
自身が鴉に頼んで医者の応援を呼んでいたことが幸いし、処置が迅速にできたこと。
そして執刀医が他ならぬ明峰であったこと。
「こんな言い方をするのは、却ってよくないのかもしれませんが、
……“神業”でした。先生がもともと優れたお医者様とは知っていましたが、
まさか、あそこまでとは」
ただ、その神業を持ってしても出来たのは命を繋ぐところまで。
がいつ目覚めるのかはわからないのだと言う。
もしかしたら明日起きるかもしれないし、一週間後かもしれない。
一月、一年、それ以上かかっても、
あるいはずっと寝たきりでもおかしくはないとのことだった。
杏寿郎はしのぶからそんな説明を受けても、のことだから
もしかしたらけろっとした顔で、人の心配など全く素知らぬ様子で
起き上がったりしているかもしれないと、思ったりもした。
しかし、杏寿郎が様子を見に行っても、
そこにはたくさんの管に繋がれた人形のような女が眠っているだけで、
生きているとは会えなかった。
朝に行っても、昼に行っても、夜に行っても会えなかった。
だから夜に病室を抜け出した杏寿郎が
その日に会ったのも、ではなかった。
の父親、明峰が
娘の手を取って何か話しかけている。
杏寿郎は部屋には入れず、ただ、立ちすくんでいた。
明峰は部屋の入り口に佇む杏寿郎に気づいた様子もなく、
眠るに話し続ける。
「、すまないなぁ、お父さん頑張ったんだけど、
お前がいつ目覚めるかはわからない。あとは次第だ。
辛いかもしれないが、頑張ってくれ」
穏やかな声で娘を励ますと、明峰は静かに溜息を零した。
「……お前のお母さんを亡くした時、
こんな想いはもうしたくないと思ったんだけどなぁ」
これは自分の聞くべきことではないと、杏寿郎はわかっていたのだが、
踵を返そうにも、どういうわけか縫いとめられたように、
足が全く動かなかった。
そうこうしているうちにも、
明峰はどこか淡々とした様子で娘に独白する。
「私のできることは、もっとあったはずで、
他の医者なんかに任せなきゃ良かった、判断を誤った、
私の知識や技術が足りなかったから、月乃さんを亡くしてしまったと後悔してね、
がむしゃらになって勉強した」
「小さい頃のに医学を教えたのは、私と同じ思いをさせたくなかったからだ。
誰か、大切な人ができたなら、それがどんな相手でも、
きっと長く一緒に居たいと思うだろう?
お父さんと同じように、自分の無力に苦しんで欲しくなかった」
「お前は覚えが良くってなぁ、いつもお父さんの手伝いを買って出てくれて、
とてもとても助かっていたよ」
優しかった声が、低く沈む。
「でも、にはもっと、自分のことを考えてほしかった」
明峰はの頰を撫でる。
「鬼殺隊への入隊を押し切られてしまって、心配だった。ずっとだ。
それでもお前に薙刀の才があるのは宝田さんからお墨付きを頂いてたし、
何よりはいつも私の前では元気そうだったから、」
確かには明峰の前では努めて明るく振舞っていた。
悪癖のことも隠し通し、うわべだけでも
明峰の誇れる娘でいられるようにと努力していた。
「『お父さんみたいに沢山の人を助けるため、頑張ってるんだ』と
誇らしげに言うものだから、私はお前を、止められなくて、」
だが、明峰が望んだのは“誇らしい娘”ではなかった。
「なあ、、お父さんはね、お前が生きてさえいればそれで良かった。
お父さんはに、こんな……、傷だらけになって、
……自分の命を投げ打ってまで、誰かを助けて欲しいとは、
思ってなかったんだよ……、……」
涙を流す明峰に、杏寿郎がかけられる言葉は何もない。
ようやく動けるようになった足を進め、
その場を後にしながらも、血のにじむほど強く拳を握る。
生きていたら、どうにもならないことがあることは、とうの昔に知っていた。
人は弱い。脆い。衰えて、すぐに死ぬ。だからこそ美しい。愛おしい。守りたいと思う。
故に、守るべきものに守られたことが、狂おしいほどに悔しい。
歯を食いしばって前を向かねばならない。
これも糧に自分も心を燃やさねばならない。
うずくまるのは時間の無駄だ。
泣こうが喚こうが平等に時は過ぎていくのだから。
わかっている。わかっているのだが。
それなのに、花の綻ぶように、勝ち誇ったように笑った顔が網膜に焼き付いて、
うわ言のように、か細く告げられた告白がいつまでも耳の奥に残って、
杏寿郎の感情を揺さぶってならないのだ。
だから今、杏寿郎は自分の進み方を模索している。決断できずにいる。
「君は、今の俺の体たらくを見ても、」
煉獄杏寿郎はひそやかに言葉を飲み込んだ。
※
「煉獄さん、またですか」
杏寿郎を呼びに、しのぶがの病室に行くと案の定、
の眠る寝台のそば、杏寿郎が椅子に腰掛けている。
「あなたも無傷というわけではないんですから。
いくら治りが早いとはいえ、病室を抜け出すの、
いい加減やめてもらいたいのですが」
杏寿郎の怪我の治りは、異様なまでに早かった。
どうやら呼吸を使ってかなり代謝をあげたらしい。
目を潰され、内臓や骨を痛めていたと言うのに、驚異的な回復を見せたのだ。
まさに呼吸を極めた“柱”の面目躍如と言ったところであるが、
体の方は回復しても、心の方はどうだろうか、としのぶは杏寿郎を伺った。
「すまない」
杏寿郎はしのぶに謝罪するが、行動を改める気のないことはすぐにわかる。
眼差しはずっと、眠るに向けられており、心ここに在らずと言った風情だ。
しのぶは嘆息すると、杏寿郎に告げる。
「煉獄さん、自宅で静養してください。
薬は隠の方に届けてもらうようにしますから」
ようやく振り返って目を合わせた杏寿郎に、しのぶは目を眇めた。
顔色は悪くない。表向き特別弱っている様子はない。
しかし、こんなに覇気のない煉獄杏寿郎を、しのぶは見たことがなかった。
「しばらく、さんとは物理的に距離を置いて冷静になるべきです。
起きる時は起きるし、起きない時は起きません。
毎日ずっと見てても、ダメなものはダメです」
「そうか」
「……煉獄さん」
諾々と受け入れる杏寿郎に、しのぶは思わず呼びかける。
そこでようやく、杏寿郎は表情を動かした。
「すまん胡蝶。今の俺が不甲斐ないことはわかっている」
杏寿郎は苦く笑う。
しのぶもへと目を向けた。
動かず喋らないからは、全く人間味が感じられない。
なまじ顔立ちが整っているばかりに、
よく出来た人形が寝台に寝そべっているようで、どこか不気味な気さえする。
それが動いて喋り出すと腹が立つほどこちらの感情を揺さぶってくるのだ。
良くも、悪くも。
だからこそ、こんなにも物寂しい気分にさせられるのかもしれない。
しのぶは少しばかりの間を置いて、杏寿郎に発破をかけるように言った。
「さんが起きた時、そんな調子だと煉獄さん、
死ぬほど揶揄されるんじゃないですか」
「だろうな。君は減らず口ばかり叩くから、」
杏寿郎はしのぶの言葉に頷いて、目を伏せる。
「まさか俺が、その減らず口を恋しく思う日が来ようとは、
夢にも思っていなかった」
瞬いたしのぶに、杏寿郎は言う。
「俺も君と同じだ。君が苦手だった。
彼女はいつでも人を嘲弄する態度で、滅多に自身の本心を明かさず、
そのくせ簡単にこちらの心に踏み入って、良くも悪くも感情を波立たせてくる」
どこか苦しげに、杏寿郎はを見る。
「俺はいつも、彼女の前では平静で居ることが難しい」
しのぶは吐露された言葉をどう受け止めるべきか考えあぐねた。
杏寿郎の言葉は、言葉通りの嫌悪感をに覚えているというよりも、
別の感情の発露に聞こえる。
しかし、それを杏寿郎自身がわかっているかどうかは怪しい。
また、今はそれを指摘するべきでもないと、
しのぶは当たり障りのないことを返した。
「……でも、煉獄さんはさんを立派に育て上げたじゃありませんか」
は杏寿郎と共に上弦の参を退けた。
乗客、後輩を守り抜いた。誰も死なせなかった。
その成果は素晴らしい。
杏寿郎もそれはわかっているのか、しのぶに力なく微笑んだ。
「そうとも。俺は本来、喜ぶべきなのだ」
だが、その声には何の感情も乗っていなかった。
ただ淡々と、自身の弟子を空虚に褒めそやす。
「上弦の参との戦いで、君は柱に匹敵する活躍をした。
それはもう、見事な戦いぶりでな。あの場にいた誰より立派だった。
俺の教えたことを完璧にこなしてみせた。
継子として、副官として、彼女は最高の成果を上げたのだ。
師としては誇らしく、喜ばしいと、思わねばならんのだが」
杏寿郎の声が低く、唸るようなものになった。
「しかし、全く納得がいかん」
がり、と奥歯が噛み締められた音が、聞こえたような気がした。
「守るべきは俺で、俺は彼女に、守られてはいけなかった……!」
腹の底からの苛立ち、恐ろしく深い後悔が覗いたのは一瞬のことで、
振り向いた杏寿郎はしのぶに、いつも通り、ほんの少しの笑みを浮かべて尋ねる。
「通いで見舞うのは構わないかな、胡蝶」
「……毎日とかはダメですよ。
あくまで静養中だと言うことを、忘れないでくださいね」
「わかった」
頷いてから、杏寿郎は自身の病室に帰って行く。
しのぶはそれを見送って、眠り続けるの顔を見遣る。
生きているのか死んでいるのか分からない、その頰を指でなぞった。
「あなた結構、罪作りな人ですね、さん」
早いところ起きた方が身のためですよ。
そう言ったしのぶの声にも、返事は返ってこなかった。