地獄変・泥眼

晴天・黒衣の君

仮面の下

煉獄邸に戻った杏寿郎を出迎えたのは弟の千寿郎だった。

「おかえりなさい、兄上」
「ただいま、千寿郎」

どこか淡々と、挨拶を交わす。

千寿郎も蝶屋敷に見舞いに訪れていて、杏寿郎とが上弦の参を退け、
その結果どうなったかは知っている。

杏寿郎の目が潰れたのを知った時は、
当の杏寿郎がかわいそうに思うくらい青ざめていた。

の左腕が失われたのを知った時は泣いていた。

眠るの失われた腕から視線を離さずに、涙をこぼす千寿郎を見て、
随分とまあ、弟はに懐いていたのだなぁ、と
杏寿郎はどこか冷えた頭で考えていた。
血塗れのを怖がっていた当初のことが嘘のようだった。

はいつの間にか、煉獄家に溶け込んでいたらしい。

千寿郎曰く、槇寿郎ですら、
が左腕を失くし、昏睡状態に陥ったと知った時は言葉を失っていたそうだ。
杏寿郎はいつもはわからない父親の気持ちが、なんとなくわかる気がした。
確かには殺しても死ななそうな人物だった。

実際はそんなもの、思い込みに過ぎなかったのだが。

いつもとさほど変わらないはずの
煉獄邸がやたらに広く感じるので、杏寿郎は静かに溜息を零した。



しのぶと明峰から静養を申し付けられていた杏寿郎だったが、
柱としてこなさねばならない仕事は鬼殺以外にも山ほどある。

常ならば柱に準じる地位である副官の
事務仕事の6割をこなしてくれていたのだが、今回はそうもいかない。

正直なところ、やるべきことがあることに、
杏寿郎は救われているところがあった。

ろくに体を動かせぬ状況で、何もすることがないと、
いつまでも、考えても仕方のないことばかりが脳裏をよぎる。

文机に向かい、淡々と文字を連ねているうちに、
こなさなければいけないものは、全て終わらせてしまっていることに気がついた。

外を見れば随分と暗い。月も眩い。
杏寿郎は仕事に没頭し過ぎていたらしい。

だが、眠る気にもなれなかった。

最後まで後回しにしていた日誌を書かねばならないか、と手を伸ばした時に、
ふと、声がした気がした。

『遺書代わりなんですよ』

それは、の声だった。



杏寿郎はいつかの訓練に入る前、
珍しくあくびを零したを見たことがあった。

そういう隙のようなものを、が見せることは滅多にないので、
思わずまじまじと見入ってしまう。

は杏寿郎の視線に気づくと、恥じ入るように視線を泳がせた。

「……失礼しました、ついつい夜更かしをしてしまいまして」
「いやすまん、こちらもつい見てしまった! 珍しいな!」

杏寿郎の感想に、は気恥ずかしそうに眉を下げる。

「昨晩は、日誌を書く手が止まりませんでね」
「そんなに書くことがあるのか?」

日誌に書くのは必要最低限のことばかりで、
たまにその日食べたものを書くだけだった杏寿郎が首をかしげると、
はニィ、と面白がるような笑みを作った。

「遺書代わりなんですよ」

ギョッとした杏寿郎をクスクス笑いながら、は言葉を続ける。

「いちいち手紙をしたためるのは面倒なので、
 私の考えていたこととか、毎日をどう過ごしていたかとか、
 そういうことを日誌には書くようにしているのです。
 もちろん、提出を求められた時のための、事務的なものも別に用意してありますが」

そして、杏寿郎を伺い、は笑みを浮かべたまま小首をかしげた。

「煉獄さんは書かないんですか、遺書?」

「結構縁起でもないことを言うよな、君は!」

杏寿郎は呆れ混じりにを咎めた。
それから腕を組んで、に向き直る。

「君のやり方を否定する気は無いが、
 俺は言いたいこと、言うべきことは生きているうちに全て言うからな! 
 死んだ時のことを考えて行動するのは、どうも後ろ向きな気がする!」

は何がおかしいのか小さく笑うと納得したように頷いた。

「ふふ、煉獄さんらしい答えですね。
 こういうお仕事ですし、いつ死んでもおかしくないなら
 何か残しておくのもいいと思うんですけどねぇ」

携えていた薙刀を手慰むようにくるくると回す。

「私は煉獄さんと違って、生きているうちには言えないことも、
 まあ、一つや二つ、あるわけです」

はそれ以上は有無を言わせぬ笑みを作って、杏寿郎に言った。

「さあ、そろそろ訓練をお願いしますよ。
 寝不足だろうがなんだろうが、鬼は手加減してくれませんから、
 どうぞ、いつもの通りに」



杏寿郎は目を眇める。
思えばは常に死を意識していた。

の言っていた「生きているうちには言えないこと」
それが、あのか細い告白だったのだろうか。

あれを聞いて、杏寿郎はのことを全く知らなかったことに気がついた。
知っていたと思っていたことの全てが上っ面だったように感じる。
上官として、師範として、おそらくの一番近くに居たと言うのに、
煉獄杏寿郎はのことをなにも知らない。

 ――なにも、だ。

杏寿郎は立ち上がり、何かに突き動かされるようにの部屋へと向かった。

主人のいないの部屋は整頓されながらも、
どこか当人らしさを残している。

立派な裁縫箱にはハサミや針、色とりどりの糸、端切れが几帳面に揃えられているし、
文机周りにはの描いた解剖図、分厚い外国の医学書なんかが積み上げられている。

その部屋には年相応の娘らしい顔と、鬼殺隊の隊員としての顔が混在していた。

積み上げられた書物の中に、随分墨を吸った日誌を見つけて、
杏寿郎はそれを引っ張り出した。
文机において、杏寿郎は日誌を開こうとし、一度手を止める。

杏寿郎は今更ながら、自分はあまりよろしく無いことを
しでかそうとしているのでは無いか、と葛藤を覚える。

は日誌を遺書代わりとうそぶいていたが、何よりは死んでない。
だが、杏寿郎はこの状況で、遺書として日誌を読むのは御免だった。

そしてどうしても、がなにを思っていたのかを知らないと、
いつまでも前に進めないような気がしていたのだ。

「ごめん!」

結局、一声謝った後、
杏寿郎の手が、ページをめくった。



の日誌には、鬼についての研究と考察、
自身の訓練の成果、任務の経緯の他に、
笑顔の下にしまい込んでいた感情の全てが綴られていた。

どうしようもない加虐衝動が少しずつ抑えられていくまで。
季節の移り変わりの美しさ。

取るに足りない些細な時の流れを捕らえながら、
人と関わった時間を噛みしめるように、文字が連なる。

胡蝶しのぶとの和解を喜び、
煉獄千寿郎に刺繍を教えて楽しみ、煉獄槇寿郎と将棋を打って打ち解け、
竈門兄妹の心の強さを尊び、後輩たちに技術を伝えることの難しさを嘆き、
明峰からの深い愛情を面映く思いながらも応えようと努める。

そして、いかなる文字の端々にも、煉獄杏寿郎への深い感謝と思慕が溢れていた。

 私は人らしくなっていく。あの人のおかげで変わっていく。
 あの人の継子である自分を少しずつ誇らしく思えるようになった。
 少しでもこの恩を返さなければ。どうやって返そう?
 こんなに幸せにしてもらって、私はどれだけ報いることができるだろう?

 あんなに無理をする人はいつか早死にする。
 あの人が見ていてくださるから、なんとか、私は頑張れるのに。
 死なせたくない。
 長じて幸福になるべき人だから、怪我を負っても病に伏しても、
 私に治せるものなら全部治してあげたい。
 父を見習い、医学の方ももっと頑張って勉強しなくてはいけない。
 
 親子関係に口を出すのはお節介だと分かっていたが、
 せめてこの邸宅にいる間はあの人が心を休められるようにしたい。
 気を張らないでほしい。
 いつでも笑っていてほしい。過ぎ行く日々を和やかに過ごしてほしい。
 こんな仕事を生業にしているから、難しいのかもしれないけれど、
 もしかすると私こそが悩みの種になっているのかもしれないけれど、
 あの人の背負った責務が、少しでも軽くなるように。

 副官に昇進できて良かった。
 これでもう一人でなんて戦わせない。
 無理なんてさせない。ちゃんとお手伝いができる。

 ――いつか、私が悪癖を克服したら、背中を預けてくだされば良いのだけれど。

杏寿郎は日誌を読み進める度、嘘だと思った。

という人は、いつでも人を食ったような言動で。
目に見えるもの全てを嘲弄するような態度で。

しかし、日誌に綴られた文字は何度読み返しても変わらない。

「君が綴るのは人のことばかりじゃないか」

気づけば言葉が口から溢れていた。いてもたってもいられなかった。
混ぜ返された感情がぐつぐつと、腹の底で煮立っていく。

「どちらが傲慢で薄情だ。なにが遺書代わりだ、」

思い浮かぶのは満足げに微笑んだの顔だ。
焼き付いて離れなくなった、命も心も燃やしてみせた、あの顔。

 まわりくどいにもほどがある。
 こういうことは面と向かってはっきり言え。馬鹿。ふざけるな。
 何も返せてないのはこちらの方だろう。明峰さんも苦しめて、
 そもそも挑発するなと言うのに散々鬼を挑発して、身勝手に身を呈して、
 俺がどんな思いを、君のせいで、俺は、君は……!!!

「その百分の一でも、自分を慮れば良かったのだ!!!」

杏寿郎は日誌を放り投げそうになるのを堪え、
元の位置に戻すと立ち上がった。



「兄上?! どうしたんですか……!?」

怒声に驚いて様子を見に来た千寿郎が、
振り返った杏寿郎の顔を見て目を丸くする。
杏寿郎がこのように、眼光鋭く激している様を千寿郎は見たことがなかった。

「千寿郎、俺は明朝、御百度を踏みに神社に詣る」
「ええ!? そんな、療養中なんですから、安静にしてないと、」

無茶を言いだした杏寿郎を千寿郎は諌めるが、
杏寿郎は首を横に振った。

なんなら今すぐにでも動きたいのを堪えているようですらあった。

「傷は塞がっている。 
 完治にはあと数週間かかるが、気合いで治す。
 俺も腹を決めた。
 何よりここで何もせずにいると身体が治っても気が狂いそうだ」

淡々と言っているからこそ、
杏寿郎の身の内に、激しい感情が渦を巻いているのがありありとわかった。

「頼む。止めてくれるな」

頭を下げた杏寿郎に、千寿郎は息を飲む。

「兄上……」
「願掛けでもなんでもする。は絶対に起こす。起きてもらわねば困る」

顔を上げた杏寿郎は、常の通りの笑みを浮かべて、朗々と言った。

「さもなければ、俺が怒れないからな!!!」

千寿郎は瞬いた後、微笑んだ。

「なら僕も、付き合いますよ」

二人で怒りましょう。
そう言った千寿郎に、杏寿郎は力強く、頷いた。