地獄変・泥眼

晴天・黒衣の君

赤縄結び

胡蝶しのぶは目の前に座るを見て、
「やはりこの人は、言動で損をしている」と
誰に聞かれたわけでもないのに内心呟いていた。

黒の引き振袖に描かれるのは見事な枝ぶりを見せる松と紅白梅。
裾元で咲き乱れる藤の花。その合間を鳳凰が羽を見せつけるように飛んでいる。

明峰がとっておきにと誂えた花嫁衣装を締めるのは、
が千寿郎の手を借りながら刺した真っ赤な帯である。

花嫁衣装に身を包み、白い角隠しを被って紅を差したは、
黙っていればよくできたお人形のような佇まいであった、が。

「いやぁ、いまいち実感が湧かないと言うか、
 寝て起きたらとんとん拍子に物事が進む一方ですから、
 『これ、夢なのでは?』と何度も思うんですよねぇ」

喋るといつものなのである。

に化粧を施してやったしのぶは呆れを隠さず半眼になった。

「今更何言ってるんですか、当日ですよ」
「そうなんですよね、いやはや……まさかまさか、だわぁ」

未だに自分の置かれる状況に半信半疑の様子のに、
しのぶはもう何も言うまい、と化粧道具を片付ける。

「それにしても、胡蝶さまには式に出席頂いただけでなく、
 こんな風にお手伝いまでしてもらって、何やら恐縮するというか……、
 いいえ、本当に嬉しく思いますけど、」

「私も、あなたに何かしてあげるべきだと思ったのです」

かしこまった態度のに、しのぶは少しばかり目を伏せて答えた。

「直接指導できたのは短い間でしたし、
 破門した私がこんなことを言うのはおかしいのかもしれませんが、
 ……あなたは私の弟子でしたから」

は目を丸くして、しのぶを見つめている。

「蟲の呼吸、今も使っているのでしょう?」

尋ねたしのぶに、はこくりと頷いた。
幼子のような所作である。

それを微笑ましく思って、しのぶは眦を緩めた。

「鬼殺隊にいると、心が荒むようなことばかりを見聞きするけれど、
 だからこそこんな風に、たまの喜ばしい出来事が何より嬉しく思えるものです」

しのぶの言葉を受けて、の眼差しも穏やかに細められた。

かつては危うげに揺れていた金色の光も、
今は柔らかく、喜びに潤んでいるように見える。

微笑み返して、しのぶは弟子の結婚を寿ぐ。

「おめでとうございます。さん。お幸せにね」
「……ありがとうございます、胡蝶さま」

どこか照れ臭そうにはにかんで言ったに、
しのぶは少しのいたずら心を出した。

「それにしても、今日の宴席で多分、甘露寺さんあたりから根掘り葉掘り、
 馴れ初めとか色々聞かれると思いますから、覚悟したほうがいいですよ」

「えっ……?!」

がぎょっとした様子でしのぶを見やる。
その反応が思ったよりも大きかったので、しのぶは不思議そうに首を傾げた。

「あれ? もしかしてご存知なかったのですか?
 甘露寺さんは自分より強い男性を伴侶にしたいと入隊して、
 柱にまでなっているんですよ。
 甘露寺さんにとっては、まさしくさん、模範のようなものですから」

「……なんと」

甘露寺蜜璃の鬼殺隊入隊の経緯はそれなりに有名な話なのだが、
は寝耳に水だったらしい。

しかし、思い当たる節のようなものはあったのか、どこか遠い目で口を開いた。

「いや、招待した皆さまの中でも、いち早く出席の返事をくださったので、
 随分と筆まめで義理堅い方だと思っていたのですけど、
 そういう……理由なのですか?」

普段は全部を面白がっているが、随分気後れしているらしい。
その様がおかしくなって、しのぶはクスクス笑いながら口元を抑えた。

「ふふふ。頑張ってくださいね」
「えぇー……そういうの私、得意じゃないんですけどぉ」

困惑した様子のが呟いた時だ。
襖の向こうで声がする。

「胡蝶様、さん、そろそろ、」

控え室に顔を出した千寿郎が、を見て瞬いた。

このように着飾った姿を見ると、
改めて、きらびやかな人であるな、と千寿郎が思ったのもつかの間。

「ああ、千寿郎くん、これ、夢じゃないですか?」

まるで挨拶がわりに、ヘラリとした調子でそんなことを口にしたので、
千寿郎はため息を吐いた。

しのぶと目が合うと諦めたように首を横に振ってさっさと部屋を後にしてしまう。

「……義姉さん、それ何度目ですか?」

は祝言が近づくにつれて「夢では?」としきりに口にしていた。
「この後に及んで何を言っているのか」と呆れて千寿郎が問うものの、
には懲りた様子がない。

「夢ではない? いや、夢では?」

「もう! 兄上も待ちかねてるんですから! 帯も一緒に完成させたでしょう!?」

千寿郎が焦れて叱ると、は面白がるように目を細めた。

「ふふ、そうでしたね、ありがとう千寿郎くん。それにしても……」

板張りの廊下から見える空は快晴で、朝日が差し込んできている。
風もさほどなく、穏やかな天気だ。

「いいお天気だこと」

しみじみと呟いたに、千寿郎も和やかな気持ちで答える。

「兄上は晴れ男ですから」
「あはははは!」

千寿郎は思わず振り返った。
は白い歯を零して、高らかに笑っている。

「失礼、つい、おかしくて、ふふふっ! ぴったりですねぇ!」

「――はい。そうですね」

千寿郎は微笑んで頷いた。

千寿郎の先導にしたがって、はまず明峰の待つ部屋へと移る。
祝言は父親への挨拶から始まった。



「いやぁ、いつかこんな日が来るんだろうなと思っていたけど、
 まさかこんなに早いとはなぁ」

明峰はに懐刀と 筥迫 はこせこ を渡すと、深く感じ入るように呟く。
はと言うと、どこか他人事のように明峰に頷いた。

「私も未だ、あまり実感が湧いていないのが本音です」

「ハハハ、そうか。まあ、その辺はおいおい、慣れていくと思うよ」

明峰はめかしこんだに満足そうな顔で腕を組んだ。

「月乃さんと祝言を挙げた時、
 こんな素敵な人はどこにもいないだろうと思っていたけど、
 今日のは負けず劣らず、きれいだね」

「ふふ、ありがとう、お父さん。
 でもお母さんはそんなことを言って怒らないかなぁ?
 何しろ夢に出てまで、お父さんのことを泣かすなって言われたんだから」

が肩をすくめて言うと、明峰はやれやれとため息を零した。

「……が大変な時だったっていうのに、しょうがない人だよ、月乃さんは」

月乃が昏睡状態に陥っていたの夢に現れた際、
告げた言葉は明峰のことで、娘の心配などこれっぽっちもしていなさそうだった。

だが、何しろ夢は夢である。
の夢に現れたのが月乃の魂そのものだとは限らないが、
明峰には大いに心当たりがあったらしい。
 
「何度聞いても彼女らしいけれど」と一人呟いて苦笑している。

明峰は気を取り直したように顔を上げて、朗らかな笑みをに向けた。

「でも、今日くらいは許してくれるだろう。
 私たちの娘のめでたい日だから」

自身の懐に入れた月乃の写真を確かめるように触れながら、
明峰はの顔を見る。

「……月乃さんが亡くなってしまって、悲しくて、辛くて、どうしようもなかった頃、
 生まれたてのお前が、私の指を握ってくれた。人の気も知らないで笑ってた」

黙って明峰を伺うに、慈しむように告げる。

「その笑い方がなぁ、あんまり月乃さんにそっくりで」

どちらかと言えば、の面差しは明峰に似ている。
目の形や、唇の感じなどは周囲からもよく指摘されるほどだ。

「……そうなの?」

意外そうに瞬くに、明峰は頷いた。

今でも目を細めて笑うときのには、月乃の面影が残っていることを明峰は知っている。

血の繋がりがあるとは言え、別個の人間である。

似通ったところがあることさえ不思議なのに、
どうしてろくに見たこともないだろう母親のような笑い方をするのかと、
若き日の明峰は赤ん坊のを見て、首を傾げた覚えがある。

月乃はいつも、からから笑う人だった。
悲しい時も辛い時も、笑って頑張ろうと明峰の背中を押してくれる人だった。
つられるように、いつのまにか明峰もよく笑うようになった。

そして、もう二度と笑えなくなりそうだった時に、
月乃の忘れ形見が同じように笑っていた。

「その笑顔を見たときに、が私の生きる希望になった。
 お前のために生きようと思った」

息を飲んだに、明峰は眉を下げた。

「私はずっと勉強ばかりしてきたから、女の子の喜びそうなこととか、必要なものとか、
 そういうのが全然わかってなくて。
 いろんな人に聞いて回ってなんとかやってきたけど、何かと不自由させたと思う。
 ……お前の苦しみにも気づいてやれなかった、至らない父親だったが、」

「そんなことないです」

は苦笑する明峰に首を横に振って、凛とした声で、はっきり告げる。

「私は、お父さん、あなたの娘で幸せでした」

「……うん。ありがとう。
 私も、が娘に生まれてきてくれたこと、
 ここまで立派に育ってくれたことを、何より嬉しく思います」

明峰の目に、うっすらと涙が滲む。
しかしすぐに拭って、いつものように微笑んだ。

「杏寿郎君と幸せになりなさい」
「はい」

はにかんで笑うに、明峰は明るく声をかける。

「まあ、万が一の時はいつでも戻ってきてくれて構わないからな!」

の笑みが引っこんだ。
せっかくめかしこんだ顔を顰めて、明峰の肩を軽く叩く。

「ちょっと、縁起でもないこと言わないでよ! 
 絶対嫌ですからね! 戻りません!!!」

「ハッハッハッハ! 冗談冗談!」

娘が半ば本気で怒っているのを見て明峰は快活に笑うと、
すっくと立ち上がり、に手を差し伸べた。

「君たちならきっと大丈夫だよ。名残惜しいけれど……さぁ、行こうか」



おそらく、こうも浮き足立つのは最初に炎柱を拝命した時以来だろうな、と
杏寿郎は表面上は冷静を装いながら考えていた。

この日が来るのをどれほど待ちわびたか定かでない。

柱に戻った瞬間「明日か、明後日か、可能な限り早く祝言をあげよう!」と
提案した杏寿郎には呆れていたようだった。

しつこく迫った杏寿郎にも言い分がある。

鬼殺隊に属している以上怪我はつきものだ。
お互い無事でいるうちに、一刻でも早く夫婦になっておきたかったのである。
だと言うのには「あなたは段取りというものを知らないんですか?」と嘆息するばかりであった。

それどころか
「祝言前に炎柱ともあろう方が鬼に怪我を負わされるようなヘマをするんですか? へえ?」
などと杏寿郎を煽って来る始末だ。

「そこまで言われては沽券に関わる」と、
乗せられてしまった杏寿郎も杏寿郎であった。その自覚もある。

しかし困ったことに、そこまで悪い気がしていない。

 特に、無事に今日を迎えられた今となっては。

考えに耽っていた杏寿郎を引き戻すように厳かな調子で笙の音が響いた。

空気が変わる。

明峰に手を引かれた花嫁姿のが見えた時、誰かが息を飲む音が聞こえた。
それが杏寿郎自身のものだと気づくのに、さほど時間はかからなかった。

を彫刻に例えたと言う、好々爺を装った薙刀師範に今なら頷いてしまいそうだ。
歩くたび、日本髪に差した藤をかたどる金のかんざしが
シャラシャラと涼やかな音を立てる。

そこにいる人が、どこぞの錦絵から逃げ出してきたのだと言われても、
きっと驚かなかっただろうと思った。

客席にいた宇髄天元がそこそこの声で「派手に化けたな……」と零して、
彼の妻の一人にたしなめられているのが遠くで聞こえる。

見入ってる間に横に並んだ。伏せられていた目が開く。
杏寿郎と目を合わせて、は面白そうに小声で言った。

「頭のこれ、“角隠し”。私の角、これでちゃんと隠れると思います?」

喋ると全く、常の通りのである。

「……全く治らんな、その軽口は。君に角なんて生えてないだろう」

一瞬で緊張が解れ、むしろため息を堪える杏寿郎に、は小さく笑っている。

杏寿郎は気を取り直して、何度も口にした言葉をまた告げる。

「君は人だ。君が知っての通りに」

誰がなんと言おうが、は人だった。
そればかりは全く譲れないと、杏寿郎は強く言い切る。

はそれに応えるように、自信に満ち溢れた笑みを浮かべる。

「ええ、あなたと同じ、人ですね。よく存じ上げておりますよ」

どこか清々しい顔だった。
口元だけを笑みの形に歪めた、仮面のような笑顔ではない。

被っていた面は、杏寿郎がすべて剥ぎ取ってしまった。

に微笑み返して、杏寿郎は朱塗りの盃に手をかける。

三々九度の盃に、透明な酒が注がれる。

過去の巡り合わせに感謝を込めて、
現在を噛みしめるように生きていくことを誓って、
未来を必ず手に入れるために、二人は盃を傾けた。



固めの盃を呑んで、一度式はお開きになった。
少しの間を置いて、宴席を設けて祝言は終わる。

控え室に移ったは、窓を開けて外の空気を大きく吸うと、深く息を吐いた。
それから横に並び立った杏寿郎にギリギリ聞こえる程度の声で、ぼそりと呟く。

「まだ、夢じゃないかって気がします」
「気持ちはわからんでもないが、現実だぞ!」

確かに、こんな日が来ることを継子に迎えた時には、
夢にも思っていなかったが、と
まだ日の高い空を眺めているを横目に伺う。

式に出席した柱の面々も宴席まで残るのはごくわずかであるが、
天元などは式の最中からニヤニヤと杏寿郎のことを見ていたから
継子に手を出したとか何だと、散々からかってくることだろう。

ただし、も天元の零していた「派手に化けたな」という言葉を
聞き捨てならなかった様子だ。
「ところで宇髄さまってば、失礼千万ではありません?」と頰を膨らませている。

「でもまあ、あそこで宇髄さまに
 『ぶっ飛ばしますよ』とか言わずに済んで良かったですけど、
 少しは話す機会もありますでしょうからねぇ、ちょっとやり返したい気分です」

しまいにはそんなことを言い出しているので、
宴席では多少の舌戦が発生するかもしれない。

「ほどほどにな!」

きっとなだめる羽目になるのだろう、と嘆息した杏寿郎に、が顔を向けた。

「それはさておいて……杏寿郎さん」
「なんだ?」

首を傾げた杏寿郎に、は真顔で告げる。

「共白髪になる前に、先に死んだら許しませんからね」

どことなく鋭い声色だった。
瞬く杏寿郎に、はどこか悩ましげな調子で眉をひそめる。

「鬼殺隊の柱というのがどのような立場かは、重々承知しておりますし、
 鬼殺にあたって無傷でいられることの方が難しいことも存じておりますが、
 やはり、ええ、嫌なものは嫌ですから」

黙ったままの杏寿郎に何を思ったのか、
は一人頷くと、やたらきらきらとした笑顔を浮かべて見せた。

「危機感を持っていただくために、縫い傷一つごとに栄養注射を一本打ちます」
。それはもしかしなくても、君の趣味だよな?!」

杏寿郎が指摘するも、は真面目くさった顔を作って
大げさに首を横に振った。

「いいえ、危機感を持っていただくためです。――精一杯痛くしますから」
!」

咎める杏寿郎に、はふぅ、とわざとらしく息を吐く。

「だってねえ、あなたが老いさらばえてハゲようが、腹が出ようが、ボケようが、
 全然私はかまわずに、世話を焼いているだろうと想像ができるんですけどぉ。
 というかそれ以外はあんまり想像したくないというか」

「……なぁ、君の中で俺はどういう歳の取り方をしているんだ?」

散々な言われように問いかけるとは喉を鳴らして笑った。

「うふふ。まあ、あなたがお爺さんになるまで
 長いおつきあいを願いたいものですと、そういうことです。
 お分かりになって?」

杏寿郎は言葉に詰まった。

 そう言われてしまうと何も言えまい。

は黙り込んだ杏寿郎をにまにまと眺めた後、
すぅっと冷ややかな目つきになって、囁く。

「さもなくば、薙刀片手にあの世まで、あなたを殺しに参りますから」

微笑むの言葉は格好と裏腹に相変わらず物騒だ。
だが、杏寿郎はその顔に、はにかむような笑みを浮かべる。

『共白髪になる前に』と口にしたは、もう死にたいと思っていないのだ。

その上、その理由が杏寿郎であると言っているようなものなのだから、
なんともこそばゆい気分である。

だから杏寿郎は、声をあげて笑ってみせた。

「ははは! なら俺は、君より先に死ねないな!」

「ええ。私は憎まれっ子ですから、きっと長生きしますよぉ。お覚悟、どうぞ」

治らない軽口を叩くの右手をとって、杏寿郎は頷く。

「うむ! 末長くよろしく頼むぞ、!」
「はい、杏寿郎さん。よしなにお願いいたします」

出会った日と同じく、外を見上げれば青空が高く広がっている。
燦々 さんさん と差し込む日光は二人を照らし、輝いていた。




地獄変・泥眼 了