『鬼狩り物語』上

煉獄桐寿郎 とうじゅろう は鞘からするりと出でる炎を固めたような刃を、
桐寿郎を膝に抱えた父がもうダメだと言うまで眺めているのが好きだった。

銘はついていないのかといつだかに尋ねた時に
父は「個別に名前はついていないが、これは日輪刀と言う!」と教えてくれた。
刀身の赤いものを総じて“赫刀”と呼び、
刀鍛冶の間ではこの色の刀は縁起が良いと喜ばれたそうだ。

一つ年下の妹、芳乃 よしの は父の刀より母の持つ薙刀の、
薄青く水のような刃を気に入っている。

桐寿郎と同じように銘を尋ねたこともあるそうなのだが、
「この薙刀は日輪刀の一つです。
 静御前の薙刀『小屏風』のような、名前はついていないんですよ」
と母は言ったらしいので、やはり名無しの日輪刀であるということしかわからなかった。

桐寿郎と芳乃はお互いに聞いたことを話し合うと、
やっぱり、たまに母の聞かせてくれるおとぎ話は本当にあったことなのかも知れないと
半信半疑の気持ちになるのだ。

母は時々、男の名前を使って物書きをしている。

街の本屋に置いているものは「お母さんの本はもう少し大人になったら読むといい!」
「あれは俺が読んでも怖い! 眠れなくなるぞ!」と父が読ませてくれないが
『鬼狩り物語』と言うおとぎ話を、母は寝物語に聞かせてくれることがある。

悪い鬼を退治する鬼狩りの話を、母は「昔々のお話です」と朗々と話した。
そこに、2人の大事にしている“日輪刀”が出てくるのだ。
なんでも鬼はその刀でないと退治できないのだと言う。

母の語る物語の主人公は大勢の人を守る立派な強者、
窮地に追い込まれても機転を利かして悪鬼に立ち向かう青年“炎の剣士”で、
とてつもなく怖い人食い鬼にも怯まず、格好良く、
母の語り口がまた真に迫るようなものだったので、
兄妹達はみんなこの、鬼狩りの話が好きだった。

そして、これは父の話なのではないかというのが、
桐寿郎と芳乃の間ではもっぱらの話題なのである。

最初に気づいたのは芳乃だった。
「『鬼狩り物語』の炎の剣士ってお父さんのことじゃない?」と桐寿郎に耳打ちしてから
桐寿郎が母の話を聞くと、なるほど、確かにと頷ける部分が多いのだ。

父が『鬼狩り物語』の話を聞くと、子供らの頭をひたすら撫でた後、
母にニコニコと笑うのはそれが理由なのだろうか。

だが、『鬼狩り物語』はずいぶん現実離れした話である。

いくら父が剣の達人で、柳生十兵衛のような隻眼の成りをしているにしても、
母の物語に登場する剣士のように、虎や炎のような斬撃を出せたり、
壁を蹴って跳躍したり、水の中で何分も息継ぎせずに動けたり、
そういう、人間業でないことをやってのけることはできないと思う。

そして『鬼狩り物語』の主人公が父であるかどうかはともかく、
その話が父の耳に入ると兄妹みんなが受けている剣術指導に熱が入るのだ。

桐寿郎はだんだんと父の指導に慣れてきているが、
二つ下の双子の兄、杉寿郎 さんじゅろう は、稽古が終わる頃には大体目が死んでいるし、
二つ下の双子の弟、紫寿郎 しじゅろう に至っては目が死ぬどころか顔色まで死んでいる。

芳乃と末っ子の菊乃は女であるから手加減をしてもらっているかというと、そういうわけでもなく、
ぜーはー息を切らせながら竹刀を頼りに歩かねばならぬこともしばしばである。

道場の床にへばりつくように疲れて寝落ちている菊乃を、
おぶって寝床まで連れてってやることが桐寿郎の稽古後の日課だ。

父のことは好きだし、剣術も楽しいのだが、
手加減というものを知らないのか、と思うところがなくもない。

だが、母は稽古の後の疲れ切った子供らを見て
「杏寿郎さんは、だいぶ指導の程度を各人に合わせてできるようになったんですねぇ」と
しみじみ呟いていたので昔はもっと酷かったらしい。

嘘だろ、と桐寿郎は思うが、母の口ぶりからして間違いないようだ。

「俺たちはともかく、赤の他人にあんな指導をしていたら、
 弟子が逃げるんじゃないですか……」

桐寿郎が学校から帰ってきて夕餉の支度をする母を手伝い、野菜を切っている最中
父の稽古の話になったので尋ねると、母は小さく喉を鳴らして笑った。

「うふふ! 桐寿郎の言う通りですねぇ、今はともかく、昔は散々逃げられてましたよ」
「ええ……? 散々……?」

引き気味の桐寿郎に母は愉快そうな顔をして頷いた。

「お父さんは基本的に、来る者拒まずで去る者を追いませんから。
 武芸は嫌々やっても身につかないですしね」

桐寿郎は首を傾げた。

母の言い草だと昔は厳しくもどこか淡白に指導をしていたらしいが、
桐寿郎から見た父の姿は、そうではない。

父が門下生に対してどういう指導をしているかは知らないが、
兄妹達に対してはかなり熱心に教え込んでくれていると思う。

「でも、父さんは俺たちに『挫けるな、心を燃やせ』とよく言いますが」
「そうね」

切った野菜を渡すと母は目を細めて笑い、桐寿郎の髪を梳くように撫でた。

「お父さんはみんなが可愛くてしょうがないのね。
 特にあなたは剣が好きだと言ってくれるから嬉しいんでしょう。
 だから一層厳しく指導するんですよ。桐寿郎」

「……そういうものですか?」
「そういうものです」

深々と頷く母に言われ、桐寿郎はどことなく気持ちが上向いたような気になった。

しかし、台所の入り口から顔を出した双子が騒ぎ出したので、
それどころではなくなってしまう。

「母さん、掃除終わりました!」
「杉寿郎! お前あれはずるいだろ! あれは!」

赤くなった鼻を押さえる紫寿郎が兄の杉寿郎を睨んだ。
母は困り眉になって右手で頬を抑える。

「まあまあ、どうしたの杉寿郎、紫寿郎」

尋ねられると、双子はお互いがお互いを指差して声を上げた。

「杉寿郎が雑巾掛け勝負で足を引っ張ったんです!」
「引っ張ってない! 紫寿郎が普通に足を滑らせて転んだだけです!」

「あらぁ、本当に……?」

母がにっこりと笑みを深める。
途端に杉寿郎と紫寿郎はビッ、と揃って姿勢をただした。

「嘘はいけませんよぉ。嘘をついてごまかしたことはね、
 心の隅にずーっと残って、腰の据わりが悪くなる。
 その上嘘を嘘と見抜かれぬよう、
 ごまかし続けなきゃいけなくなって、心が疲れてしまうんですよぉ」

怪談作家の面目躍如のおどろおどろしい声色である。

実際言っていることはそこまで恐ろしくないのだが、これでごまかそうものなら、
雷が落ちることを煉獄家の兄妹ならば皆知っている。
だから、杉寿郎はおずおずと謝った。

「……俺が紫寿郎の足を引っ張りました。ごめんなさい」
「謝る相手が違いますでしょ」

ぴしゃりと言った母に肩を震わせたのち、杉寿郎は紫寿郎に向き直って頭を下げた。

「紫寿郎、ごめん」
「……うん、いいよ」

双子のやりとりを見て、母は手を合わせて満足げに頷き、
しゃがんで下から二人と目を合わせる。

「自分の間違いを認めて謝れるのはとっても素晴らしいことですねえ。
 人がきちんと謝ってくれたことを許せるのも、同じくらい偉いです」

母は杉寿郎と紫寿郎にそれぞれ優しく微笑むとこてん、と首を傾けた。

「ところで二人とも、雑巾掛け勝負って、なぁに?」

「……母さん。夕飯はあとそうめん茹でるだけですから、俺は宿題を済ませますね」

口を滑らせた弟たちが助け舟を求める声なき悲鳴を無視して、
桐寿郎は母の雷が落ちる前に避難しようと早足で自室へと戻った。



桐寿郎が自室に戻る途中、朗々とした数え歌が聞こえてきたので、
開いている襖から部屋を覗くと、妹の芳乃と菊乃がお手玉をしている。

二人の文机には、書きつけ途中の宿題が放り出されたままである。

「お前たち、終わらせてからやればいいだろうに」
「桐寿郎兄さん」

芳乃がお手玉をくるくる回しながら器用に振り返った。
菊乃はそれを見て、おお、と感心した様子で目をキラキラさせている。

「飽きたから休憩休憩。しばらくしたらやりますよ。桐寿郎兄さんもどうですか?」
「……俺は芳乃ほど器用じゃない。すぐ落とすぞ」

桐寿郎は言葉と裏腹に、芳乃の隣に腰を下ろした。

「とか言いながら、付き合ってくれる桐寿郎兄さんなのでしたー」
「うふふふふ!」

茶化して言う芳乃に、菊乃がつられるように笑っている。
桐寿郎は無視してお手玉を3つを菊乃から受け取ると、ぽん、と芳乃に投げ出した。

煉獄家のお手玉は最初は普通の速さで始まるが、
そのうち目で追うのがやっとの早業になるのが常である。

兄妹の中で一番上手いのは芳乃、次が菊乃で、
桐寿郎はこの高速お手玉が最も苦手である。長男なのに。

いつも剣術で負け知らずの長兄が超がつくほど真剣な面持ちで、
芳乃とお手玉をやるのが面白いのか、
菊乃が愉快そうに勝負の行方を見守っていると、囃し立てる声が足りないのに気づいたらしい。
キョロキョロとあたりを伺い、桐寿郎に尋ねた。

「ねえ、杉寿兄さんと紫寿兄さんは?」

桐寿郎は芳乃の投げるお手玉を落とさぬように気をつけながら答える。

「母さんに、怒られてると思う」
「あの二人、また何したの?」

芳乃が呆れた調子で聞くも桐寿郎はお手玉に必死である。

「危ないからやめろって言われてた、雑巾掛けで勝負したらしい。それを母さんの前で言った」
「……それは迂闊だなぁ」

芳乃が調子を緩めたので桐寿郎は少しばかり息を吐いた。

「ああ。迂闊以外のなにものでもない」

桐寿郎が芳乃にしみじみと頷くと菊乃が大きな目を瞬いて尋ねる。

「“うかつ”ってなあに?」
「“うっかりさん”のことですよ」

芳乃がさらっと述べると、その場にいないはずの声が部屋に響いた。

「“うっかりさん”のことなのか!」

「お父さん?!」

芳乃が突然の父の登場に驚いてお手玉を暴投した。
顔に思い切りぶつかりそうになったのを桐寿郎は慌てて受け止める。

「お父さん! いつからいたの!」
「わはははは! ついさっきだ!」

菊乃が真っ先に父に駆け寄って飛びついた。
父は菊乃を抱き上げてくるくると回してあやしてやっている。

いつの間にそばに寄っていたのかわからないが、
父はいつからか兄妹の会話を聞いていたらしい。

「杉寿郎と紫寿郎が随分重そうなスイカを運んで冷やしていたが、 
 あれは怒られていたのだな!」

「スイカ!」

父に抱えられた菊乃の目が輝く。
桐寿郎は芳乃に目を配らせた。

「じゃあ、宿題を終わらせないとだ」
「ですねぇ」

母はやるべきことを後回しにすることを大変に嫌う。

夕食後にスイカにありつくためには終わらせなければと
芳乃は文机の宿題に目を向けた。

やる気になったのは良いが、と桐寿郎は芳乃に釘をさす。

「芳乃、お前な、お手玉をあの速さで顔にぶつけるのはダメだろ」
「桐寿郎兄さんはちゃんと受け止めてくれるでしょ」

「まあそうだが……」

軽く言う芳乃に嘆息する桐寿郎である。
父は抱えていた菊乃をゆっくり下ろした後、桐寿郎に大笑した。

「はっはっは! 桐寿郎は勘が良いからな!よく受け止めた!」
「はい、ありがとうございます」

褒められて口角を上げた桐寿郎に頷くと、
父は芳乃へと目を向ける。

「芳乃、あれは桐寿郎だったから怪我をせず済んだが、そうじゃなかったら危ないぞ!
 驚かせた俺も悪いが、周囲には気を配るように!」

芳乃はバツの悪そうに頰をかいた後、桐寿郎に向き直った。

「はぁい。ごめんなさい、桐寿郎兄さん」
「うん、構わないぞ」

鷹揚に許した桐寿郎と素直に謝った芳乃の頭を大きな手がワシワシと撫でる。

「わかればよし!」

父は満足げに長男長女と末娘に朗らかな笑みを向けた。



夕食の後、一家は揃って縁側に並んでスイカを齧った。
夜風が出てくると初夏の蒸すような暑さもだいぶ過ごしやすくなるものだ。

手持ちの線香花火を母が用意していたらしく、
スイカをたらふく食べて満足した兄妹の面々は早速母にねだりに行った。

大はしゃぎの杉寿郎と紫寿郎が真っ先に花火を複数束ねて火をつけ、
すぐさま母に捕まって怒られている。
妹たちはそれを横目にクスクス笑い、おとなしく金色に弾ける炎に見入っていた。

父も怒られる双子を見て苦笑しながら、横に座る桐寿郎に声をかけた。

「桐寿郎は花火をやらないのか?」
「スイカがまだ食べ足りなくて。もう少ししたら俺もやります」

桐寿郎は最近いくら食べても足りなくなってきている。
父は「育ち盛りだからな! どんどん食べなさい!」と桐寿郎の背を軽く叩く。

桐寿郎はせっかく二人で話せる機会を得たので、父の顔を伺った。

「父さん、時間がある時にでも、また日輪刀を見せてください」

桐寿郎の申し出に父は瞬いた後、嬉しそうに目を細める。

「いいぞ! 桐寿郎は刀が好きなのだな!」
「はい。怖くてかっこいいので、好きです」

父は桐寿郎の答えが意外だったようだ。
首を傾げている。

「怖いのか」

桐寿郎は頷いて、父に見せて貰った日輪刀の、赤く輝く刀身を思い出す。

燃えるような刃紋。冴えた輪郭、よく研がれた切っ先。
それに向き合うと、自然とすっくと背筋が伸びた。

「見ていると心臓がばくばくいいます。
 簡単に触ってはいけないものだから、緊張する。
 でも、きれいです。炎を固めて薄く伸ばしたらあんな感じなのかと思います」

桐寿郎はあの炎そのもののような刀を、父は振るうことがあったのだろうかと思った。
たまに真剣での巻藁切りを見せてくれることもあるが、父はその時も日輪刀は使わない。

だが、日輪刀がただのお飾りの刀でないことを、桐寿郎は何となく感じ取っていた。
あれは飾りにしてはあまりにも、鋭どすぎる。

「父さんは、日輪刀を振ったことがありますか?」
「ある!」

「怖くはなかったですか?」
「うーん……」

父は腕を組んで考えるそぶりを見せた。

「昔は怖いとか、怖くないとかをあまり考えたことがなかったと思う!」
「そんなものでしょうか?」

「息をするように、刀を振るのが当然と思っていたのだ!
 刀を振るのを恐れたことは……」

おそらく「ない!」と断言しようとしたのだろう。
だが、父の口は途中で止まり、ポツリと呟いた。

「一度だけある」

その声がいつもと異なりあまりに静かだったので、桐寿郎は父の顔を注視した。
しかし、その時にはすでに、父は常の通り朗らかに笑っている。

「ハハハ、宝田老人の作法に則るとするか。桐寿郎、これは『法螺話』だ!」

「え?」

「お母さんが話す『鬼狩り物語』。
 あれの続きをな、俺もちょっと考えてみたのだ!
 お母さんほど上手く話せはしまいが、聞いてくれるか?」

父は少し考えながら、とつとつと語り出した。

 炎の剣士は難敵と出会う。
 相手は今まで見たどの鬼よりも強く、磨いた武芸もその鬼の首を落とすには足りず、
 炎の剣士は窮地に追い込まれるのだ。

 そんな時に残された、か細い勝ち筋はただ一つだった。

「それは自分の体を強くする技を使うことだった。
 その技を使うと少しの間、力も強くなって頭も良くなる。凄い技だ!
 でも凄すぎて、使った後すぐに動けなくなるかもしれないし、最悪の場合、死ぬ!」

「死ぬんですか?!」

父のにべもない口ぶりに桐寿郎は思わず問いかけた。
だが父は容赦なく肯定する。

「死ぬ! だが使わなくても死ぬ! それほど相手が強かった!」

「だったら、使う以外に道はない気がしますが、」

桐寿郎が悩みながらも言うと、父も頷いた。

「そうだな。だが、炎の剣士の家にはお嫁さんがいたんだ。お腹には子供もいた」
「それは……」

桐寿郎は口ごもった。あまりにも酷な状況だと思ったのだ。

父は難しい顔をする桐寿郎に、眉を下げて言った。

「死んだら二度と会えんからなぁ。 
 ……炎の剣士が刀を振るのを心底嫌だ、怖いと思ったのはそれが初めてだったそうだよ」

瞬いた桐寿郎に父は片方しかない目を細めて笑いかける。

「俺も桐寿郎がお母さんのお腹の中にいた時、似たようなことを思ったのだ! 
 真剣を抜かずに済むなら、それに越したことはないとな!」

父の笑う顔を見て桐寿郎は頷いた。
頷いて、それ以上は何も聞かなかった。

「……父さんも、花火をやりましょう」
「うん、いいぞ! ! まだ花火は残っているかな?」

父に呼びかけられた母が朗らかに答えた。

「まだまだ沢山ありますよぉ!
 そうねぇ、せっかくだから『誰が一番花火を長持ちさせるか』とか、やりますか?
 ちなみにお母さんは一番長持ちさせる自信があります」

「挑戦します!」「俺も!」

母が発破をかけるようなことを言うので、
声をあげた杉寿郎と紫寿郎をはじめ、兄妹全員張り切って腕をまくる。

桐寿郎までも真剣な眼差しで長持ちしそうな花火を選び出したのを見て、
父は愉快そうに大笑した後、自分も一本花火をとった。