『鬼狩り物語』下
夜も更けて寝室へと杏寿郎が戻ると、義手を外したが文机に向かって書き物をしている。
寝かしつけるのがうまくいかない時には、は子供部屋で寝てしまうこともあるが、
今日は戻りが随分早い。
「子供らは寝たのか」
「ええ、皆すぐに寝てしまいました。花火ではしゃぎ過ぎましたかねぇ」
笑うはそういえば、と杏寿郎に尋ねた。
「なにやら桐寿郎と話し込んでおられたようですが」
杏寿郎はの横に座り、少し申し訳なさそうに眉を下げる。
「すまん。『鬼狩り物語』の続きを勝手に作って聞かせていたのだ」
「あら、全然構いませんけれど、珍しい」
杏寿郎が鬼殺隊であった頃の話を子供達に話して聞かせることは滅多にない。
が『鬼狩り物語』を話して聞かせるのは容認しているが、それだけである。
も自分が隊士であった頃のことは教えるつもりがない。
鬼がいなくなり、鬼殺隊が解散してからそのように取り決めている。
「桐寿郎に『刀を振るのを怖いと思ったことはないのか』と聞かれてな。
一度だけあると思って話したのだ。上弦の参と再び対峙した時のことを」
「あぁ、あなたが死ぬほど無茶をした、あれですか」
少しばかり声色を潜められたので杏寿郎は妻の顔色を伺った。
「……まだ怒ってるか?」
「昔ほどではありませんが、面白くは思っておりませんよ。
生きて戻ってきてくださっただけ、幸福なことだとは存じてますけども」
深くため息をこぼすに、杏寿郎は今となっては笑い話だろうと大笑した。
「はははは! 君、烈火の如く怒ったものなあ!
あの時日輪刀を握ったなら、赫刀になるのではないかという勢いで、」
「杏寿郎さん?」
薄く微笑んだ顔から「笑い事じゃねぇんだよ」と言う妻の心の声が
なぜだかはっきり聞こえた気がして、杏寿郎はすっと目を逸らす。
「いや、……すまん。悪かったとは思っている。
君の“地獄変”に頼らねばならなかった、俺が未熟だったとも」
肩を落とした夫に溜飲を下げたは、静かに目を伏せた。
「……仕方なかったとは思います。
あの時は皆、命を賭けなくてはいけなかったのですから。
私もお側でお手伝いできなかったのが、未だに悔やまれますけれど」
は話を戻すように杏寿郎に向きなおる。
杏寿郎が刀を振るのを恐れたことがあると言うのは、にとっても意外なことだったらしい。
「ところで、……怖かったのですか?」
「ああ、怖かったぞ!」
首を傾げたに、杏寿郎ははっきりと頷いた。
「生まれてくる子の顔も見れず死ぬのは本当に嫌だった!
何としてでも帰らねばと思ったものだ!」
杏寿郎はしみじみと思う。
最初に上弦の参と相対し、己の未熟を思い知り、
を失いかけて杏寿郎は尋常でない鍛錬を己に強いた。
のせいで剣技が濁った。
味わった悔しさを二度と繰り返すことなく、この手で必ず守り通せるようになるためだ。
技は以前より荒くなり、強くなる手段を選ばなくなった。
片目を失っても以前とは比べ物にならぬ技量を得て、再び上弦に対峙し、
未だ届かず窮地に追い込まれた時、腹の大きなが笑う顔が浮かんだ。
死ぬのが心底嫌だと思った。
刺し違えても、などとは微塵も思えなかった。
だからこそ、“地獄変”を使った後も立っていられたのだと思う。
「絶対に生きて帰る」と言う強い意思が、杏寿郎を生かした。
は杏寿郎を強くも弱くもする。
だが、当人にその自覚は全くないのだろう。
は喉を鳴らすように笑い、眉を上げた。
「ふふ、なら、五人も見れて良かったですねぇ。みんなあなたにそっくりですけど」
「そうだなぁ。誰か一人くらいは君に似ても良かったと思うんだが」
杏寿郎の言葉に、はますます愉快そうに目を細めた。
「あはは! いつだかにお義父様も同じことを言っていましたよ」
「……なんと!」
やはり親子だから似るのだろうか、と杏寿郎が腕を組んで首を傾げていると、
は長男のことを口にした。
「それにしても、桐寿郎は剣術も刀も好きなのに、
それでいて刀を振るのが怖いとも、思っていたのですねぇ」
「聡い子だ。呼吸を教えてもきっと伸びただろうな」
杏寿郎の言葉に、は確かめるように尋ねる。
「教えないことに、したのでしょ?」
「うん、あの子らに適性があるのは明らかだが、考えを曲げる気は無い。
炎の呼吸の継承は俺で終わりにする」
長く続いた呼吸の継承を終わりにすることに、杏寿郎は何の未練もなかった。
鬼の棲まぬ世界にあって、呼吸の継承は不要である。
人の思い、受け継がれる意志は不滅であるが、
反対に、受け継がないことで示せるものもあるのだ。
「鬼が居なくなったならば呼吸を継がせる必要はないのだ。
よもや同じ人間に、炎の呼吸を向けるようなこともあってはならない」
「……ええ。わかります」
近頃は世界情勢も雲行きが怪しい。
だからだろうか。も真面目な顔で頷いた。
杏寿郎は気を取りなおすようにに笑みを向ける。
「君も同じ意見だと知っている。だから少し意外だったぞ。
かなり子供向けに脚色しているとはいえ、鬼殺隊の話を子供らに伝えるとはな。
俺はそんなに悪い気はしてないが!」
子供らが楽しそうに“炎の剣士”の話をしているのを聞くと、つい剣術指南にも熱が入ってしまうと、
照れ笑いを浮かべる杏寿郎には右手で頰を抑え、息を吐いた。
「だってねえ、世のため人のため、
皆さまを守ろうと命を燃やして頑張るあなたを見ていると、
……私は本当に死ぬほど腹が立ちましたけれど」
のひんやりとした言い草に、杏寿郎はすぐさま声をあげて問いただした。
「おい! 死ぬほどか!? そこまで腹が立っていたのか!?」
確かに傲慢で薄情と痛罵されたこともあるが、そこまで思っていたとは、と
衝撃を受ける杏寿郎にはなおも続ける。
「それでも、責務を果たさんとがむしゃらだったあなたは、とっても格好良かったし」
のあまりにも率直な言葉に、杏寿郎は固まった。
は至極当然のことのように深く感じ入った様子で述べた。
「我々が鬼狩りだったことを伝えないとは決めましたが、
子供達があなたの活躍ぶりを知らないと言うのは、いささか勿体無いと思いましてね。
作り話の体で話せば、まあ、いいかなぁ、と」
「……そうか」
「あははははっ」
はにかんで眉間を揉む杏寿郎を見て、は声をあげ、高らかに笑った。