孫悟空と光源氏
宝蔵院の胤篤が江戸に向かうように院主に申しつけられたのは初春のことである。
「は? 江戸に? 拙僧が?」
「うむ。使いを頼む」
なんでも産屋敷の家に用事ができたらしい。
奈良から江戸は随分遠いが、院主はさらりとした様子でまた述べる。
「産屋敷の嫡男にも会いに行けばいい。文通も続いているようだし」
院主の言う通り、胤篤と耀宗の文通は別れて半年の時を経ても続いていた。
鴉が文を届けてくれた時には大層驚いたが、人を介すよりも随分早くやりとりができる。
おかげで文箱がすぐに埋まりそうだ。胤篤は新しいものを用意せねばと思っていた。
耀宗は書道のお手本のような字で文を寄越した。
紙には香がたきしめられていて、文字を綴る墨も香り高く、
胤篤は本当に平安時代の公家の嫡男とやりとりをしてるような気分になる。
香りは数日で消えてしまうが、粋なことしよって、と毎度舌を巻いていた。
「いやそれは願ってもないけども……使いとは何をすればいいので?」
「産屋敷が布施をしたいとのことでな、胤篤、お前が取りに来いと指名があったのよ」
「ふぅん。それはええことですね」
胤篤が気楽に返したのと裏腹、院主はフイと目をそらしつつ手形と書状の一つを胤篤に差し出した。
「……帰りは気をつけろよ」
「?」
嫌に重々しい声色で勿体ぶった院主を訝しみながらも胤篤は書状を確認した。
手形と共に同封されていたらしい文には胤篤が今まで見たことのない桁の数字が並ぶ。
思わず胤篤は2度見した。が、数え間違いではない。
「……は? なんやこの布施の額! 桁!? これを賜るのですか?!
鬼殺隊ってそんな儲かるんで?!」
「……わからん」
院主は首を大きく横に振る。
「この額ぽんと出せるって、産屋敷どうなっとるんや!?」
「……さァ」
院主の適当な返事も胤篤は聞いていなかった。
凄まじい大金が動くのと、それに携わることになる緊張で、胤篤の顔に乾いた笑いが浮かぶ。
「いやこれ人ひとり召し上げるのに全く足る額やろ……」と呟いたあとは、
ハッとした様子で胤篤は院主をおそるおそるうかがった。
「……拙僧はお江戸に売られてしまうんですか?」
「アホなこと言うなや! お使い言うとるやろ!」
院主は一喝すると深々ため息をこぼした。
「護身に槍を背負って参れよ。お前なら賊に絡まれようが、のしてしまえるやろ」
「まァそやけど、……これは流石に心臓に悪いわ」
はぁ、とわざとらしく息を吐き、不安げな胤篤をジトリと半眼でみやって
院主は頬杖をつきながら言う。
「言うて胤篤、お前なら一刻もすれば慣れるだろうよ。なにせ心臓に毛ェ生えとるからな」
「カカカッ! 院主様もそう思います?」
ころっと大笑してみせる胤篤に、「やっぱりお前が適任や」と院主はしみじみ頷いたのだった。
※
奈良から江戸までの道のりは馬を使った。
護身のために槍を携えているせいで
いくつかの関所を通る時は時間を取られるだろうと胤篤は憂鬱に思っていたのだが、
あらかじめ送られてきた手形を見せると、
ろくに検分されることもなくさらっと関所を突破してしまった。
「いや、産屋敷ってなんなん……?」
胤篤は鬼殺隊の持つ権力と財力の片鱗を嗅ぎ取って一人呟く。
そもそもこの旅に出るきっかけとなった布施の額も尋常じゃなければ、
関所にも融通をきかせるだけの力があると“産屋敷”は示した。
その力と裏腹、産屋敷の統べる鬼殺隊のことを知る人間、
鬼の存在を知る人間は世間に殆どいないのだと言う。
道中行楽しながら、胤篤は「これは耀宗に会ったら色々聞かねばならんな」と馬上にて腕を組んだ。
乗せた人間が気もそぞろなのが気にくわないのか、馬が足を止め、頭を振って不満げにいななく。
「おお、すまんすまん。栗梅、お前も長旅に付き合わせて悪いな」
栗梅と呼ばれた牝馬は「分かればよいのだ」と言わんばかりに鼻息を漏らすと
ちゃかぽこゆったり歩き出した。
胤篤は鮮やかな赤茶の馬の背を撫でて街道を行く。
江戸まではもうすぐそこである。
※
江戸についた途端、胤篤は人形浄瑠璃の黒衣のような格好をした人間に囲まれ、
なんだかひどく回りくどい順路を通って産屋敷の邸宅に案内されることになった。
「まっすぐ行った方が早くはないですか?」
「安全の為です。鬼の首魁が産屋敷の一族を常々狙っておりますゆえに」
黒衣の人間は鬼殺隊の隠という役職らしい。
疑問に思ったことを尋ねてみれば答えられるところはさらさらと答えてくれた。
だが。
「へぇ……ところで兄さん、人形浄瑠璃は見たことあります?
拙僧、一応坊主なのでなァ、あんまり華美な場に堂々赴くのはよろしくないんだけども。
兄さん見てると歌舞伎や浄瑠璃を見たくなりますよ。
ちょっとくらいは御仏も見逃してくれへんかな?どう思います?」
「……」
「お江戸、歌舞伎の座があるのはええよなァ。暇があればこそっと見物してみたいものよ」
「……」
「兄さん全然釣れへんなあ! カッカッカ!」
この人間の性格なのか、それとも余計なことは言うなと言われているのか、
胤篤の冗談や雑談に付き合うつもりはないようだった。
屋敷についた頃にはすっかり日も暮れて来ている。
栗梅が隠の人間に連れられ厩に向かうのを見送り、案内されるまま玄関に通されると、
耀宗が待っていた。
「よく来たね、胤篤」
「おお、耀宗ご無沙汰! まあ手紙を交わしてるから別にそんな久しい気はせんのだけど」
朗らかな胤篤に、耀宗は微笑んだあと申し訳なさそうに眉を下げる。
「遠路はるばるすまなかった。本当は私が布施を持って奈良まで行ければ良かったのだが」
「いやいや、かまわんて。“光源氏殿”のおかげで物見遊山もできたしのう」
「……なんだい、それは?」
胤篤の言う“光源氏”がなんのことか分からなかったのか、
首を傾げた耀宗に胤篤はニンマリほくそ笑んだあとススス、と耀宗のそばによる。
「無論耀宗、お前のことよ。お前さん手紙の作法がえらい雅やったからなァ。
紙よし、墨よし、字形よし。おまけに香りまでよしときた。
拙僧が平安のお
ふざけて“しな”を作り裏声で喋る胤篤を見て、耀宗はニコッと笑みを浮かべる。
「気色悪いよ、胤篤」
「お、お前、そんな笑顔で……!」
耀宗にバッサリ斬られて胤篤はさすがにひどくないか、と口角をひきつらせた。
泊まる部屋まで耀宗直々に案内された後はあれこれ話したいことがあったのだと
胤篤は話題を選び、口を開いた。
耀宗は胤篤に錦絵を何枚か送ってきていたので、その礼をまず言うことにする。
「錦絵をありがとうな。墨絵も良いが版画も良いものだ」
「胤篤が好きそうだと思ってね。たまたま今の柱に、そういうのに融通がきく人がいるから」
「ほう? “柱”と言うのは、あれか。鬼殺隊の中でも最も強い9人の剣士」
八犬伝のようだな、と胤篤は内心思っていた。
「そう。胤篤も炎柱・煉獄李寿郎とは会ったことがあるよね。
金色の髪で前髪をあげてる、ちょうど宝蔵院の院主様と同じ年頃の隊士だ。
奈良で君と話していたでしょう。彼も柱なんだよ」
「ああ、あのごんぶと眉のキンキラ頭な」
「ふ、……聞かなかったことにするけど」
ほとんど悪口のような言い草に耀宗は思わずクスリと笑ってしまった後、
わざとらしく目を逸らした。
胤篤はその所作にくつくつ笑うと何を思い出したのか、真面目な顔になって顎を撫でる。
「確かにあの方がえらい強いのは見て分かったわ。
近頃は色々と物騒だとはいえ、あの方、そこらの侍とは踏んでる場数が違うやろ。
月とスッポンよ。あんな人がいるんかと驚いたのは認めます。
……まあ、拙僧ならば絶対勝てぬ、という訳ではなさそうやけど。
多分今の拙僧では十試合ったら一勝てるか否かというとこかな」
普段茶化した物言いばかりする胤篤が真剣に述べるので、耀宗は感心しているようだった。
「やはり、得物が違っても武芸に通じていれば、相手の実力は分かるものなんだね?」
「まぁな。手練れはまず普段からの立ち姿が違う。
それから足の運び、体幹、呼吸。あげればキリはないが、
やはり常人とは異なるわな」
胤篤は李寿郎の佇まいを思い返して言う。
「特に煉獄さんは……呼吸が違ったわ。
ありゃ相当鍛錬を積んだ上、死線をくぐり抜けんとできひん」
耀宗はしばしの沈黙のあと、切りだした。
「……ねぇ、戦無き世の中で武芸を磨くのは時代遅れだと胤篤は言ったけど、
鬼殺隊に入れば、その才能を活かすことができるよ」
「耀宗?」
耀宗は立ち上がり、熱のこもった眼差しを胤篤に向ける。
瞳の中に大火が見える。
胤篤は半ば気圧されて耀宗を見上げた。
「君の槍はすごい。剣術も槍術も門外漢な私にも分かるくらいだ。
きっとその武芸で、鬼を倒せる。たくさんの人間を救える」
「耀宗、お前、」
どういうわけか、耀宗は胤篤を鬼殺隊に引き入れようとしているらしい。
そこまで言われるほど己の実力を買ってくれるのは嬉しいが、と胤篤は思いつつも、
受け入れるわけにはいかなかった。
「坊主に殺生をさせようとは、なかなか罰当たりなことを言うな、耀宗……」
「……ごめん」
耀宗の目から、煌々と燃えていた炎が陰ったように見えた。
胤篤は苦笑して首を横に振る。
「すまんな。拙僧は坊主だ。
生まれてから死ぬまで、ずっと坊主なのよ。なるべく殺生は避けたい」
人に生まれ、人の業を背負うならば、殺生の罪からは逃げられない。
魚や肉を食うのを避けても、農作物を作るために獣を虫を殺しているなら変わりがない。
それでも、命あるものをできるかぎり殺さぬままに尊びたいと胤篤は思う。
たとえそれが、人を喰らうという鬼であろうとも。
「そう、」
耀宗がぽつりと呟いた時である。襖の奥から声をかけられた。
耀宗が許すと襖が開き、隠の男が口を開く。
「胤篤殿、耀宗様、お館様がお呼びです」
「わかった。案内は私がやるよ。君は下がってくれていい」
「かしこまりました」
頷いた隠はすみやかにその場を立ち去った。
胤篤は耀宗に顔を向ける。
「お館様と言うのはお父上だよな」
「うん。君に挨拶をしたいのだと思う。
私を奈良に行かせたのも父なんだよ。きっと勉強になるからと」
「へぇ?」
今の鬼殺隊の当主が耀宗を奈良へと差し向けたと聞き、改めて胤篤は不思議に思った。
確かに耀宗は寺院を巡ったことを得難い経験だったと満足していたようだが、
もともと病弱で旅路は厳しいものがあると反対を受けたのだとも手紙に綴っていた。
強行するだけの理由があったのだろうか、と首を傾げる胤篤に、耀宗はなおも続ける。
「父は今日、体調が良さそうだったから起き上がってると思う。
姉が身の回りの世話をしているだろうけど、気にしないで」
それは相当、体が悪いのではないだろうか。
胤篤は内心でそのように思ったが、黙っていた。
案内を受けて屋敷をゆく。胤篤は感心半分呆れ半分で嘆息した。
産屋敷の住まう邸宅はやたらに広く、忍者屋敷のようなのだ。
いくつか行き止まりらしい廊下を通り過ぎるのを胤篤は横目に見送りつつ、半眼で言う。
「めっちゃ迷いそう。厠に行くのも一苦労やろ、こんなん」
「ふふふ。慣れないうちはそうだろうね」
そうこうしている間に、ふ、と芳しい匂いが胤篤の鼻をくすぐった。
たきしめた香が仄かに香っているのだ。
これは、藤の香だな。
耀宗が襖の奥に声をかける。
「父さん。胤篤を連れて参りました」
「ご苦労さま、耀宗」
許しを得て耀宗が襖を開ける。
胤篤が見たものは、着流しに羽織をかけた線の細い男だった。
肌は病ゆえか膿んでいる。火ぶくれのようにも見える。
どうやら盲いているようで胤篤とは目が合わなかった。
「はじめまして、宝蔵院の胤篤殿。私は鬼殺隊93代目当主、産屋敷耀定。
いつも耀宗と仲良くしてくれてありがとう」
声は穏やかで、響きが良い。
うっすらと微笑まれて、胤篤は挨拶を返した。
「お初にお目にかかります。宝蔵院の胤篤です。こたびはお招きいただき感謝いたします」
そばに控える女の童は置物のようにちょこんと座っているが、
時折胤篤を興味深そうに見つめていた。
「君の生家の寺院からは時折“我が子”らとなる者が居る。
昨今は付き合いがなくなりつつあったのが、君と耀宗とが仲良くしてくれたおかげで
縁が深まったように思う。喜ばしい限りだ」
「いえ、勿体なきお言葉……」
三つ指をついて頭を下げながらも、耀定の“我が子”と言う言葉が胤篤には妙にひっかかっていた。
耀定は盲目であるにもかかわらず、胤篤が訝しむのに気づいたらしい。
「鬼殺隊の隊員は皆、
我が子を愛おしむように隊士を思うのが当主としての務めだとね」
「左様で、ございますか。かつて同門の人間が世話になったとあらば礼を尽くさねばなりますまい」
胤篤は揃えていた指先に視線を向けたまま目をすがめる。
「ましてこたびの布施に至りましてはそこらの寺の再建すら叶うほどの大金だ。
報いねばならぬとは思うていたのです。
して、拙僧はあまり回りくどい物言いが得意でないので単刀直入に申すが……」
胤篤は顔を上げて笑みを作った。
「宝蔵院に何を求められますかな、産屋敷殿」
「なにも」
耀定はさらりと述べる。
「強いて言うのであれば、君にはこれからも耀宗と仲良くしてもらいたいと思っているけれど。
宝蔵院の僧侶たちに鬼殺隊士になることを強制することもしないよ」
胤篤が一番に危惧していたことをあっさりと否定されたので、胤篤は拍子抜けしていた。
しかし、全てに納得がいったわけではない。
「……なんの他意もない、ただの布施だと申されますか」
「うん」
だが、この分だと耀定は胤篤の欲しい答えをなにも返さないだろうということは知れていた。
口をつぐんだ胤篤に、今度は耀定が尋ねる。
「胤篤殿、君は宝蔵院流の槍術を修めていると聞いているが」
「はい、槍には覚えがございます」
「君は何のために槍を振るう?」
耀定は穏やかに口を開く。
「宝蔵院の開祖、胤栄坊は僧侶が武術、殺生を教授することに煩悶し槍を置いたと聞いているよ」
「……」
禅問答のようだな、と胤篤は密かに思った。
これには正解がなく、己がどう感じたか、どう答えるかが肝要である。
胤篤はふう、と一拍息を吐く。
「確かに武芸を磨くは殺しの術を磨くに等しい。
しかし拙僧がこの槍で殺すのは生き物ではありません」
胤篤が一人で槍を振るう際、相対するのは決まっている。
「拙僧が殺すは己の欲、己の怠惰、己の未熟」
己に打ち勝つことこそ胤篤にとっての武の真髄。
他を打ちのめすこと、優劣をつけることなどどうでもいいのだ。
全く同じ条件で同じ実力を持った己自身を倒す方法を胤篤は知っている。
己を識ること、認めること、受け入れること。そして最後に、正すこと。
「この槍を不殺のまま磨きあげ、神仏に奉ることこそ、
いささか我の強い拙僧が功徳を積む、唯一の方法だと思うのです」
それだけなのだ、と告げた胤篤に耀定は、笑った。
「君は眩い」
耀定は目を閉じて胤篤に告げる。
「江戸をしばらくは楽しむといい。耀宗も君と会うのを楽しみにしていた。
ゆっくりしておいき」
※
再び与えられた部屋に戻ってきて、胤篤は一息ついて緊張を解いた。
耀宗がその様子を静かに見守っている。
「あの方が耀宗を奈良に寄越したと言う父君か……。
忌憚なく言わせてもらうと、なんと言うか、」
「なんと言うか?」
なんとなく怖々とした様子の耀宗に胤篤は呵呵大笑して言う。
「大大大妖怪のような方だったな!
なんでもお見通しで聡明な方と言うのは、ちょっと怖いところがあるだろ?
ほら、つまみ食いとかすぐにバレたり……」
「……君ね、父をそんなふうに言うのは君くらいのものだよ。
柱の皆に聞かれたら刃傷沙汰になることもありえるからね。口には気をつけるべきだ、胤篤」
「カッカッカ! 失敬失敬!」
胤篤は茶化して、心中で出した本当の答えを最後まで口にはしなかった。
これを耀宗の前で口にしてはいけないと言う、漠然とした、しかし確信があったからだ。
あれは、生き仏だ。
胤篤はどうやったら人間があのような生き物になるのか、見当もつかなかった。
菩薩のような笑みに穏やかな声、揺るがぬ情動。
口にする言葉の全てが相対する人間の心中を見通した上で放たれている。
胤篤は曲がりなりにも坊主である。
坊主であるからには人に神仏の在りようを示したり、心を穏やかにする術を授けることもある。
故に人の心の裡を読む術も胤篤はある程度、身につけてはいたのだが、
それでも産屋敷耀定の内心を窺うことは、全くできなかったのだ。
……妖怪と言うのもあながち外れてはおらん。
あの方、所作に人間らしいところが一つもなかった。
口では布施になんの他意も無いと言ってはいたが、
……拙僧を招いたのも間違いなく意図あってのことだ。
であるならば、何のために?
胤篤は妙に空恐ろしい気分になった。
「釈迦の掌の上、孫悟空とはこのような気分だったのやもしれんな」