篝火のかぐや姫

かぐや姫に倣う

病床に侍る虎・黒椿の扇子

は煉獄の家で虎を見たことがある。

が幼い頃、母の休む部屋の襖が開いていたので不意に覗き込んだら、
大きな虎が畳の上に座っていたのだ。

虎は、どうやらには気づいていないらしい。
水墨画に描かれるように立派な毛並みをしていた。
絵と違うのは金色の毛皮であったことだ。
縁側から差し込む朝の光につやつや光っている。

けれど、どうしてか丸めた背中は悲しげに見えた。
病床の母の傍らに侍り、じっとその顔を覗き込んでいるようだった。

やがて虎は母の首に手をかけ、低く喉を鳴らして吠えた。

は虎の声に竦み、母の顔を恐る恐る見やる。
食べられてしまうのではないかしら、恐ろしくはないのだろうかとうかがうと、
――母はこの上なく満ち足りた笑みを浮かべて、虎の前足に自分の手のひらを重ねていた。

はなんだか見てはいけないものを見たような気分になって、
抜き足差し足でこっそりとその場を後にした。

虎を見た翌日だったか、翌々日だったか、母の水差しを取り替えた時に、
は密かに問いかけた覚えがある。
「お耳をお貸しください」と言ったら顔を寄せてくれた母へ、
内緒話をするように、小さな声で聞いたのだ。

「朝方、お母様のお布団のそばに、大きな虎が居たのを見ました。
 襖の絵から飛び出してきたのですか? お母様は怖くなかったの?」

煉獄家の襖絵は部屋ごとに異なる。
鳥をはじめに動植物、山水図などが描かれている。
は虎が襖絵から出てきたのだと思ったのだ。
墨で描かれた山の中、竹草むらをかき分けてやってきたのだと。

母はちょっと目を丸くした後、の顔をまじまじと眺め、それから頭を撫でて言う。

「優しい虎なのです。怖いと思ったことは、ありません」

その時も、やっぱり母は微笑んでいた。



雪の中力尽きようとしていた少年隊士、
冨岡義勇を回復させて我が家から送り出した煉獄は、
看護の最中に風邪をうつされていたらしく、今、高熱にあえいでいた。

医者を呼んで診察してもらった後は、
出された薬を飲み、安静にするしかないと花模様の布団を被るばかりである。

これを心配したのは弟の千寿郎だ。
つきっきりで看病しようとする千寿郎を、しかしは強引に止めた。
具体的に言うと千寿郎がの自室、襖から先に足を踏み入れようとするのを
「それ以上近づいたら扇子を投げますよ」と脅したのである。

姉の理不尽な警告に千寿郎は呆れつつも安堵した様子だ。
冗談を言えるなら思っていたよりは元気そうだと見たのだろう。

「……姉上、安静になさってください。
 なんで物を投げようとするんですか」

襖越しからもっともな言い分を投げかけた千寿郎である。
は咳き込みつつもすまして答えた。

「つきっきりで看病されるほどのことじゃないもの。
 そんなことをしたら千寿郎にもうつるでしょう。ダメよそんなの。
 みだりにこちらに来てはいけません。
 わたくしは大丈夫。頑張れば立って歩けますし」

自身は立って歩けると言うものの、
昨日夕方から厠に行くのも壁に手をついてやっと、という感じだった。
用意した朝食も流し込むように無理やり食べていた。
千寿郎もその姿は当然見ていたから気にかかる。

「でも……」
「平気よ。お医者様も薬を飲んで寝てれば治りますと言っていたのだから。
 千寿郎は鍛錬に集中」
「……」

きっぱりと言うにまだ納得行かないようで、
千寿郎は落ち着かなさそうに指を組んでいる。
意外と頑固な末の弟に、は笑顔を作って言った。

「じゃあ、本当につらくなったらわたくし『しんどい』『助けて』と大声出すので、
 その時は助けてちょうだい」
「そんなことをしたら逆につらいのではありませんか?!
 安静に! 安静になさってくださいとにかく!」
「そう? なら静かにしてますから」

ただでさえ風邪を引いているのに喉を痛めそうなことを提案する姉を止めた千寿郎は、
襖の影からを見やって念を押す。

「……本当に大丈夫ですね?」
「本当よ」

熱のせいで真っ赤な顔でも平気だと頷くに、千寿郎はまた尋ねた。

「時々様子を見に来ます。
 そのとき水や湯たんぽを替えたりするのは許してくださいますよね?」
「ありがとう。そうしてくれると嬉しいわ」

とりあえずの妥協点を見つけて、千寿郎はようやく笑みを見せた。
近頃家族が体調を崩すことは滅多にない。
できることなら早く元気になって欲しいし、そのための力になりたいのだ。

ひとまずは常の通り鍛錬をして、を安心させねばなるまい。
あんまりマメに世話を焼いてもかえっては気を使いそうだとわかっていたので、
千寿郎は名残惜しい気持ちがありつつも、の部屋を後にした。



が風邪を引くのは随分と久しぶりのことだった。
熱のせいか、ちょっとでも体を動かすのは億劫だ。天井を見たところで面白いことは特にない。
本を読もうにも熱が高いと文字が頭に入ってこないので、
目を閉じて「前はいつも杏寿郎と一緒に風邪を引いたけれど」と昔のことに想いを馳せる。

思い出したのは、母、瑠火の顔だった。

――母はまめに湯たんぽと濡れ手ぬぐい、氷枕を変えてくれた。
風邪を引くと作ってくれたおかゆには梅を叩いたのと、海苔や白胡麻がまぶしてあった。
鼻が詰まっていたり意識が朦朧としていたりで味の方は全然わからなかったけど、
とにかく体が芯から温まった気がする。小鳥のように匙を口に運んでもらった。
懐かしい。杏寿郎は覚えているだろうか。あのおかゆ、作り方を習っておけばよかった。
けれど父も弟らもそんなに風邪を引かない。千寿郎も近頃はめっきり丈夫だ。
やっぱり体を鍛えていると風邪も退散するものだろうか……。

取り止めもないことを考えているうちに、寝たり、起きたりを繰り返した。

何度か夢も見ていたようだ。踊りの師範に稽古をつけてもらう夢、
千寿郎とお茶をする夢、杏寿郎と将棋を指す夢、弟らと楽器を弾く夢。
そして虎猫を愛でる夢。

――縁側に寄って来た虎猫の首をが撫でていると、ふいに猫が玄関の方を見て、
の足元から歩き出す。歩く最中に猫の体はぐんぐん大きくなって、終いには虎になっていた。
虎は玄関先に立っていた人の膝元に頭と尻尾を擦り付けると、
ゆっくりその場に寝そべって、ガラス玉のような目を閉じる。
随分と人懐っこい虎がいたものだとがぼんやり見ていると、立っていた人と目が合った。
客人かと思ったら、瑠火が背筋を伸ばして立っている。
瑠火は虎を前にしてしゃがみこむと、毛並みを梳くように撫でた。
緩やかに口角を上げ、に言う。

『優しい虎なのです』

の額に、ぎゅっと絞られた濡れ手ぬぐいが乗った。

ひんやりとした感触は心地よい。
鍛錬の合間に千寿郎が替えてくれてるのかしらと思うが、
眠気が勝って目が開けられなかった。は未だ半分、夢の中にいる。

千寿郎と思しき人はの前髪を手で払った。
濡れ手拭いに髪の毛が挟まらないようにしてくれたのだろう。
それから首に手が伸びる。熱の高さを測られた気がした。
頰をひと撫でされて、おや、と思う。

夢に見たせいか、なぜかいつかに見た虎を思い出す。
病床に伏した瑠火の首を撫でる大きな虎。
心底幸せそうに微笑んでいた瑠火の顔。

――あの虎は、あの、お母様の側にいて、低く唸るような声を上げていた虎は。

「お父様?」

目を開けてみても誰もいない。
ぶどうの絵が描かれた襖もぴったりと閉められていて、人の残り香は微塵もなかった。

夢だったのだろうかと半身を起こして、は己の首に触れた。

長年の疑問が解けたような心地がした。さっぱりとした目覚めだった。

瑠火の満ち足りた顔を思い返すに、
昔見たと思っていた大きな虎は父、槇寿郎だったのだろう。
瑠火がどうしてか微笑んでいた理由もおおよその察しがつく。

確かに煉獄家の男たちは虎と縁深い。
炎の呼吸にも炎虎という技があるし、なんとなく見目も似ている気がする。
だからも槇寿郎の背中を見て虎と取り違えたのだと思う。

当時はうなだれて妻の首を撫でる様と、
子供らの前でいつでも明朗快活に振舞っていた槇寿郎の姿とが結びつかずに、
は記憶を作り変えてしまったのだ。

子供だったな、とは昔の自分を恥じた。

――父のことをいつでも強いと思っていた。
今なら分かる。いつでも強い人などいないのだ。
強くあろうとする人はいても。

いつの間にか、の熱は下がっていた。
夢に出た母と虎が病を持ち去ったようでもあった。



煉獄杏寿郎は久方ぶりに家路を歩んでいる。

初任務をこなしてからというもの、鎹鴉の案内で鬼が居ると思しき場所を
全国津々浦々行ったり来たりしているので、なかなか家に戻れない。

昔の、冷淡になる前の槇寿郎は家によく帰って来ていたが、
あれは仕事を早々に終わらせて時間を作っていたのだろう、
と杏寿郎は同じ鬼殺隊士になって改めて以前の父の仕事ぶりに思うところがあった。

見習わねばならないし、まだ己にはそこまでできる強さがない。
鍛錬に力を入れねば……と、気合を入れたところで見慣れた門構えが現れる。
玄関を開けて、杏寿郎は揚々と声を上げた。

「ただいま帰った!」
「お帰りなさい、兄上!」

パタパタと小走りで出迎えに来たのは千寿郎だけだった。
いつもならも一緒に顔を出すのに珍しい、と杏寿郎は内心首を傾ける。

「千寿郎! 元気そうで何よりだ!
 姉上は踊りか楽器の稽古かな? 忙しくしていると聞いてはいるが」

が生けたのだろう、見事な梅の切り花を横目に聞くと、
なぜか千寿郎はオロオロと目を泳がせた。

「いえ、姉上は今日、終日家には居るんですが、その、」

「口答えをするな!!!」

槇寿郎の怒鳴り声が玄関の方にまで響き渡り、
杏寿郎と千寿郎はギョッとして身を竦ませる。
杏寿郎は瞬くと、千寿郎に尋ねた。

「……は父上に怒られているのか?」
「はい……。実は……」

居間にあがった杏寿郎に、千寿郎はかくかくしかじかと
が少年隊士を連れ帰った日のことを説明した。
杏寿郎は顛末を聞き終え「ほう!」と感嘆の息を吐く。

「大通りから家まではなかなかに距離があるぞ!?
 そこから雪の中をひと一人引きずって帰ったのか!
 さすが姉上たくましい!」

そしていかにもらしい、と杏寿郎は微笑む。
困っている人間、助けを必要としている人間に迷いなく手を差し伸べられるのは姉の美徳だ。
千寿郎も笑って頷く。

「姉上は二日ほど懸命に看病もなさって……。
 その甲斐あってか隊士の方は目を覚まして無事に送り出すことができたのですが、
 今度は姉上の方が隊士の方に風邪をうつされたらしく、寝込んだんですよ。三日も」
「なんだと!? もう大丈夫なのか?!」

ため息まじりに告げられた言葉に杏寿郎は身を乗り出して尋ねた。
も杏寿郎も、十を過ぎた頃から滅多に病にかからなくなった。

呼吸を幼い頃から習ったおかげか姉弟の体は丈夫だ。
しかしの見目は目の色をのぞいて病死した母、瑠火に瓜二つである。
そのが病を得たと聞くと杏寿郎はどうにも嫌な気持ちになった。

血相を変えた杏寿郎を安心させるように、千寿郎は「姉上は回復なさってますよ」と穏やかに言う。

「今はもう普通に過ごしています。
 今朝も早々に台所に立って、兄上が帰ってくるからといつも以上に張り切ってました。
 ……だから、多分、姉上がすっかり元気になったので、
 父上は昼前から姉上を呼びつけたのだと思います。
 それで、『犬猫のように病気持ちの人間を拾ってくるんじゃない』と、」

だんだんとしどろもどろになる千寿郎の言い草に、杏寿郎は腕を組んで唸った。
槇寿郎は家中響き渡る大声でを怒鳴りつけたのだろう。
目に浮かぶようである。

「うーん、父上はお怒りになったのか。しかしは納得しないだろうなぁ」
「しないですね。間違いなく、しないです」

その証拠に杏寿郎が帰ったときの、槇寿郎が怒鳴っていた言葉が「口答えをするな」である。
「叱られる覚えはないのですが?」と反抗するの涼しげな顔も目に浮かぶ。
それにしても、と杏寿郎は千寿郎の用意した湯呑みに目を落とした。

――普段滅多にと目を合わせることもしない父が、
息子らを叱るのと同じように娘を怒鳴り散らしていると言うことは。

「……よほど心配だったとみえる」
「兄上……?」

杏寿郎がぽつりと呟くと、千寿郎は不思議そうな顔をする。
杏寿郎は弟が様子をうかがっているのに気がついて、すぐに常の笑みを浮かべて言った。

「お説教が終わったら励ましてやろう! あれで姉上は結構気にするところがあるからな!」



は槇寿郎からこってり絞られたあと、 自室の縁側から庭をぼうっと眺めていた。
叱られた言葉がぐるぐると頭の中を反響している。

『いらぬ節介を焼くな。隊士ならばあの程度の怪我、病の対処は己でやって当然のこと。
 できなかったら死ぬだけだ』
『施してやってもいずれ死ぬなら、そんなものになんの意味がある』

実のところ、槇寿郎の言うことも分からなくはなかった。
しかしはならば何なら意味があるというのだと思う。
この世のどこに、確固とした意味のある事柄があるのだと。

自分は自分にとって意味のあることをしたい。
だからは義勇を助けたことを後悔しない。
似たような場面に遭遇したら必ずその人を同じように助けるだろう。
自分を曲げる気はさらさら無かった。

けれど。

『隊士を家に連れ帰った後、お前は看護するのに当然の如く千寿郎の手を借りたな?
 ひとりで対処できぬことに容易く家族を巻き込んで振り回した上、
 お前自身が病をうつされ寝込む羽目になった』

『身の丈にあった振る舞いをしろ、大馬鹿者が』

これらの叱責は耳が痛かった。



声をかけられ、は振り返った。
杏寿郎がひらひら手を振った後ろに、千寿郎も控えている。

「まぁ! お帰りなさい杏寿郎。息災なようで何より!」

久方ぶりに双子の弟の顔を見て自然と笑みをこぼしたに、
杏寿郎もまた笑顔で答える。

「ただいま! 姉上もお変わりなく、とは言えまいか!
 色々あったようだな! 諸々の顛末は千寿郎から聞いたぞ!」
「あら、そう」

が杏寿郎の後ろにいる千寿郎に目をむけると、
千寿郎は小さく微笑んで頷く。杏寿郎はに尋ねた。

「少し話さないか?」
「ええ、良いわよ。こちらにどうぞ。千寿郎もおいでなさい」

タンタン、と自身の座る横を叩いたである。
促されるままの左手に杏寿郎、千寿郎が並んで座った。
杏寿郎が腕を組んで尋ねる。

「かなりきつく灸を据えられたようだな、珍しい」
「そうね。久々にお父様と目が合いました」

はあからさまにむくれていた。

杏寿郎や千寿郎が鍛錬に励んでいると釘を刺すように
「お前たちにはさしたる才能はない」と言う槇寿郎だが、
逆に、のやることなすことには全く口を挟まない。

それだけならば理解があるとも言えなくもないが、
あれは放任を通り越して放置、無視の域であるとは他ならぬの弁である。
目も合わなければほとんど会話を交わすことなく、
たまに口をきいたかと思えば今回のように叱責されるばかりだとは怒りのため息を吐いた。

「腹立たしいこと、この上なしです」

杏寿郎はを嗜めるように言う。

を案じたゆえだろう」

「わかっているわよ。あれでもおそらく心配してくださっていることは。
 あれでもね。あれだけれども!」
「姉上……」

あまりにぞんざいな言いように呆れた千寿郎にも、
ふん、と鼻を鳴らしては答える。
頬杖をついて吐き捨てるように口を開いた。

「『身の丈に合わぬ世話焼きは身を滅ぼす。馬鹿のやること』
 挙げ句の果てに『瑠火はもっと賢明で淑やかだった』と言われたわ」
「ああ……」

杏寿郎はのこめかみにはっきり青筋血管の浮かび上がるのを見て嘆息した。

は母親である瑠火に容姿が似ているものの、性格の方はそこまで似ているわけではない。
気丈で正義感の強いのは同じだが、の方が情に脆くおてんばで豪快、勝ち気で男勝りだ。

もそのあたり自分でよくわかっている。
わかっているからこそ母と比べられるのが大嫌いなのだ。
または母に限らず、勝手に誰かと比べられるのが嫌いである。

杏寿郎はそんな姉の虎の尾、逆鱗を知っている。怒り心頭なのも検討がついた。

「なんでそこでわたくしをお母様と比べるのかしら。
 顔が似てるから?……だからなんだって言うのよ。本ッ当に頭に来るわ。
 お酒に山盛りで一味唐辛子でも入れてやろうかしら」

ぎりぎりと膝に持った扇子を握りしめるさまは冗談でなく本気に見えたので、
弟らはほぼ間髪入れずに止めにかかる。

「やめてください」
「食べ物を粗末にするんじゃない!」

揃って言われては弟たちを真顔で眺めると、膝に置いていた扇子を開き、
ぱたぱたとあおぎ出した。それからしれっとした様子で言う。

「冗談よ。本気でやるわけないでしょう」

本当だろうか?と杏寿郎と千寿郎はまた揃って小首を傾げた。
この姉ならばやりかねないと怪しむ弟らをよそに、
は閉じた扇子で己の手のひらを軽く叩いた。

「ええ、確かに? お母様はわたくしなど及びもつかない
 凛として賢明な女性 ひと だったけれど?
 何ですか、凍死しそうな人間を放っておくのが淑女ですか、賢い人間のやることですか。
 そんなのを〝淑やか〟とか〝賢い〟などと呼ぶのなら、
 わたくしは〝ガサツ〟〝じゃじゃ馬〟〝大馬鹿者〟で結構よ」

は立板に水を流すように文句を口にして、
瑠火を思い出したのか扇子をぎゅっと握りしめた。

「だいたい、お母様は雪の中で凍えそうな隊士の、
 わたくしや杏寿郎と同い年くらいの男の子を見捨てて
 さっさと帰ってこいなどとは言わない。絶対に言いません。何より!」

は勢い余って立ち上がり、拳を握って胸を張る。

「何より、わたくしは自分にも家族 あなたたち にも恥じる振る舞いはしたくありません。
 嫌なのです。いつでも胸を張って、堂々と家族 あなたたち とお話できるわたくしでありたいのです!」

そこまで自信満々に言い切ると、は一度口をつぐみ、
ストンとその場にまた座ると、打って変わって静かに言った。

「……でも、お父様だって、寝込むわたくしを見るのは嫌だったのでしょうね」

自分の顔が母に似ていることを、一番知っているのもである。
父に病死した母を思い起こさせるようなことをしたとは自分でわかっていた。
それが酷なことだとも。

「もっと、うまく立ち回れればよかったのかもと思います。
 看護ももう少し気をつけてやればよかった。
 必死になって向こう見ずだったのも本当のことです。
 特に千寿郎にはいらぬ手間をかけました。……ごめんね」

眉を下げて所在なさげに微笑む姉に、千寿郎は驚いてすぐに首を横に振った。

「いいえ! そんな! 謝られるようなことではありません!
 姉上のわがままに振り回されるのは慣れていますし!」

「……あら、まぁ?」

の声がわざとらしい猫撫で声に変わった。
扇子を開いて口元を隠し、横にいる杏寿郎に目を配らせる。

「ねえ杏寿郎。千ちゃんったら今わたくしのことわがままって言った?」
「言ったな!」

杏寿郎も大袈裟に深々と頷いた。
明らかに面白がっている姉と兄に千寿郎は冷や汗をかいて続ける。

「すみません撤回させてください姉上」
「へーえ、ほーお、ふーん」

千寿郎の顔を下から覗き込んで、意地悪く間延びした相槌を並べるを遮るように、
千寿郎は首を横に振って拳を握り、堂々と言う。

「そ、それに今回は人助けのために動いたのです。俺も役に立てたなら、嬉しいことです!」

姉弟の中では割合慎重な千寿郎であるが、言うべきことははっきりと言う方だ。
と杏寿郎は顔を見合わせる。
互いに朗らかな笑みを浮かべたあと、は機嫌よく、感心したように頷いた。

「千寿郎は偉いわねえ」
「うむ! 立派立派!」

杏寿郎は千寿郎の頭を撫でる。兄姉たちから褒められて、千寿郎は照れたように笑った。
それを見ての方は「ふむ」と閉じた扇子を口元にやって、何か考えている様子である。

「それにしても、あなたたちに健康第一を言い聞かせておきながら、
 わたくしが風邪にかかるなどなんたる油断……!
 しばらくはちょっと鍛えなおそうかと思います。体力をつけねば」

「走り込みでもやろうかしら」などと口走っているを「いやいや」と杏寿郎は止めにかかった。

「だいぶ元気だぞは。これ以上元気になってどうする。
 そもそものことを言えば元気じゃないご婦人は大雪の中ひと一人、
 しかも普段鍛えている隊士を引きずってこれないだろう!」

今も十分元気いっぱいであると前置いた上で、杏寿郎はを励ました。

「その隊士が凍死しかねぬ状況だったなら、はひと一人の命を救ったといって過言ではない!
 こたびの顛末、武勇伝の類ではないか! 何も落ち込むことはないだろう!!!」

「風邪を引いたのは名誉の負傷と言ったところだ! 天晴れだ!」と言って
快活に笑って見せた杏寿郎に、は一度瞬いたあと、扇子を開いて高笑する。

「ほほほ! そんなにやすやすと家まで帰ったわけではないのよ。
 ……あれはちょっとズルをしました。呼吸を使ったの」
「そうなのか?!」

息を呑んだ杏寿郎に、は苦笑した。

「火急のことでしたから」と続けたに千寿郎はこてんと首を傾ける。

千寿郎はが竹刀や木刀を握る姿を見たことがない。
が稽古に打ち込むのは専ら音楽と踊りだ。

ただ、言われて見れば、の性格は剣士に向いているかも知れないと千寿郎は思った。

「姉上は炎の呼吸を使えるのですか?」

「七つの頃まで俺と一緒に鍛錬指導を受けていたのだ!」

千寿郎の疑問には杏寿郎が答えた。は後に続ける。

「体が丈夫になるように呼吸を習ったのです。
 昔取った杵柄 きねづか ですね。割と覚えているものだわ!」

朗らかに言ったあと、は少々間をおいて付け加えるように言った。

「……とはいえ、ほとんど火事場の馬鹿力だけど。
 人の命がかかっていたからこその馬力というか。
 今同じようにやれと言われても、よほどの気合いを入れないとできないと思うわ。
 やはり気合いが重要よ。気合いが」

「気合いですか……」
「うむ! 確かに気の持ちようというのはある!」

が真面目な顔でしきりに気合いと口にするので思わず千寿郎は反芻した。
杏寿郎もなかなかの実感を込めて頷いている。

は「ところで」と杏寿郎に向き直る。

「そんなことより、わたくしは杏寿郎の話を聞きたいわ!
 せっかく帰って来たのですから、土産話の一つ二つはあるのでしょうね?
 所望します。語らいなさい」

閉じた扇子の先で杏寿郎を軽く小突く様はもうすっかりいつもの姉である。

どうやら少しは気分も上向いたらしいと察した杏寿郎は「よし」と心得た様子で
の希望通りに口を開いた。

「俺は近頃上野での任務が多く、近辺の調査などもよくやるのだが、あちらは桜の名所だろう。
 公園の中にちらほら料理屋があるのを見つけて、なるほど時期には店にいながら桜が見れるのかと
 感心しつつも入らずにいたのだが、任務のあとに助けた人がその鰻屋 うなぎや に顔の利く人でな!
 朝から馳走してくれたのだ!
 俺は相伴に預かったのだが、いやはや桜があろうとなかろうと鰻はうまい!
 脂が乗っていて美味だった!」

と、救助した人から鰻を奢られた話――というよりも食べた鰻の感想を述べだした。

「鬼に襲われてすぐに鰻を……」

杏寿郎はともかく、救助した人もかなり豪胆な人物なのがうかがえる。
感心する千寿郎の言葉に杏寿郎もこくこくと頷いた。

「気前よくなかなかに肝の据わった方だった! そういえば肝吸いも美味だったぞ!」
「すごい食べてるわね、あなた」

が愉快そうに突っ込むのを見て、この分なら大丈夫そうだと杏寿郎は思いながら、
上野での任務の顛末や料理屋での出来事を面白おかしく話して聞かせたのだった。



は自室で花を生けながら物思いに耽っていた。

実のところ父に叱られたことよりも、自分の行動が父にあれこれ言われるような、
隙のあるものだったことが、にとっては悔しいのだ。

煉獄家は代々続く隊士の家系。人に害なす鬼を退治するのが生業である。
そんな家に生まれたことをは基本的には誇らしく思っていた。
一時は隊士に憧れたこともある。

諸々の都合では芸道に身を捧ぐことを誓った。
踊りと音楽で身を立てていくと決めたことを後悔してはいない。

それでも煉獄家の娘なのだから、誰かに手を差し伸べるべき場面では
サッと迷わず手を差し出せるようにしておきたいと思っていたのに、
千寿郎を手伝わせて苦労をかけ、思いきり風邪を引き、
槇寿郎をおそらくかなり心配させて怒られた。
任務に明け暮れ久々に家に帰った杏寿郎にも気を遣わせてしまったのだ。

弟たちを前になんとかいつも通り振舞って見せたものの、
はすぐに立ち直れずにいる。正直に言うとまだへこんでいた。

は物憂うままハサミを片手に花を切る。
黒く丸い碗のような形をした器に枝振りの良い、黄色い花をつけるアキサンゴと藪椿 ヤブツバキ を配した。
枝をたわめて動きをつけ、作品の大まかな形を決めてから、細かいところを詰めていく。

できた作品は下に置いた赤い椿から黄色いアキサンゴが天に枝を伸ばしていくような、
優美ながらも明るく力強い出来栄えに仕上がった。
にも関わらず、の表情は暗いままだ。

「……人を助けることにさえ、向き不向きがあるのかしら」

は自分が間違ったことをしたとはやっぱり思えないが、
それにしたってもっと上手なやり方があっただろうとも思う。
もう一度同じような状況に遭遇した時、上手に出来る自信がなかった。

作品を前に思い悩むは、何かが動くのを目の端で捉えた。
障子の外を見ると黒い羽がはためいたのがわかる。

そのままのそばに寄ったのは義勇の鎹鴉である。
脚にくくりつけられた手紙と小さな包みが見えて、は瞬いた。

「煉獄殿アテ。オ手紙、贈リ物」
「贈り物?」

はカラスから包みを受け取って丁寧に開いた。
細長い木箱の中に入っていたのは扇子だ。
持ち手は黒檀。同じく黒い花模様のレースが張られた、繊細で美しい、
どことなく異国情緒を感じる代物だった。

「まぁ……!」

はほうっと感嘆のため息を漏らすと、
すぐさま我にかえってぶんぶんと頭を横に振る。

「ねえこれ、相当の品物ではなくて?! 冨岡さんからよね!?
 ちょっと介抱しただけでこんなのいただけないわ!?」

明らかに高級品を贈られて恐縮したの着物のはしを
カラスはツンツン、と嘴で突いた。
はハッとしてくくりつけられた手紙を外す。

「……そうよね、まずは手紙を読まなくてはね」

は丁寧に手紙を解いた。
一枚は対局を進めた棋譜で、もう一枚は普通の手紙のようである。
鎹鴉を傍らに、は手紙を読み進めた。



拝啓 煉獄殿。
立春の候、殿におかれましてはご清福にお過ごしのことと存じます。
文通将棋のご提案、お心遣いありがとうございました。さっそく一手を打ちました。

この度は、先日の一件に改めて御礼申し上げます。
貴方が仰っていた通り、私は己の不調に気づかぬままに任務に出て、
その帰りに力尽き、危うく志半ばで斃れるところでした。
貴方が通りがかり迅速に対処していただけたおかげで、
私はこうして筆をとれている次第です。
本当にありがとうございます。

剣の指導をしてくださった方にも叱られました。
出来る限り己の体調を万全に整えるべし、
己の体調の悪化も気づかぬうちは未熟であるから、修行し直すようにと、
ほとんど貴方と同じことを言われました。

これを機に初心にかえって、基本から丁寧にやり直すことにいたします。
私を見つけていただいたのが殿でよかった。
おかげで己の未熟を振り返る、良い契機になりました。ありがとうございます。

僭越ながら感謝をお伝えしたく、少しでも礼を返さねばならないと思い、
大したものではありませんが扇子を添えました。
扇は末広がりの形で縁起が良いと聞いたのと、貴方は普段から扇子を使うようでしたので。
気の利いたものを贈れず恐縮ですが、お納めください。

最後に、失礼を承知で殿に伝えねばならないことがあります。
私は今後、きちんとした形で文通将棋の返事を出すことができないと思います。
今回も一手を考えること、駒を進めることは苦も無くできたのですが、
この手紙に何を書くべきか、書かざるべきかを考えると、時間がいくらあっても足りませんでした。
私のような者が何を書いても貴方に礼を欠くような気がします。
不躾なお願いで大変申し訳ないのですが、
次からは対局を進めるのと、挨拶のみの返礼でお許し下さい。

略儀ながら書中をもって御礼申し上げます。何卒ご自愛下さいますよう。

敬具
冨岡義勇



感謝ばかりを綴る右上がりの文字を、は指先で優しくなぞった。
こぼれるように、言葉が口をついて出る。

「……お母様ならもっと上手に対処できたと思うのよ」

『私を見つけていただいたのが』

「お父様からも叱られて、弟たちには気を使わせてしまったし」

殿でよかった』

「……」

は手紙を掻き抱くようにして黙り込む。

きっと特別な意味はない。何気なく選んだ言葉だろうとわかっていた。
ただ、散りばめられた感謝の言葉の中に見える、
ともすれば卑屈な自省のなかで、その言葉は燦然と煌めいていた。

嬉しかった。

は鎹鴉が去ったあとも、手紙を何度も読み返した。

看護したあと、早々に煉獄邸を後にした義勇は雄弁な少年ではなかったが、
手紙の文面は彼の朴訥とした静かな声で再生される。
ちょっとへりくだり過ぎているような気もするけれど、礼を尽くそうとする気持ちは伝わる。
ろくに返事も返せないと打ち明けるあたり正直なのだろう。
気にせず迷惑ならば迷惑と書きそうなところがあるから、多分、対局を続けるのは構わないはずだ。

「それにしても冨岡さんったら、何回『ありがとう』を書くのかしら。ふふふっ!」

はなんだか背中を押してもらえたような、
沈んでいた気持ちが浮き上がるような心地になって、
稽古帰りに真っ白な便箋をたっぷり買おうと決めた。

煉獄が十三の冬、深雪のころのことである。