篝火のかぐや姫

かぐや姫に倣う

秋色繚乱

煉獄杏寿郎は幼いころの記憶のいくつかを、極めて鮮明に覚えている。

それは秋のことだった。

煉獄邸の庭の少々奥まったあたり、
ひときわ日当たりの良い場所に大きな柿の木が植っている。

季節になると甘くずっしりとした実をつけるので、
杏寿郎もも時期が来るのを楽しみにしていた。
特には三度の食事が全部柿でも良いと豪語するほど柿が好物である。
だから六つの頃のは両親がとってくれるのも待ちきれなかったらしい。

「今年もたくさん実ったな!」と見上げて喜ぶ杏寿郎に、
はよし、と頷いて言った。

「とってきてあげるわ」
「むっ!? 待て、ダメだ! ちゃんと父上にとってもらわねば……!」

杏寿郎が止めるのも無視してはひょいひょいと木に登り、
あっという間に屋根の上ほどの高さの枝まで到達したのである。

杏寿郎はの平衡感覚に感心しつつも、
この高さから落ちたらまずいとわかっていたので声を張った。

「危ないぞ、!」

杏寿郎の忠告も聞いているのかいないのかわからないが、
の小さな手が、鈴なりに実る橙色の柿の一つをもいだ。

その実を抱えたまま、もう一つをまた器用に取ったかと思うと、
ハッと何かに気づいたように顔を上げる。
くくった髪が風に吹かれて、馬の尻尾のように揺れていた。

「杏寿郎! こっちで食べよう!」

どうやらは杏寿郎と一緒に、木の上で柿を食べたいらしい。
そんなことをしたら遅かれ早かれ母か父に見つかって大目玉だろう。
もそれはわかっているはずだ。

「降りてきて食べればいいだろう!」
「いいから!」

ブンブンと手を振って招くに、杏寿郎は根負けして柿の木によじ登る。
幹を挟んでの横にならぶと、が「ご覧なさい」と塀の先を指差した。

言われるがまま顔を向けると、どうしてが杏寿郎をそばに呼んだのかが分かった。
思わず感嘆に息を呑む。

昼と夜の狭間の赤色。
燃えるような見事な夕焼けだった。

街並みも木々も何もかもを一面真っ赤に染め上げながら太陽が沈む。
見入っていると、横からシャクシャクと水気を含んだ音がした。

「美味しい! 今年も甘い! 杏寿郎も食べなさい。よく磨いて」
「うむ」

が柿を手渡してきたのに頷いて、空と同じ色の果実をかじった。
甘い、滴り落ちる果汁で手を汚しながら夕焼けを見る。
美しかった。同時に、恐ろしくもある。

――太陽が全部を燃やし尽くした後にまた夜が来る。父上を戦場に連れていく夜が。

炎の呼吸を使い、人を助ける父はとても立派だ。格好が良いと思う。
けれど怪我をして帰って来るのは嫌だ。
同胞を亡くして悲しそうな父を見るのも嫌だ。
父は「皆を守れるよう、怪我をしなくて済むように、もっと精進せねばだな」と
笑って言うけれど。

「わたし達がうんと強くなって、お父様を助ければいいのよ」

杏寿郎の心を読んだかのような言葉だった。
思わずの方を向くと、は歯を見せてニッと笑った。

「そうすれば向かうところ敵なし! 無敵無敵!」

そうやって、が屈託無く言う顔は不思議と父にも似ているのだ。
励まされたような気になって、杏寿郎も笑い返した。

「柿を食べ終わったら、修行だな!」
「そうこなくては!」

ぐっと拳を握って勢い込んだに迷いはなかった。

「目指すは最強よ。最強。女だてら柱になった人はいると聞きます。
 ゆくゆくはお父様がそのまま炎柱。
 わたしは炎炎柱で、杏寿郎は炎炎炎柱になれば良し!」

茶化したの言いようだったが、聞き捨てならんと杏寿郎が眉を逆立てた。

「なんで俺が炎炎炎柱なんだ!?」
「生まれた順番から言って、杏寿郎は三番目でしょう」

当然のことのように言うに杏寿郎は「嫌だ!」と声を張り上げる。

「納得いかん! ここは実力で順番を決めるべきだ! 剣術勝負で決めよう!」
「いいけど。わたし達ずうっと互角じゃない」

が肩をすくめて見せるのも無理はない。

父から稽古をつけてもらって呼吸を覚え、
たまには試合形式で竹刀を交わすこともある姉弟であるが、
姉が勝ったら弟も負けじと食らいつき、
弟が勝つと姉が意地を見せると言った風情である。
実力は全くの互角だ。

だが、杏寿郎はを見る目に闘志を燃やして、挑むように言う。

「いつかには勝ち越してみせるぞ!」

はちょっと目を丸くした後に、
フッと大人びた笑みをこぼして杏寿郎を見返した。

「やれるものならやってごらんなさい」

姉弟の間に、好敵手に向ける見えぬ火花が散った。
険悪ではないが必ず相手を打ち負かして見せるという気迫がある。
しかし、それも鶴の一声ならぬ、父の一喝で霧散する。

「こらーーー!!! 何をやっとるんだお前達!!! 今すぐ木から降りなさい!!!」

木の上で小猿のように柿を食っていたのが当然の如く露見したらしい。
と杏寿郎は顔を見合わせたあと、頭から湯気が出ていそうな父がずんずんと
大股で近寄ってくるのを眺めた。

「お父様、怒っていますね」
「うむ、かなりご立腹だな」

は「しょうがない」と言って、行きと同様、
するすると柿の木を滑るようにして降りる。

「……わたしが杏寿郎をそそのかしたことは白状します」
「拳骨一つで済むといいんだが……」

杏寿郎は見立て通り、父からの拳骨一つで済んだが、
は加えて母にもキツめに叱られていた。

懐かしい、杏寿郎が幼い頃の一幕である。



「杏寿郎、そんなところで寝ていては風邪を引くわよ」

「……姉上?」

目を開けた杏寿郎が見たものは、在りし日の母と見紛うほどに成長したの姿だった。

白地に大ぶりにあしらった藤色の格子模様の着物を、ぶどう色の帯で締めている。
秋の色を身に纏ったはもう木登りなどしそうもない大人になっていた。
そこまで確かめてから、杏寿郎はようやっと自分が夢を見ていたことに気づく。

は杏寿郎の顔を見て「寝ぼけているの?」と首を傾げた。

「座ってお庭を眺めてるのかしらと思って見たら、あなた寝てるんだもの。
 寝るなら寝るできちんと横になりなさい」

そこまで言ってから心配そうに眉を下げて、杏寿郎に尋ねた。

「よっぽど忙しいのね。変な時間だけどお布団出しましょうか?」
「いや、大丈夫だ! ありがとう!」

杏寿郎はの申し出を固辞すると、柿の木を指さした。
夢に見た頃と違い、今はまだ青緑のつるりとした実がなっているばかりである。

「昔の、あの木によじ登って、柿を食べた時の夢を見たのだ」
「ああ。そんなこともあったわね、懐かしいわ」

は合点が言ったようで、杏寿郎の横に座るとしみじみと頷いた。

は今も登れるか?」
「……どうかしら?」

は曖昧に返したあと、杏寿郎へ目をやる。

「でも、わたくしよりかえって杏寿郎の方が危ないと思うけど」
「む?! あのくらいの高さならすぐ登れるぞ俺は!」

昔よりもずっと身体能力が上がっている。
柿の木どころか、見上げて天辺の見えない木々に登ることもできると自負する杏寿郎に、
は腕を組んで言う。

「登るのは良くても枝がへし折れるでしょう。
 あなた、今は米俵よりだいぶ重いじゃないの」

杏寿郎は柿の木とを見比べた。

「……確かに!!!」

の言うように柿の木の枝は細く、杏寿郎を支えるには心許ないように思える。
納得してぽん、と手を叩いた杏寿郎に、は大人らしく分別のある笑みを浮かべた。

「子どもだったから乗れたのよ。あんな細い枝にでも」

そこまで言ってはいたずらめいた顔になる。

「だけど柿の実を取る方法は木登りだけじゃなくてよ杏寿郎。
 竹竿でもぎれば ・・・・ いいわ。わたくし結構上手いのよ」

竿を巧みに操るように手を動かすに、杏寿郎は思わず笑みが溢れた。

「柿は姉上の好物だものな!」

「だって美味しいじゃない。少しも損なうことなく取りたいんだもの。
 三食全部柿尽くしでもいいくらいよ」

子供のころに両親が柿をもぐのを待ちきれなかったのも、
例年収穫が遅れていくつかの実が地面に落ちてしまうのが
忍びなかったせいだとは言う。

「地面で無残に潰れた柿の実を見る時の切なさときたら……!
 あまりにももったいない……!」

拳を握ってくっ、と歯を食いしばったに、
杏寿郎は大人になっても姉は変わらない、と
苦笑したが、すぐに考えを改めた。

――変わってしまったことはいくつもある。

そんなことを考えていたからだろうか。

「柿もそこまで好いてもらえたなら、食われて本望だろうとも」

何気なく返したはずの声には、幾らか寂寞とした響きがあった。
は驚いたらしく、目を丸くして弟を見やる。

「あなたにしては感傷的なことを言いますね。どうかして?」

杏寿郎はなんでもないと誤魔化す気にもなれず、
しばしと目を合わせずにいたあと、意を決して向き直った。

「姉上は昔、自分は炎炎柱になるから、俺は炎炎炎柱になれと、
 言った覚えがありますか?」
「ああー……」

はよくよく覚えていたようで額を抑えた。なんとなく気恥ずかしそうである。

「言ったわ。言いました。我ながらかなり適当なことを……。
 何よ“炎炎柱”に“炎炎炎柱”って……」
「はっはっは! おどけて言った言葉だろう!」

子供らしい言いようだと杏寿郎は笑って言った。
それから柿の木に目をやり、在りし日の姉弟を見るように目を細める。

何も憂うことなどなく、ただ父に導かれるまま、
姉と稽古に励むのが当たり前だった頃が、そこに残っているように。

「俺は随分ムキになって嫌だとごねたと思い返したんだが、」

――父と姉と己とで肩を並べられると言うのは。

「そんなに躍起になる程、悪くはなかったように思うのです」

「……杏寿郎、ちょっと失礼」

が言うや否や、煉獄邸の片隅でバシィッと景気のよい音が響いた。

「急に何を……!?」

背中を強かに叩かれたのである。
加減を心得ているらしく痛みはないが、とにかく音に驚かされて、
杏寿郎は目を白黒させながらを見遣った。

「気合いを入れてやったのよ」

当のはしれっと述べると涼やかな眼をさらに冷え冷えとさせて、
嘆息するばかりである。

「あのですね杏寿郎。“悪くない”わけないでしょう。
 “炎炎炎柱・煉獄杏寿郎”じゃ言いづらいし場が締らないわ。
 呼ぶ方が困るわよ、逆に」

半眼で呆れ顔のが情緒もへったくれもないことを言うので、
杏寿郎の感傷は瞬く間に吹き飛んだ。

「俺の言いたいことはそういうことではなく!」

思わず突っ込んだ杏寿郎に、は構わずに口を開く。

「――勝ち越しなさい」

真面目な顔をしたは、いつかと同じ、燃えるような眼差しだった。

「わたくしにそう豪語して、実際あなた勝ったのですから、
 郷愁だとか、弱気などという、目にも見えない心のモヤのようなものに
 足を引っ張られて負けないでちょうだい。そんなものは蹴飛ばして行くのよ」

の言い様は相変わらず勝気である。
杏寿郎は瞠目したあと、苦く笑った。

「……蹴飛ばすと言うのは剣呑ではないか?」
「あら、全部叩っ斬って行け、と言うよりは優しいわ」

「そのくらいの情はあるわよ」とはなおも続ける。

「お父様よりも、他の炎の呼吸の使い手の誰よりも、
 己こそが炎柱足る剣士だと、胸を張っていなさい。
 何よりお館様が認めてくださっているのでしょう?」

煉獄杏寿郎を柱に任ずると産屋敷耀哉からお達しがあったのはつい先日のことである。
次の柱合会議で当代の柱たちと顔合わせを終えれば、
名実ともに炎柱として任務に当たる。

「今更そんなことを言うなんて、あがっているんじゃないでしょうね?
 柱就任がいよいよ目前となって怖気付きましたか?」
「誰が!!」

意地悪な物言いに返す刀で言い返すと、はカラカラと笑った。

「ほほほっ、その意気ですとも!」

どうやら発破をかけられたらしい。
愉快そうに笑うは何かに気づいたように口元に指を置く。

「そういえば、近日お披露目会があるけども、杏寿郎は来なくていいわ。
 どうせお仕事お役目で来れないでしょうし」

は踊りの名取として、師範を手伝い門下生達の指導を仕事にしていた。
そのがいよいよ師範の資格を取り、
自分で門下生を取れるほどの腕前になったと公に認められたのは、
奇しくも杏寿郎が柱に任命された日のことである。

は師範の資格を得た記念に、お披露目会をすることになっていた。
大一番の晴れ舞台だ。
しかしは杏寿郎に来るなと言う。

「わたくしの芸が真に優れていれば、見ずとも評判はあなたに届く」

炎の色の瞳は煌々と自信に満ち溢れて光る。

「必ずお耳に入れてみせるわ。
 その時には秋の花材をたくさん寄越して。
 黄金の差し込んだ赤い菊がいいです。
 わたくしとあなたの目の色の菊ですよ」

ニッ、と勝気な笑みを浮かべたは杏寿郎に注文をつけた。

「杏寿郎はいかが?」

杏寿郎はにつられるように、また挑むように口角を上げる。

「次に帰るのは会議を終え、炎柱として第一の任務を果たしてからだ!
 何事も最初が肝心!
 無事にやり遂げたあかつきには鯛を料理してもらおうか!」

好敵手を見る目だった。

はその目を受け止めて、深々と頷く。

「早々に帰ってらっしゃい」

振るうのが刀ではなく扇になっても、握るのが三味線の ばち になっても、
は変わらず人を励ますことに長けていた。



杏寿郎が出立するにあたっては、千寿郎とが見送りに出た。
門の前で二人並び立って、千寿郎が笑って言う。

「兄上、どうかお気をつけて」
「うむ! 行ってくる!」

千寿郎の肩を叩いた杏寿郎は、横にいたに目を移すと、
何か思いついた様子で口を開いた。

「姉上、気合いを入れてくれませんか!」

はキョトンと目を見張った後、合点がいったらしく穏やかに頷いた。

「……いいでしょう」

そうしてしずしずと杏寿郎の前に立ったかと思うと、の目がキラリと光る。

「しっかりやりなさいよ!」

バシッと強めに肩を叩かれて、杏寿郎はの目を見た。
いつも火のように燃えている瞳から、力を貰う。

「うむ! ありがとう!」
「お安い御用ですとも」

がこのように勝気な笑みで杏寿郎を見上げるとき、
杏寿郎の方が上背や体格はずいぶんと大きくなったというのに、
同じ目線だった頃を思い出す。

――変わろうと変わるまいと、姉上は姉上だ。

「武運を祈るわ。勝ってらっしゃい!」
「いってらっしゃいませ」

「応とも!」

手を振って送り出す姉と弟に、杏寿郎も手を振り返して行くのである。