実らぬ花


思えば、物心がついた時からは漠然とした不安を抱えていた。

ドレスローザの第二王女に生まれ、王族にしては質素とはいえ、何不自由なく育てられているはずなのに、
その不安が晴れることはなく、年を一つずつ重ねるたび、返ってその不安は強まっていった。

は自分の不安がどこから来るのかを、いつも考えていた。

王宮から見下ろした景色が、なんとなく「異国」のように見えることだろうか。
いたるところに咲く花々がやたらに美しいことだろうか。
行き交う人々が皆質素で、清貧な暮らしをしていることだろうか。
はたまた新聞を賑わす、”海賊”が恐ろしいのだろうか。

どれも取るに足りないことのようで、致命的な綻びのようにも思えた。
そんな不安を抱えているからか、の表情は他の子供よりも幾分乏しい。

両親や姉はそんなを大変に心配した。
特に姉は初めてできた妹をたいそう可愛がったので、その心配ぶりも人一倍だ。
だからだろうか。は姉には心なし笑みを見せることが多かった。



は姉からお下がりで貰った絵本を手慰むようにめくる。

お姫様が王子様と紆余曲折をへて結婚する話。正義の味方が悪者をやっつける話。
あるいは賢い男の子が悪者を出し抜いて大金持ちになる話。
童話というものはだいたいそんなものである。
これに夢中になったりすることはなかったが、は挿絵の綺麗な絵本が好きだった。

、お勉強の時間よ!」
「お姉様」

より3つ年上の姉、スカーレットは子供部屋にいたの手を引いて
家庭教師の元へと向かった。
6歳になったばかりのと9歳になるスカーレットは同じことを勉強するわけではないものの、
同じ部屋で同じ教師の薫陶を受けるのだ。
おそらく妹のヴィオラが6歳になれば三姉妹が揃って同じ部屋で学ぶことになるのだろう。

「よくいらっしゃいました、スカーレット様、様」
「こんにちは、先生!」

もスカーレットに続いて挨拶する。
教師はそこそこ年のいった中年の女だった。
が机に着くと、授業が始まる。

ドレスローザという国について。

植物に愛された夏島の気候。愛と情熱の国と呼ばれる由来。妖精の伝説。
本島と小島”グリーンピット”で構成された地理の詳細。
そして、王の系譜。

教師が教科書がわりの地図や家系図を広げて説明するたび、
は自分の抱える不安が大きくなっていくような気がしていた。
だからこそ教師によく質問し、納得いくまで考える。

そんなの様子を見て、教師は笑みを作った。
第三者の声がかかったのはそんな時だった。

「やっているか?」
「リク王様・・・!」
「お父様!」

姉妹の父であるドルド3世が教室に顔を出したので、教師は腰を折って恭しくお辞儀する。

「そろそろ時間だろう。に話があるので、外してもらえるかな?」
「かしこまりました」

退室した教師の背を見送ると、ドルド3世と、
そしてスカーレットがいたずらっぽくに微笑んだ。

「さて、お前ももう6歳になった。
 今日はお前に紹介したい方々がいるんだ」
「紹介、ですか? でもどこにも、それらしい人は・・・」

はキョロキョロと辺りを見渡した。
ドルド3世はそんなに跪き、手を差し伸べる。

「こんにちは」
「!?」

ドルド3世の袖口からひょっこりと顔を出した小人に、は息を飲む。

「私は小人の国、トンタッタのトンタ長、ガンチョれす! 初めまして姫さま」
「小人・・・?! お、お姉さまは知っていたのですか?」
「うん。隠しててごめんね、。6歳になったら教わる決まりなんですって!」

スカーレットが目を丸くするをクスクス笑う。

「代々ドレスローザ王国に伝わる妖精の伝説。その正体が小人族なのだ。
 ドレスローザの小島、グリーンビットに彼らの王国がある。
 さぁ、ご挨拶なさい、
「こんにちは、ガンチョさん。あの、よろしくお願いします」
「よろしくれす!」

の小指と小人の小さな手が握手の形で握られた。

はその時、心臓が大きく高鳴るのを感じていた。
抱えていた不安が、違和感が、ぼんやりとした輪郭を帯びたのだ。

 やがてこの国は”海賊の国”になる。

は直感した。
まるで絵物語のページをめくるように、そのシナリオが浮かんだ。

海賊の狡猾な策略に引っかかり、愛する国民に暴虐を振るうことになる、父、ドルド3世。
海賊の一人に殺される姉、スカーレット。
無理矢理に海賊に従わされる妹、ヴィオラ。
そして、奴隷のように働かされる小人族。

「どうしたの? 、お顔が真っ青よ」
「本当だ、根を詰めすぎたのか・・・?」
「私がびっくりさせすぎたのれしょうか?」

はスカーレットとドルド3世、ガンチョの心配そうな顔を見て、なんとか言葉を紡いだ。

「ご、ごめんなさい・・・きっと、横になれば大丈夫ですから」
「そう? なら、付き添うわ!」

励ますように笑ってみせたスカーレットに、は頷いた。

部屋に戻り、ベッドに横になったは枕を握りしめて考える。
医者曰く熱が出ているとのことで、風邪の疑いがあるからと
スカーレットはから遠ざけられた。

一人になった途端、不安が質量を伴ってを押しつぶしてしまいそうだった。
だが、どこか腑に落ちたことがあった。

 ドレスローザで生まれたくせに、この国に、家族に、馴染めないはずだ。

熱に浮かされたの脳裏には、恐ろしく背の高い建物に囲まれ、人にあふれた国があった。
コンクリートで舗装された道に、スーツ姿で行き交う人々。
食べ物に困ることはなく、情報と娯楽が溢れかえる豊かな、それでいてどこか冷たい国。
いずれドレスローザに訪れる悲劇は、娯楽の中で描かれていた。
絵本よりも随分大人向けのその娯楽を、うすらぼんやりとでないは眺めていた。

一体どういう経緯で海賊がドレスローザを乗っ取るのか、
具体的にどういう手段を用いるのかまではわからない。
だが、一つだけわかっていたことがある。

海賊はリク王の平和主義を利用し、慎ましい生活を送る国民を騙したのだ。

は熱で朦朧とするままに思ったことを口にしていた。

「もし、もしも、この国を変えることができるなら・・・」

ドレスローザは海賊の国にならず、平和な国のまま、
スカーレットも殺されることなく、幸せに末長く暮らすことができるのだろうか。



! あなた最近変よ!」
「そうですか?」

スカーレットは手習いが終わるとに走り寄った。
まだ6歳だというのに目の下に濃いクマを作り、棒のように痩せてしまったを見て
心配そうに声をかける。

「そうよ! 全然眠らないなんておかしいわ」
「勉強が楽しいのです」

は笑みを作って見せたが、
の痩せた体を見ているとスカーレットにはその言葉が信じられなかった。

本当に楽しいと思っているにしたって、物事には限度がある。
寝食を忘れて勉強に励んでも、健康でいてくれないなら、家族としては心配なのだ。

「お言葉ですけどね、ぜんぜん楽しそうに見えないわ。
 あっという間に私の読んでた教科書だって終わらせて、
 今は大人が読むような本を読んでるじゃない。それも戦略とか、戦術とか、そういう本ばかり!
 お父様が渋い顔をしていたわよ」

戦争や戦いを嫌うドルド3世はの様子を教師から聞き、難しい顔をしていた。
もそれには心当たりがあるのか目を泳がせている。

「あー・・・伝記にある武将たちがかっこいいので、つい」
「・・・は強い男の人が好きなの?」

珍しく少女らしい言動だ。スカーレットは思わず好奇心のまま尋ねるが、
はピンとこなかったらしく、首をひねった。

「・・・どうでしょう?」
「自分のことなのにわからないのね・・・?」

スカーレットはやれやれ、と肩を落とすと、人差し指をに突きつけた。

「とにかく、ちゃんと眠ってご飯も食べてよ」
「時間がもったいないです。水とパンを食べてれば死にはしません」

不健康極まりない事を言い出した妹に、スカーレットは唖然とした後、柳眉を逆立てた。

「死ななくたってすでにガリガリじゃないの!?
 おまけに何よこのクマ! パンダにでもなるつもりなの!?」

はスカーレットの言葉に面白そうに眉を上げ、クスクス笑い出した。

「ふ、ふ、ふ。いいじゃないですか。パンダ。可愛いですよ」
「笑い事じゃないったら!」

スカーレットはふくれ面だったが、
話が通じないに落胆したようで、肩を落としていた。

「・・・心配なのよ」

さすがに消沈したスカーレットを見て、にも思うところがあったらしい。
真面目な調子でスカーレットに答えた。

「スカーレットお姉様、私は知らなかったことを知るのが楽しいのです。
 食事や睡眠をとることよりも」
「でも、・・・私はに元気でいてほしいのに」

スカーレットに、は眦を緩めた。

それを見て、スカーレットは歯がゆく思った。

表情が乏しいと言われるだが、笑いもするし、悲しみもする。
他の子供たちと比べて大人っぽいけれど、時々冗談だって口にする。

口さがない侍女はがむやみやたらに勉学に励む様を”変わり者”だとか揶揄することもあって、
それを聞くとスカーレットはまるで自分自身を貶されたような気持ちになった。

「ありがとう、お姉様」

がとても嬉しそうにスカーレットに笑うので、
スカーレットは首を傾げた。
お礼をいわれるようなことはしていない。

「なぁに、急に? あ! お礼を言うのなら今日は外に出てかけっこをしてくれるわね?
 それにはご飯を食べなくちゃいけないわよ?」

スカーレットの提案に、はちょっと驚いたようだったが、頷いてみせる。

「・・・ふ、ふ、ふ。お姉様には敵いませんね。そのように」



経営。戦術。心理学。学ばなければいけないことは山のようにあり、
時間はを待ってはくれない。10歳になっても、休むことなく図書館に篭る日が続く。
一冊本を読み終えたところで、目の前に座っていたスカーレットには目をやった。

「スカーレットお姉様? 眠ってしまわれたのですか?」

図書室に籠るを心配して顔を出したスカーレットがいつの間にか静かになっている。
向かいに座るスカーレットはスヤスヤと寝息を立てていた。

をいつも気にかけてくれる、明るくて、優しくて、愛情深い、自慢の姉君。
退屈させてしまったなら悪い事をしたな、とは頰をかいた。

は椅子から降りて、スカーレットを起こすか起こすまいか迷う。
このまま風邪をひかせてしまうのは本意ではない。

その肩に手をかけると、美しいストロベリーブロンドの髪がさらりと流れた。
ともヴィオラとも違うその髪色は、祖母からの隔世遺伝なのだと言う。
長い睫毛が頰に影を落とし、いつもくるくると表情を変えるその顔は、今はお人形のように静かだ。

はほう、とため息をついた。
まるで吸い寄せられるように顔を近づけ、そして。

自分が何をしようとしたのか気がついて、すぐにスカーレットから距離をとった。

心臓の音が大きくなっていく。
口元を押さえたその指先から血の気が引いていく。

「・・・ん? いけない、私、眠ってしまってたのね」
「スカーレット、お姉様」
「どうしたの? あ、起こそうとしてくれてたのね、ありがとう、!」

照れたように笑うその顔に、相槌を打つだけで精一杯だった。

「・・・ええ」
「私は部屋に戻って休むわ。も。あなた放っておくといつまでも図書室にいるんだから。
 一緒に部屋に戻りましょう」
「・・・そうですね。私ももう休むことにします」

スカーレットは「珍しいわね」と言う顔をしたが、すぐに嬉しそうに笑っての手を引き、
は与えられた自室の前でスカーレットと別れた。

「おやすみ、
「おやすみなさい、お姉さま」

扉を閉めたは、その場に崩れ落ちた。
両手に残る温もりすら、には恐ろしいもののように思えた。

「私は、一体、何を・・・?!」

眠るスカーレットに口付けようとした。
まるで童話に出てくる王子のように。

だが、は王子様ではない。
ましてスカーレットとは血の繋がった姉妹だ。

は魔が差したのだと思いたかった。
しかし、その考えがすでにおかしいことにも気づいていた。

女性が女性に、キスをしたいと思うものなのだろうか。
それも、何かに突き動かされるような衝動を伴うようなキスを。

はそれ以上考えることをやめて、床につくことにした。
眠れば忘れられると思ったのである。



その日は悪夢を見た。
断片的な場面が繋がった出来の悪い、しかしそれでいて妙にリアリティのある悪夢。

馬の蹄の音。誰かの叫び声。焼ける街。倒れ臥す人々。
涙を流しながら街に火をかける、ドルド3世。

『誰か・・・殺してくれ・・・!!!』

悲痛の声が徐々に途切れ、煙が視界を遮り、場面が変わった。

夕立、響く銃声、胸を貫く銃弾、血を流すスカーレット。
誰かがスカーレットに走りより、叫んでいる。

『娘が・・・お腹を空かせて・・・』
『ット・・・スカーレット・・・!』

セリフは雨の音にかき消され、やがて何も聞こえなくなっていく。



は飛び起きて、それが夢だとわかるまで肩で息をしていた。
そして、理解していた。今の夢は、正夢だ。
父は国民をその手にかけ、スカーレットは海賊に銃で撃たれて死ぬ。
ドレスローザが変わらぬ限り。

は自身の頰が濡れていることに気づいて、目を覆った。
昨晩自分が何をしようとしたのかを思い出したのだ。
昨夜は魔が差したと思った。だが違った。

は女性としてスカーレットを愛している。

そうでなければ、こんなにもこの悪夢が恐ろしいわけがない。
自身が死ぬより、父が、母が、妹が死ぬよりも、
姉であるスカーレットを失うことの方が何より嫌だった。

「・・・娘がいると、言っていましたね」

の口の端が笑みの形に歪んだ。

悪夢の中で倒れるスカーレットに走りよった誰かは、スカーレットの夫だろうか。
スカーレットを守れなかったことを悔やんでいた。
それまで幸せだったのだろう。だからこそ失ったことを悔やみ、悲しむのだ。

は喉を鳴らして笑う。

は自分の中に狂気を見つけたのだ。

生まれながらの国を故郷と思えない。見たこともない国を懐かしいと思う。
家族を家族と思えなかったどころか、女の身でありながら実の姉に懸想した。

やがてこの平和が続くドレスローザを海賊が乗っ取ろうとする妄想に取り憑かれ、
挙げ句の果てに国民思いの父が国民を殺す様を、最愛の姉が殺される様を夢に見る。

こんなことを誰かに打ち明ければ、たちまち病院に入れられることはにもわかった。
ただでさえ年相応でないこと、表情が乏しいことを周囲は気にかけているのだ。
何より、スカーレットも悲しむだろう。

「・・・あなたが幸せに暮らせるのなら、」

は涙をぬぐい、顔を洗いに洗面所に立った。
鏡には決意を新たにした、子供らしくない少女が見える。

 ・・・ああ、そうとも、私は自分の顔ですら、自分と思ったことがない。

「私はなんだってする。絶対にあなたを死なせない」