フォレノワール

天窓から朝の光が落ちている。

目を開けると、部屋には香ばしい香りが満ちていた。
あくびを一つ零すと、徐々に頭がはっきりしてくる。
いつの間にすっかり眠ってしまったようだ。

身体を起こして一番に目に入ったのは12歳くらいの少女がテーブルに皿を運ぶ姿だった。
濃い緑色のワンピースだ。
ストライプのリボンがアクセントになっている。

「・・・?」

少女はサボが起きたことに気づくと柔らかく微笑んだ。
既に身支度は済んでいるらしい。

「おはよう、サボ君。・・・ふふっ、寝癖が酷いわ」

指摘されて頭を抑えると確かに、髪の毛があちこちに跳ねている感触がある。

「顔を洗っていらっしゃいな。朝食ならもう出来ているから」

少女らしからぬ所作で、はタオルをサボに渡した。



甘党らしい甘ったるい朝食を楽しむを見て、
サボは自身に供された半熟卵の目玉焼きとベーコンとアスパラのサラダが
特別に作られたものだと気がついた。

「ごめん。ありがとう」

はナッツの入ったスコーンにたっぷりとクローテッドクリームを塗り、
蜂蜜を垂らしたものを口に運びながら、目を大きく瞬かせる。
少女らしい仕草だった。
しかし、老婆の姿のときもは同じ仕草をする。

「なんのお話?」
「わざわざ作ってくれたんだろ、料理が違う」
「ああ、それね。それも趣味なのよ。食事を作るのも、食べるのも好きなの。
 私の作った料理を食べている人の顔を見るのもね」

は微笑んで、アールグレイに口をつける。
サボは子供の姿のを見て首を傾げた。

「何か、質問でも?」
「あんたは姿形を自由に変えられるようだけど」
「ええ。なかなか便利よ、悪魔の実は」

サボは僅かに躊躇うが、が促すのでおずおずと口を開く。

「・・・小説家の時が本当の年齢なのか?」
「どうかしら?あなたはどう思う?」

は面白がるように目を細める。

それを見て、サボは軽く眉を顰めた。
どうせが答えを教えてくれる気はないことは分かっている。
だから今度はなんの遠慮もなく、本心を答えた。

「おれの爪を剥いだ、あのときの顔が”本物”の気がする」
「へぇ?」

は眉を小さく上げたきり、その話を蒸し返しはしなかった。
サボは目玉焼きを口に運びながら、
案外、的外れな答えではなかったのかもしれない、と思った。
の口元に浮かんでいた薄い笑みが僅かに揺らいだように見えたからだ。



は謁見の間で王族に物語を話して聞かせているらしい。
部屋を出るときは髪を結い上げた老婆の姿をとっていた。
の服装は子供であっても、老婆であっても、
ちぐはぐに見えないのが不思議である。

サボはが王族の相手をしている間、目星を付けた資料室に忍び込んでいた。
意外にも簡単に忍び込めたのは、この鉄壁の要塞は外部から忍び込むのが難しい故に、
内部の警備はどうしても手薄になるからだろう。

資料室で見つけた書類には、違法薬物、武器の取引の帳簿や
他国で盗まれた美術品のブラックマーケットでのオークション目録、記録などがある。
それだけで充分に糾弾出来るのだが。

「ひどいな。取り立てた税のほとんどを城の改装工事に使ってる。
 国庫はほぼ空だ」

サボは帳簿を見て思わず呟いていた。

が兵士と世間話がてら話していたのを少し聞いたが、
この城は延々と改装、増室を繰り返しているらしい。

なぜそんなことをしているのかと言えば、
4代前の国王からの勅命がそのまま残っているからだそうだ。

勅命の時に王が半狂乱で口にしたとされる言葉が未だに語り継がれている。

”呪われた王族たるテンペスト家が今後もまた栄華を誇るためには
呪う悪霊共の気を逸らさねばならない。部屋を増やせ!ドアを、窓を、通路を!
それだけが我が望みだ!”

は昨晩の夕食時、とても面白そうにこの話をサボに教えた。

『4代前まではね、この城も他国と同じく、平凡なものだったそうよ。
 鉄とコンクリート、ガラスの、近代建築の粋を尽くしたものではなかった』

『近代建築の粋・・・。装飾もされてない、こんな牢獄みたいな城が?』

『ふふふ、牢獄は言い過ぎだわ。
 装飾を限りなく省略し、機能、合理性のみを追求しているのよ、
 棚は壁に収納され、シャンデリアも天井に組み込まれ、ただ広い四角い部屋がそこに現れる。
 静かで、悪い言い方をするなら、無味乾燥だわ。でも幽霊はこの城を好かないでしょうね。
 人間らしさ、情感と言うものを想像しづらい部屋が続くから』

様式だけみれば、確かにこの城はひんやりとした合理的な作りをしている。
しかし、この城はまるで生きているようにその部屋を増やし続けているのだ。
かつての国王の妄執が、この城を肥大させつづけている。
今生きている国民の血税を吸い上げながら。

「幽霊より生きてる人間の方を恐れて欲しいもんだ、まったく」

悪政を敷いたことを自覚していたから、かつての王はそんな勅命を出したのだろう。
止めない子孫も子孫である。

書類をまとめ、サボはその部屋を後にした。
証拠は手に入れた。
この情報をドラゴンに渡し、しかるべき革命の方法を考えなくてはならない。
ひとまずのサボの任務はこれで終わりだ。

「・・・」

一刻も早くバルティゴまで戻るべきなのは分かっている。
だが、昨晩のの物語がサボの影を縫い止めたようだった。
色鮮やかに蘇る記憶。世界。
嘘と本当が織り混ざった物語の素晴らしいことと言ったらなかった。

これでは本当にシェヘラザードだ。
我を忘れて続きが聞きたいと思ってしまうのだから、
と言う小説家は本当に恐ろしい人である。



今日も夕食を共にした。

レンコンとごぼうのチップスが入ったサラダ。
魚介類の沢山入ったシチュー、焼きたてのパン。
デザートにカットされたフルーツ。
昨晩サボが肉料理に手を付けなかったのを反映しているようだった。

少女の姿をとったは完璧な所作でナイフとフォークを操りながら、問いかける。

「首尾はいかがかしら?」
「ああ、まぁ。悪くは無い」

の質問に、サボは煮え切らない返事を返した。
特に気に留めた様子もなく、は頷いてパンを齧った。
はその首に朝はつけていなかった豪奢なネックレスを飾っている。

「その首飾りは?」
「フォリオ王から頂戴したわ。是非にと言われたのでね。受け取らないのも失礼でしょう。
 私は”フォレノワール”だけで充分だと言ったのだけど」
「フォレ・・・?」

聞き慣れない単語にサボが首を傾げると、は笑った。

「ケーキの種類よ。
 メインはチョコレートクリームとブラックチェリー、隠し味にブランデーを少々。
 この城のように異なる味の生地を何層にも重ね、パティシエは緻密に味を計算するの。
 甘すぎず、苦すぎない。絶妙のビタースウィート。・・・素晴らしかった」

宝石よりもよほど気に入っていたのだろう。
うっとりとその一皿に思いを馳せるは今までになく幸せそうな顔をしていた。

「・・・残念だわ。あの一皿を食べられなくなるのは」
「それは、」

慌てたサボに、はわざとらしく小首を傾げてみせた。

「少し意地悪だったかしら?
 私は余り物事に執着しない質だから、そう気に病まないでちょうだい」

「執着しないって言っても、あんたの支援者だろ、フォリオ王は」

「フフ・・・、ねぇ、サボ君。
 なぜ今でもテンペスト家は4代前の国王の残した勅命を続けているのだと思う?」

はぐらかすようなの問いかけに、サボは腕を組んだ。
そう言う態度にいちいち突っかかっても、のらりくらりと交わされるだけだ。
どことなく釈然としないながらも、質問に答える。

「色々と理由はあるとは思う。
 実際呪われるような悪政を敷いてるって言うのも事実だしな。
 だが、」

サボが見て回ったミリアムはとにかく経済的な格差が激しい国だ。
そして、懐の潤っている連中はどいつもこいつも悪人だった。

「・・・一番の理由は、”惰性”だろう」

の唇が弧を描いた。
当然だが、子供らしからぬ笑みだ。
そのままサボに話を続けるよう促す、その目が好奇心とも感動ともつかない光を帯びている。

「この国の大臣達や王族は自分のことしか考えて無いんだ。
 国を良くしようという志も無いし、今の贅沢な生活を捨てたくない。
 だから”国のため”に必要な金も平気で城の改築の為に空に出来る。
 それが本当に必要かどうかさえ考えもせずに。
 ただ、先代も先々代も同じ事をしていたからと言う理由で金をつぎ込み続けてる。
 自分の暮らしぶりにはなんら関係ないんだからな」

サボの吐き捨てるような物言いにも、は口を挟まなかった。

「・・・驚いたわ。
 流石にその若さで革命軍の参謀総長を務めているだけのことはあるのね。
 私も概ね同意見よ」

はカットされた林檎を口に運ぶ。

「彼らは奴隷なのよ。サボ君。
 権力の奴隷。制度の奴隷。贅沢の奴隷。
 そして、国民はさらにその奴隷と言うわけ。日々に追われ思考を停止しているの。
 ・・・考える事を止めてしまったら、人は容易くなにかの奴隷になってしまうというのに」

王族を奴隷と言い切るは陶然とした目つきでサボを見上げた。

「”革命軍”、表立って支持は出来ないけれど、私個人としては嫌いではないのよ。
 なぜならあなた達は”きっかけ”で、それ以上でも以下でもない。
 自分の現状を見つめ直す機会、
 その体制が望ましいのか、そうでないのかを考える口火。
 人が奴隷であることを辞めることの出来る契機。
 ・・・素敵ね」

その言葉が余りに甘ったるく響いたので、サボはつい目を伏せた。
はオレンジを口に運んでいる。
果物の瑞々しい香気が、部屋に充満しているかのようだった。



また今日も同じ寝台に寝そべった。
サボはやはり落ち着かないと距離をなるべくとったが、
は昨夜に引き続き、まったく気にするそぶりを見せない。

「実のところ、私は少し意外に思っているの」
「何が?」
「目的を遂げたら、さっさと立ち去ってしまうのだとばかり思っていたから」

闇の中で会話する。
の姿は闇にまぎれ、ぼんやりとした輪郭しか捕らえる事が出来ない。
幼い子供の姿をとったまま、は揶揄うような声を出した。
サボは面白くないと眉を顰める。

「ご期待に添えず悪かったな・・・立ち去ってた方が良かったのなら」
「ふふふっ、そんなこと言ってないわ。・・・怒ったの?」
「別に」

は小さく笑っている。苦笑に近い笑い方だった。
あまりに子供染みた態度なのはサボも自覚しているが、
はぐらかし、のらりくらりと立ち回るばかりのを困らせたくなったのだ。

「そう言わず、機嫌を直してちょうだい。
 ・・・では、また物語でもいかがかしら。
 私はこれしか能がないもの」

サボは一度口を開こうとして、また一度閉じる。
出来るなら、聞きたい物語があったのだ。
の言葉を通して、見たい景色があった。

「サボ君?」
「・・・おれの兄弟の話を、してくれないか」

はなるほど、と相づちを打った。

「兄の方?弟?」
「・・・兄の方だ」
「確か、”エース”と言ったわね。フルネームがあるなら、教えてくれる?」

サボは噛み締めるように、その名前を呟いた。

「ポートガス・D・エース」

はしばらくサボに沈黙を返した。
ある意味で予想は出来ていたが、にしては珍しい反応だった。
しかしやがて、は頷いてみせる。

「・・・良いわ」

の声がしっとりとした、柔らかいものに変わる。

「ポートガス・D・エースは、海賊王の息子として生まれた。
 物心ついて母の腹を食い破ったことを知り、
 多くの人間に父親への恨み辛みばかりを聞かされた。

 幼い日のエースはなぜ自分が生きているのかも分からず日々を過ごしていた。
 ”それ”が彼の一生の命題となった。
 ”望まれぬ自分が生きていても良いのか”ということが。

 もし、生きる事を否定され続けるのであれば、この海に父以上の名声を轟かせ、
 世界に自分が生きた証を刻み付けるのだと息巻いた。
 父に翻弄され、”自分”が何も残らない人生はまっぴらだと思っていたからだ」

はやはり、見て来たかのように言葉を紡ぐ。

サボはやがての言葉に没頭しはじめた。
新聞でしか、古い手配書でしか、サボはエースの成長した姿を知らない。
それなのに。

青年になったエースの姿が目蓋の裏で像を結んだ。

潮風に吹かれ少し痛んだ黒髪、派手なオレンジ色のテンガロンハット。
日に焼けた肌と、子供の頃から顔に浮かぶそばかす、
一見して失敗しているみたいな入れ墨。背中には白ひげのジョリーロジャーが笑う。
ひひひ、という独特の笑い方さえ、の物語が鮮明に照らし出すのだ。

虚構と現実が入り交じり、
ポートガス・D・エースがの言葉で蘇る。

数多の海賊と戦う姿。メラメラの実を食べた時の冒険。

部下を率いて自身を炎に変えながら戦ったかと思えば、
人の話なんて聞きやしない、乱暴で、豪快で、仲間と認めた相手には屈託なく笑顔を見せる。
昔は想像もできなかった。白ひげの部下になり、彼を”親”と慕う姿さえ、
サボの脳裏にありありと浮かぶ。

の語るエースは仲間と共に海賊を謳歌している。
・・・どこまでも自由だった。

サボはその結末を知っている。
それでもの言葉で語られるエースの一生は、素晴らしい物語だった。

また会えたような気がしていた。
もう二度と会えなかったはずなのに。

どのくらいの時間が経っていたのか分からない。
身体の中を、エースの一生が通り過ぎていった。
その感覚の余韻に任せて、サボはに、素直な言葉を告げる事が出来た。
感情的になり過ぎずに済んだのは幸いだった。

「・・・ありがとう」
「・・・なぜ礼を?」
「あんたの言葉で、思い出せる」

は少しの沈黙を返した。
複雑な表情を浮かべている。

「まるで本当に、エースがそんな風に生きて来たみたいだった」
「・・・後だしでごめんなさいね。
 今の話は、丸っきりの創作と言う訳ではないの」
「え?」
「私は、彼を知っているわ」

サボはの顔を見て、目を丸くする。
はため息を零した。

「白ひげの宴席に呼ばれてね。
 マルコと言う人が私の話が好きだと言うから。
 何度か話をしたわ。
 エースは私の本なんか1冊も読んじゃいなかった。
 宴席でいくつか冒険譚を話す私に向かって
 『よくそんなにぽんぽん話が浮かぶな。小説家になれば?向いてるよ』って言ったの」

あまりに”エースらしい”セリフだ。
それにしても一度は二つ名にまで”小説家”とついた相手に
そんなセリフを吐くとは。
知らないと言うのは怖いな、とサボは頬を引きつらせた。

「エースの奴・・・」

「白ひげ本人に、私はあまり好かれていなかったけど、
 家族に手を出さなければ、特に私に手出ししないと取り決めたから、
 何度か宴の席にお邪魔したわ。
 その度に彼は、料理にうつぶせて寝るんだもの!
 私はおかしくてしょうがなかった」

は思い出すように遠くを見ている。
闇の中に輪郭を探るような、そんな眼差しだった。

「・・・彼が死んだ時、とても残念だった。
 なにしろ面白い男だったから。
 屈託なく笑うくせに、次の瞬間に面差しに影が落ちる。
 後もう少し歳をとったら、食べ応えがありそうだったのに、今でも惜しいわ」
「・・・おいおい」

茶化すような言葉なのに、その声色に奇妙な情感が籠っている。
は小さく笑って、柔らかに言った。

「彼の一生は、その境遇故に、ねじ曲げられることも多いのだろうけど。
 私は私の見た彼の姿を大事にしたいと思ってた。
 ・・・あなたに話せて良かったわ、サボ君」

サボは少し言葉を選んでからに声をかける。

、あんたの物語を聞いて、あいつにまた会えた気がしたんだ」
「いつだって会えるわよ。あなたの中に居る。私の中にも」

は淡々と言葉を紡ぐ。

「ただ触れ合えないだけ。たったそれだけ。でも、それがとても淋しい事なのよね」

深いため息を零して、はまた物語を始める。
普段よりもずっと優しい声色で。

サボはもう一度目を瞑った。

そう。の言うとおり、死んだ人間には二度と触れ合うことが出来ない。
笑い合う事も、喧嘩をする事も。
だからだろうか。不思議とエースに勝ち逃げされたような気分だった。
かつて3兄弟でやった喧嘩の番付は互角だったのに。

死んだ人間には誰にも勝てない。