罪と罰
胡蝶しのぶは、自室の机を前にして、つい先ほどの杏寿郎との会話を思い返していた。
当初、の面倒を見ていたのは他ならぬしのぶである。
の欠点も美点もよく知っていた。
杏寿郎がの面倒を引き継いでからは、の悪評が徐々に改善されていることも伝え聞いている。
杏寿郎がの悪癖を治してくれたら良いのにとも思っていた。
だから、律儀にもの父親である明峰に挨拶に来たと言う杏寿郎に、こう切り出したのだ。
「さんはどうですか? “あの癖”は治りました?」
「いいや。治らんな!」
杏寿郎は治療に使った器具を消毒液に浸した後拭く、という地味な作業を延々とこなしながら
やたらと朗らかに答える。
「多少抑えることはできるようになったが、克服するには至っていない。
そもそも克服できるような代物かもわからん! 長い目で見ないとダメだろう!」
「……そうでしょうね」
しのぶは微笑んだまま、軽く目を伏せる。
「煉獄さんもご存知かもしれませんが、
あんまり押さえつけると、彼女は死にたがりますから、危ないんです」
杏寿郎は黙ってしのぶに目を合わせた。
それを肯定と読んで、しのぶはさらに続ける。
「恥ずかしながら、私では彼女を取り押さえるのが難しいこともあって」
「君、それで君を破門したんだな」
深いため息をこぼして、しのぶは頷いた。
「……不甲斐ない限りです。
お館様も彼女に監督が必要なのは分かっていたようですが、
引き継ぎを誰にするかはしばらく悩んでいたそうです。
私がもう少し段取りよくやれれば良かったですね」
途中での指導を放り出したことを悔やむしのぶに、杏寿郎は首を横に振った。
の人体理解と、それを応用した格闘には目を見張るものがあると杏寿郎も知っていたのだ。
それは本来、鬼殺の任務において重宝されるものだが、人に向けられるとなれば話は別である。
「君の対人格闘は普通じゃないからな。俺も稽古をつけていて、たまにひやりとさせられる。
しかし人間相手に、君の十八番である毒を打ち込むわけにもいかないだろうし!
対処をするのは大変だったはずだ!」
「……」
杏寿郎の言葉に、しのぶは笑顔で黙り込んだ。
「……打ったのか? 毒を?」
しのぶの沈黙を正しく読み取った杏寿郎が尋ねる。
しばらくの間を置いた後、観念したようにしのぶは口を開いた。
「麻酔を何度か」
「ほう! なるほどな!」
杏寿郎の目が感嘆にキラリと光った。
その様を見て、しのぶが笑みを深くして問いかける。
「煉獄さんにもいくらか分けて差し上げましょうか」
「はっはっは! 念のために頂戴しよう!」
が聞けば文句を言いそうな言葉で柱の二人は会話を終えた。
しのぶは思い返して、想像する。
柱の会話を聞いたは笑ってこう、うそぶいて見せるのだ。
『うふふ。お二人ともひどいことをおっしゃるんですから。
まるで私が熊か何かみたいじゃありません?』
それにしのぶはこう答える。
『熊なんか比になるものですか。
あなたはもしかすると、鬼よりも厄介な人でしたよ』
そしたら、は顔に張り付けた笑みを深くする。
黒々とした瞳の奥で、金色の、危うい光をゆらゆらと灯しながら。
※
今、考えてみるに、という少女は初めから異端だったと思う。
鬼に襲われても日輪刀でもなんでもない、ただの薙刀で、
鬼殺隊の隊士が来るまで一人応戦し、生き延びた。
このいきさつからして、普通ではない。
それから通っていた女学校を辞めて、藤襲山の試験を受け、
ほとんど無傷で合格した。
同じ試験を受けていた隊士候補生の中にはの手当を受けた人間も随分いて、
その処置の的確さは、しのぶも舌を巻くほどだった。
は才ある人物で、いつも笑顔で淑やかで、
しのぶが最初に会った時には、どこか姉に雰囲気が似ていると思った。
の父親である明峰も、鬼殺隊の役に立ちたいと蝶屋敷のそばに小さな診療所を構えた。
治療の手立てが増えるのは、しのぶにとっては何よりも嬉しいことだ。
何人鬼殺隊の隊士が傷ついていくのを手当し、また何もできずに見送ったことだろう。
医者が増えれば、救える命も増えるに違いない。
親子は鬼殺隊に恩寵をもたらしてくれるだろうと思った。
もきっと継子としてうまくやっていけるだろうと。
だが、そう思っていられるのは最初の数週間だけだった。
は鬼を嬲り殺すことを好んだ。
その上鬼殺の際には自分の命を度外視したやり方ばかりをとった。
牙や爪の鋭い鬼に平気で近づいて腹わたを引きずり出す。
顔を押さえつけて皮を剥ぐ、舌を抜く、目玉を潰す。
首を切れるような状況でも鬼の再生力が落ちるまで延々手足を切り続ける。
しのぶが加勢に入らねば、大けがをしていただろう場面も何度かあった。
それでもは懲りもしない。
何かに取り憑かれたように、は鬼を残酷なやり方で殺すのだ。
最後まではそうだった。
「さん、やめなさい」
その日、がさんざ鬼を甚振るのを力尽くでは止められず、
しのぶは仕方なく、の嬲っていた鬼を自分の刀で突いて殺した。
は毒で苦しみ、泡を吹いて生き絶える鬼を、目を細めて眺めていた。
楽しそうに。嬉しそうに。
その恍惚とした顔は、美しかった。
「なぜですか?」
だからふと顔を上げて、しのぶに目を合わせたの言葉が、
最初はうまく耳に入ってこなかった。
「胡蝶さまだって『目を潰したり、内臓を引きずり出したり』
そういうことを鬼に言って脅すじゃないですか」
「それは罰だからです。
鬼を痛めつけるのは自分の愉しみではなく、鬼を許すための罰であるべきです」
しのぶは断言する。
鬼を拷問するのは、それが罰だからだ。
なんの罪もない人の命を奪って食っている、鬼を許すための行為なのだ。
「そうでなければ、罪は償われない。
罪を償わないでいる鬼とは仲良くできませんからね」
「でも、胡蝶さま、拷問したって鬼は全然自分のやったことを悔いたりしませんよ?」
の言葉は正しかった。
しのぶの知る限りでも、鬼が自分の罪を悔い改めたことはなかった。
「だいたい拷問して、鬼が言うことは決まってます。
私に向かって『食い殺してやる』とかの罵詈雑言。
再生力が落ちてきたら命乞い。それで最後に『楽にしてくれ』」
保身のために嘘を吐いて、理性を無くし、本能のままに人を食らう。
「うふふ! みんな判で押したように自分のことばかり!
自分が食ってきた人間のことなんて、はなから頭にない。そりゃそうです。
奴らにとっては人間なんて、日々の食料ですものねぇ。
いちいちどんな人間かなんて気にしない。数なんて数えない。
もちろん罪悪感なんてありゃしない」
毒で死んだ鬼の死体を足先で小突きながら、は言った。
「罪の意識のない罪人に、償わせることなんてできませんでしょ?
わざわざ許してやることないですよぉ、どいつもこいつも人を殺して喰らう怪物です。
だったら奴らの苦痛を愉しもうがいいじゃないですか、結果は同じですもの」
の言葉はいくらか利己的ではあったが、間違っていなかった。
だが、しのぶはの言い分を、どうしても受け入れてはいけない。
「『一匹の鬼が死ぬ』それだけです」
しのぶは首を横に振る。それから微笑んで言った。
「鬼は、哀れな生き物ですよ。仲良くしていかねば」
それが鬼に殺され死んだ姉、カナエの望みだったから。
元は人間だというのに、人を食わねば生きていけない鬼を、
最期まで、自分が死ぬ間際ですら哀れんでいた。
斬り伏せるのではなく、できる限り苦しまない殺し方で送ってやりたいと訓練するような人だった。
に頷いてしまえば、姉の思いを否定することになる。
姉の努力も、同情も、意味がなかったのだと。
だがは、しのぶの内心を知るよしもない。
「うふふふふっ」
だから口元を上品に手で隠し、くつくつと喉を鳴らすようには笑った。
その目の奥に、ゆらゆらと揺れる金色の炎が見えた気がした。
血まみれの少女が、端正な顔を歪めている。
「ねぇ、胡蝶さま、それって」
しのぶはの、淑やかな声が恐ろしくなった。
目の前に居るのが同じ年ごろの、人間だとは思えなくなった。
「それって一体、誰に“言わされて”いるんですか?」
心のひときわ柔い部分を、抉り取られたような心地がした。
パシン、と軽い音が響く。しのぶは気がつけばの頰を張っていた。
「度重なる命令違反、もう庇いきれません」
告げた声は震えている。
ずっと考えていたことだった。
は対人格闘と薙刀においてはかなりの才覚がある。
この先鍛え続ければしのぶがを取り押さえるのは難しくなるだろう。
折を見て手放そうと思っていた。その頃合いが、きっと今なのだと思ったのだ。
しのぶがに“鬼”を見た、この時が。
は頰を抑え、目を瞑った。
しのぶの言葉が事実上の破門だとわかっているようだった。
「……わかりました。少し意外です。辞めろとは仰らないんですね」
「あなたは鬼殺隊に必要な人材です。たとえ、悪趣味な方法で鬼を倒すのだとしても。それに」
しのぶは苦笑する。
「あなたは正しくはないけれど、全部が間違いというわけでも、ないので」
※
「胡蝶さま、手術は滞りなく済みましたので、ご挨拶に参りました」
机に手をついて、物思いにふけっていたしのぶが我に返ると、
穏やかな笑みをたたえたが深々と頭を下げたところだった。
後ろでは杏寿郎が腕を組んで、弟子の挨拶を見守っている。
少しぼうっとしすぎたようだ、としのぶは内心の嘆息と裏腹に、
いつもの笑みを浮かべて見せる。
「……さん。今回もありがとうございました。
煉獄さんも、お手伝いをありがとうございます」
「いや、俺はついでだった! 急に押しかけて悪かったな!」
朗らかに言った杏寿郎と、薄く笑みを浮かべるを眺め、
しのぶはに声をかけた。
「それで、さんは煉獄さんとはうまくやれていますか?」
はきょとんとしたかと思うと、首を傾げて、杏寿郎の方へ顔を向けた。
「どうでしょう? やれてるんですかねぇ?」
「そこで俺に聞くのか?」
杏寿郎の方もに釣られるように首を傾げている。
「自分ではうまくやれてるかなんて、とんとわからないものですから」
「む、そう言われると確かに……!」
師弟共々頭に疑問符を浮かべ出したので、
しのぶは気が抜けて、唇に小さく笑みを浮かべる。
「……わかりました。そこそこにうまくやれているようで安心しました」
安堵した様子のしのぶを見て何を思ったのか、が声を上げた。
「私は胡蝶さまに習った蟲、花の呼吸と、煉獄さんに習った炎の呼吸を
良いように合わせて型を作り、近頃は鬼殺にあたっています」
急に何を言い出すのかと瞬くしのぶに、は笑みを深くする。
「私はこれを、『
勝手ながら胡蝶さまの仰っていたことにあやかって」
しのぶは息を飲む。
『それは罰だからです。
鬼を痛めつけるのは自分の愉しみではなく、鬼を許すための罰であるべきです』
確かにしのぶはにそう言った。
だが、拷問と血に酩酊していたがそれを覚えているとは思っていなかった。
淑やかな声は確かな後悔をにじませて、しのぶの耳に柔らかく届く。
「私はあなたの継子になれず、
それどころかまともな弟子にすら、なれはしませんでしたけど」
は深々と頭を下げる。
「いつだって心を配ってくださっていたこと、深く感謝しております」
しのぶは驚きに大きく目を見開いて、しばらくの沈黙の後、静かに口を開いた。
「顔を上げなさい、さん」
「はい」
上げた顔は穏やかだった。
瞳の中にどこか危うい印象の、金色の光が今はない。
「また、応援が必要な時には呼び出します」
「ええ、もちろん」
は笑顔で応えて見せる。
しのぶはそれを見て、少しばかりの悪戯心を出した。
「それから、たまには先生に顔を出してあげなさい。いつも寂しがっていますから」
「……」
父親のこととなると途端にたじたじになるは笑顔で固まっている。
しのぶは笑うのを堪えて、わざと叱るような声を作って見せた。
「さん」
「はい……父がいつもご迷惑をおかけしております……」
恥じ入った様子でため息をこぼしたに、
しのぶと杏寿郎は目を合わせて、笑った。
「ふふっ」
「ははははは!」
笑い出した二人の師範を見て、はぽかんとしたように見えたが、
自身も遅れて力なく笑みを浮かべた。
※
杏寿郎とは帰路を歩む。
夕焼けは燃えるように二人を照らしている。
どこか晴れやかな様子のを見て、杏寿郎は笑みを浮かべた。
「君の悪癖も少し抑えられてきた。
通いで胡蝶君に稽古をつけてもらえるよう頼んでみようか?」
は驚いた様子で杏寿郎を見やった。しかしすぐに苦笑いを浮かべる。
「気を遣わせてしまってすみません。……ううーん。煉獄さん、
申し訳ないのですが、多分、私は良くても胡蝶さまがダメなんじゃないかと思いますよ」
「そうか?」
の言葉は杏寿郎にとっては意外なものだった。
どちらかといえば、しのぶは申し訳なさそうな雰囲気だったし
中途半端なところでを手放したことを悔やんでいるようにも見えた。
「ええ。いやぁ、私、胡蝶さまからは嫌われてますからねぇ」
「そんな風には見えなかったが!」
杏寿郎が言うも、はどうも杏寿郎の言葉を信用できなかったらしい。
は諦めるように首を横に振った。
「あの方は真っ当で真面目で優しい人ですから、
私のようなものを受け入れられなくても当然です」
「……俺が真っ当じゃないような言い草だぞ、君!」
「あら、そう聞こえましたか? うふふ」
カラカラ笑うに、杏寿郎は何を言っても無駄だと思った。
の自己評価は、変なところで低いのである。
「それにしても君の父君は大層君を可愛がっているようだった!
よく鬼殺隊への入隊を許してくれたな!」
はにこやかに口を開いた。
「つかみ合いの大喧嘩をして、折れてもらいました」
「つかみ合いの大喧嘩」
あまり穏やかでない言葉が出てきて、杏寿郎は思わず反芻していた。
「あまり想像できんが!」
見た目だけは優しげな父娘である。
は印象と裏腹に物騒な少女だと知ってはいるが、
よもや明峰まで実は激しい気性なのか、と杏寿郎は驚いていた。
「うふふ、私が鬼に襲われた日の父のうろたえようときたらひどいものでしたよ。
『もう二度と家から出さない』とか言い出すほどで」
確かに家に血まみれの娘が帰ってきたらびっくりするだろう、と杏寿郎も頷いた。
まして鬼に襲われるような目に遭って、命があっただけでも奇跡のようなものだと言うのに、
鬼殺隊に入ると言い出したなら、必死になって止めもする。
「でも……あのまま学校に通っていたら、
私は何か取り返しのつかないことをしでかしそうだった」
低く呟かれた言葉は杏寿郎の耳に確かに届いていた。
振り返ればそんな言葉が嘘のように、は薄く笑みを浮かべている。
「私はね、煉獄さん。通っていた女学校を辞めて鬼殺隊に入りましたけど、
あそこは学費もさんざ取られますし、家柄を鼻にかけた方々も多くて、
腹の立つことを言われることもあったのでね。未練なんかは残してないんですよ」
「……君は」
「はい、なんでしょう?」
真っ赤な日差しに照らされて、が杏寿郎の方に顔を向ける。
それを見て杏寿郎は言葉を飲んだ。
は不思議そうに首を傾げている。小さく笑みを浮かべたまま。
「いや! なんでもない!」
「左様ですか」
は歯切れの悪い杏寿郎を珍しい、と言いたげに瞬いたが、
それでも追求はしなかった。
杏寿郎は黙って腕を組み、また、の横顔を眺める。
残酷趣味の鬼のような女。
家族思いで義理堅い少女。
どちらも正しくのことだ。
だから杏寿郎は尋ねようとした。
「未練を残していないと言ったのは、本当に女学校についてだけのことなのか」と。
「まだ、鬼との殺し合いの果てに死にたいと思っているのか」と。
聞いたところで、は虚ろに笑うだけだろう。
杏寿郎には歯痒いながら、そんな奇妙な確信があったのだ。