夢幻万華鏡ー吉夢ー
は文机を前に、はっと我に返った。
なんだか意識がぶつりと途切れたような、妙な気持ちの悪さがあったので
あたりを見回せば、そこは見慣れた煉獄邸の、に与えられた部屋である。
今、私は何をしていたのだろう……?
軽く額を抑えたの前には、書きかけの資料と上官である杏寿郎から預かった日誌、
それから、自分の書き付けた日誌が広げられていた。
柱合会議で使う資料を、まとめていたところだったのだ。
本当に、そうだっただろうか。
はどこか違和感を覚えながらも、なんとなしに杏寿郎の日誌をパラパラと流し読む。
杏寿郎の日誌は簡潔である。
どのような任務を受けて、どのように鬼を倒したのか。
自身や隊員の負った怪我の有無などが
ほとんど箇条書きのように記されていて、
その中に、時々思い出したようにその日食べたものが書いてあった。
はその、唯一垣間見える杏寿郎の人間味のようなものに小さく笑みを浮かべて、
今度は自分の書いた日誌の方を手に取った。
の日誌は杏寿郎のものとはだいぶ性格が違う。
その日の出来事を微に入り細に入り書き記した、
書き手の感情がありありとわかる代物である。
だからは、日誌の提出を求められる時のために、
感情を省いた事務的なものを用意していた。
そんな風に手間をかけてまで、わざわざ詳細に日誌を書くのにはいくつか理由がある。
まず自分の遺書がわりとして役立てるためと言うのが一つ。
もう一つは単純に、自身が読み返したときに詳細な記憶が思い出せるよう、
記しておきたかったのだ。
鬼殺隊として、炎柱の継子として、副官として過ごした日々のことを。
の手が、ページをめくった。
※
が杏寿郎に悪癖を打ち明けてそう間もない頃の話だ。
様子を見てとは別の任務に出るようになっていた杏寿郎が、
救援にを呼んだことがあった。
が現場に駆けつけると、隠と隊員の何人かが話しているところだった。
鬼はすでに退治できていたらしく、
雰囲気は落ち着いていたものの、どこか皆不安そうだ。
夜明けを前に、竹林がざわざわと風に揺れている。
「鬼は退治できたようですけど、皆さんどうなさったんです?」
声をかけたに、皆は驚き、それから安堵した様子で胸をなでおろした。
どうやら、ちゃんとした治療のできるものがいなくて困っていたらしい。
隠の一人がその日の任務の経緯を話しながら、を杏寿郎の元へ案内する。
隠いわく、今回の鬼は恐ろしく厄介な血鬼術の使い手だったそうだ。
具体的には『鬼の首以外を切れば切るほど鬼が際限なく分裂していく』と言うもので、
は聞くだけで面倒臭そうな鬼だな、と思った。
そういう鬼を相手にするなら、大なり小なり怪我を負うだろうとも。
だが、実際のところ、現場にいた隊員にはほとんど怪我はなかった。
「炎柱一人で40匹は斬ってたそうです」
隠の言葉とともに杏寿郎を見つけて、は表情を失った。
岩を背に腰を下ろしている杏寿郎は大怪我を負っていた。
が現場に駆けつけた中で見た、他の隊員の誰よりも。
杏寿郎はを見つけると、そんな有様にも関わらずすっくと立ち上がって、
快活な笑みを浮かべ、あまつさえスタスタとに歩み寄ってくる。
「救援ご苦労! 君!」
「……なんであなたがそんな重症なんですか? どう考えてもこの中で一番強いのに」
半ば唖然とするにも、杏寿郎はあっけらかんと答える。
「今回の鬼には厄介な血鬼術を使われたのだ!
いやあ、久々にひやっとしたぞ!」
はその言い草で大体のことを察した。
杏寿郎自身は確実に鬼の首だけを取り続けたのである。
だが、そんな芸当が出来るのは杏寿郎だけ。
他の隊員は鬼の首以外の部分も切りつけてしまったのだろう。
だから杏寿郎は他の隊員が増やした鬼も切り続けたし、
隊員の太刀筋や行動にも気を配らねばならなかった。
足手まといを大勢抱えた上で大量の鬼を捌き続ければ、
確かに杏寿郎であっても重症になるわけだ。
は杏寿郎の傷口を見やる。血は不自然なほどピタリと止まっていた。
「全集中で止血なさってますね。そうじゃなかったら煉獄さん失血死ですよ。
ていうか、なんでこの状態で立って歩こうと思えるんですか?」
「はっはっは! そうそう死ぬようなら柱など務まらんからな!」
やたらと朗らかに笑う杏寿郎に、は深いため息を吐いた。
「……しょうがない人ですねぇ。
応急ですが処置をするので大人しくしてくださいな」
「わかった!」
素直に応じた杏寿郎に、はたおやかな笑みを浮かべる。
「程度によってはこの場でさっと縫いますけど、
そんなに元気なら麻酔は要りませんよね?」
優しげな口調で告げられた言葉に、杏寿郎の顔が強張った。
「……おい、君、冗談だろう?!」
「残念ながら、私は洒落のわからない女なんですよぉ。……マジです」
「君!」
杏寿郎の咎めるような声にも、は虫も殺さぬような微笑みを崩さず、
どこからともなく針と糸を取り出して見せる。
針の先が朝焼けに照らされてキラリと光った。
「大丈夫大丈夫。痕の残らぬよう、
ひと針ひと針、丁寧に縫って差し上げますからねぇ」
「何が大丈夫なんだ君?!
ちっとも安心できる要素がなかったが!?」
さすがに焦っている杏寿郎を見て幾らかの溜飲を下げたのか、
は乾いた声で笑ってみせる。
「はは。本気になさらないでくださいよ。おっしゃる通りの冗談です」
「……君、目が笑ってないぞ」
半眼で訝しむ杏寿郎に、はいつも通りの表情を作った。
「ふふふ、では処置に移ります」
どういう手順で手当てすればいいかはわかっている。
は手だけを正確に動かすよう努めながら、頭では全く別のことを考えていた。
この人は、きっと私とは違う方向に狂っておられるのだろう。
傷を消毒し、縫い止め、包帯を巻く最中、は今まで抱いていた漠然とした、
モヤモヤとした感触が輪郭を伴ったのを悟った。
杏寿郎がしきりに口を酸っぱくしてに言い聞かせる
「強者は弱者の為に」と言う心構えは、
もはや杏寿郎にとって心構えではなく、当然のことになっているのだ。
骨の髄まで染みついた当たり前の自己犠牲の精神が、
杏寿郎を突き動かし、鬼を屠り、人を守らせる。
自身のことなど後回しにして、ろくに顧みることもなく。
さもなくば、さほど言葉を交わしたこともない人のために、
これほど血を流すことができるだろうか。
はそれがどうしようもなく、気に入らなかった。
鬼のような女だと自覚のあるの手を取って「君は人だ」と断言した男が、
人でありながら神仏のような境地に至っていると分かったからだ。
勝手に人間を強者と弱者に選り分けて何様のつもりなのだろうとも思った。
強者としての責務を背負って、腕を磨き続けているのだかなんだか知らないが、
杏寿郎だって麻酔なしで針を刺せば痛いし、涙だって出るだろう。
血を流しすぎればあっけなく死にもする。
だから詰ってやりたかった。
杏寿郎が命を賭して守った弱者と杏寿郎自身に、さほどの違いはないのだと。
少しばかり剣の才覚や心得があるからって、
どれだけの責務を背負い込むつもりなのだと。
傲慢だ。自分の才覚を過信しすぎだ。無理を通しすぎだ。
どれだけ鍛錬を積もうとも、人の手には届かない、途方も無い理想を追いかけ続けている。
そして、そうやって成し遂げたことに、一体どれだけの報いがあると言うのだ。
誰が慮ってくれると言うのだ。
酒浸りの父親を気遣い、剣の才のない弟を励まし、
心ばかりを燃やす杏寿郎の、よすがとなるものはこの世にあるのか。
杏寿郎の敬愛する“立派なお館様”でさえ、
継子に用意したのは、鬼のような女ので、
その上杏寿郎の求める炎の呼吸の継承者としても適正がない。
やたらに厄介なだけの女の面倒を見させられているのだから、
損な役回りを押し付けられているだけではないか。
そういう風に、罵ってやりたかった。
だが、そもそも杏寿郎は、
誰のことも責めないし必要以上の期待もしない。報酬も求めない。
だからこそ、鬼にも劣る残忍な気性ののことを見捨てることもない。
にとって杏寿郎の見返りを求めない姿勢は理解に苦しいところがある。
努力したところで報われるとは限らないが、それでも、少しだけでも、
報いるものがあって然るべきだと思う。
何より、ひたすらに自分を鍛え上げて、すり減らすような、
煉獄杏寿郎の有り様はあまりにも、――あまりにも寂しい。
「君、どうした?」
考えに耽っているうちに、手が止まっていたらしい。
杏寿郎に声をかけられて、は我に返った。
処置そのものはすでに完了している。
「手当はもう終わったのではないのか?」
「……はい。すみません。ちょっとぼうっとしておりました。
煉獄さん、かなり出血してましたから、二、三日は安静にお願いします。
その後経過を見てから現場復帰です。よろしいですね?」
がどうにか取り繕うと、杏寿郎は笑みを浮かべる。
「そうか! わかった! にしても君は手際が良いな!
注射も全然痛み無しに打てるじゃないか! いつもそうすればいいのに!」
以前打った栄養注射の痛みがよほど印象的だったらしい杏寿郎に、
はにこやかに答える。
「あれは私の趣味なので」
「……悪趣味が過ぎるぞ、君!」
咎める杏寿郎を笑ってかわしながらも、はある予感を拭えなかった。
多分この人は早くに死ぬ。
そして、それをものすごく、歯痒く、許しがたく思ったのだ。
※
の悪癖が、少しずつ改善されていった時の話だ。
訓練を始める前に、どこから入り込んだのか、
三毛猫が煉獄邸の植木の影に居たことがあった。
「まぁ、猫ちゃん」
自分でも驚くくらい甘ったるい声が出て、パシ、とは自分の口を叩いた。
伺えば杏寿郎がちょっとびっくりした顔でを見ている。
はいたたまれなくなって、杏寿郎から顔を逸らした。
「……すみません」
「君、猫が好きなのか?」
は頷いた。
嘘を吐いてもしょうがないことである。
「毛足の長い生き物は、だいたいどれも好きですよ」
「毛足の長い生き物」
杏寿郎はの独特な言い回しが印象的だったらしく反芻する。
猫はじっとと杏寿郎を見ていた。
そのまま足元に寄って来たので杏寿郎はしゃがみこむ。
「随分人馴れしている。飼い猫だろうか。……君?」
「はい」
は真顔で猫から目を離さずに杏寿郎へ答える。
あまりに真剣な眼差しに、杏寿郎は面食らった様子だった。
「……『はい』ではなくてだな。
いや、そんな凝視するくらいなら、潔く撫でるなりなんなりすればいいと思うのだが」
「私のようなものがそんな愛らしい生き物を触って良いのでしょうか?」
がどうやら真面目に言っているらしい妙な理屈に、
杏寿郎は呆れながらも、手招いてみせる。
「君、考えすぎだ。ほら、しゃがめ」
「……はい」
素直にしゃがんだは相変わらず、
杏寿郎に撫でられて喉を鳴らしている猫を眺めていた。
「おとなしいから今なら触れるぞ」
促されるまま、そぅっと指先が、猫の毛足に触れた。
まるで熱いものに触れた時のように、はすぐに手を引っ込める。
「ふわっとしました。ふわっと」
「……それはそうだろう。にしても君、それじゃ突いただけのようだな」
杏寿郎は、が何を恐れているのか気づいたようだった。
「猫は君が触ったくらいじゃ死にはしない」
は一瞬、困ったような顔になったが、
すぐにへらりとした薄い笑みを浮かべて見せた。
「えぇー、ほんとですかぁ? 骨とかへし折れませんかぁ?」
「安心しろ。折れないから!」
の手が、かすかに震えながら猫の背に触れる。
猫はぼうっとしている様子で、
誰が触れようが触れまいがおかまいなしであくびをしていた。
は安堵したようで、ポツリと呟く。
「
「ははは。君が言うところの、毛足の長い生き物であるからな」
杏寿郎は猫を驚かさないようにか、普段よりも控えめな声で笑う。
それにつられては猫を撫でながら、静かに言った。
「……煉獄さん、きっと驚かれたでしょう。
私は確かに悪趣味ですけど、小さい、弱い生きものをいじめるのは趣味じゃないんです。
むしろ、力が強くて自我のはっきりしてるのを
徹底的に苛んでねじ伏せたいというか、屈服させるのが好きというか……」
落ち着いている様子ながらも段々と物騒な調子になっていく言葉を
杏寿郎は止めにかかった。
「君。そういうのは詳しく説明しなくても構わんぞ」
咎められて我に返ったは、一度顔をあげて杏寿郎を見やった後、深くため息を零す。
「……失礼いたしました。私はどうも、気が大きくなると喋りすぎるようで。
自分でもよろしくないとは、思っているのですけどねぇ」
それから撫でる手を止めて、杏寿郎に笑いかけた。
「煉獄さんが居たから、多分この猫は逃げずに居てくれるのですよ。
私は動物に、わりと嫌われがちなのです。
惨たらしい気質をきっと見抜いてしまうのでしょう」
杏寿郎は腕を組んで首を傾げる。
どうもの言い分がピンとこなかったようだ。
「いや、君の場合じっと相手を見てるのがよくないのだと思う。
気質は関係ないだろう。それに、昔はともかく最近の君は、」
杏寿郎は何を思ったのかしばし黙り込み、それから口を開いた。
「……言葉はともかく行動の方は少し落ち着いているぞ。ほんの、少しだがな」
それには、曖昧な笑みを浮かべて応える。
で、あるならば、おそらく私が変わったのだ。あなたに変えられてしまったのだ。
だがそれを、杏寿郎が気づくことはないことも知っている。
あなたは気づかない。当たり前のように目の前の人間に手を差し伸べただけ。
たったそれだけ。
それが私にとってどれほど価値ある手のひらだったかなんて、きっと全然気づかない。
猫はひとしきり撫でられて満足したのか、立ち上がると歩き去ってしまった。
※
が炎柱の副官になる、少し前の話だ。
「これは見事に、降られましたねえ」
「降られたなぁ……」
と杏寿郎はどちらも途方にくれた声を上げる。
大雨の夜だった。
久方ぶりに合同で鬼を退治して、さあ帰ろうかと言う時に雲行きが怪しくなり、
あっという間にバケツをひっくり返したような雨が降り出したのだ。
幸いなことに雨宿りのできそうな軒先があったので入ったはいいものの、
しばらく雨は止みそうにない。
は強すぎる雨足に、見通しも悪くなった夜を眺める。
「これを無視していくと濡れ鼠になった挙句の風邪っぴきですね」
「少し収まるのを待とう!」
「賢明だと思います」
は帽子とマントで少しは雨を凌げたが、杏寿郎はそう言うわけにもいかなかったようだ。
夜闇でもわかるほど、髪から雫が滴っている。
が手ぬぐいを杏寿郎に渡すと、雨音に紛れて「ありがとう」と声が返ってきた。
雫を払いながら、杏寿郎はに尋ねる。
「そういえば、なぜ君は父に尋ねられた時、薙刀の流派を曖昧にしたのだ?」
槇寿郎との問答の際のことが、どうやらずっと気にかかっていたらしい。
は隠すことでもないかと口を開いた。
「薙刀術は宝田師範という人に教わっていたのですが、
どうやら私に教えたもののいくつかは秘伝の扱いになるらしく、
流派の話をするときは『これは法螺話であるが』とか『冗談と前置くが』とか
そういう枕詞を使うように言いつけられました。
あまり公言するなと取り決めがあるようです」
説明を受けて、杏寿郎は何に思い至ったのか不思議そうな声をあげた。
「む? と言うことはこういう話をするのも、
もしかするとよろしくないのか?」
「多分。まぁ、いたずらに吹聴してるわけでもありませんから
良いと思いますよ。適当で」
「本当に適当だな!」
のいい加減な返答に、杏寿郎は笑う。
は今となっては懐かしい薙刀術の師範の顔を思い浮かべ、
「ちょっと変わった先生だったのですよね……」と呟いた。
「大師範が私を疑ったのも分かるんですよ。
あんな……実践的な武芸を身につけるために手習を受けたわけではないんです。
初めは普通に護身・作法を学ぶべく道場に通ったのですが、
いやはや、宝田師範は私の調子を見て勝手に作法以上のものを叩き込んでくれました」
「勝手に」
「そう。勝手に」
杏寿郎が繰り返した言葉に、も笑顔で頷いてみせる。
「おかげで、鬼と出くわした際に死なずにすみましたから、
まあ、結果良ければ全て良しということでしょう」
こう言えばおそらく杏寿郎からは同意してもらえるだろうと思ったのだが、
返ってきたのはどちらともつかない言葉だった。
「どうだろうな」
思わず横を見ると、杏寿郎はまっすぐ、真面目な顔で雨を眺めている。
「薙刀の稽古がなかったら君は一生鬼と遭わずに済んだかもしれない。
君が悪癖に苦しむのも、君の才覚故であることも否めない」
は杏寿郎のらしくない言葉に瞬き、
少しの間を置いてから、声に茶化すような色を乗せることにした。
「おやおや、珍しく後ろ向きですね、お加減が悪いのですか?」
「さて、雨だからだろうか。確かに少し気が滅入る」
苦笑した様子で杏寿郎は応え、へと目を向けた。
陽の光の下ではさんさんと輝くような色合いの髪も目も、夜の中では暗く見える。
だが暗闇も、眼差しの強さばかりは殺せない。
「……君は鬼にさえ遭わなければ、自分を律して生きていくことができていたと思うぞ」
杏寿郎はを憐れんでいるようだった。
本当なら鬼殺に関わることもなく暮らしていくことができたが、
悪癖に振り回されながら鬼を屠ることを。
「才覚というものは、必ずしも必要とする人間の元に宿るとは限らないのが、
もどかしいな、君」
それが誰のことを思っての言葉かはわからない。
のことか、弟のことか、あるいは自分自身のことなのか。
だからは静かに頷くほかなかった。
「……左様でございますね」
雨はざあざあと降り続けている。
「それにしても、止みませんねぇ」
「止まないなぁ」
見通しが一向に良くなる兆しはなく、と杏寿郎は揃って途方にくれたのだった。
※
は日誌のページをめくる手を止めた。
全部全部、覚えている。
中でも大雨の日のことは印象的だったので詳細に覚えていた。
杏寿郎の言う通り、には薙刀や武術の才など必要なかっただろう。
確かに、自分の才覚を呪ったことがないと言えば嘘になる。
惨たらしい気質だけを持っていても、
それを実行に移せるだけの力がなければ、もっと自分を律するのは楽だったはずだと。
だが今は違う。
が薙刀を習っていなければ、鬼殺隊に入ることもなかった。
煉獄杏寿郎に会うこともなかったと考えると、
は自分に鬼殺しの能があって良かったとさえ思うのだ。
の指が日誌に書き連ねた文字を撫でる。
あなたは私の苦痛の理解者だった。
たった一人、私の浅ましい気質と苦悩を見抜いてなお、寄り添ってくださった人だった。
あなたがいることで、私の心はずっと軽く、穏やかになった。
だからあなたと見た季節の移り変わりは、私の一生で際立って輝く。
日誌のページをめくるたび、書き付けた情景が蘇って胸を打つ。
鬼を退治した日の帰り道に見る空の眩いこと、
稽古の後にそよぐ風の気持ちが良いこと、藤の花の香り、行く先々で味わった食べ物。
交わした言葉の数々。どれもこれも鮮やかだった。
私はいつも噛みしめるように筆をとった。
日誌を胸にかき抱いて、は固く目を瞑る。
ああ、この日々の、なんと幸福なことだろう。
暖かな気持ちでいただが、ざわざわと肌を刺すような違和感を覚えて目を開ける。
見れば視界の端から足場がぼろぼろと崩れていく。
驚いて声を上げる間も無く、の体は暗黒に吸い込まれていった。