地獄変・泥眼

晴天・黒衣の君

日和女と坊主崩れ

一升瓶を横に玄関で下駄を履くに、千寿郎は心配そうに問いかける。

「本当に付き添わなくて大丈夫ですか?」
「はい。平気ですよ」

はよそ行きの着物を着て、にこにこ微笑むばかりである。

機能回復訓練をどういうわけか死にものぐるいで終えた
退院したかと思うと、もうすっかり煉獄邸で通常通りに過ごしていた。

今日は直接、かつての薙刀師範に結婚の報告に行くため、
手土産である酒を持って外出するつもりなのだと言う。

刀鍛冶の里の絡繰師に義手を作ってもらってから、
はぱっと見て隻腕には見えないし、もともと器用な人である。
なんとか片腕でもあれこれとこなしているようだ。

だが、それでも苦労することもあるだろう、と
千寿郎は食い下がった。

「でも、さん、荷物がありますし」

「宝田師範の事ですから、私が誰かに荷物持ちなんてさせて現れた日には
 『お小姓つきとは殿も偉くなったなァ』とか
 面倒な絡み方をしてくるんですよ、あの爺さんは……」

「ええ……?」

は何を想像したのか露骨に面倒臭そうな顔をするので
千寿郎は困惑して眉を下げた。

最近のは表情がコロコロとよく変わる。
はすぐにいつもの笑みを浮かべて千寿郎に向き直った。

「宝田師範は私の性格を千倍煮詰めて
 偏屈を拗らせたお爺さんだと思ってくれれば良いので、
 私一人で行ったほうがいいんです。
 千寿郎くん、弄くり回されて疲れちゃいますよ、きっと」

「……わかりました」

の言う特徴の老人を想像するだけで疲れてきた千寿郎が頷くと、
自分で言っておきながらは面白そうに眉をあげる。

「あらぁ? 千寿郎くんたら、ずいぶん簡単に引き下がりましたねぇ?
 そこは『さんは面倒じゃないですよ』くらいの
 甘言を口にしてくれたって罰は当たらないかと……」

「いってらっしゃいませ」

ぴしゃりと言った千寿郎にはカラカラ笑った。

「まぁまぁ、つれないんですから。うふふふ!」
義弟 おとうと を釣ってどうしようって言うんですか、全くもう」

そういうわけで、腰に手を当てて嘆息する千寿郎に笑いながら手を振って、
は揚々と薙刀師範、宝田種篤の元へと向かったのである。

※ 

を門の前で出迎えた宝田は、筆で一息に描いたような細い目を
ますます細くしながら愉快そうに口を開く。

「手紙のやり取りはありましたが、顔をあわせるのは何年振りかな? 
 10年は経っとらんよなァ?」

言外になかなか訪ねてこなかったをチクリと刺した宝田に、
は苦笑いで応えた。

「すみませんねぇ、不肖の弟子で。
 でも、ぼけたフリをしてるとそのうち本当にぼけますから、
 やめたほうがいいですよ」

「言いよる言いよる、カッカッカッカ!」

の軽口を楽しそうに笑った宝田だが、の顔を見て、
何か引っかかったように首を捻った。

「む? 殿、あなた面構えが、……!?」

言葉の最中、宝田はの手が義手であること、
耳が欠けていることに気づいたらしい。

「その腕と、耳はどうなさった?」

難しい顔をして尋ねた宝田に、は肩を竦めてみせる。

「ちょっと目を離した隙に、落っことしてしまいました」
「落っことしたって、あなたなァ……」

絶句する宝田に、はなんでもないことのように言う。

「多少は不便ですがそこそこ工夫してやっておりますよ」
「……そうかえ」

笑うに宝田は口をつぐみ、そのままを道場へと招き入れた。

宝田はほとんど自室のように使っている小ぶりの鍛錬場に足を踏み入れ、
上座にどさっと座り込むとの持っている包みをよこせと手を招いた。

かつてが訓練を受けた場でもある鍛錬場は、控えめに言って荒れている。

あちこちに空の酒瓶や杯に猪口、煙管、山積みにされた本と、硯に筆、
手慰むように書かれたのだろう動物やら人やらの絵が転がっていた。

不思議とそれらが調和して見えるのは
宝田の趣味が良いからだとわかってはいるのだが、は一応荒れようを咎めた。

「宝田師範、ちょっとは片付けたらどうですかぁ?」
「多少荒れてたほうが過ごしやすいのでなァ」

案の定、の忠告など聞く耳を持たず、
宝田は風呂敷を受け取ると嬉しそうに目を輝かせる。

「おおっ、いい酒ではないか! こういう心遣いはあなた、卒がないのう」

早速栓を抜いて手酌でドボドボとその辺にあった杯にそそぎ
勝手に飲み始めた宝田を見て、は相変わらずだな、と嘆息する。

宝田という老人は、稽古中だろうが来客中だろうが構わず、
いつも一人勝手に、極めて美味そうに酒と煙草を呑むのである。

「で? わざわざに名酒を携えて挨拶とは、何用かな」

ご機嫌な宝田に、は早速本題に入った。

「鬼殺隊士の煉獄杏寿郎さまと結婚することになりましたので、
 宝田師範にはぜひぜひ、祝言に御出でいただきたくお願いに参りました」

杯を持つ手がピクリと震えた。

「……誰が?」
「私がですよぉ、他に誰がいるんですか」

宝田は朗らかに微笑むを上から下までジロジロと眺め、
ふむ、と考えるそぶりを見せる。

「…………ほぉ? そんであなた、そないに落ち着いとるんか?
 そうかそうか……」

そして杯を一気に煽ると、心底面白くなさそうにを詰った。

「はァーーー! つまらん! 日和りやがって!」

途端につむじを曲げた宝田に、はやれやれと嘆息する。

「どう成るかは私の自由と申してたくせに、
 何を言っているのでしょう、この人は」

『何者になるかは自身が決めると良い』と言って送り出したにしては
了見が狭いのではないかと指摘すると、宝田はムっと眉を顰めて唾を飛ばした。

「そりゃあ、私はそう言ったとも、言ったがな!
 まさかあなたが鬼殺隊士の男に たぶら かされて
 “ただの女”に成るとは思わんだろうがよ!?」

「……あっははははっ!!!」
「笑い事じゃあらへんわ!」

ぐぬぬ、と唸るようにして宝田は空になった杯に酒を注ぎながら、
腹を抱えて大笑するにイライラと尋ねた。

「あなたを骨抜きにするとは一体どんな男だ!? 
 在原業平か!? 光源氏か!?」

「ふふっ! 業平も源氏の君も刀なんて持ちませんって!
 そういう感じの人ではないですよ」

笑いすぎて出てきた涙を拭うはくつくつと肩を震わせつつ、
右手で口元を抑える。

「あと、今回に関してはどちらかと言うと
  たぶら かしたのは私の方ですから、お間違いなきよう……」

「そこまで聞いとらんがね」

つまらなそうに眉を顰めた宝田は何に引っかかったのか、
杯を置いて腕を組む。

「……待て、あなたの伴侶となる男、けったいな苗字であったな?
 煉獄とは……もしや炎の呼吸の使い手か?」

「あら、ご存知なのですか?」

意外そうに目を丸くしながらも肯定したに、
宝田は驚嘆を隠せず、細い目を限界まで見開いて叫ぶ。

「五代は前から遡れる生粋の鬼殺隊士の家系ではないか!
 産屋敷の取り巻きの中でも私が一等気に食わんかった奴らだぞ、おい!!!」

「まぁ随分とお詳しい。確かに煉獄家の人たちは
 宝田師範と反りが合わなそうな感じではありますね」

の知る限りだが、煉獄家の人々はみな矜持を持ち、
真面目で責任感と使命感が強い傾向がある気がする。

生臭で坊主崩れの宝田と話が合うことはなさそうだと
一人頷いたに何を思ったのか、宝田は管を巻いた。

「はーーー! 産屋敷、産屋敷、産屋敷め! 
 よりによって私の弟子をあのキンキラ頭の末々に渡す羽目になるとは!」

「キンキラ頭……ふふっ」

どう言うわけか産屋敷に怒りをあらわにしながら
煉獄家の特徴を的確に罵倒する宝田をは面白がっていた。

こうも取り乱す宝田種篤は珍しい。

「どうせ産屋敷のこと! この結婚にも手をまわしとるんだろ! えぇ?!」

「あはは、本当にお嫌いなんですねぇ!」

ひとしきり笑ったは口元を抑え、考えるそぶりを見せる。

確かに、宝田の言うとおりかもしれないと思ったのだ。
産屋敷耀哉はを杏寿郎と出会わせた人物である。

「正直、いつからどこまでお館様が何を見越していたのかは
 私にもとんと検討がつきません。ただ……」

には一つ、思い当たる節のようなものがあった。



が炎柱の副官となるのを命じられた日、
その日は耀哉に会って、解剖の成果を報告することになっていた。

が耀哉に伝えたのは、解剖の最中におきた出来事と発見である。

「ご存知の通り、鬼舞辻無惨の血と細胞が鬼を鬼たらしめるもの。
 本日お伝えしたいことと言うのは、
 寄生虫のように鬼の身体を巣食うそれが、私を“認識”していたと言うことです」

耀哉はの話を黙って聞いている。
がどんなに残酷なやり方で鬼を腑分けしたと言っても、
その顔が不快に歪むことは一度もなかった。

「生きたまま鬼を解剖する最中、
 無惨の細胞が何本もの腕に変化して私に手を伸ばしてきたのです。
 私の扱うメスは日輪刀と同じ材質、退けることは簡単でしたが」

けれど、は極めて事務的に話を進める。そうすべきであると思っている。

「私を殺せないとわかると無惨の細胞は、
 苗床である鬼自身を殺して証拠隠滅を測りました。
 ちょうど、鬼が鬼舞辻の名前を漏洩した時と同じ反応です」

耀哉は水晶玉のような瞳をじっとに向けている。
ほんの少し口角を上げたまま。

「生きたまま鬼を解剖する際、無惨細胞が反応する頃合はまちまちでした。
 最も早く反応した次の日に鬼が作業場の近辺に出没したので、
 これらはすぐ討伐しましたが、同じ作業場を使うことは避けました」

解剖時の鬼の反応、そして鬼の出没から推察できることがある。

無惨が鬼と感覚を共有していること、
無惨が鬼の所在の把握をしていることの二つだ。

おそらく、無惨が鬼と物理的に距離が近ければ近いほど、
その精度は増すのではないかとは仮説を立てている。

「とはいえ、どれだけ鬼が居るかは定かではありませんが
 それなりの数がおりましょう。
 すべての鬼の感覚を常に把握しているとは考えづらい。
 異変を悟って注意を向ける、という所作が必要になってくるとは思いますけれど」

の提示した仮説に、耀哉は満足そうに頷いた。

「なるほど、それは確かに有益な情報だ。
 今後の隊士の配置にも関わってくるからね」

「まだ、仮説の段階でありますが」

はまだ確証があるわけではないことを付け加えるが、
耀哉は構わずに言った。

「いや、私の直感がそれを是と言っている。君の仮説は正しい。
 やはり君を杏寿郎に任せて正解だった」

しかし鬼を生かしたままの解剖は危険を伴う。
の居場所を教えることにも繋がると耀哉はに静かに告げる。

は他の誰とも違う、特別な才能のある隊士だ。
 君を失うことは鬼殺隊にとって大きな損失になるだろう」

鬼を生きたまま解剖するのは、少し控えたほうが良いと結論づけた耀哉に、
はしばし黙り込んだあと、意を決して口を開いた。

「お館様、恐れながら質問をお許しください」
「うん、構わないよ。なんだい?」

は耀哉にずっと、尋ねたいことがあったのだ。

「なぜ、私の監督を炎柱に任せたのですか?」

耀哉は穏やかな笑みを湛えたまま、を促すように沈黙している。
それに導かれるまま、は言葉を続けた。

「ずっと不思議だったのです。胡蝶さまは分かります。
 私の日輪刀は適性を示しましたし、私も父も医術に心得がある。
 ……ですが煉獄さんと私には、よすがらしいものが、ありませんでしょう?」

の疑問に、耀哉は優しげな声で応えた。
まるで、ごく当たり前のことを告げるように。

「君が欲するものを杏寿郎が持っていて、
 杏寿郎の欲するものを君が持っていると思ったからだよ」

その人間らしからぬ彫像めいた佇まいと、深く沁み渡るような声に、
は言い知れぬ奇妙な感覚を覚え、背筋を震わせた。

宝田種篤の言葉がどうしても脳裏を過ぎらずにはいられなかった。

『脈々受け継がれた妄執がそのまんま人の形を成したらああなる。  
 そのくせの外面似菩薩 げめんじぼさつ よ』


「……左様で、ございますか」

人を鬼殺に駆り立てるための的確な采配。

人の胸の内を千里眼でも持っているかのように簡単に見抜き、
その行動を予測して人を配し、未来を編む。

は自分が盤上の駒になったような気分だった。
いや、だけではない。

鬼殺隊に関わる人間は全員、“産屋敷”の駒のようなものなのだろう。

「嫌だったかな?」

だが、耀哉の言葉に、は首を横に振った。

「いいえ。お館様」

そして手をつき、深々と頭を下げる。

「心から感謝申し上げます」

盤上の駒にも心がある。
駒であることが満足ならばそれを選ぶだろう。不満ならば立ち去れば良い。

は自ら駒であることを選んだ。
煉獄杏寿郎のそばに居たかったから。



「ただ、産屋敷耀哉と言う方は恐ろしい。
 あんな恐ろしい方に、私は初めてお会いしました」

が神妙に言うのを宝田は鼻白んだ様子で見ると、手酌で再び酒を煽った。

「ふん、そう言いつつ、もう取り込まれておろうが。
 あれらに関わらんほうが賢いと、承知の上で縁を結ぼうとするんだから
 あなた、変わり者よの」

「自分で決めたことですし、昔から言いましょう。『惚れたが負け』です」

宝田がギョッとした様子でを見るが、構わずに微笑む。

「たとえ待ち受けているものが地獄でも、
 道行を共にしたいと思ったのなら、
 そうせずにはいられないのが人でしょう」

「かーーーっ! ほんにただの小娘に成り下がりおって!!!」

宝田は心底面白くなさそうにを詰って、
常にギリギリの瀬戸際で、何もかもを焦がすように燃えていた炎を惜しむ。

「あなたの目ん玉の奥にある、ギラギラした金の ほむら
 あれが玉眼のようで気に入っておったのになァ!」

「ふふ、宝田師範。私はこれで良かったのです」

だが、そもそもは物語の英雄にも、
人ならざる異形にも、ましてや神々の一柱になどなりたくなかった。

「“ただの女”、“ただの小娘”。望むところにございます」

弱くて狡くて恐ろしい、ただの人間が良かったのだ。

「私は巴御前にも鬼神にもなれませんでしたが、
 ……はこれで良かったのです」

は落ち着いた調子で満足げに笑う。
その笑みに何を思ったのか、宝田は無言でを見やる。

「ま、私はもうすぐ“”じゃなくなりますけどね」

「……つまらんなァ!」

宝田は茶化したに促されるように酒を煽った。
口の端を滴る酒を乱暴に袖で拭い、据わった目でを睨む。

「祝言までまだ間があろう。
 その前に今度はその煉獄だか天国だかの剣士を連れておいでな。
 あなたを人間に引きずり下ろした男の顔、拝んでみたい。
 久々に私の槍を磨いて待とう」

どうやら宝田は杏寿郎と一合交える気になっているらしい。
はふむ、と頷くと愉快そうに宝田を見据える。

「良いですけど、私よりもずっと強いですよ」
「む……?」

首を捻った宝田に、は笑みを深めた。

「元々神仏のような境地に至っておりました方ですが、
 今少し濁りまして、振るう刃も清濁併呑したものとなりました。
 腕を落とす前の私でも歯が立たないでしょう」

少しずつ杏寿郎との稽古を再開しつつあるだが、
昔のように食らいつけてはいない。
寝て起きたら随分実力に開きができてしまった。

そしてそれは、が隻腕になっただけが理由ではない。

「教科書通りの精錬の極みみたいな剣技だったのに、
 あの方の技、ずいぶん泥臭くなってしまわれた」

はどこか甘やかな調子で呟く。

「全く、人間に引きずり落としたのはどちらやらね。ふふふ」

宝田は呆れた様子でケッと顔を背けた。

「……なんや、結局惚気かい」
「ええ、こう見えて私、結構浮かれておりますので」
「こう見えても何も、見てわかるわ」

宝田は深々とした溜息をこぼすと、
「せいぜいあなたの着飾った姿でも肴に飲むゆえ。
 旨い酒でも用意しておくれな」とに告げて、また酒を煽った。