滅私を望む
が初めて鬼と出遭ったのは槍の稽古の帰りのこと、
桜散る頃の月の美しい夜だった。
師範の指導に熱が入って随分遅くなってしまったと
家路を急ぐの前に、降って湧いたように影が生じた。
塀の上から人が転げ落ちたのだと思い、は目を丸くする。
泥棒の類いだろうか、捕えるべきだろうかと逡巡するが、
人影はうめき声一つ漏らさず、倒れたまま沈黙している。
はたとえ泥棒、暴漢の類であろうと、
怪我人、病人であるならば放ってはおけないと駆け寄った。
『大丈夫ですか?』
槍に手をかけながらも慮る声を投じたは、ある違和感に気がついた。
夜闇とはいえ月もある。外灯も少し離れた場所で道を照らしている。
何よりこれだけ近づけば見てわかる。
――こいつ、輪郭がおかしい。額に、これは、
倒れ伏した影の額に“角”があることを見て取って、はハッと息を呑んだ。
その瞬間だった。
『グゥオオオオオ!!!』
咆哮と共に襲いかかって来た異形を、とっさには槍で殴りつけて距離を取る。
見事に急所へ叩きつけた一打。相手が普通の人間ならばそれで昏倒するはずだった。
しかし異形はなおも牙を剥き出しに向かってくる。
心臓が早鐘を打っていた。槍の巻布を取り、無我夢中に応戦した。
身体に染み付いた槍術が、異形の腕を薙ぎ払ったのはそう間も無くのことである。
は異形の肉を断った感触に青ざめる。しかし、懸念は全く無意味だった。
落とされた異形の腕、切断面の肉が奇妙に泡立って膨らみ、
あっと言う間に腕が生えてきたからだ。
『は……?』
呆然とするに、異形はニタニタと口の端をつり上げた。
『無駄だよ、無駄なんだよ。俺は不死身なのさ!
さァ! どこから喰ってやろうかなァ!!!』
異形は己が“不死身の人喰い”であるとがなり立てる。
は目の前の異形が正真正銘の怪物であると知って、
驚き、言葉をなくし、そして、――笑った。
槍を握る手にも一層の力が篭った。
我に返れば惨憺たる有様である。
は異形を槍で滅多刺しにし、切り刻み、何度も体を薙ぎ払って踏み潰した。
そこら中に血だまりと、もげた手足、肉片が転がっている。
返り血に塗れたは不死の異形に槍先を突きつけ、
己の顔に浮かんでいた笑みを取り払う。
『ずいぶん派手にやったもんだな』
第三者に声をかけられたのは、そんな時だった。
凄惨な状況にも関わらずひょうひょうとした声の主にが目を向けると、
異形は隙と見て逃げ出そうとした。
槍を回し、異形の腕を飛ばしてから鎖骨の下を刺し貫いて、地面へと縫い止める。
ほぼ同じくして、に声をかけた男がいつの間に振り抜いていた二刀の大刀で、
の固定した異形の首を両断していた。恐るべき早業である。
『気ィ逸らして悪かった。怪我はねェか?』
塵となって朽ちていく異形を見やるに、男は声をかけてくる。
は少々の逡巡の後、口を開いた。
『いえ。こちらこそ返事もままならず失礼でした』
異形にとどめを刺したのは奇抜な身なりの男だった。
腕を剥き出しにした詰襟の制服をまとい、
顔には化粧を施し、宝石を留め付けた額当てや腕輪などの装飾品をやたらに身につけている。
その上筋肉隆々の大男であるから、どう見てもカタギの人間ではない。
『襲い掛かられたので応戦したはいいものの、どうやっても死なないので困ってたんですよ。
お兄さんは首斬って倒してましたけど』
は腕を組んで首を傾げる。
『俺も何回か首、刎ねたんだけどなぁ。くっついたり生えてきたりで……。
しかし死ぬと灰になるとは不可思議です。あれ、なんなんですか?』
の質問に、男は「鬼だ」と答えた。
日の光に当てて殺すか、特別な刀、日輪刀を持ってでしか殺せぬ化け物だと。
『なるほど。お兄さんは鬼退治を生業にしてるんですね。
そちら制服のようですから、もしかするとそういう組織があるのかな』
頷いた男に、渡りに船だとは努めて朗らかに尋ねる。
『俺も入れてはくれませんか?』
※
と煉獄杏寿郎の鍛錬、特に打ち合いは苛烈を極めた。
礼をしてから始めるそれに、反則などと言う生温いものはなく、
先端を十字に組んだ木槍と竹刀で、限界までしのぎを削りあうのだ。
大抵が膝をつく、木槍を取り落とすまでが一区切りであるが、杏寿郎とて油断はできない。
対人格闘においてのの才覚は目を見張るものがあった。
気を抜くと容易に竹刀を持っていかれそうになる。
槍の間合いは刀より広い。
近接戦に持ち込まれた時の対処を重点的に教え込むべきだと、杏寿郎はの懐に踏み込んだ。
の目に明確な苛立ちと殺意が浮かぶ。
「ぅぐっ!?」
瞬間、杏寿郎はとっさにの手首を打ち、
槍を弾き飛ばして組み伏せ、首に竹刀を押し当てていた。
そうしなければならない気がしたのだ。
まるで鬼と相対した時のような、命のやり取りをする時の、薄ら寒い心地がした。
しかし呆然とする眼差しと目があって、杏寿郎はすぐさま距離をとる。
喉を抑えて咳き込むに、杏寿郎は謝罪した。
「すまん! やり過ぎた!!!」
「いえ……今のは俺のせいです。申し訳ありません」
は一度深呼吸すると、無理やり押さえつけられたのは自分の方だと言うのに、
どういうわけか謝って見せる。
ゆらゆら立ち上がって頭を振った。
「頭冷やしてきます。手首を処置しても、走り込みならできると思うので」
「君! 熱心なのは良いことだが無理は良くない、」
「大丈夫ですよ。これでも医療に心得がありますから。
鬼殺に支障の出るような無理はしません」
にこりと笑みを作り、すぐさま片手で処置をすると杏寿郎に頭を下げる。
「じゃ、走ってきますね」
駆け出した背を見送って、杏寿郎は腕を組んで懊悩する。
「……うーん!」
は今まで居た部下、継子の誰とも違う種類の男である。
鍛錬に熱心で弱音を吐かない。逃げ出さない。雑事も自ら進んでこなす。
かといって泰然としているわけでもなかった。
いつもほとんど変わらぬ笑顔を浮かべてはいるものの、
近頃は刺々しい雰囲気を滲ませることがある。
先日の任務からしばらく様子を見ているのだが、
どうも鬼殺に出ることができず気が立っているようだ。
――ただし、今のは。
「俺に殺意と敵意を向けたことを、恥じているようにも見えたな」
いずれにせよ、様子見を続けるわけにもいかない。
杏寿郎はにどのように指導するべきかを考えあぐねつつ、
次の任務を選ぶことにした。
※
さる森に、夜にしか現れない神社へ続く小道があるとの情報を得て、
煉獄杏寿郎とは夕暮れの中、あぜ道を行く。
血鬼術を扱う強力な鬼が居ることが予想できたため、中継地を設けて
二人の隊士と合流する手はずとなっていた。
杏寿郎は隣を歩むに目を向け、問いただす。
「君は鬼を恨み、憎んでいるからあのような鬼殺をするのか?」
「いえ、そういうわけではないですよ。恨む理由が無いですから」
聞いてみておいて何だが、概ね予想通りの答えだった。
鬼に対して怒り、憎むあまり鬼を苦しめようとする隊士も以外にいる事はいるが、
そういう人間は大抵、任務に支障が出るほどの、がむしゃらに厳しい鍛錬を自分に課す。
なりふり構わず、視野狭窄に陥ることも多い。
しかしはというと鍛錬には真面目だが、
任務遂行を一番とし、訓練が仕事に影響しないよう気を使っている。
特筆すべき理由があって、鬼を痛めつけているわけではないのだ。
「そう思われてしまうのも分かりますけどね。
身内を殺されてしまったなら、殺した相手に相応の報いを求めるのは当然でしょうし」
は一見冷静だ。こうして人の心を慮るようなことも口にもする。
しかし杏寿郎はが稽古の時に見せる余裕の無い、
切羽詰まったような様子にも引っ掛かりを覚えていた。
無言のままの杏寿郎をどう解釈したのか、は自らの来歴に笑って触れる。
「俺の場合、母は亡くなっていますが、鬼が原因ではありません。
父は健在です。蝶屋敷の側に医院を開いたので、活躍しているようですね」
杏寿郎は思い当たる節があったので頷いた。
「そうだったな! 君と父君はそれぞれ隊士、医者として同時期に入隊したのだと聞いている!」
の父親、明峰も鬼殺隊の協力者となっている。
の二人目の師範である胡蝶しのぶや蝶屋敷に住む隊員らと連携して、
看護、治療を行なっているとの連絡は受けていた。
「君の医療の心得は父親譲りなのだろう?」
杏寿郎がなんの気無しに尋ねるとは苦笑した。
「あはは……父譲りと言うのはどうかな。俺は遠く及びませんから」
はそのまま遠くに見える鳥居の下、人影に目をやって話題を変えた。
「あ、煉獄さんあの鳥居の下、隊士が二人見えますね」
駆け寄り挨拶するの背を見て、杏寿郎は何やら違和感が膨れていくのを感じつつ、
まず任務に集中せねばなるまいとに続いて隊員に声をかけた。
※
日没後、一つだけしかなかったはずの鳥居が徐々に数を増やし、
間に灯籠が置かれて道を成し、
隊士を誘い込むような布陣となったのが一時間は前のこと。
今、その灯籠と鳥居は鬼と共に消滅している。
此度に討伐したのは影の中を出入りする血鬼術を扱う鬼だった。
まず、一行は杏寿郎を先頭に鳥居と灯籠のある小道を4人で進み、鬼を誘い出すことにした。
しんがりを務めたを後ろから襲おうと、
影から躍り出た鬼に気づいたのは小道を歩いて30分は経った頃のことである。
それから鬼との攻防が始まった。
すぐさまが距離をとって槍を振り、鬼の腕を斬りつけると、
鬼の腕はもちろんのこと、なぜかの腕から血が噴き出した。
鬼は青ざめた隊士たちの顔を見てニヤリと笑う。
隊士それぞれの影に潜り、また攻撃する。
誰もが非常に面倒な鬼だと悟っていた。
影に入られた状態で鬼を攻撃すると、
影に入られた人間は鬼と同じ傷を負うのだとわかっていたからだ。
うかつに攻撃すれば仲間に被害が及ぶ。
鬼が影を移動する隙をついて頸を斬らねばならないが、
この鬼、影から出た時ばかりは異様に早い。
対処を考えつつ杏寿郎が己の影に潜り込もうとする鬼を避けて後方に跳んだ。
その瞬間のことである。
水の呼吸
杏寿郎の知る水の呼吸とは違う、濁流のような荒々しい技だった。
が灯籠を一点残して全て壊し、灯りの前へと躍り出る。
影は今、そこにしかなかった。
鬼がの影が潜り込んだのを見計らい、
は躊躇うことなく槍の柄で己の影、脚を突いた。
「……ッ!」
鈍い打撃音が小道に響く。痛みにの片足がガクンと下がる。
隙と見たのか同じ痛みを負ったからか、影から飛び出してきた鬼を見やり、
は、笑った。
「な……!?」
迷うことなく一刀両断。薙ぎ払って鬼の頸がぽんと跳ね落ちる。
鬼は信じがたいと言わんばかりにカッと目を見開いてを睨んでいたが、
は塵となりつつある鬼の頭を踏み潰し、
片手で槍を振って刃についた血を払うと、心底残念そうにため息を吐いた。
「なんだよ、……呆気ねぇな」
「大丈夫か!?」
隊士の一人が我に返ってに駆け寄る。
「平気です。首と腕は出血してますが軽傷ですよ。
首なんかは絆創膏ひとつで充分です。
おそらくですが、あの鬼、傷を反映させるにも限度があったんでしょう。
血鬼術が発展途上だったということで。早めに討伐できて何よりでしたね」
自分で怪我を処置しながらは笑顔を作ってつらつらと述べる。
あっという間に全て処置してしまったは当然の如く隊士らに向き直った。
「お二方も怪我なさってるでしょう。
応急ですが処置しますのでそこ座ってください」
「あ、ああ……」
のことを得体の知れないものを見るように見る隊士たちと、
構わずテキパキと治療にあたる。
その様を横目に、杏寿郎は直感していた。
本来、の判断は、隊士として適切なものだと杏寿郎は思う。
他に選択肢がなく、己の命一つで人間を危険に晒すことなく、
鬼を退治できると確信を得たならば、きっと杏寿郎も同じことをする。
しかしの、鬼が塵になる時に見せた心底残念そうな顔には、
また別に、思うところがあった。
――おそらくこの男、死にたいのだ。
杏寿郎は腕を組んで、に声をかける。
「君」
「はい、なんでしょう?」
「肩を貸そうか」
「平気な振りをしているが、脚を強かに打っているだろう」と続けて問えば、
は「よくご覧になってますね」と感心したそぶりを見せながら、また笑顔を作る。
「柱を煩わせるほどの怪我じゃないし、槍が支えになるので平気ですよ。
お気遣いありがとうございます」
人を頼らない。寄せ付けない。まっすぐ死出の道行を歩んでいる。
は、やはり手強い相手である。