投影・煉獄千寿郎

最初にを見た時、顔立ちが優しげなことも手伝って、
今度の継子の候補も隊士らしく見えない人なのだな、と煉獄千寿郎は思っていた。

その印象が拭い取られたのは兄、杏寿郎との稽古に臨むの姿を見た時である。

竹槍と竹刀がぶつかってしのぎを削る様は見えぬ火花が散るようで、
訓練稽古の類いを見ているのだとは思えなかった。

互いにゆっくりと構えたかと思ったら次の瞬間激しい打ち合いに変わり、
やがて目で追うことさえ難しくなる。

そしてなにより、竹刀を振るう杏寿郎の張り合いのある顔に、
千寿郎は、多分これは自分が兄から引き出せない顔だろうと思う。

見入っていると隣に影が落ちた。
槇寿郎が酒瓶を手に腕を組んで立っている。
父親が稽古場に顔を出すのは珍しいことだった。

「父上、おはようございます」

千寿郎の挨拶に一瞥をくれたあと、
槇寿郎は稽古場の入り口にもたれかかるようにして二人の打ち合いを眺めていた。
かと思えば、やがて顔を顰めて呟く。

「……ずいぶん血生臭い男だな」
「え?」
「不愉快だ。見るに耐えん」

そう言って槇寿郎はものの十分もしないうちに去ってしまう。

父が吐き捨てるように言った言葉の意味を、
千寿郎が理解するのはそれから数日も経たない朝のことだった。



の任務に杏寿郎が付き添って帰ってきた時の、
の格好ときたら凄まじいものだった。

遠目から見ても血みどろで、思わずギョッと身が竦んだ。
それでも千寿郎は杏寿郎とに駆け寄って声をかける。

「あ、兄上! さん!
 さんは、怪我をなさったんですか?!
 行水の準備はできてますが、すぐに手当てを……」

「千寿郎さん」

焦る千寿郎に、はにこやかな笑みを送る。
声はやたらに甘ったるく、囁くようだった。

「これはね、全部鬼の血です。俺の血は一滴も混じってないよ」

が鬱陶しそうに落ちてきた前髪を払うと、
かさぶたのような、髪にこびりついた血の粉が剥がれ落ちた。

千寿郎はその下にある目を見て息を呑む。
朝焼けのせいか瞳が金色に、ギラギラと光っている。

――尋常の色ではない。

「千寿郎さんは偉いなぁ、こんな血みどろの俺を、気にかけてくれて」

すっと手を伸ばされても、凍りついたように動けなくなった。



青ざめ立ち竦んでいた千寿郎を見かねてか、
発した杏寿郎の声が朝の空気を裂くように響いた。

「弟が血で汚れる。触るな。君は身なりを先に整えろ」
「……ああ、そうですね。失礼」

触れる前に引っ込められた手を目で追った後、
自分の心臓の音がやたらに大きく響いた気がして、胸を抑える。

命のやりとりを生業にする家系に生まれ、幼い頃から剣術を習ってきた。
多少の荒事は平気だ。慣れている。
それでも、千寿郎はが怖かった。

行水に向かったを見送って、
杏寿郎は嘆息すると、千寿郎にの性質を説いた。

は鬼を痛めつけ、嬲ることを好むからあの有様であること。
しかしが殺意や敵意を向けるのは、必ずしも鬼だけとは限らないこと。

「今のところ彼の加虐衝動は鬼のみに向けられている。
 だが、彼を刺激することはなるべく避けてほしい。念のためだ」

険しい顔で言う杏寿郎に、千寿郎はただ頷くことしかできなかった。

そのあと何度か、朝方稽古をつける杏寿郎を見たことがある。
杏寿郎はを容赦なく打ち据えたが、は槍を構えて笑っていた。
自分の血に塗れていても、瞳ばかりが異様に輝いているのは変わらない。

やはりあの、朝焼けに光る目がどうにも恐ろしく、その目に見られたくなくて
手拭いと桶に水を張ったのを用意したあとは
いつもなるべくの顔を見ないようにしていた。



だからに届いた手紙を渡すのでさえ、
千寿郎にとっては気の進まないことだった。
が非番で煉獄邸にいることを知っているので、
手渡し不可避の現実に途方もなく憂鬱になる。

しかし、いつまでも郵便受けの前で手紙を持ったまま突っ立っているわけにもいかず、
千寿郎は玄関先の掃除を終えた後、
おっかなびっくりの居る部屋まで足を運んだのである。

襖を前に、千寿郎は深呼吸をする。
『失礼します。さん、お父様からのお手紙です。それでは』
挨拶、呼びかけ、用件、挨拶。これで全てを済ませたい。

意を決して声をかけようと口を開いた瞬間、千寿郎の耳が何かを拾った。

の部屋から音がする。いや、これは、の声だ。

しかし会話にしては相手の声が聞こえない。
杏寿郎は遠出の任務で家には居ないし、槇寿郎がの部屋に足を延ばすとは考えられず、
鴉がいるような気配もない。

――さん、一人で何を……。

しかもの声というのが、よく聞き取れないものの
繰り返し、同じ調子の言葉を呟いているらしいと、千寿郎は気がついてしまった。

――ま、呪いを唱えている?!

「千寿郎さん、ずっとそこで何してるんです?」
「ワーーーッ!!!」

結論に思い至った瞬間ガラガラと襖を開けられて千寿郎は思わず叫んでいた。
声をかけた方のもギョッと目を瞬いて仰け反る。

「おぉっ!? どうしたよ。そんなビックリすることありますか? 大丈夫ですか?」
「し、失礼しました。こ、こちらを」

やたらに動悸のする胸を押さえつつ、千寿郎はそもそもの目的であった
宛の手紙を差し出した。
は受け取って微笑む。

「ああ、父からの手紙ですね。ありがとうございます。
 ……千寿郎さん、なんか顔色悪くないです?」
「えっ、……気のせいです」

おそらくから離れれば治るだろうと千寿郎はシラを切るが、
は誤魔化されてはくれなかった。
いやいや、と首を横に振って心配そうな顔をする。

「でも明らかに顔白いですよ。血の気がない。
 休んでいけばどうですか?
 俺の部屋、特に面白いものはないけどお茶くらいなら淹れますよ。
 どうせなら秘蔵のやつも出しちゃおう」

「秘蔵の……?」

聞き返すまもなくはさっさと台所まで向かってしまう。
結局当初の予定より長居する羽目になりそうで、千寿郎はため息をこぼした。
手持ち無沙汰なのでの部屋をなんとなしに見回してみる。

割合片付いた部屋で一際目立つ、見覚えのない立派な衣装箪笥はが持ち込んだものだろう。
文机周りには本が乱雑に組み上げられているが、
棚にある本は題名が五十音順に並んでいて、几帳面なのだなと思う。

文机の上にあった絵に千寿郎は目を止めた。
注釈の書き加えられたそれは、鬼の絵である。

「『影鬼』『身の丈十尺の大鬼』『縦口の女鬼』……」

おそらくが倒した鬼を描いているのだろう。
簡素な線で描かれているが、
注釈と合わせるとそれがどのような鬼であったかがわかりやすい。
中には杏寿郎と共に倒した経緯が書かれているものもあって、千寿郎は目を伏せる。

――のように、兄と二人で鬼を退治することができたなら、どれほど良いか。

「お待たせしましたー!」

物思いにふける千寿郎の思考を断ち切るように、
豪快に襖を開けてはさっさとお茶と、皿に置いた羊羹を差し出し笑った。

「はいこれ秘蔵の品です。とらやの羊羹!
 秘蔵と言いつつこのあいだのおやつの残りですがね。お茶請けにどうぞ」

は何かにつけて煎餅などの菓子を買ってくる。
千寿郎もよく差し入れられているし、訓練の合間に杏寿郎と休憩中、
饅頭や水菓子を摘んでいるところを目にすることもしばしばだ。

口にした羊羹は餡の口当たりがよく、お茶の香りとよく合った。
千寿郎はほっと息を吐く。

さんはお菓子をよく買っている気がします」

千寿郎が言うと、はうなずいた。

「世話になる人にあらかじめ手土産を渡しとくと後々融通が利くのでね。
 渡すならちゃんと口にして美味かったものを渡すのが礼儀かな〜って」

言ってしまえば賄賂の下見である。

「俺一人だと大体食い切れないから片すの手伝ってもらえると助かります。
 煉獄さん……お兄さんも良く食べるし」

なんと返すべきか迷って、千寿郎は先程まで見ていた絵に視線をやった。
は気づいて眉を上げる。

「気になりますか?」

さんは絵も描かれるんですね」
「ちょっとでも図っぽいものを描けた方が患者に説明するとき便利ですから」

それを聞いて、千寿郎はが医療知識を買われて鬼殺隊に入隊したことを思い出す。
確か杏寿郎がそのようにを紹介していた。

は自分で描いた絵を手に取った。

「これは、絵をつけて上に報告しとくと
 後々似たような鬼が出た時に役に立つかなと思ったんですよ」

そう言いつつ、出来には納得いっていないらしい。苦笑して机に戻した。

「しかし俺は見ての通り、あんまり上手くないんだよなぁ、
 父なんかはもっと上手いんだけど……」
「でも、ちゃんとどういう鬼だったかわかりますよ」
「ありがとう。そう言ってくれるとなんか自信が持てます」

常よりもが穏やかに見えて、今なら、と
千寿郎は先程から気になっていたことを問いただしたくなった。

「……あの!」

あの呪文めいたものはなんなのか、正体を知らないと夢に出そうだ。
唐突に勢い込んだ千寿郎に不思議そうなへ、千寿郎は畳み掛けるように問う。

「さ、先程は何を唱えてらしたんでしょうか」
「え? 唱える? 何?」

意を決してかくかくしかじかと述べた千寿郎に、
は目を点にしたかと思うと、腹を抱えて笑い出した。

「あっはははっ!!!」
「だははははは!!!」
「はははははっ!!!」

その様を見て、千寿郎は自分が全く見当違いのことを思っていたのだと悟り、
恥ずかしくなって頰を赤らめる。

それにしても抱腹絶倒そのもののの笑いようは大げさではないか、と
千寿郎はむすっと不服そうに呟いた。

「……笑いすぎでは?」

「いやごめん! だって! ふふふふっ、
 だって千寿郎さん、俺が、ふふ、俺が、一人でっ、
 なんかわけわからん呪文唱えてると思ったんでしょ!?
 ふははははは! そりゃ怖いわ! ヤベー奴じゃん俺!
 はー! おかしい! 腹よじれる!」

「……」

勘違いしていたのはともかく、
が『ヤベー奴』なのは紛うことのない事実ではないか。

というセリフが喉まで出かけつつも千寿郎はなんとか堪えた。
そのくらいの思慮分別は持っている。

「ふふ。でも、確かに扉越しで聞いたら何が何だかわからないでしょうね。
 俺が唱えてたのはこれです、これこれ」
「外国語の、医学教本、ですか?」

が千寿郎に手渡したのはドイツ語の医学書だった。

「そう。父の手紙も半分はドイツ語なのでおちおち手を抜けないんですよ。
 何しろ医学の勉強を続けることが隊士になる条件だったので」

忙しい訓練の合間に勉強を続けているらしい。感心して千寿郎は嘆息した。

さんは隊士でありながらも医者を目指すんですね」

「いや、俺は医者にはならないよ。
 応急処置とかはすると思うけど、俺一人で本格的な処置はやりません」

思いの外の答えが返ってくる。
「できない」ではなく「やらない」のだな、と千寿郎は思った。
しかし、そうなると疑念が残る。

「でも……では、何のために勉強なさってるんですか?」
「昔からやってきたことだから習慣づいてるのもあるけど、
 単純に好きなんです。勉強が」

海を越えた先で医者が真面目にトンチキな実験をやってるのとかが
いち早くわかるし、とは教本を軽く叩いた。

それは医者にならない理由ではない。
千寿郎が言葉を呑んで黙っていると、教本に目を落としていたが口を開いた。

「不思議そうだね」
「え?」

の目が、千寿郎を捉える。

「千寿郎さん、剣術はお好きですか?」

千寿郎は一度口をつぐんだが、すぐに開いた。

「好きとか、嫌いとかで考えたことはありません。
 煉獄家に生まれた者として炎の呼吸を修めるのは当然のことです」

頑なな声に、は首を傾ける。

「そう? お兄さんに稽古をつけてもらうのは楽しそうに見えたけど」
「……兄に剣技の手ほどきを受けるのは楽しいです。
 そういう意味で聞いているなら、」

質問の意図が見えないながらも正直に答えると、はにこやかな笑みを作った。

「なら良かった。
 物事に向き不向きがあるのは当然のことですが、
 向いてないからって好きなことを嫌いになるのは苦しいし」

一瞬、何を言われているのか分からなかったが、
「お前は剣術に才がない」と言われているも同然だと気づき、
千寿郎の頬が、カッと熱を帯びる。
袴を握りしめて、怒りを押し殺して口を開いた。

さんは、はっきり物を言うんですね」

「俺も似たようなものなので、つい」

しかしの声に千寿郎を侮る様子は微塵もなかった。
目を伏せて笑うにはどちらかと言うと自虐の色が見える。

「医者にはならないが知識と腕を磨きます。
 求められれば躊躇なく手当てもするし手術の助手も務めます。
 これはひとえに、俺が未練がましく恋々と、
 医者という職と生き方に執着してるからですが、」

声色が低く沈んだ。

「本当はあんまり良くないんだと思います。
 治療の後も無性に槍を振りたくなるので」

その言葉に、千寿郎は思い当たる節を見つけてハッと顔を上げる。

朝方を手ひどく打ち据える杏寿郎に、
煌々と目を光らせて獰猛に応じる
あれは、訓練ではなく。

「朝方、隊服のまま兄と槍を振るっていたのは、稽古ではなく、
 あなたの悪癖を鎮めていたのですか」

「あはは、分かりますよね。そうです。
 俺はお兄さんのおかげで何とか醜態を晒さず済んでるんですよ。 
 煉獄さんには本当に頭が上がらない……」

そしては再び千寿郎の目を見て、
どうしようもないと言わんばかりの諦観を滲ませた笑みを浮かべる。

「千寿郎さん、こういう不向きもありますよ」

そうして、は投げやりに言った。

「君のほうがよほど治す人に向いてるかもな。
 人の血や怪我に耐性があって、真っ先に人を心配できる。
 そういう性質は俺にしてみれば鬼殺の才よりよほど尊い」

それが、心底からの言葉だと何故だか分かる。

本気では、千寿郎が羨んだ鬼殺の才より、千寿郎の備えている、
千寿郎にとってはごく当然の振る舞いを尊いと言っている。

「なんなら教えてあげましょうか?」

なぜ、と疑問に思うより先に、千寿郎の口から質問が飛び出す。

さんは、医者の息子なのだと聞いています」
「はい。そうです」
「医学はお父様から教わったのですか?」

は金色に燃える目を閉じて、うなずいた。

「ええ、その通りですよ。
 忙しい合間を縫って、父が俺に手ほどきをしてくれました」

――ああ。

千寿郎は納得する。

は、教わったことの全てを無駄にしたくないのだ。

大切な人が、自分に時間をかけてくれたことをふいにしたくなくて、
未だに医者の道にしがみついているのだ。
だからなに一つ諦めきれないのだ。

――向き不向きは自分が一番よくわかっていて、それでもなお。

そう思うと、不思議と抱えていた恐怖は霧散した。
目の前の狂気じみた性質を持つ男がただの人間に思えて、千寿郎は口を開く。

さん、先ほどの申し出お受けします」
「ん?」

は不思議そうに千寿郎を見る。
なんだか大きな動物がしげしげと様子をうかがっているようで千寿郎は小さく笑みをこぼした。

「僕に医学を教えてくださるという……今でも応急処置程度ならできますが、
 覚えて損はないと思いますから」

心底意外だと言わんばかりに、は目を瞬いた。

「……そうですか、自分で言っといてなんだけど断られると思ってた。
 君、俺のことが怖いんでしょうに」

「そっ、」

そんなことはないと言いかけて、千寿郎は口をつぐんだ。
嘘を吐いて誤魔化すより認めてしまった方が良いと思った。

「……いえ、そうですね。
 だってあなたは何をしでかすかわからなかったから」
「休暇中、妙な呪文を唱えてもおかしくない奴だと?」

意地悪く口角を上げたに、負けじと千寿郎もにっこりと笑って返す。

「はい」
「……はっきり言うなあ!」

してやられたと言わんばかりのをクスクス笑うと、
は半眼になってジトリと言う。

「千寿郎君、そういう物言いするとき、お兄さんそっくりだよ」
「弟ですから」

「そりゃそうだ」

愉快そうに笑う顔は、やはりもう、怖くはなかった。