凪と雨
が冨岡義勇からその技を教わったのは、
が鬼で実験しているのが露呈したすぐ後のことだった。
義勇は常の稽古を早めに切り上げると、竹刀を持ったままに向き直った。
「今から十一番目の型を教える。
これは俺の編んだものだが、それなりに役に立つと思う」
はきょとんと目を丸くする。
「……良いんですか? 俺なんかに独自の技を伝えてしまって」
「教えたところでなにも困らない」
義勇は自らが苦心して編み出した技を伝授することにこだわりがないらしく、
の疑問に淡々と返した。
「はぁ、そうですか。でしたら構いませんが。拝見いたします」
本人がそう言うのなら、と真面目に頷いたに、
義勇は竹刀を持ってはいるものの特に構えることはなく自然体のまま、口を開く。
「構えろ」
「え?」
怪訝に眉をひそめたに、義勇は鋭く言った。
「かかってこい」
はこの、全く言葉の足らない師範に深々と溜息をこぼす。
ただし、義勇が理由なく打ち合いを求めることはないとも、
短い付き合いながらわかっている。
これまで義勇は手順として、型を見せることを最初に行っていた。
それをしないということは。
「ええと、演武での伝授が難しい技なんですね?」
こくりと頷いた義勇に納得しては姿勢を正し、構えた。
無防備と言っていい姿勢の義勇に竹槍とはいえ得物を向けるのは
どうも落ち着かない気もしたが、やれと言うのだから仕方ない。
は一度深呼吸して、動く。
「いざ」
宝蔵院流 表十五本式目 水改
十文字槍による、突き、薙ぎ、打ち、斬り、引き、絡め、落とし……
それらを組みあわせた十五の技に呼吸を乗せて義勇に挑む。
そしては、凪を、見た。
水の呼吸 拾壱ノ型 凪
瞬く間にの放った攻撃は一切の威力を失う。
それは剣術の究極。受け流しの極致。
一見使い手である義勇が、ただそこに佇んでいるだけ。
だがその実、恐るべき高速連撃が行われている。
それも相手の攻撃を最低限度の力でいなすため、
必ず相手の技の威力を殺す、“正しい”位置に刃の軌道が乗っているのだ。
これを可能とするのはほとんど直感に等しい瞬時の正確極まる判断力。優れた動体視力。
一切のズレを許さない、望む軌道を描く崩れない太刀筋、全ての調和。
幾つもの修羅場を駆け抜け、鍛錬の果てに行き着いた守りの剣である。
は思わず口から笑みがこぼれたのを自覚する。
己の技を完膚なきまで殺されたことに悔しさを覚える前に、
ただただ、義勇の腕前に感じ入っていた。
「ははっ……! す……っげぇ……!」
「これを他の技と同様、再現しろ」
だが、が感激に打ち震えていることなど義勇にとってはどうでもいいことだったらしい。
常と同じように無表情で、淡々とに習得を促すばかりである。
「…………」
は薄々勘づいていた。義勇はのことを、猛烈に過大評価している。
「あのですね冨岡様、これ、完全再現はちょっと無理というか、
俺が同じことをやろうとすると、“凪”というより”荒波”って感じの技になりますよ」
「そうなのか?」
義勇はの物言いに首を捻った。
は義勇の技を思い出して、顎に手をやる。
「“凪”は太刀を水平にまっすぐ切り込んだのを長辺としてほぼ360度、
冨岡様の間合いに入った攻撃を全方位無効、
というより受け流してますよね?」
義勇は頷いた。
は槍ごと抱え込むように腕を組んで難しい顔をする。
「槍で同じことをやろうとしますと、多分俺は柄を回転させるか、
こう、薙ぐように払うかになりますが、そうなると刀より動作が大きいので、
多分冨岡様のやるような最高速、最低限の動きによる受け流しは難しい……」
「つまり、お前には出来ないのか」
が槍を動かしながら言うことを遮って義勇が無表情で放った言葉に、
は一瞬の間を置いて、
「……あははははっ!」
笑うしかなかった。
――この人は本っ当に言葉が足らねぇし、喋ったと思ったらこれだよ。
――これで悪気は皆無なんだから面白すぎる。
は深く息を吐いて、義勇に向き直る。
「いや、ここで出来ないと言ってしまうのは悔しいので、やりますよ。
やれると思っているから教えてくださったんでしょうしね」
そして恐らく、義勇はが鬼への実験に時間を割くのを止めたいのだろう。
課題を与えれば、はそちらに注力するからだ。
義勇の意図を汲んで、は笑みを浮かべる。
正直、ありがたいと思った。
にとって鬼殺や実験は愉しく、胸がすく行為だ。
それが何の因果か人の役に立ってることは僥倖であるが、同時に、
何か、自分は取り返しのつかない方向にひた走っているのかもしれないと言う
漠然とした不安も、付きまとっていたのである。
※
冨岡義勇が誰かと鍛錬を共にしたのは藤の山の試験に入る前まで。
鱗滝のもとで錆兎と鍛錬していたが、試験の後はほとんど一人で腕を磨いてきた。
弟子をとったのもが初めてである。
けれど義勇は確信している。は“本物”だ。
鍛錬の際のが操る水の呼吸はいっそ爽やかな印象さえ抱かせる、
清々しい武芸であった。
稽古場がその時ばかりは、うっすらと明るく見えるような気さえする。
ただし、義勇は知っている。
は鬼で非道な実験を行い、それを楽しむ男だ。
そして慈悲と言うものを持ち合わせていないように、振る舞うのである。
「……干天の慈雨の出来が悪い」
「ああ、一応流れでやりましたけど、あれを磨く必要なくないですか?」
明らかに他の型と比べて精度が落ちていたと指摘しても、
はいけしゃあしゃあと述べるばかりである。
その様が不真面目に見えて義勇の眉間にシワが寄った。
「水の呼吸は基本十型、俺の編んだ拾壱の型も見せたが、
優先順位としてまずは基本を習得、精度を高めることを課題としたはずだ」
「それはそうですけど、
干天の慈雨、どうしても実戦で使う様子が想像できないんですよね。
“鬼が自ら首を差し出した時の一撃必殺。その剣撃に一切の苦痛なし。”
……前提条件からして無理でしょ」
は人差し指を立てて言う。
「人をあまり食べてない、理性を獲得していない鬼は基本的に生存本能と闘争心の塊だから
自分から首を差し出すことなんてない。理性を獲得している鬼も同じです。
あいつらそれなりに人間食ってるから
自分が死ぬなんてサラサラ思ってないんですよね。
人間のこと単なる食料だと思ってんだよなァ、多分」
そしてにこやかに、義勇へ微笑みかけた。
「そもそも人喰い鬼に慈悲かける必要あります?」
の言葉に、義勇は何も答えられない。
義勇自身、人を喰った鬼に情けをかけることはあってはならないと思っているからだ。
柱となるまで何体もの鬼に相対したが、
の言うように“干天の慈雨”を使う機会に恵まれたこともない。
「……まぁ、最小限の動きで最大限の効果を狙う訓練としては
適してると思いますけどね、干天の慈雨。
でもそれ、別にわざわざ痛くしないようになんて気遣い除けば、そこそこできるしな、俺」
はやたらと朗らかな声を作った。
「どちらかと言うと痛いとこ狙って突く方が得意です! あはは!」
「……」
の軽薄な物言いに義勇は嘆息すると、話題を変えることにした。
「にはしばらく俺の任務に同行してもらう」
「ふふ、監視ですかね? 鬼での実験は控えるって言ってるのに。
俺が信用できませんか?」
はわざとらしく首を傾げてみせるも、義勇は淡々と続けた。
「普通の仕事の流れを覚えさせるためだ」
「普通の仕事?」
「お前の鬼殺は非効率極まりない」
一人で任務に就かせたときは鬼で実験していたせいで、帰宅が遅れることが多かった。
任務に支障をきたすことはなかったものの、
時間の問題だったと義勇は思う。
短期決着。それが鬼殺の基本である。
まずに叩き込むのはこの考え方だろうと義勇は思ったのだ。
「……ああ、なるほど。
冨岡様がどのようにお仕事をしているか、お手本を見せてくださると」
も義勇の言いたいことを汲んで腕を組み、考えるそぶりをみせる。
やがてその顔に爽やかな笑みが浮かんだ。
「冨岡様がどんな感じで鬼殺してるかは正直かなり興味があります!
実戦と訓練とではやはり違うし、
結局藤の山での試験でも他の人が首斬ってるとこはお目にかかれなかったんで!」
ワクワクと声を弾ませるである。
「今夜の警備巡回からですか? 楽しみです!」
意欲があるのを褒めればいいのか、それともこの軽薄極まりない言動を叱るべきか、
義勇は考えあぐねた挙句、何も言わなかった。
言って聞くような男でないことはとうに承知していたからである。
※
冨岡義勇の鬼殺には無駄がない。
広範囲の警備巡回を毎夜行うために
鬼と相対したとして一体に時間をかけることもない。
鬼とは決して会話をしない。殺す相手と言葉を交わす必要はない。
生きている人間がその場にいたなら必ず守る。絶対に死なせない。
それは十二鬼月が相手だろうが、下級鬼が相手だろうが同じこと。
その日、義勇とが相対した鬼は“恐らく”手練れの鬼であった。
洞窟を根城とした鬼から立ちのぼる鬼気は、
がこれまで出会った鬼の中でも一際強く、
これは義勇も手を焼くのではと思った瞬間、鬼の首が胴と分かたれていた。
洞窟を住処とした鬼は口を開く
手も足も出ずにその生涯を終えたのである。
は義勇が刀を鞘に収めるのを見て、拍手を送る。
「お見事」
パチパチと乾いた音が洞窟に響いた。
ところどころに松明が置かれた地面の隅には白骨が山と積まれている。
は肩に止まっていたカラスに隠を呼んで埋葬を頼むように言づてながら、
次の巡回地へと向かう義勇の背を追った。
「鬼の土俵に上がってやらない。鬼を調子に乗らせない。
目視した次の瞬間首を飛ばす。まさしく、鬼殺のお手本なのでしょうね。
水柱、あなたのやり方は」
義勇は鬼殺の余韻を冷ますためか、洞窟を抜けた後も緩やかに歩く。
だがの賛辞には眉根を寄せ、淡々と答えた。
「思ってもない美辞麗句を並べ立てるのはよせ」
「まさか! 掛け値なしの本心ですよ!」
お世辞で言っているわけではないとは心外そうに声を上げる。
「気配からして洞窟の鬼は手練れと見ましたが、
冨岡様は血鬼術を使わせもしなかった。
並の剣士じゃこうはいかない、」
「お前もやろうと思えば出来るはずだ」
義勇の言葉はことのほか鋭い。
それ以上の言葉を聞きたくないかのように遮った。
「この程度、他の柱も当然にこなす。取り立てて俺が優れているわけではない」
は「おや、」と首を傾げる。
義勇の物言いは謙遜とは程遠く、
まるで他の柱と比べて自分を卑下するようなものだったので、意外に思ったのだ。
――冨岡様は、水柱であることにある種の信念を持っているように見えたが、
……もしかすると、違うのだろうか?
しかしは問いただすことはできなかった。
「次会った鬼はお前がとどめを刺せ。短期決着を心掛けろ」
義勇はそう言い捨てると夜風に当たるのを止め、
すぐさま次の巡回地まで素早く移動を始めたからである。