水面の月
の鬼殺は凶悪極まりない。
が殺したのは水辺を住処にした鬼だった。
月の光る池から身を引き上げ、露わになった鬼の腕や足には鱗がびっしりと生えている。
おそらくは、獲物を狩りに人里へ降りようとしたところをと義勇が見つけたのだ。
鬼を目視した瞬間、は槍を振りかぶった。
義勇を手本とした隙の無さ。
いよいよが鬼の首を薙ぐと思った瞬間、義勇は、目を疑った。
が実戦で使う水の呼吸が、稽古の時の印象と大いに異なっていたからだ。
それは、勝負にもならない一瞬の蹂躙である。
荒々しい濁流のような一撃。
黒い波が槍を取り巻くのを幻視するほどの一閃。
何が起きたのか分からず呆然とした表情の鬼の首と、
別たれた体が、それぞれ飛沫をあげて池に落ちてそれっきり。
池の波紋が収まると何事もなかったかのように、水辺は静寂を取り戻す。
は速やかな鬼殺にはさほどの感慨もないようで、
槍を振って血を払い、義勇の方を振り返る。
「じゃあ、次行きますか、冨岡様」
しかし義勇はの声には答えない。
自分が見たものを信じられずにいた。
が鬼の首を押し流すように断ち切った、
その技の名前を義勇は知っていたが、認めたくはなかった。
「なんだ今のは。……お前は今、何をした?」
義勇の物言いに、は怪訝そうな顔をした。
「水面斬りですよ。水の呼吸の」
「違う」
義勇は首を横に振った。
「今のは水の呼吸ではない。お前が稽古で見せた水の呼吸は、」
喘ぐように言葉を探し、義勇はには言い募る。
「もっと澄んでいた。濁りなどなかった」
義勇の言い分に、は困惑した様子で首を傾げている。
「そう言われましても、
俺としては稽古と同じように再現したつもりなんですがねえ。
効果も同じだし、どこが変わってるんだろ」
は塵と化した鬼が溶けた池へと目を向けた。
夜の水面は月明かりを除いては暗く、黒く、凝固しているようにも見える。
が鬼を死に至らしめたのは“水面斬り”。
それは確かに跳躍から鬼の首を一刀両断する技だ。
動きそれ自体は稽古の時と変わらなかった。
変わらないのにまるで違った。
威力がふんだんに上がっていることが義勇には見て取れた。
それだけなら問題ないように思えるが、
槍に纏う禍々しい黒波を幻視しての性質を思い出し、
義勇は不吉な予感を覚えたのである。
「直せ。さもなければ、」
――さもなければ、俺はお前に柱を譲ることができない。
そう口にしそうになって、義勇は途中で言葉を切った。
それが義勇の望みであることは確かだが、
に望むには少々勝手が過ぎると言う自覚もあった。
結局その日の巡回でが稽古と同じように水の呼吸を扱えることは無く、
義勇は実戦においてに稽古と同じ技を出せるようになることを追加の課題とした。
ただし、がこの課題を達成することはなかったのである。
※
義勇が“水柱”に望むのは単なる強さだけではない。
清々しく淀みない心持ちの人間にこそ、
水柱として鬼殺隊を率いてほしいと言う思いがあり、
だからこそ、義勇は自分が水柱であることが許せない。
己に未だ淀みがあると思っているからだ。
を育てることでその“淀み“を解消できるかもしれないと淡く期待したこともあるが、
悪癖を抱えるの実戦での技を見て、その期待は水泡に帰した。
そして義勇の歯がゆさに呼応するかのごとく、
これまで与えられた課題を順調にこなしてきたも今度ばかりは苦戦している。
は日が出てるうちの稽古では相変わらず清々しい技を披露する。
よくよくその感覚を身につけようと槍を懸命に振り、技の精度を上げている。
だが夜に鬼の頸を斬り落とす際には、
やはり濁流のような、荒く激しい技に様変わりするのだ。
これをどう指導、矯正すべきか義勇は考えあぐねていた。
そもそも本当に矯正するべきかどうかの確証も、実のところ持ててはいない。
禍々しい技を使うからと言って鬼殺に支障もない。ただ。
「……おそらくお前が実戦で濁るのは、悪癖が由来のことだろう」
なんの進捗も見られない稽古場で、
静かに呟いた義勇には無言で応じた。
しかし義勇にはの反応を窺う余裕もない。
の残酷な気質が水の呼吸を濁らせているのなら、
それを克服させればいいのかもしれないと義勇は思う。
しかしその方法がわからない。
錆兎ならばうまい指導法を導き出したのでは、と思うこともある。
けれど。
――が錆兎から指導を受けたとして、
果たしてこの男、言うことを聞いただろうか?
の気性を鑑みると、そういう疑問も覚えるのだ。
兎にも角にも現状を打破する方法が思い浮かばず、言葉を飲み込んで俯く義勇に、
それまで黙っていたが口を開いた。
「……冨岡様は俺に“水柱”になって欲しいんですか?」
義勇はゆっくりとの顔を見た。
「俺は稽古と実戦で技の印象が変わってようと、
効果に差異がなく鬼殺に支障もないなら直す必要があるかどうか、
正直なところ疑問です」
は常の笑みを取り払い、能面のような無表情で淡々と告げる。
「冨岡様がこだわる理由がわからない。
しかしかれこれ2ヶ月近く、冨岡様は折を見て俺の実戦を監督している。
柱のあなたが貴重な時間を割くのはよほどのことでしょう?」
無表情が崩れる。
が義勇を見る目は心底不思議そうだった。
「そこまでして俺の技が水の呼吸として、
誰が見ても正統派に見えることに価値があるのか。
冨岡様になんの利があるかって考えると
槍使いの俺を後継として万人に納得させるためでは、と思うんですが、
解せないんですよ。あまりに性急すぎるので」
は義勇が柱として現役で長く働ける状態にもかかわらず、
正しい水の呼吸の習得を急かす義勇に、いつからか疑問を覚えていたらしい。
「確かに継子制度って言うのはゆくゆく柱になるような
強い隊士を育てる為にあると思うんですけど、なんというか、
冨岡様はマジで一刻も早く俺に“正しい”水の呼吸を習得させたそうだし、
水柱であることに矜持があるのかなと思ったら
自分は他の柱と比べて劣ってる風なことを言うし……。
これ気のせいだったら怒ってくれて良いんですが、」
は軽く目を眇めて、義勇に問う。
「冨岡様は、本当はすぐにでも柱を辞めたいんですか?」
月が浮かぶようなの目を見て、義勇は誤魔化せないことを悟った。
硬く目を瞑り、か細い声で呟く。
「……そもそも俺は、本当は自分が柱だとも、思っていない」
そして、胸の内を吐露したとして楽になるわけではないと、思い知るのだ。
※
は冨岡義勇が沈痛な面持ちで、淡々と喋るのを黙って聞いていた。
かつて同門の旧友が藤の山の試験で
ほとんどの鬼を狩り尽くしたものの、命を落としたこと。
自分は試験に入って早々に怪我を負い、
朦朧としているうちに試験が終わっていたため、
未だ選別を乗り越えた実感がないということ。
隊士としての経験を積み、水柱の地位を賜ったものの、
その地位に相応しい人間ではないと、他ならぬ義勇自身が認めていないこと。
「水柱になるよう、最初に申しつけられたとき、
辞退することを考えなかったわけではない。
だが、お館様は俺の代わりは居ないと言った。
呼吸を指導してくださった方から、“水柱”はずっと、
絶えず鬼殺隊を支えていると聞いてもいた。
俺が断れば長い歴史に傷がつく。穴が開く。
……そればかりは耐え難い。せめて形式ばかりは守りたかった」
義勇が柱になるまでの経緯を聞いているうちに、
の腑に落ちたことがいくつもあった。
錆兎という義勇の友人の振る舞いは、少なくとも義勇の語る言葉の上だけならば、
確かにが選別でとった行動と似ている。
――なるほど、冨岡様が俺に期待をかけたのは、
かつての友人と重なるところがあると思ってのことか。
しかし、納得とともにはどうもしらけた気持ちになっていく。
――その錆兎とかいう奴の気持ちはわからんでもない。
だが、“鬼から人を守ること”を第一とするなら、
試験にとにかく通ることを考えないとダメだ。
鬼憎しか義憤にかられたのかは知らねェが、
力配分を間違えれば誰でも死ぬに決まってる。
トリアージができてない。
俺とは違う意味で優先順位が狂ってたんだな、そいつ。
――冨岡様も冨岡様だ。
選別より選別後の行動が肝要、大事だろどう考えても。
……まあ、この人だってそんなこと分かってるから、
死ぬほど鍛錬してるし柱としての仕事もこなしてるんだろう。
水の呼吸にしても、並々ならぬ思いで磨き上げているのだろうに。
話を終えて憂鬱な面持ちの義勇を見る。
経緯を聞き、義勇の望みを知り、
は自分に何ができるかを一通り考え、結論に至る。
――これ、俺がどうこうできる問題でもねェな。
は意を決して沈黙を破った。
※
「……つまり冨岡様は、ほかに適任がいない上、
歴史ある水柱の不在が許せないから仕方なく、
穴埋め的に柱をやってるし、自分は分不相応な地位についてると思ってるし、
なんなら自分は本当の意味での水柱じゃないと考えているんですか?」
は端的に義勇の自己評価をまとめて問いかける。
概ね合っていたのでこくりと頷いた義勇に、は「信じられねェ」と顔で語った。
「はァ〜〜〜?!
あなた間違いなくすこぶる強くて有能なのに?
それでその認識って嫌味な男だな〜〜〜!」
「な……っ?!」
あまりにもあけすけな物言いに義勇は目を白黒させるも、
は全く意に介した様子もなく、腕を組んで訝しげに目を眇めた。
「あなたが分不相応ってことになると、
柱の役職に相応しい人間はかなり限られると思うんですけど、
柱って万能人格者集団なんですか? なのに俺を後継にしようとしている?
……わけがわからない。ハッキリ言って意味不明です」
「宇髄様だってそんな感じじゃなかったし」と
宇髄天元がこの場にいたらと賛同者を間違いなくシメるだろう
失礼千万の言葉をこぼした挙句、は深々とため息をついた。
「冨岡様ちょっと冷静になってほしい。俺だぜ? 俺。。
自分で言うのもアレだけど人格者の対極にいる男ですよ。俺は」
「本当に堂々と言うことか?」
義勇はあまりの言い草に思わず口を挟んだ。
だが、は発言を撤回するつもりはないらしく、しげしげと義勇を眺める。
どういうわけか心配そうだ。
「他の柱との折り合いは大丈夫ですか?
そういう認識でいると、なんかむやみに敵多そう」
義勇の脳裏に会話するたび怪訝そうな顔をする柱の面々や、
こめかみに青筋を立てて殺気立っている風柱、
眉間に恐ろしく深くシワを刻んだ蛇柱の顔が浮かぶ。
しかし単に馴染めていないだけで
敵と思われている訳ではないだろうと義勇は首を横に振った。
「そんなことはないと思う」
「本当かよ。……ならいいですけど」
は半信半疑の様子だが、
あまり追及すると本筋と逸れると思ったのか話を戻す。
「与えられた地位に自分が見合わないと思うなら、見合うように努めるしかないし、
冨岡様は柱に相応しい振る舞いをしようと、それなりに気を使っていらっしゃる。
それで間違いないでしょ」
やれやれと肩を落とすを見て、そんなに出世が嫌なのだろうかと義勇は思う。
どうも義勇の懸念は顔に出ていたらしい。は緩やかに首を横に振った。
「俺は期待をかけられることに文句があるわけじゃないんです。
そりゃ嬉しいですよ。願ったり叶ったりだ」
は朗らかに続けた。
「なるべく強力な鬼のいる最前線に出たいし、
どんな任務も、なんなら汚れ仕事も進んで引き受けます。
当然、備えた医療の知識が必要とあらば惜しみなく使います。
が! 歴史久しい栄えあるお役目――しかも適性として
優れた人品・性格とかが求められる類の仕事を
俺に任せようとするのはバ……愚かの極みだと思うんで考え直してください」
「お前……。言い直した意味がないだろう、それは……」
間違いなくが「馬鹿」と言いかけてやめたことを義勇は察していた。
――というか、そこまで言うか?
仮にも期待をかけられて言う言葉ではない、と呆然とする義勇である。
は義勇の苦言を流して何度目かのため息をこぼした。
「……まァ、俺がどうこう言うことでもないですが。
結局人事を采配するのはお館様ですし。
水の呼吸については……訓練と実戦であまりにも異なる印象になってるなら
俺が未熟なんだと思うので再現する努力は続けてもいいですけど、……冨岡様」
それまでの軽薄な言動と打って変わって、真面目な声では告げる。
「もし仮に俺に地位を譲ったところで、
根本的な解決にはならないというか、あんまり意味がないと思う」
真剣な面持ちのを見て、義勇の心臓が妙に大きく拍動する。
嫌な予感がしていた。
何か、見たくないものを突きつけられるような、そんな感覚だった。
「どういう、意味だ」
「誰に継がせても結局、
あなたは『水柱を務めきれなかったこと』を後悔する。
後継に任せたところで、あなたが安心できるとは思えない」
は小首を傾げて言った。
「だって冨岡様は、最初から自分を認める気も許す気もサラサラないだろ?」
義勇は瞬いて黙り込む。
言葉を返すことは出来なかった。
「ずーっと自分を許さない理由ばかりを探してるように見える。
別に好き好んでやってんなら止めはしないけど、不健康極まりないですね」
は吐き捨てるように言うと、なおも続けた。
「俺は冨岡様が水柱に不相応だとも思わないし、
生き残ってることについても
そんなに気に病むことないだろと思うけど、
俺が何言ったって今のあなたの心にはさざ波一つ立たないし、
響かないのがわかるよ」
絶句したままの義勇に、は真面目な態度を崩して、常の笑みを浮かべる。
「どうやら自分を許せるのは自分しかいないんですってよ。
『誰の許しも誰の賛辞も受け入れなければ無いのと同じ。
ただただ渇いていくばかり』
これ、槍術師範からの受け売りなんですが。……ふふ」
言葉の最中に失笑して、は低く呟く。
「それができれば苦労はねェよな」
その言葉は、義勇に告げているようにも、自身に告げているようでもあった。