割烹旅館「海猫亭」
――江戸中期からある老舗旅館である。
海沿いを歩くうち、人里から離れた場所に突然二階建ての豪奢な建物が現れたら、
それが海猫亭だと思えば良い。
近頃は“よくないこと”が続いて閑古鳥が鳴いている海猫亭に、
二人の客人が訪れたのは肌寒い曇天の日のことだった。
海猫亭の仲居、前野たまきは案内をしつつ、長廊下の窓に映り込む二人の様子をちらりと窺う。
一人は長髪を一つにくくって、
外套はもちろんのこと、裾から覗く着物や履物も上等で、羽振りの良さが見て取れる。
顔立ちも目元の涼しげな、かなりの美形である。
だがずいぶんと寡黙なようで、むっつりと黙り込んだまま、連れの話を聞いていた。
いや、頷きもしないので、ラジオのように聞き流しているのかもしれない。
もう一人は丸い金縁のメガネをかけた、
ざんぎり頭に仕立ての良い洋服を着こなした優男だった。
寡黙な男も上背があるが、こちらはさらに背が高い。
柔和な顔に爽やかな笑みを浮かべ、
明るい身振り手振りでたわいもない話をしている。
連れから返事がないことにめげる様子もなかった。
この二人、どちらも釣り道具と思しき荷物を背負っている。
海猫亭はその名の通り海の近くに居を構えているが、
釣りを目当てにするにはあまり向いていないだろうに、とたまきは思う。
この二人がよほどの“悪趣味”なのか、
あるいは何も知らないで来てしまったかは分からない。
そもそも、この二人がどのような関係なのかも定かでなかった。
年はどちらも二十歳そこそこで、それほど歳の差があるようには見えない。
にも関わらず、洋装の男は和服の男に砕けた言葉を使わずにいるから、
友人同士や兄弟というわけでもなさそうだ。
宿泊させる部屋に案内を終え、二人が荷物を置き始めているところに、
たまきは思うところがある。
何しろ海猫亭では“よくないこと”が続いている。
本当は宿泊も断っているくらいだと言うのに、
倍額払うから是非とも一等客室に泊まらせて欲しいと聞かなかったのがこの二人なのだ。
「あのぅ、失礼ですが、お二人はどのようなご関係で?」
意を決して尋ねるたまきに洋装の男が振り返る。
悪戯めいた微笑みを浮かべていた。
「気になりますか?」
意味深な声色である。
「あ……えっと、お客様にこのようなことを聞くのは
なにぶんその、泊まりのお客様は近頃珍しいので……」
ドギマギしながら答えると、洋装の男は和装の男を芝居がかった所作で指し示した。
「実はですねえ……この方は作家の卵なんですよ! 僕はしがない下っ端編集者でして」
「……」
和装の男は窓辺、備え付けの椅子に腰かけて洋装の男を一瞥すると、
ふいっと顔を窓の外へ向けてしまった。
「まぁ、作家の先生……?」
驚くたまきに編集はニコニコと続けた。
「そう! 先生は口下手ですけど筆を取らせたらすごいんですよぉ。
僕はもう先生の才能に惚れ込んじまって……ただ、最近どうも筆が乗らんと言うのです。
新人作家なんですから沢山書いてなんぼだってのに困ったもんですね!」
「……」
くるくると表情を変える編集と裏腹、作家は全く表情を変えない。
それどころか微動だにしないのだから対照的な二人だ。
目を白黒させるたまきと、不動で無言の作家に、編集はやれやれと腕を組んで嘆息する。
「でも書けないって言うんだからしょうがない。
先生が書けるように環境を整えるのも僕のお仕事ですから。
美味いものでも食べてもらいながら執筆に集中できるよう、缶詰になってもらおうかしらと、
海の近い割烹旅館のこちらにお邪魔したんですよ。
いやまあ、先生ったら釣りもやりたいなんておっしゃるから、道具も用意してるのですけどね」
ちらりと自身の持ってきた荷物に目配せすると、編集はいわくありげな笑みをたまきに向けた。
「先生はお魚がお好きでねえ。釣るのも食べるのも両方やるんです。
海が近いこちらはうってつけですよ。
それになにより、ねえ。いい題材になりそうじゃありませんか」
囁くように編集が声を潜める。
「お噂はかねがね聞いております」
たまきはこの客人は“悪趣味”の方だったと悟った。
少なくとも編集の男は全てを承知で海猫亭を訪ねてきたのだ。
「じゃ、じゃあ、ご存知なんですね。ここの……」
念を押そうと口を開いたたまきだったが、その言葉を遮る声がした。
「たまき、ちょっと」
「あ、女将さん……失礼しました! ごゆっくりどうぞ!」
振り返れば海猫亭を取り仕切る女将がたまきを呼んでいる。
急ぎの仕事かしらとたまきは客人二人に頭を下げて、その部屋を足早に後にした。
※
「……作家なら、お前の方がよほど向いているだろう」
よくもまあペラペラと作り事をもっともらしく述べるものだ、と
冨岡義勇は呆れ半分、感心半分の眼差しでを見やった。
は度の入っていない伊達眼鏡を、懐から取り出したメガネ拭きで拭っている。
「ハハハ。でも俺は書くより読む方が好きですよ“先生”」
「悪ふざけはよせ」
“割烹旅館「海猫亭」にて、
ここ二ヶ月の間で旅館関係者、宿泊客合わせて二十名が失踪。
調査に送り込んだ鬼殺隊士六名が消息不明のため、
水柱・冨岡義勇、、両名での潜入調査を命ず。”
そのような任務のために変装しつつ調査に臨む義勇とである。
そしては心底愉快そうに生き生きと別人
――金持ちの気難しい若手小説家に付き従う新人編集者。になりきっていた。
いつもはうっすら漂っている武術を嗜んでる人間特有のきりりとした雰囲気も
今、わざと猫背に丸めた背中からは全く感じられない。
羽振りの良さを演出するためとかで、義勇の身なりにも散々口出しした挙句、
『冨岡様はなんも喋らんでいいですよ。俺がその分喋ります。適材適所!』
と大口を叩いただけはある。妙に板についた演技だった。
こうしてみると普段の振る舞いも
演じているところがあるのかもしれないと義勇は思う。
義勇が、と腹を割って話してしまって以降も、は態度を変えていない。
これまで同様に水の呼吸の精度を上げ、悪癖を律しようと槍を振るい続けていた。
問答を経て、義勇は現在のことをやや苦手に思っているが、
それでものことを、それなりに評価していることにも変わりない。
「じゃあ冨岡先生! ひとまず“僕”は取材に行ってきますね!」
――……やたら潜入任務の設定を楽しんでいそうなのはともかく。
こうして義勇の内心も知らず、
は手をひらひらと振って一人部屋を飛び出して行ったのである。
※
「冨岡様、その椅子気に入ったんですか?」
小一時間ほどして戻ってきたが言う。
釣り道具と見せかけて中には日輪刀が入っている袋を傍らに置きつつ、
窓の外を眺めていた義勇である。
部屋に入ってからほとんど動いていないことには呆れているらしい。
声にはいささかの含みがあった。
義勇は構わずにさらりと答える。
「海が見える」
は義勇の視線につられたらしく窓の外、岸壁と押し寄せる波の模様を見やった。
白砂青松――絵に描いたような美しい海辺の風景が広がっている。
「……あぁ、気に入ったのは眺望の方ですか。
確かに景色はいいですね。天気は曇ってるけど」
はそのまま机を挟んで義勇の対面に座ると、
着ていた背広を適当に椅子の背に引っ掛け、
眼鏡を外して机の隅に置いた。
「ではでは、不肖が旅館内を歩き回って
地道に情報収集してきましたのでお耳を拝借」
義勇はに向き直った。
仕事である。
「まず従業員の数と客の有無ですね。泊まりの人間は俺たち以外に居ません。
関係者はここに居ない人も含めて十名」
は懐から出した手帳に、万年筆でサラサラと旅館関係者の役職を書き連ね、
義勇にも見えやすいよう机の真ん中に置いた。
「最初に旅館の大旦那。ほとんどこの建物に顔を出すことはないそうです」
“大旦那”の文字を万年筆で指して、は述べる。
「女将に経営も何もかも丸投げ。
どうも税金対策なのか金持ちの道楽かなんかで旅館を運営してるようですね。
たとえここが潰れてもこの人にとっては痛くも
一年に一回とか二回、たま〜に美術品とか器とかを手配してくるだけとか。
確かに“しつらえ”はよく見ると凝ってますよ、海猫亭」
はある程度目利きができるようだ。
義勇はそうなのか、と内心納得しつつ、視線で次を促した。
はきちんと汲み取って続ける。
「次に女将さん。海原ミツ。
この人がこの旅館の実質経営者のえらい人。歳は三十半ばくらいかな。
さっきちらっとお目にかけたと思いますが、化粧厚めですけど綺麗な人ですよね〜」
「……歳と顔は鬼と関係ないだろう」
あまりにも脱線して聞こえたので義勇の声に咎める色が乗った。
だがに懲りる様子はない。
「そう固いこと言わずに!
やっぱり彼女もここ最近の関係者の失踪続きは堪えてるようです。
仲居さんも彼女のことを心配してました、あんまり眠れてなさそうな感じだって。
化粧もクマを隠すためじゃないですか? ほら! 一応関係あったでしょ」
気づいたことがあればつぶさに観察するのが情報収集の基本である。
は基本には忠実だ。
――語り口が軟派なのもともかく。
呆れ顔の義勇に、は「そうそう」と続けた。
「女将さんと話したときに『長居は勧めない』ってはっきり言われちゃいました。
本来宿泊も避けてもらって、お料理だけ出す方針だそうですよ。
つまり俺たちは無理言って泊まってるクソ客なわけですが」
「クソ客……」
潜入調査の設定上、全く否定ができないので、義勇は憂鬱な面持ちで反芻した。
「ハハ! まあ、こっちも仕事ですから」
は憂鬱そうな義勇を面白そうに笑ってなだめる。
「番頭は亀田吉蔵。四十過ぎのおじさんでした。
この人俺が泊まりの客だって言うとすっげえ嫌な顔したんですよね〜」
「なぜだ?……クソ客だからか?」
「だはは! そう! クソ客だから!」
は手を叩いて笑っている。
「近頃の泊まりの客、マジで“物好き”しかいなかったらしいんですよ。
やっぱりあの噂、相当集客になってたみたいです」
「……あれで人が来るものなのだろうか」
旅館に来るまでに失踪した隊員の残した事前調査の記録にも目は通している。
それによると海猫亭には泊まった客人に商売繁盛の“ご利益”があるという噂が流れていた。
「そういう胡散臭いのが好きな人間もいるんでしょうよ。
『この旅館に泊まって選ばれた人間は財を成すことができる』
眉唾極まりないですけどね?
誰が選ぶんだよって話だ。番頭さんも全然信じてなさそうでしたよ。
他人に財を成させるどころか潰れかけてますからね、ここ。
おまけにちょっと歩けば断崖絶壁。自殺の名所だし」
「さっき、釣りするって言ったらギョッとしてましたよね、仲居の娘。
確かに崖下で取れた魚なんか何食ってるか分かったもんじゃないからなぁ」と
は悪趣味にも肩を揺らして笑っている。
「にしても、番頭さん、休憩中だからってずっと煙草ふかしてましたよ。
冨岡様は煙草平気です?」
「得意ではない」
「まあそうですよね、隊士で煙草呑むような人間そうそう居ないもんな」
は万年筆を横に動かす。
「次に仲居さん。この子は冨岡様にも名前が割れてますよね、
たまきさんだ。苗字は前野。
この娘、失踪したお客さんのことは喋らなかったです。
案外しっかりしてましたよ、俺とそんな歳も変わんなそうなのに。
でも噂と内部のことについては番頭さんより詳しく喋ってくれました」
は冗談めかして告げる。
「海猫亭には座敷童子が出るんですって。障子に影が映り込んだりするんだと。
ちょうど俺たちのいる部屋なんか目撃例が多いって言ってましたよ。
どうします? 億万長者になっちゃったら?」
義勇はしらけたそぶりで呟いた。
「なるわけない。……そんなもの居るわけもないだろう」
義勇は幽霊だとか、座敷わらしなどの妖怪をあまり信じていなかった。
幽霊の噂を調べてみれば鬼だったこともあるので、
どうも正体が別にあることを前提としてしまう。
「冨岡様ってばノリが悪〜い」
そしても茶化しつつ、座敷童子の存在を毛ほども信じていなさそうだ。
それを証拠に話を脱線させることもなく、流れるようには本筋へと話を戻した。
「あとは……同僚も客と一緒に居なくなったりしたのと、
ここ二ヶ月の失踪沙汰の頻度が頻度でしょう。
気味が悪いってんで他所に行ったりする人も多いって言ってたな。
下働きは他にちょっと年かさの男女一名ずつしか居ないとか。
この規模の旅館にしちゃあ、少ないですよ」
確かに海猫亭は玄関先から見ても活気があるとは言いがたい、がらんとした印象だった。
広さに比べ人の数が少ないからだろう。
「くるくる働いてるせいか、従業員は皆、顔色あんまりよろしくないです。
……特に下働きの二人は目が虚ろな感じで気になります。
あれ、ただの過労かな?
俺が声かけても軽く会釈して仕事に戻っていくばかり、話は聞けずじまいでした」
が真面目な顔で懸念を示したので、義勇は軽く眉を上げた。
「様子がおかしいのか」
「ええ……仕事はちゃんとやってる風で、急を要する感じではなさそうですけど。
どうも気になります。
明日までに動きがないなら聞き取り詳しくしたいところです。
――報告続けますね」
は気を取り直した様子で姿勢を正すと
厨房を受け持つ人材を万年筆でぐるりと指した。
「残り、板長と三人のお弟子さんがいらっしゃるようですが、
この四人はもう全然ダメ。顔も見れやしなかったです。
厨房は客を絶対入れないようにしてるみたいだし、
出入り業者の相手してんのは仲居さんと番頭さんだ。
……これもねえ、ちょっと変なんですよ」
「変とは?」
「ここ、腐っても割烹旅館なわけで、当然料理が自慢で目玉。
なのに食材の選別を仲居や番頭任せにしますかね? 一番肝心なとこですよ。
単純に手が回っていないのか……あるいは、」
が手元から義勇に視線を移す。
「板長が鬼か、です」
義勇が無言のままでいると、は口角を意味深に上げて続ける。
「て言うか、旅館を運営する人間は全員グルだったりして」
「可能性はある」
自分で口にしておきながら義勇が同意したのは意外だったらしい。
は瞬いて尋ねた。
「おや、その心は?」
「お前も気づいている通り、
この建物、鬼の気配がするにはするが、非常に出どころが掴みづらい。
旅館内部全てが鬼の縄張りと見て自然だ」
旅館に足を踏み入れた頃から、海猫亭に鬼が居ることは確信していた。
これはも同様である。
だから聞き込みに行く時も、は釣り道具に見せかけた槍を手放さなかった。
義勇が告げた言葉には肩を竦めて見せた。
「おお怖。夜になった瞬間、俺たちは鬼の胃袋の中ですか? ぞっとしない話ですね」
「まあ、その時は破って出ればいいんですけど!」と
笑い飛ばすに義勇はため息をこぼした。
「採光のための窓も多い。本格的に鬼が動くならやはり夜だろう。
……建物の構造を頭に入れておきたい」
席を立った義勇の背に、は付け加えるように言った。
「あ、旅館見て回る感じですか?
なら関係者に話しかけられた時は設定通りお願いしますよ」
「……設定」
義勇は振り返り、露骨に嫌な顔をする。
はニマニマと愉快そうに、万年筆を指揮棒のごとく振った。
「冨岡様は実家の太い金持ちで気難しい小説家のクソ客です。
愛想が皆無、札束で他人のツラ引っ叩けば世の中何とかなると思ってるような
鼻持ちならねえ雰囲気だとなお良し!」
「……」
最悪の言い草に無言の義勇だ。
何を思ったか、はさらに己を親指で指差して堂々と言う。
「ちなみに俺は軽薄で軟派な腰巾着気質で成金根性丸出し若手編集者のクソ客!」
義勇は、この“設定”通りに振る舞うことが任務に必要なことだと
重々承知の上で、眉間を揉みながらに言った。
「もう少し……なんとかならなかったのか?」
「あっはっはっは! ならんですね!」
気の重そうな義勇を、は笑うばかりである。
※
海猫亭は二階建て、造りは書院風の旅館である。打ち水に濡れた玄関を通ると中庭が迎え、
一階には大浴場、厨房、宴会場、庭園を有し、客室はほとんど二階に集中していた。
義勇とにあてがわれたのは海のよく見える一等客室「浜風の間」である。
この部屋は一階に通じる階段からはやや遠い。
そしてよくよく見回してみれば、の口にした通り、
襖絵、玄関先にある金屏風もそれなりの一品だろう。
これにすぐさま気づくは目ざとい、と義勇は大体の造りを見て思った。
その背に声をかけられる。
「お客様」
振り向くと中庭の入り口のそば、佇んでいるのは海猫亭の女将・海原ミツだった。
疲労ゆえか、目の下に浮かぶ隈は
が「顔色を隠すために化粧をしているのでは」と言っていたのも頷ける。
ミツはお世辞にも愛想が良いとは言えない態度で、目を眇めた。
「お連れ様にも申し上げましたけれど、本館、長居はお薦めいたしかねます。
今はお料理のみの提供が原則となっておりますので……」
「仮にも客に随分な言い様だな」
義勇は半分“設定”を意識しつつも、もう半分は素で返した。
女将が「さっさと出ていけ」と言わんばかりの言葉を
客に言うなど、普通、ありえないことだ。
ミツ自身、思うところがあるらしく恥じ入るように目を伏せた。
しかし、なおも食い下がるように告げる。
「……お客様は海猫亭で何が起きたのかをご存知のはず。
お連れ様は『自分たちならば問題ない』と笑っておいででしたが」
いかにもの言いそうなことである。これに限っては演技でもないだろう。
楽観的なに内心呆れつつも、義勇はミツに淡々と返した。
「羽振りの良い客ばかり居なくなるのだろう、ここは」
海猫亭で失踪する客は、一等客室「浜風の間」に泊まる人間が多く、
また彼らは芸者を呼んだり宴会を開いたりと景気良く振る舞ったそうである。
そうして乱痴気騒ぎを起こした後に、パッタリと姿を消してしまうのだ。
自殺の名所がほど近いこともあって、
失踪した客たちは最期に贅沢三昧してから死ぬことにしたのだろう、
と警察や関係者にも思われていた。そういうことはまま起こりうる。
だが、ここ二ヶ月で客が失踪する頻度が尋常でなく、旅館の関係者までも
姿を消したとあって情報が鬼殺隊まであがってきた。
そして、お館様・産屋敷耀哉が鬼の仕業と検討するまでに至ったのである。
無論、警察はこの旅館と周囲を巡回地にして警戒を強めているし、
海猫亭としてもただの割烹として営業することで自衛をしている。
そこに現れたのが、やたらに身なりの整った格好の義勇と、
それも金に物を言わせて無理やり宿泊するに至った男たちなのだ。
鬼殺隊の存在、義勇らの意図を知らぬミツからしてみれば、
義勇との振る舞いはあまりにも軽率に映ったのだろう。
義勇へ送られる視線には冷たさとともに困惑さえうかがえる。
「そうと分かっていながら、なぜ……」
しかし義勇はミツの言葉を最後まで聞かずに口を開いた。
「詮索するのか?」
ミツは冷ややかな義勇の言葉にグッと言葉を詰まらせると、静かに応じた。
「忠告はしましたよ。……私はただこの旅館を、お客様を守りたいだけなのです」
義勇は立ち去る女将の背を見送った。
鬼の気配の色濃く香る海猫亭にあっても、ことさら海原ミツの纏う鬼気は強い。
が、どうも引っかかるところがあって、義勇はひとまず部屋に戻ることにした。
※
槍をそばに置きつつ読書に勤しんでいたは
旅館を見て回って戻った義勇の所感を聞き、うんうん、と頷いていた。
「鬼の気配は旅館関係者の全員からしますよね。
原因がわからない上に、これ以上探り入れるとなんかちょっとマズイ気もすんだよな」
鬼の気配がそこかしこからする海猫亭、
旅館関係者にもその気配は染みついている。
しかし同時に、女将が客を心配する言葉に嘘はなかったように義勇は思うのだ。
「冨岡様が不思議がるのもわかるんですよ。
確かに女将は鬼の気配が特別強いですが、
陽射しが出てるとこを普通に歩いてるから鬼が化けてるわけでもないですし、
俺たちのことを本気で気遣ってる風なんですもん。あれが演技なら大した役者だわ」
も義勇と概ね似たようなことを思っているらしい。
「番頭の亀田さんは……まぁ、俺たちのこと度胸試しに来たボンクラか、
与太話を信じ切った阿呆くらいに思ってんでしょうが」と付け加えるように言った後は、
海猫亭にまつわる噂についてに話が及ぶ。
「座敷童子の噂もねぇ、整理するとそこそこ筋が通るんですよ。
一等客室『浜風の間』に泊まって大盤振る舞いする輩は当然のごとく金持ちだ。
だから帰ることができた人が順風満帆ならそのまま金持ちなわけで、
“選ばれた”として噂は“本当”になる。
身を持ち崩せば“選ばれなかった”だけ。
この手の噂にありがちですが、そもそも因果関係が逆なんです」
ただし、今回は鬼が関わっているからあながち単なる噂とも言い難い。
考え込む義勇に、は小さく首を傾けた。
「そろそろ仕掛けて来ますかね、鬼。
夕方になって天気も荒れて来ましたし。
この格好で乱闘するのは遠慮したいんですけどね、割と気に入ってるので」
「……そんなことを言っている場合か。少しは緊張感を持て」
の言いように義勇は嘆息する。
戦闘に当たって隊服を着込めないのは防護に不安を残すものの、
常に万全の状態で戦えるとは限らないのが隊士だ。
「アハハ。俺のこれは性分なんですがね。
仕事はきちんとやりますからご安心を……」
は伊達眼鏡をかけながら言う。
見計ったように仲居のたまきが襖を開けて入ってきた。
「ご歓談のところ失礼します。夕食お持ちいたしました」
お重を目にしたが努めてヘラヘラと笑う。
「無理言ってすみませんねぇ、先生は食事してる様を人に見られるのが嫌なんですよ。
食べている最中に説明を受けるのも気が散ると。
いやぁお手間おかけして申し訳ない!」
逐一料理を持ってこさせて説明を受けるのは隙になるからと
一度に料理を運ぶよう手配していたらしい。
――それにしても、都合の悪いことを全て俺に被せてなんとかしようとしてないか、この男。
大体のことが自分のせいになっている気がすると
義勇はじっとりした目でを睨むが、何食わぬ顔でにこやかにしている。
「ふふふ、とんでもありません。
――こちら海猫亭夕膳を三段重に詰め合わせた弁当風です」
たまきが重箱を開けた瞬間、義勇はわずかに、得体のしれない怖気を感じて眉をひそめる。
の方を密かに窺うと、もまた違和感を覚えたらしい。
表情が抜け落ちたのち、すぐに取り繕って常の笑みを浮かべた。
「わぁ……すごいですねえ! 大ご馳走ですよ、先生!」
が言うことも嘘ではない。
重箱に詰め合わせになった料理は盛り付けも華やかで細やか。
輝いてすら見えるのだ。
「一の重はふぐの煮こごり、茶碗蒸し、湯葉刺し、お造り。
茶碗蒸しは
本日のお造りは
鰹はお好みで薬味を合わせてお召し上がりください」
「二の重は野菜の炊き合わせと蟹の
野菜の炊き合わせは右から里芋、
「三の重は海老のかき揚げ、舞茸の天ぷら、香の物。
天ぷらは塩と
椀物はわかめの混ぜご飯、汁物は
「水菓子は産地大阪から取り寄せた白
……お料理は以上になります。ごゆっくりお召し上がりください」
襖を閉めて出て行くたまきを見送り、
義勇とは顔を見合わせた。
「食うなよ、」
「はい、心得ております」
はしげしげと弁当を眺めて、腕を組む。
「一見
勘だし、なんも知らないなら気のせいにして箸つけちゃうと思うんですが。
これ、どれが一番ヤバい奴ですかね?」
「……」
義勇は懐から小瓶を取り出し、
料理に一滴ずつ中身を垂らしていく。
ジュッと焼けるような音を立てて、義勇の前に並べられた重箱の中身、
盛り付けられた全ての料理が青紫の煙を上げ、溶けてしまった。
「全部のようだな」
「うっわ……。それなんの薬品ですか?」
は見る影もなく変貌した料理を見て、露骨に嫌そうな顔をして尋ねる。
「藤の毒だ。鬼の皮膚や骨、血液などと反応するらしい」
試せる機会があるなら試して来いと柱合会議の際に押し付けてきた
胡蝶しのぶの顔を思い浮かべながら言うと、
は感心した様子で義勇の手元にある小瓶を眺めた。
「へぇえ! 面白いですね! 予備とかあったりします?
俺も使ってみたい……」
ワクワクと声を弾ませていただが、何かに気づいた様子で言葉を切った。
「……ねぇ、冨岡様。つまりこのお重、全部鬼の体組成分入りってこと――」
「」
あまり深く考えてはいけない、と義勇が忠告する前に、
は自分で言っておいて気持ちが悪くなってきたらしい。
サァーッと顔色を青くした後、重箱へと虚ろな目を向けた。
「なに? どれが入っ……、どれでも最悪なんですけど……。
いや普通に気色悪い!!! 最悪!!!」
心底ゾッとした様子で己の二の腕をしきりにさするに、
義勇は深々とため息をこぼす。
「……みなまで言うな、わかっているから」
しかし義勇も、気持ちは分かると頷いた。
鬼の血だの骨だのが入った料理を食わされそうになったのだから、
嫌悪を覚えて当然のことである。