欲望尽きず
冨岡義勇とが夕食を食わなかったことが鬼に知れたらしい。
海猫亭に漂う鬼の気配が一気に重くなったのが部屋の中からでも分かる。
「仕掛けてきたな……!」
義勇とはそれぞれの得物を手に部屋を出た。
瞬間、廊下に充満する鬼の気配に二人とも眉根を寄せる。
はこの鬼気がどこから生じているのかを探った。
やはり事前に怪しんでいた通り、調理場の気配がひときわに強い。
しかし調理場の他、大浴場や中庭、宴会場など、一階に鬼の気配が分散している。
分散した方の鬼は人間と一緒にいるらしい。
――人質をとって俺たちを分断する気か。
「」
義勇がを一瞥もせずに声をかける。
にはその意図がわかっていた。
「階段降りて右手、大浴場だけちょっと離れてますよね」
鬼の気配と、事前に見た旅館の部屋の位置とを
頭の中で照らし合わせると、大浴場が一番調理場と遠い。
鬼の点在する中庭、宴会場、調理場は比較的距離が近いように思えた。
の推察に義勇は静かに答える。
「俺は左手から調理場に向かう」
義勇は大浴場の鬼をに任せ、二箇所の鬼を倒すつもりのようだ。
「承知。人間は救出、鬼は滅殺。早めに合流しましょ……いや速いな動くの」
が合流の提案を口にし始めたあたりで既に義勇は階段下に降りていた。
本人が端的に言った通り、どうやら中庭から鬼を討伐していくつもりらしい。
もまた階段を飛び降り、まっすぐ大浴場へと急いだ。
は腑に落ちなかった潜入任務がようやく展開を見せたのに一人笑みを浮かべる。
今回の任務はどういうわけか旅館関係者を生かすようにと念押しされていた。
鬼殺隊士として、一般人の救助は当然の職務であるから、
念押しされたのには仕事を振り分けたお館様の“なんらかの意図”がある。
「だから回りくどく鬼の出方なんか窺ってみたりしたんだけど、
吉と出るか、凶と出るか……」
板張りの廊下を駆け抜け、そのまま鬼の気配のある男湯の暖簾をくぐり、
引き戸を開く。
と、同時に、全身に吹きかかる熱風には顔を左腕でかばった。
「あっづッ……!! んだよこれ?!」
目に飛び込んできたのは異様な光景である。
本来湯が張られているべき場所にはぐらぐらと油が煮えている。
熱源はこれだろう。
洗い場には白い粉が撒かれ、その真ん中に転がっている影があった。
素っ裸の番頭、亀田吉蔵である。
どういう状況かうまく飲み込めずにいただが、次の瞬間目を疑った。
「ばッ……おいおいおいおい!」
身体中を粉まみれにした番頭がのそりと立ち上がり、恍惚とした笑みを浮かべ、
そのまま煮えたぎる油へと歩き出した。
すぐさまは番頭を抱えて脱衣所まで下がる。
「……っ!?」
その途中、突如として蛸の足のような触手が足場から生えた。
に向かい伸びた触手を避けるため、瞬時に床を蹴って跳躍。
番頭を抱えたまま、片腕で槍を振って躱す。
脱衣所に番頭を背にして置いて、
は首筋をひやりとしたものが伝うのを感じていた。
槍が切り落とした、ちょうど人の腕ほどの長さの触手が油の湯に飛び、
ジュワ、と蒸発するような音がしたかと思えば、軽く爆ぜるような音が続く。
――あの触手に捕らえられていたならば、今、油で揚げられていたのは俺だった。
は洗い場に出現した敵を睨む。
若竹ほどの太さの、蛸のような触手が八本、うねりながら床に潜った。
その中心に鬼がいる。
粉が触手の潜った反動で舞う中、
佇むのは人間の頭の部分にそのまま蛸を乗せたような、異形の鬼である。
人の手足のあるべきところも吸盤のある触手が生えていて、
波打つようにうねっている。
「天ぷらは、塩で食うのが一等美味い」
ねっとりとした声で、唄うように鬼が言った。
「あ?」
が訝しむのも我関せずといった風情で、
蛸の鬼は独特の節をつけて言葉を吐くばかりだ。
「
なにより鮮度が要なり。揚げたてが一番よござんす」
ようやくの方を見て鬼は小首を傾げると、
顔から生えた触手と両手で指差してみせる。
「ん? お前さま、骨ばかり伸びて食いではさほどあるまいと思いきや、
若い男は歯応えが良い……」
「……」
は自分がどうも食材として吟味されているらしいと
気づいて眉根を寄せる。
「得物も変わっておるなぁ。それで串揚げもよろしいなぁ。
股から口まで一本刺しじゃ。
絞るのは、
「……なるほどね。人間を食い物にする鬼ならば、
当然中には食を娯楽にする奴も出てくるか」
納得しての頭が冴え冴えと冷えていく。
ここで行方不明になった人間は、鬼に料理されて喰われたのだろう。
そして、が先ほど助けた番頭、亀田吉蔵もこの鬼の被害者だ。
今も何か幻覚でも見ているらしく、横たわりながらうわごとを呟いている。
の槍を持つ手に、力が篭った。
「……手短に、とにかく速やかに、頸を斬ること。
私欲に走らず、ただひたすらに、職務を全うせよ。
そういう、真っ当な志ってやつが。当然の心構えってやつが」
こめかみに血の道が走る。
湧き上がり止められない怒りと高揚に、は口角を上げる。
「テメェみてぇな夜を這い回る鬼畜生、品性下劣の虫野郎相手だと
本当に馬鹿馬鹿しくなってくるんだよな」
「ホホ! 何か言うておる」
クスクス笑う鬼を前に、は槍を構えてポツリとこぼす。
「虫の羽音にしたってあまりにもうるさい……」
が地を蹴って始まり、行われた攻防。
それは、苦痛に塗れた断末魔の声で終わりを迎えたのである。
※
割烹旅館、海猫亭の調理場では板長が精を出していた。
包丁が一定の速度で、かまどの火が薪を崩して、鍋が煮えて、音が鳴る。
一つの割烹において調理場には大勢の板前がひしめき合っているのが普通だ。
一つの膳を供するのに、何人もの手が入る。
煮物を作る板前と揚げ物を作る板前は違う。それぞれがそれぞれの専門家なのだ。
ひょっとすると料理は音楽と似ている。
作っている様にも、供される様にも音楽の要素が見出せる。
調理場を演奏会場とすれば板長は指揮者である。
それぞれの専門家たちの味をまとめ上げるのが仕事。
一つの膳の調和を図り、客の舌を満足させるのが役目。
だが、海猫亭では違った。
がらんとした厨房では包丁の音、かまどの火の鳴る音、鍋の煮える音がよく響く。
今、調理場に立つのは板長のみだ。作業を完璧に板長一人が平行している。
板長の腕が伸びる。びっしりと吸盤が生えた白い腕が一本、二本、三本……十本、
それぞれ伸縮して手際よく調理を行う。
材料は部位が異なるも全て同じ。
人間。
それだけである。
普通の鬼は人を調理しない。塩だとか胡椒だとかの調味料や香辛料、
油などの“不純物“は身体強化には不要である。
わざわざ煮たり焼いたりする必要はない。
丸ごと食べればいいと鬼舞辻無惨は考えているようだった。
海猫亭の鬼は無惨に美食を咎められたことがある。
人を大勢喰うのはあくまでも強くなるため。
強くなって無惨の役に立つため。何を遊んでいるのだと言われた。
それに返した言葉を鬼は今でも覚えている。
『――手前は貴方様に供す一品を探しているのです』
珍しく無惨は沈黙と無反応でもって答えた。
もしかすると呆れていたのかもしれない。
『鬼となった手前の
魚鳥の肉など今となっては砂の詰まった袋に同じ。
……けれど次第に思うようになったのです。
人をより美味く喰う方法はないのか。
これを新たな美食の領域に手前を誘ってくださった貴方様に捧ぐ術はないものか……』
人であった頃のことなど覚えていないが、魂に刻まれた矜恃があった。
『何しろ手前は料理人ゆえ』
鬼の熱意に無惨は胸打たれた、ということは無きにしても、
使いどころを見つけたのだろう。
海猫亭には鬼が訪ねてくることがある。
人の血肉を喰う量が減った鬼は海猫亭の鬼の作る料理を喰い、
胃袋を満たし、食欲を肥大させて帰ってゆく。
鬼狩りの組織を消耗させるのに、
底辺の鬼の食欲を高めることはそこそこの役に立ったらしい。
僥倖なことである。
その功績ゆえにか、無惨は海猫亭の鬼に
「ううむ、汁物の具はいかがいたそう。
出汁の骨ごと入れるとするとして、もう一つ二つ食いでが欲しいのう」
ひとりごちた欲喰に合わせるように、厨房の戸を音を立てて開いた。
人間が二人いる。
「おお、来た来た。ちょうどいいのが来た。
鬼狩りの男は食いごたえがあって良い良い。
――さて、どう料理してくれよう?」
こちらを睨む人間を値踏みするように、欲喰は軽く目を細めた。
※
義勇は中庭、宴会場にいた鬼を素早く屠り、
人質の安全を確保して速やかに調理場に向かう。
途中、の姿が見えたのでざっと一瞥する。
怪我をしている様子はない。
今回の鬼は血鬼術、触手を巧みに使ってくるそれなりの手練れだったから
負傷していてもおかしくなかったが、いらぬ心配だったようだ。
しかしそれにしては、
「遅かったな」
の技量なら義勇よりも先に調理場に向かっていてもおかしくはなかった。
「……人質の対処に少々迷いまして」
が静かに答える。
義勇が救護に当たった人質は皆意識を失いぐったりしていた。
急を要する風ではなかったが、
医療知識の豊富なにしてみれば違って見えたのかも知れない。
「……鬼殺を優先しろ。その後速やかに救護に当たれ」
「そのつもりです」
義勇は一見落ち着いた様子で受け答えするに違和感を覚えたが、
近づいてきた鬼の気配を前に霧散する。
調理場の戸を開くと、鬼が一体、立っていた。
鼻につくのは肌や髪の、焼ける匂いだ。
それだけで、鬼――欲喰が何をやっていたのかはすぐに察することができる。
「おお、来た来た。ちょうどいいのが来た。
鬼狩りの男は食いごたえがあって良い良い。
――さて、どう料理してくれよう?」
分身と同じく、イカや蛸のような見目をした鬼である。
白い調理着の足元は赤茶に染まり、袖から覗く触手はゆうに十本はあるだろう。
奇妙なまでにつるりとした白い顔に起伏はほとんどなく、
イカのようなまだら模様が首やこめかみのあたりに浮かぶ、異形だった。
「うーむ、どちらも主菜にふさわしきかな。
強いていうならば長髪のお前様の方が良いかな。
お造りにしよう! 活け造りじゃ!
後ろの上背のあるのはすり身にして汁物の具が良い! 名案名案!」
――聞いていられない。
義勇がすぐさま欲喰に向かおうとした瞬間、場違いなまでに冷静な声が口を挟んだ。
「お前の分身に俺、天ぷらにされそうだったんですが、」
の淡々とした、なんの感情の起伏も感じられない声が
つらつらと、立て板に水を流すように言葉を続けた。
「いや、天ぷらというか串揚げにしようとしたのかな。
この槍を使って、俺の股から口まで串刺しにして
揚げて喰うとかそういうことを言ってたんですよ」
は静かに声を潜める。
ため息交じりに。呟くように。
「……こちとら手短に済ませなきゃならないんだ。
これは仕事だし、なにより
義勇はの意図を汲めずにいた。
ただ、なぜだかに口を挟んではいけないような気がしている。
今、義勇の後ろに佇むものが、破裂寸前の悪意の塊であることを、悟っている。
「だけど分身だろうがなんだろうが、
鬼畜生には死ぬほど痛い目みせてやりてェよな……。
調子に乗った奴には特に念入りに、気の済むまでさ……」
は天を仰いで静かに言った――間も無く義勇の横を突風が走る。
は鬼に向かっていた。
槍が欲喰の頸を掠めた瞬間、欲喰の足元から触手が四本、
うねりをあげた。
水の呼吸
「だから俺は!! この全身全霊を持って最速で!!
最大限の苦痛を与えて殺す!!!」
黒い波濤が触手を粉砕する。
周囲を切り裂くというにはあまりにも激しい。
怒涛の攻撃である。
は欲喰に迫りながら哄笑する。
足元から次々生える触手が迎え撃つのを木っ端微塵に砕いて笑う。
「お前の分身は腰から両断!
溢れたテメェのはらわた引きずり出して喰わせてやったよ!
それから煮えた油に突っ込んで首を斬って殺した!
そうだ! こんな! 風に!!!」
水の呼吸
水平に放たれた斬撃は鬼の半身を真っ二つに斬り裂いた。
相手は鬼だからその攻撃が致命傷かと言われれば違う。
今の水面斬りがまっすぐ頸を狙っていたのならば、
鬼でも攻撃の予測ができただろうし、技を食らうこともなかっただろう。
鬼殺隊士ならば真っ先に鬼の頸を狙うものだ。
しかしが刃を振るうのは鬼を苦しめるため。痛みを味わわせるため。
鬼を嬲り『分身と同じ目に遭わせてやる』という意思を隠そうともしない一撃だった。
は己を睨む欲喰を見て手を叩き、ゲラゲラと笑うばかりである。
「っハハハ! 目には目!! 歯には歯!!
それ見た瞬間心から胸がすいたぜ本当!!!」
異様なまでの高揚とギラギラとした眼差しに、
欲喰は、そして助太刀を狙って挙動を窺っていた義勇は絶句する。
は鬼殺をこの上なく愉しんでいるのだ。
「ところで板前の鬼さん? さっきなんて言いました?
冨岡様は活け造りで? 俺はすり身にして汁物の具にする?」
声が落ち着いたと思っても、
その目が異様な金色の光を帯びていることに変わりない。
「わかった、懐石だな? お前でやるよ。
なますにして擦って煮て揚げて焼いて全部やります。
地獄に行く前にこの世の辛酸をたらふく呑んでってもらおう!!!」
今度は欲喰の方が先に仕掛けた。
血鬼術
欲喰の足元から生えた黒い触手が毒液を滴らせながらと義勇に迫る。
吸盤が窄まり、毒を吹きかけようとするが、
義勇、ともに斬撃で毒液を飛ばす。
「やっぱ毒使うんだお前! 大盤振る舞いだな! あははははっ!」
「!」
は頸をあえて避け、鬼を嬲りながら技を振るった。
黒い波が押し寄せる。それは義勇でさえも例外ではない。
どういうわけか、助太刀など必要ないと言わんばかりに、
は義勇を寄せ付けないのだ。
ともすれば鬼の攻撃よりも、の攻撃の余波の方が厄介。
それまで抑え込んでいたの悪癖の箍は完全に外れていた。
※
足から斬られる。腕が潰れる。
溢れたはらわた、骨、血の一滴さえ余すところなく刻まれていく。
欲喰に死が迫る。
瞬間、天啓が脳裏を走った。
「動くな!!!」
欲喰はピタリと己の頸の目の前で止まった槍の刃先を見て勝利を確信する。
状況が変わったことにも義勇も気がついていた。
――そうだ。鬼狩りならば人間を見捨てることはしない。
欲喰の生やした触手が一人、調理場の隅に隠れていたと思しき人間に絡みついていた。
「お前さんらが動けばこいつは殺す。武器を捨ててもらおうか」
は人質となった人間に微笑んだ。
「あらら、捕まっちゃったんですか? 運のない人ですね?」
軽薄な調子で投げかけた言葉に、義勇はの意図を悟ったらしい。
明らかに顔色が変わった。
「……、やめろ」
「聞こえなんだか? 武器を捨てろ」
は誰の言うことも聞いていなかった。
「なんであなたって人は、よりによって騒ぎの中心にきちゃうかな」
置かれる状況の深刻さにも気づかずやれやれと言った調子で首を横に振る。
武器を捨てる様子はない。
血鬼術
我慢の利かなくなった欲喰は人質を殺そうと触手に力を込め、
と義勇に真っ赤な触手を伸ばすが、
伸ばす側から塵となっていくことに気づいて目を見張った。
――頸を斬られている。
いつの間に、と思うよりも先に目の前の光景に呆気にとられていた。
――……仲間割れか?
険しい顔でに刀を向ける義勇に、槍を片手に首を傾げている様子のが見える。
人質は義勇の背で尻餅をつき、青ざめた顔でを見上げていた。
欲喰はあらゆる感覚がなくなる最中に、己の料理のことを思った。
無惨に食べさせることのできなかった、
己の口にすることのできなかった究極の一皿のことを思った。
けれど、よくよく考えてみると、
無惨は欲喰が美食を追求する様を浅ましく思っている節があったとも今際に悟る。
――はて、誰より人間を喰い散らかしてきたお方だろうに、おかしなことだ。
そして奇妙な可笑しさが今はないはずの腹の底から湧き上がるのを感じる。
――しかし手前も見誤った。そうだ。そもそも鬼狩りも人間。
――人間が人間を殺すのに、いささかの躊躇いもないことも、あろうな。
何しろそういう人間ばかりを目の当たりにしていたのに、
鬼狩りが例外になるわけがなかった、と、思ったのが最期。
欲喰は死んだ。
の人質ごと斬り伏せんとする刃に