浄玻璃鏡
は自分に刀を向ける冨岡義勇に、感心した様子でパチパチと手を叩いた。
傍らで朽ち果てる鬼には全く目もくれる様子もない。
「流石ですね冨岡様! 俺の攻撃を利用して鬼の頸を切断、人質を攻撃からうまく庇う。
素晴らしい手並だ。鮮やか!」
褒めそやすに義勇はかえって気分を害したようだった。
あまりにも状況にそぐわない、軽薄な言葉だったからだ。
「……、お前は人間ごと鬼を斬ろうとしたな」
鬼が人質をとった瞬間、は迷いなく諸共に攻撃した。
義勇が止めに入らねば間違いなく人間も死んでいた。
人をためらわず殺そうとしたのだ。
ありえない、隊士にあるまじき行動である。
「一体どういう了見だ」
「人間? 誰のことです?」
は義勇に疑問を呈した。
全く何を言っているのかわからないと言った所作で首を傾げ、震える女を槍先で指し示す。
「適当な客を鬼に喰わせて、
身包み剥いでのうのうと生きてた、その女のことですか?」
の言いように義勇は眉を顰める。
義勇も気づいている。
後ろに庇う人間が、鬼と協力関係にあったということには。
「鬼がここまで大っぴらに好き勝手やってるんなら、
旅館の運営側に鬼の協力者がいるのは当然のこと。
しかも人質の中でそいつだけ起きててシラフなんだから状況証拠としても充分でしょ。
どう考えても積極的協力者ですよ」
義勇が鬼の分身から救出した旅館関係者も、確かに意識が混濁していた。
の言うように、傍らの女が他の人質とは異なる立場であったことは明白である。
しかし。
「……進んで鬼に協力しているとは限らない」
抵抗する手段を持たない人間が鬼に刃向かうのは難しい。
助けを求めようにも並の警官は鬼の相手にならないのだから八方塞がりだと絶望し、
己の命が助かるならばと鬼に従ってしまうこともある。
その場合、鬼の協力者であろうと人間は被害者である。
そもそも、隊士が行うべきは鬼殺に限られ、
人間を断罪する立場にはないと、義勇は首を傾げるを睨んだ。
「あはは、冨岡様は本当に優しい人だよね!」
義勇の内心を知ってか知らずか、は声をあげて笑う。
「優しいからすぐには下卑た発想が浮かばない。あなたはね。
『無理やり従わされているなら酌量の余地があるかも』とか、思慮が及ぶんでしょう。
美しいよね、人として正しい。
でも俺は性根が腐ってるからさ、どうしても下衆の勘繰りをしちまうんだ。
状況から浮かび上がる絵面が最悪なのも手伝ってるんだけど、」
は女に向かって微笑んだ。
「鬼は退治したから時間もあります。答え合わせをしましょうか。
ねえ、たまきさん?」
「わ、わたし……」
女――前野たまきは歯の根が合わない様子でひどく怯えている。
「あなたのやり口まあお見事だ。女将さんはいかにも怪しかったよ。
あの人ときたら、これ見よがしに鬼の気配を漂わせてた。
女将って地位もいかにもそれらしいよね。
普通なら従業員の行動を掌握できる立場だもんな。でも、」
は腕を組んで、わざとらしく片眉を上げた。
「女将が客を心配する言動は演技に見えなかった。いっそ不自然なくらいにだ」
「不自然、」
義勇はの言葉を反芻した。
確かに義勇も覚えがある。
海猫亭の女将、海原ミツの纏う鬼気と客に忠告する態度は
どうにもそぐわず、ちぐはぐな印象だった。
「そう。まるで『客を心配するのは女将として当然だ』と疑っていないように。
いやね、職業意識が立派な人なのかもと思ったんだけど、
本当に職業意識から俺たちを気にかけてるなら、
金積まれても宿泊を突っぱねるでしょうし
失踪騒ぎが解決するまで海猫亭を開けないのが自然だろ?」
たまきが唇をわななかせながらも、に言う。
「それは、鬼が、居るからなんじゃ、」
「女将が協力者で、鬼が居るから旅館を開けざるを得ないなら、
客人のことは歓待するんじゃない?
女将の言動は辻褄が合わない。……なぜか」
は目を弓なりに細めて告げる。
「海猫亭の鬼の血鬼術の性質、
たまきは沈黙する。
義勇はの言葉と冷ややかな眼差しに
その、血鬼術の具体的な内容を察した。
「……血鬼術にかかった人間は、役に沿った言動しかできなくなるのか」
は深々と頷いた。
「そう考えると色々辻褄が合うんですよね。女将役、番頭役、従業員役。
割り振られた役に準じて思考、言動が制限されるんだと思います。
……ちょっと見てもらっていいですか?」
が懐から何かを取り出し義勇に向かって投げ渡した。
受け取ってみると、煙管である。
吸口や火皿は金属製で、それなりに重い。
「それ、脱衣所にあった番頭さんの私物です。
よく見ると名前が彫られてるのわかります?」
小さく刻まれている文字を見て、義勇はハッとを見返した。
はそれに応えるように淡々と言う。
「刻まれてる名前、名乗った“亀田吉蔵”じゃないんですよ」
塩木誠一というのが刻まれている名前である。
海猫亭の番頭は別人の名前が刻まれた煙管を愛用していたのだ。
「その理由についても推測できる。
正面からだとちょうど影になって見づらかったんですが、番頭さんの顎の下、
首の付け根をぐるっと一周するように薄く痣がありました。
これ、縫合痕に似ています」
が自分の首を示しながら説明する。
その口調には全く抑揚がなかった。
「あの人顔を変えられてる。別人の顔とすげ替えられてるんじゃないですか」
――飯事で割り振られる役割は、顔も名前も固定される。
義勇は自分が助けた、意識を失い倒れていた従業員と女将の首の付け根を思い出す。
――……の言うような痣があったかもしれない。
しかし少なくともひと目見て分かるようなものではなかった。色も薄かったように思う。
ただちに命に危険を及ぼすようなものには見えなかったが、と
義勇は傍らにいるたまきを確認した。
一つに結い上げられた髪の下、首に痣は見えない。こちらは、素顔だ。
「煙管を手に取ったときにも変わった香りがしましてね。
それにもおそらく鬼の体の一部が混じってるでしょう。
冨岡様、例の藤の毒あります? 試してもらっても?」
「……」
義勇が無言で懐から取り出した毒を煙管、火皿に垂らす。
その瞬間、刻み煙草が紫色の煙を上げて、蒸発した。
間違いなく煙草には鬼の体の一部が染み込んでいる。
それを番頭は常飲していたのだ。
「俺たちの夕食に仕込みがあったってことは、
あの鬼、血とか唾液とかの体組成分を媒介して
人間を操作できたんでしょうね」
ふふふ、とは肩を震わせる。
「いやあ、それにしても血鬼術って便利ですね! いろんなことができるんだ!
顔を自在に変えたり、捏造した記憶を植え付けたり!
人間の自由意思を奪って働かせることもできるんでしょう?
しかも例によって、鬼の体組成分には依存性と中毒性があるっぽいんですけど!」
朗らかな声音と裏腹、が後ろ、乱暴になぎ払った槍が鍋を倒した。
黄金色のスープと、中で煮えていた人骨がガラガラと音を立てて厨房に散らばる。
「俺はそのまんま鬼畜の所業だと思うんだけど、たまきさんはどう思う?」
「……」
たまきはやはり、沈黙したまま答えない。
「旅館の従業員を操り人形だけで構成することも可能だろうが、
正気の人間の協力者が居た方が鬼にとっては都合がいい。
人間側が鬼に協力する理由は金でしょう。
羽振りがいい客が失踪するっていうなら多分そう。
ちなみに、協力者の一番の仕事っていうのは“選別”でしょうね?」
血鬼術によって海猫亭の従業員は入れ替えが簡単だ。
操ってた人間が操作により中毒を起こして弱ったとき、
あるいは客の中ですげ替え可能な人間を見つけたら、
用済みの従業員を鬼に食わせていたのだろう。
――そのために。
「体格や性別を鑑みて鬼が従業員と入れ替える人間
――つまりは鬼が喰う人間の“選別”はお前がやってた。
厨房から出られない鬼の代わりに。違うか?」
「わたし、私じゃない……。欲喰の、鬼の言うとおりにしただけ……。
従業員役をやってれば死なずに済むから」
震えながら首を横に振ったたまきから視線を外し、
は義勇に声をかけた。
「……ねえ、冨岡様。人間ってそんなに簡単に操り人形にできないですよ。
血鬼術によって洗脳され、
顔をすげ替えて別人として振る舞わせることができても
身体に相当の負荷はかかる。必ずどこかにしわ寄せは出るんです」
槍の柄を手慰むように回し、なんてこともなく、呟いた。
「だから鬼の共犯者を見抜くのはそんなに難しいことでもない」
へたり込むたまきを見下ろしては続ける。
「化粧で顔色を誤魔化す女将、延々煙草をふかしてる番頭、
ろくに喋らねえ顔面蒼白の下働き二人、姿を見せない奴らを除いてお前だけだったよな、
体調不良の兆候が見えなかった関係者は」
は立て板に水を流すように嫌に明るい口調で、なおも続ける。
「遺体の上がらない自殺の名所が近くにあれば、
客の失踪もごまかせるだろうね?
いつからこの仕組みで生計立ててたんです?
あの鬼、分身出せるし術は巧みだし、結構強かったよ。
相当数の人間喰ってるよな。二か月失踪した分だけじゃ足りないと思うんだ」
鬼の強さは人を喰べた数と比例する。
欲喰の術は厄介だった。義勇の体感にしても下弦の下位に匹敵する。
そして何よりもたまきがを見る顔が、
地獄に座す閻魔を見るがごとく青ざめ、
つらつらと述べられる推測にろくに反論もしない理由を考えると、
の言うことは恐らく概ね的中している。
「先祖代々同じことやってたんじゃない?
ここ二か月で急に喰わす量を増やしたのは代替わりして鬼を制御できず、
鬼が欲を出したから?」
は小首を傾げて見せた。
目の中には金の光が揺れている。
義勇は柄を握る手に力を込めた。
いつ槍を振るってもおかしくない、そういう威圧を込めては言葉を放ったからだ。
「それとも欲をかいたのはお前か?」
たまきが唾を呑み下し、喉が鳴る音が厨房に響く。
冷や汗で、前髪がこめかみのあたりに張りついているのが義勇の横目にもうかがえた。
だが、ようやく、前野たまきは顔を上げ、の燃える目を見返す。
「仕方、なかったんです。父が、病気でお金が、いくらあっても足りなかったの……」
涙を滲ませ、息も絶え絶えに口にした理由に、はそっと目を伏せた。
厳しい物言いをわずかに緩める。
「……ああ、それはお気の毒に。
病は老若男女、貧富の区別なく万人に襲いくる不運です。同情します。ただ……」
は義勇を指差して、たまきに視線を絡めたまま、告げる。
「お前の身内の不運は俺とこの人を殺していい理由にはならない」
たまきはヒュッと息を呑んだ。
「他人の人生を歪めて奪っていい理由にも値しない」
槍先がたまきに向いた。刃が電灯に薄赤く光っている。
「『病気の身内の為なら苦労知らずで羽振りの良さげな人間は死んでもいい。
鬼に調理されて食い散らかされても結構』
――そんな理屈は通らない。通すべきではないとも思う」
そしては主人のいない厨房で断罪した。
「お嬢さん、それで鬼になったなら、鬼狩りに狩られるのが道理だぜ」
※
にとってこの問答は、単なる罪の追及ではなく
殺すか否かを天秤にかけるための作業だった。
鬼は問答無用で殺すべきだが、鬼の共犯者についてはどうだろうか、とは測った。
どう扱うべきだろうかを決めあぐねた故だ。
義勇はどうもこの共犯者を生かすつもりでいるらしいが、
としては人殺しを手引きした人間を生かすことに抵抗がある。
簡単に人間を殺すことを選択肢に入れる人間を「人」と目して良いものだろうか。
たとえ鬼に生殺与奪を握られた状況であったとしても、
共犯者が他人の自由意志と命を摘み取ってきたことは事実だ。
何よりが状況を炙り出し、自白させて分かったことといえば、
前野たまきは「悪いと分かってやっていた」ということである。
――ならば彼女を「鬼」と見ていいだろう。
が断じたその時、義勇が刀の切っ先を、とたまきの間を遮るように払った。
「、待て」
「何故ですか?」
は薄笑いを崩さずに言う。
「冨岡様。こいつが手を組んでた鬼は調理してるんですよ、被害者を。
それを承知で指くわえて見てるどころか手引きまでやってるような奴は、
もう人としてどうですか? 獣でしょう? 生きながらにして畜生道に堕ちてるよ。
人を食いものにする、立派な鬼です」
「……それを決めるのはお前じゃない」
義勇の声は頑なだった。
の軽薄な調子とは裏腹である。
「ええ〜? まだるっこしいな〜。
そもそもさっき殺しとけば万事解決。手っ取り早く済んだんですよぉ。
全部が全部こいつの自業自得じゃないですか」
「鬼を殺すのは隊士の役目。けれど市井の人間を裁くのは俺たちではない。
……勝手に人を裁いて殺す権利がお前に、」
義勇は我慢ならないと言った様子で口を開いた。
「誰にもあるわけないだろう!!!」
は目を瞬く。
義勇がこうも激するのは珍しい。
「ここで人を殺してしまっては、お前まで鬼と大差がなくなるだろうが……!」
しかしは義勇の言葉をいささか滑稽に思った。
「あはは! いまさら!」
――鬼と大差がないどころか、己が鬼畜生だと、初めて鬼と相対した時から気づいているというのに。
「今更、何を、おっしゃっているのだか」
吐き捨てるように言ったに、義勇はゆっくりと呼吸する。
水の呼吸の常中を極めて静かに、お手本のように行なって、
義勇はの目をしっかりとらえた。
「もし、お前がどうしてもこの女を斬ると言うのなら。
……私利私欲のために人殺しを躊躇わぬ人間に呼吸を教えたとあらば、
俺は、師としてお前を斬らねばならない」
は軽く目を見張ったものの、さほど動揺しなかった。
それどころか、義勇の言葉はあまりにもすんなりと腑に落ちる。
自分に相応しい、それなりに納得のできるような顛末である気もすると、は微笑んだ。
「私利私欲とは心外ですが、」
しかし、義勇はの言葉を遮ってさらに続けた。
「そのあと俺も腹を切る」
「――は?」
はその意味を、すぐには飲み込めなかった。
真剣な面持ちで己に刀の切先を向ける義勇の顔を眺め、
言葉の意図を咀嚼し、飲み下すことができた時、
何事も笑い飛ばし、しゃくしゃくと受け流してきたは取り繕うことさえままならずに、表情を失った。
「……あんた、何言ってんだ?」
それはにとって、もっとも許しがたい言葉だったのだ。