波紋

は全くの無表情で義勇と相対する。

そこにあったのは肌を刺すような怒気だった。
鬼に対するわざとらしくも義憤めいた激しい怒りとは、また別の怒りだった。

硬く握られた槍はまだ動かない。
だが、いつ斬り合いになってもおかしくない緊張感が厨房に漂う。

義勇はしかし淡々と、決まりきった指導を行うようにに告げた。

「それがお前を継子にした責任と言うものだ」
「……あなたになんの責がある?」

義勇はの疑問に眉根を寄せた。
わかりきったことを聞かれたように思ったからだ。

「弟子を正しく導けなかったのは俺の責だ」
「ふざけるなよ」

間髪入れず告げられた言葉はあまりに鋭い。

「一体全体何様のつもりだ。
 俺の罪があんたの罪になるとでも言うのか。
 なんで俺の責をあんたが勝手に背負って命を放り捨てる?」

の顔が嫌悪に歪んだ。

「おこがましい。誰も頼んでない。そんなことは」

「それでも、俺がお前を見込んで水の呼吸を伝えたのだから、当然のことだ」

弟子を取る、継子にするとはそういうことだと義勇は他ならぬ己の師範から教わった。

義勇の剣術師範、鱗滝左近次は誰彼構わず弟子にするようなことをしない人だった。

柱を勤め上げた鱗滝の指導を受けようと、門戸を叩く隊士志望の人間も多くいたが、
鱗滝は必ず彼らの資質を測った。

鬼殺隊士には向き不向きがある。
生き物を傷つけることをためらう人間、争いを好まない気質の人間に隊士は酷な仕事だ。
向いていない。
しかし、心の優しい人間は意思の力でこの不向きを克服することができる。
隊士としての職を全うすることができると鱗滝は言っていた。

鱗滝が最も隊士に不適当と断じたのは己の力を傲り、耽溺する者だった。

呼吸を適切な場所以外でみだりに使う者、呼吸術を人に向ける者こそ、全く隊士に相応しくない。
そういう人間にはいかなる才覚があろうとも剣術を教えてはならないと言った。

義勇もまた同じように思う。

――でははどうか。

義勇がを弟子にしたのは、藤襲山で多くの鬼を屠りながら大勢の同輩を助けた行動に、
かつての友を連想したからだ。
そのような人間にならば水の呼吸を授け鍛えても良いと思った。
きっと柱の地位を譲って惜しくもないと思った。

には人の命を慮り、尊重する素養があると義勇は信じた。
――今もまだ信じている。

耀哉から頼まれたとは言え、他ならぬ義勇が見込んで引き取った。
期待をかけた分の責任は取らねばならない。

――だからこそ、絶対にを人殺しにはさせない。
見込み違いでがここで歯止めのきかない人間だったならば、
人を殺す前に俺が殺す。
そのあと自分も死ぬ。

――それが呼吸術を受け継がせる者のつとめ。道理だ。

は「全く理解できない」と呟いた。

「……そんなに死にたいなら一人で死んでくれません?」

いまや怒りに煌々とした目を眇め、
低く唸るようにしては言葉を放った。

「俺をだしに使うなよ、水柱」

義勇は痛罵を甘んじて受ける。
無言で反論もせず、ただ刀を下ろさずにいる義勇に
は苛立たしげに舌打ちした。

槍を握る手に一層の力が篭るのが目に見えてわかる。
次にが一歩でも前に出れば義勇も刀でもって受けざるを得ない。
そうなればもうとり返しがつかない。

覆水はいまだ盆の中にある。

溢れるか否かは全てにかかっている。

故に、長い沈黙を破ったのはやはりだった。

「……わかりました。ここはあなたに免じて矛を収めます。
 俺に人を裁く権利がないというのは、まあ、その通りですし」

は静かに、槍の刃先を地面に向けた。



が戦意を喪失したのが分かったのか、義勇もまた己の刀を鞘に納めた。

はその様を苦々しく思う。

がたまきを殺したとして、
その責を負いが死ぬのはともかく、義勇が死ぬのは割に合わないと思った。
だから刃を振り下ろさないと決めた。

――ただ。

はたまきに聞くべきことがあると口を開いた。

「たまきさん、海猫亭には『鬼殺隊士』を名乗る、
 鬼退治を生業にする人間が来たと思いますが、
 彼らについてはどのように対応しましたか?」

「え?」

たまきは質問の意図を読めずに問い返した。

はつい先ほどまで殺そうとした相手に対しての態度とは思えぬほど、平然とたまきへ尋ねる。

「前任者がどういう仕事をしたのか詳しくはわかりませんが、
 資料の引き継ぎができたので、それなりに情報収集が行われたんだと思います。
 あなたとも接触したはずです。
 日本刀を携えた黒い詰襟の人たち、覚えがありませんか」

たまきには思い当たる節があったらしい。
殺されずに済むらしいと悟って戻っていた血の気が再び引いた。

「その人、その人たちは、......鬼が作った料理を食べました」

たまきが俯いて言う。

――ならば隊士の末期は容易に想像できる。

義勇は無言ながらも眉を顰め、は深々と嘆息した。

「彼らに助けを求めても良かったと思いますよ。
 多分、命がけで逃がしてくれたでしょう。彼らがまともな隊士なら当然そうする。
 ……死んじゃったら治せないんで、
『もしも、たられば』の話してもしょうがないんですけど」

は厨房を立ち去ろうと歩き出す。

「自分が何をやって、何をやらなかったのかをよくよく考えろ。
 お前が本当に“人間”だって言うのなら」

去り際に吐き捨てた言葉ばかりが厨房に残った。

――海猫亭での討伐任務は成功。
旅館関係者は全員無事。血鬼術にかかった人間は
経過観察のため一度蝶屋敷を経由したのち、一般の病院に搬送された。



と義勇は海猫亭の外に出る。
夜明けの今、夜半の嵐は去りつつあるが未だに雨は残っている。

はすぐに己の鎹鴉を呼んだ。
義勇に相談を兼ねて問いかける。

「まず、人質だった人たちの治療の手配が必要ですよね。
 血鬼術の中毒性、程度がどんなもんかわからんのが怖いですけど。
 あとは骨の供養と事後処理を隠に頼んで終いですか」

義勇はしばしの沈黙の後、口を開いた。

「治療の手配は蝶屋敷――胡蝶に任せろ。毒の制作者だ」
「ああ、あの面白い毒の……。承知しました」

確かに鬼に効く毒を開発する人物ならば
血鬼術の後遺症にも有効な手立てを講じられるだろうとは納得する。

そのままは腕に留まる鴉と目を合わせると、朗らかな笑みを作った。

「松葉、隠を呼んだあとにそのまま蝶屋敷に連絡。至急で頼めるか?」
「承知承知! 合点承知ィ!」

の鎹鴉――松葉は威勢よく答えると雨雲を切り裂くように飛んでいく。
その様を見送って、常の通りの無表情で帰路を歩み出した義勇の背に、は声をかけた。

「冨岡様。俺を破門してください」

義勇の足が止まる。

「俺は多分、いつ人を殺してもおかしくないんだと思います」

は振り返らない義勇の返事を待つことなく、言葉を続けた。

「もっともらしい理由が与えられて、俺自身が納得した時、
 俺はそいつをズタズタにして殺すので。
 今だってそうしてますしね。アハハ!」

冗談めかして笑ってみても義勇が振り返らなかったので、はしばし黙り込んだあと、
気がつけば、思わず口に出していた。

「俺は殺しが愉しい」

掛け値なしの本心を。

よりにもよって、義憤も大義名分も取り除いた心に残った本音がこれかと、
は自己嫌悪で催した吐き気をごまかすように、己の前髪を掴んだ。

「相手が殺されて当然の鬼畜生なら、思い切りやれるから、なおのこと良い……」

「その性分を律したいと願ったからこそ、今、お前はここにいるのではないのか」

義勇が振り返らずに言う。
心を砕かれたのだと気づいて、は肩を震わせた。

「……ふふふ」

――優しい人だ。

寡黙で自罰的。人に厳しいが自分にはその二倍三倍も厳しい。
有能であること、努力することを当然と思い、言葉よりも行動で示すのを良しとする。
成し遂げたことだけが全て。
まるで己の言葉や感情などになんの価値もないと思っているかのようだ。

そういう師範の不器用さがには好ましかった。
懸命でひたむきな人間が好きだから。

けれど、だからこそ自身は『この人の側に居るべきではない』と強く思う。

故に口をついて出るのは皮肉である。

「随分俺を買ってくれるんですね?
 『鬼を殺してもいいから』その大義名分欲しさに
 俺がここにいるのだとは思わないのですか」

「お前は今日、矛を収めた」

「……あなたの命と天秤にかけてようやくね」

未だに納得しているとは言いがたいのだと、
は眉根を寄せ、硬い声で言う。

「あれ、最低最悪の脅迫ですよ。本当に二度としないで欲しい――」

は言葉を発する最中、何かに気がついたように呟いた。

「でも……そうされなきゃ“普通”の判断もできない、
 “まとも”になれない俺が悪いのかな」

途方にくれた声色に、ようやく義勇が振り返った。
なにか言おうとして、止める。

は軽く頭を振って話題を変えた。

「……あなたは多分、俺に“ご友人”を重ねて見ていたんですよね。そうでしょう?
 でもその人と、俺が槍を振り回す理由は違いますよ」

笑みを取り払って続けた。

「そういう自分が醜いと承知の上で、俺には譲れないことがあります」

義勇は黙って聞いている。

「俺は鬼に慈悲を覚えることはないし哀れみもしません。
 鬼畜の所業を働く人間のことも、俺は鬼と同じように死ねばいいと思う。
 なにより俺は、鬼畜の俺を許せないので」
 
また口を開きかけた義勇を遮るように、は続けた。

「俺に通じる畜生共に慈悲の雨などくれてやれない」

雨に打たれながら言うセリフではないと自嘲しつつも、
は淡々と、宣言した。

「俺は干天の慈雨を習得しません」

命令違反。訓練の放棄。
義勇が望んでいた、水の呼吸の槍による完全再現をは拒絶した。

義勇はその意味を過不足なく理解したようで軽く瞠目したあと、問いただす。

「……絶対にか」

は頷いた。

「はい。俺は水の呼吸を継ぐことができません。
 ……いや、俺の意思で受け継がないと決めました」

は全て自分のわがままと認め、雨の中膝をついた。
槍を傍らに置き、泥の中額付いて乞い願う。

「教えを全うすることなく、恩を仇で返す不届き千万、大変申し訳なく存じます。
 二度と水の呼吸の技を使わぬ誓いを立てることこそ、けじめと思う次第です。
 ……どうか、俺を破門してください」

、」
「――お願いします」

これを呑むまでは絶対に顔を上げぬ。てこでも動かぬ。
のそういう頑なな態度を感じ取ったのか、義勇は深く、息を吐いた。



「恥を知れ、たわけ者」

ため息の後に義勇の口から出たのは叱責だった。

「そんな誓いがけじめになると思っているなら見当違いもいいところだ。
 磨いた技を出し惜しみして相手取れるほど鬼は弱くも甘くもない。
 傲岸不遜を改めてから物を言え」

は頭を下げたまま無言で応じる。
その頭をしばし義勇は眺めていたが、やがて緩やかに口を開いた。

。――水の呼吸は、」

義勇は不慣れながらも言葉を選ぶ。
に一番に伝えるべきことを。

「水の呼吸は、たとえ特別な才能に恵まれなくとも、
 それまで刀を持ったことなどなくとも、
 隊士として刀を取りたいと願った者たちを広く受け入れている流派だ」

鬼のせいで失った、大切な人への情ゆえに、
あるいは他人に同じ不幸を味わせまいと決意するからこそ、
それまで刀など持ったこともない人間が鬼殺隊で刀を手にする。

「親しい者が鬼に変じたとき、せめて苦しまずにあの世に送りたいと、
 送りたかったと願い、技を磨いた人が過去にいた。
 ……その人に敬意を払い、干天の慈雨が基本十型のちょうど半ばにあるのだと、俺は思う」

になぜ鬼に慈悲をかけるような技があるのかと問われて、
この技の意義を改めて義勇は考えた。
うまく言葉にするのに時間がかかったものの、いま結論に至る。

過酷な戦いに身を置く隊士がともすれば忘れがちな
情と決意――この初心を忘れさせぬため、
水の呼吸は半ばに慈悲の技を置くのだと。

たとえそれが実戦では一度も使わぬ技だったとしても、
鬼と戦う先達が、慈悲の剣撃を基本の型に入れたことそのものに、意味がある。

「水の呼吸は人に寄り添い、人を守る剣術だ。
 先人の磨いた技はもうお前にも染み込んでいる。
 継がぬと決めたお前のことも、隔てなく守る」

二度と使わないなどと誓う必要はあるまい、と義勇は念を押すように言った。

「お前が思うほど狭量ではない。侮るな」

「……」

頭を下げたまま、はなにも答えなかった。
それでも義勇は伝わったのだと信じる。
は義勇の意を汲むのが得意だった。軽薄であるが愚かではなかった。

故に、名残惜しくも告げなくてはならない。

、本日をもってお前を破門とする」

は、ゆっくりと顔を上げた。
おそらく望み通りの展開だろうに、少しも嬉しそうにも、まして悲しそうにも見えない。

義勇はやるかたなく唇をひき結んで、開いた。

「……残念だ、。本当に、」

硬く目を閉じた義勇が、に向かい深々と首を垂れた。

「本当に、すまない」

そうして義勇に頭を下げられてしまっては、には全く立つ瀬もない。だから。

「……なんであなたが謝るんですか」

力なく呟いた声ばかり、雨に混じって消えたのである。