鏡地獄・鬼畜抄

鬼さえ斬れれば

鬼さえ斬れれば・上

昼下がりの産屋敷邸では胡蝶しのぶが産屋敷耀哉に任務の報告をしたところである。

開け放たれた障子の向こうで、手入れの行き届いた庭木が
地面に麗かな木漏れ日の陰影を描いている。
室内にも柔らかな陽気と優しい光は差し込んでくるが、
照らされる耀哉の病状は目に見えて進行していた。
端正な顔に、火傷のような皮膚のただれが広がっている。
しのぶは耀哉に労わるような目を向けた。

昨夜鬼殺を終えてから直接産屋敷邸に赴いたしのぶが、
そのまま宿泊することになったのも、耀哉の具合が悪く、
話のできるような状態でなかったからだ。

こうして時間をおいて、つつがなくしのぶの報告を聞きながら
泰然としている耀哉を見ると安心したが、油断はできないとしのぶは思う。

いかんせん耀哉は鬼殺隊の父として隊士に弱音を吐くことを避ける。
体調のことを考えると早々に立ち去り担当の医師に診てもらうべきか、
と思いつつ耀哉の手にしているものが気になった。

「お館様、お手元のそれは……」

「うん、しのぶに渡したものの写しだよ。
 鬼の解剖図と報告書だ。読んでもらっている途中でね」

耀哉が手元に置くのはの描いた解剖図と、任務の報告書である。
後者はほとんど報告とは名ばかりの鬼を使った実験記録だった。

内容が内容のため、しのぶも目を通しておいてほしいと、
それなりの分厚さの冊子にまとめたものを渡されたのだ。

はきちんと論文の形にまとめてから渡すべきか、迷ったと言っていたけれど」

しのぶは「言われてみれば確かに走り書きなども目についた」と
伝聞で聞くのためらいに納得はしながらも、首をかしげた。

「今のままでも、それなりに簡潔にまとまっているように思いますが」
「おや、もう読んだのかい」

耀哉が娘を通してしのぶに報告書を渡したのは昨晩のことである。

産屋敷邸に宿泊したしのぶは、仮眠もすることなく一気に報告書を読んだのを、
おそらくは耀哉に見透かされたのだと気がついた。

なんとなく気恥ずかしく思い、コホンと咳払いして、打ち明ける。

「実は、頂いてすぐに読破しました。
 ……鬼の調査にあたって解剖までできる人はなかなかいないので、つい」

「しのぶはどう思う?」

耀哉は変わらず穏やかに問いかける。
問いには含みがあるように思えて、しのぶはしばし間を置いて答えた。

「……報告書の出来は良いですね。
 記述の仕方からして、きちんとした先生に教わってきたことがよくわかります。
 着眼点も悪くないです。ただ、」

の報告書、解剖図は個人的な感情を極力排した客観的なものだったが、
それでも人となりがうかがえる部分はあった。

淡々と記述される実験の内容。
文章に熱がないせいで一見すると流し読んでしまいそうだが、
鬼に施されたのはわざと苦痛を長引かせるような、拷問じみた実験ばかりだ。

しのぶにはすぐに想像ができた。
が血と悲鳴の渦巻く地獄絵図のなか、
極めて冷静に鬼を蹂躙し、観察している様子を。

だから報告書を読み込んでいくうち、
しのぶは「姉はこのやり方を気に入らないだろうな」と思った。

目蓋を閉じれば、けぶるようなまつ毛を伏せて、悲しげなカナエの顔が容易に浮かぶ。

『ねぇ、しのぶ。同じことを人間にもできる?』

カナエは柔らかな声で、きっと諭すようにしのぶに微笑みかける。

『人間に施すことをためらう実験を、
 鬼にはためらわずにできる理由をよく考えてみて?
 覚えた怒りや復讐心をそのままぶつけてしまっては鬼がかわいそう。
 ……よくないことだわ』

――……。

『鬼だって、元々は人間だったのよ。
 みんながみんな好きで鬼になったわけでもないでしょう?
 だから、こんなやり方はあんまりだと思う』

――そうね、姉さん。非人道的だわ。こんな、やり方は。

想像の姉に頭の中で答えを返して、しのぶは倣うように微笑む。

「必要以上に惨たらしいやり方での実験が多すぎます。
 私なら選ばないような方法ばかりを好んでいますね、君は」

しのぶに耀哉は何も返さず、落ち着いた佇まいである。
きまり悪く思ったしのぶはさりげなく話題を変えた。

「彼は今、水柱の継子として活躍しているのですよね?
 冨岡さんはその辺り、きちんと監督してるんでしょうか」

は、もう義勇の継子ではないんだよ」

「あら、そうなのですか……」

しのぶは口では驚いてみせたものの、実のところ、意外に思ってはいなかった。
柱の稽古についていけず継子を辞退する人間は割合いるものだ。

それに、師弟関係を結ぶにも相性がある。

そもそも当代の柱達の中には指導に不向きな者が多い、
というのがしのぶの正直な感想だ。

特に天才肌の柱は部下を扱う任務が不得手だったり、
指導する機会があっても難儀することがあると聞く。

『私は刀より手斧・鉄球の扱いに慣れている。剣術の指導は難しい……』

『一緒に任務に出た人に身体が柔らかくなるコツを聞かれたんだけど、こう、
 足をぐぐぐ〜っ!とやって、関節は多少バキバキッとなってもいいやって感じで、
 とにかくぎゅーっと伸ばすといいよ!
 って言ったら、すごく困った顔されちゃった……』

彼らはできない人間がどこでつまずくかがわからない。
本人は出来て当たり前なのでやり方を説明しようにも言葉にしづらいのだ。

常人が瞬きの仕方を言葉で丁寧に説明しろと言われて、
分かりやすく教えることが難しいのと同じである。

また、指導というのは闇雲に厳しく接すれば良いというものではないし
優しくすれば良いわけでもない。
口頭での説明があれば飲み込みが早くなる者もいれば、
とことん身体を動かし実践することで飛躍する者もいる。

そういう、人の適性に合わせて指導の仕方を考えたり、
接し方を工夫したりする能力が必要だ。

つまるところ、剣術を教えるにあたって師範は“強いだけ“ではダメで、
柱に求められる資質とは、別の素養も求められる。

――冨岡さんはお喋りが得意じゃないですし、
たまに喋ったかと思うと辛辣なことを言いますし……。
指導に向いているとはお世辞にも言えないですもの。
むしろ君は“保った”方なのでは?

しのぶが内心義勇を批評しているのを見抜いてか否か、
耀哉が口を開いた。

と義勇の相性は悪くなかったんだよ。
 は水の呼吸を習得しながら上手に義勇を補佐していたし、任務の成績も優れていた。
 けれど、さる任務で長年鬼の協力者だった人間を、は殺そうとしたんだ」
「!」

しのぶはしばし絶句した。
隊律違反は当然として、人の道から外れた振る舞いである。

「……それはいささか、短慮なように思えます」

硬い声で言うしのぶに、耀哉は静かに目蓋を閉じる。言葉を選んでいるようだった。

「その時は義勇が止めた。も義勇に従い納得したようだけども、
 結局はその一件をきっかけには義勇の元を離れたんだ」

この顛末を話し、義勇は「全て自分が至らなかったせい」と耀哉に首を垂れたという。

そしても耀哉に宣言したのだ。

「『もう自分は誰の継子にもならない。鬼さえ斬れればそれで良い』 
 そう言っては今も一人、がむしゃらに鬼を斬ってまわっている。
 日を追うごとに報告書、解剖図がどんどん嵩んでいくよ。
 ……とても頑張ってくれているようだね」

「なんだか……」

しのぶは耀哉の口ぶりに、蝶屋敷で定期的に治療を受けている時透無一郎のことを想起した。

無一郎が驚異的な速さで柱となったとき、
しのぶはその才覚に感嘆するとともに痛ましくも思ったものだ。

昔のことを思い出すことも新しく物を覚えることも難しいらしく、
いつも頭に霞がかかったようだと口にする無一郎だが、剣技ばかりは冴え冴えとしていた。

『鬼さえ斬れればそれでいい』
少年が無言のうちに示す、そのような振る舞いには心が痛む。

――もまた同じなのだろうか。
魂に焼きついて離れない、鬼への怒りが燃えているのだろうか。

「無一郎なら大丈夫」

耀哉はしのぶの考えを見通すように言った。

「しのぶの治療を受けて、記憶を取り戻すきっかけを見つけることができたら、
 無一郎は真っ直ぐに自分を信じて歩んで行くことができる。あの子は強い子だよ」

耀哉は自信を持って断言する。

「だから無一郎を柱にしたんだ」

しかし次に発せられた言葉にはためらいが見えた。

「だが、には危うい迷いがある。
 私は、には監督が必要だと思っているんだ。
 ……彼が隊士として正道を歩みたいと思う限りは、私も力になってやりたいのだけれど」

思い悩む耀哉の様子をしのぶは珍しく思った。
しのぶはしばらく考えたあと、胸に手を当てて耀哉に提案する。

「お館様、君の監督の任、私が務めるのはいかがでしょう?」
「しのぶが?」

瞬く耀哉にしのぶは笑みを湛えて言う。

君の医療の知識は対人が主流。
 対鬼に関して自己研究しているとはいえ、まだまだ伸びしろがあります。
 私ならその辺り、適切な指導ができると思いますし」

継子の指導のやり方についてしのぶには一定の自信がある。
鬼の体についての知識もに伝えて損はないとも思った。
何より。

「任務、勉強、治療、鍛錬。やるべきことが多い方が
 君も気が紛れるのではないでしょうか?
 ええ、器用な人らしいとは聞き及んでおります。
 きっと少し忙しいくらいで音を上げたりはしないでしょう」

神崎アオイが藤襲山から戻ってきた際の涙が未だ記憶に新しいしのぶである。

報告書を読む以前からについてはそれなりに興味があった。
一度顔を合わせてみたいとは前々から思っていたところだ。

「せっかくの医療知識を活かし、鍛えないのももったいないです。
 後進の育成も柱の務め、私ならいくらか心得もありますし、どうでしょうか?」

「――ありがとう、しのぶ」

提案に頷いた耀哉にしのぶは微笑み返し、「そう言えば」と人差し指を口元へ添えた。

「彼は『柱の継子になるのは嫌だ』と言ってるんですよね? なら――」