蝶屋敷

神崎アオイはその日が来るのをなんとなく憂鬱に思っていた。

自室の鏡台の前に座り、青く光る蝶の髪飾りを留めながら目に入るのは、
我ながらまったくもって浮かない顔だ。

蝶屋敷に食客が来るので案内をするようにと、
胡蝶しのぶに言いつけられたのは数日前のことである。

屋敷の中でもしのぶに次いで年長のアオイだから、
柱として忙しくするしのぶが不在の時には客人の相手をしたり、
言伝を受け取ったり、けが人の対処、指揮をとることもある。
いつものことだと言っていい。

それが何故、今回ばかりは気分がどんより塞ぐのかと言うと、迎える食客というのが
、藤襲山での試験でアオイと行動を共にした男だからだ。

試験の際、は見つけたけが人を適切に手当てし、誰より大勢の鬼を狩った。
笑いながら簡単にやってのけていた。

アオイがたった一体の鬼の頸さえ斬れない横で、
まるで豆腐を斬るように、心底楽しい遊びに興じるように
鬼の頸を刎ね飛ばしては殺し、同じ手で人を治療して回るの姿を見て、
アオイはこんな風には一生なれないし、なりたくないと思った。

だから試験を生き延びて剣士として働く資格を得ても、
結局、アオイは蝶屋敷で傷ついた隊士たちを治す裏方に回った。

――きっと彼は自分のことを腰抜けとか、臆病者だなんて、思ったことなどないだろう。
……私と違って。

誰もアオイを責めなかったが、他ならぬアオイ自身が自分を責めるようになった。
そうするときにいつも浮かぶのが、返り血を浴びたの笑顔なのである。

――でも、彼も順風満帆というわけではなさそうだ。

気難しい水柱の継子になって、期待をかけられているとの噂も耳には入っていたが、
どういう理由か破門となって、しのぶの預かりになるらしい。

――しのぶ様は彼を継子にはしないと言っていた。

君の書いた論文はなかなかのものでした。
 戦闘技術の指導、向上に力を入れるよりも、
 毒や鬼の生態について知識を共有した方がいいかなと思いまして。
 継子ではなく助手、副官の立場として働いてもらうことにしたんです』

はこれまで蝶屋敷に顔を出したことがない。
蝶屋敷に頼るほどのけがを隊士になってまだ一度もしていないのだ。

しのぶは顔見知りでもないを副官として受け入れると決めていた。

――確かにさんは知識が豊富で手当ても上手な人だった。
蝶屋敷でしのぶ様以外に医療に通じた人が増えるのも良いこと……でも。

『それにほら、試験の時にアオイが“大変”お世話になったみたいだから、
 一度は会っておきたいと思ってたんですよ』

アオイはしのぶの優しく朗らかな、それでいて不穏な笑みを思い出して身震いした。

どうもしのぶはを望んで迎え入れると決めたにしても、
を気に入っているとは、これっぽっちも思えないのである。

「しのぶ様……さんのこと、どう扱うつもりなのかしら……」

その上“あの”がしのぶに黙って従う姿も想像できない。

現在、早朝の蝶屋敷に漂う静寂が嵐の前の静けさにしか思えないアオイだ。

しかし、間違いなく波乱を巻き起こすだろうを出迎えるのもアオイの役目。

隊服に白いエプロンを着て、なんとか気分を上向かせようと己の頬を軽く叩き、
自室を出たところで、いつもはないはずの障害物と正面衝突しそうになって面食らう。

「か、カナヲ!?……どうしたの?」
「……」

障害物――もとい、栗花落カナヲは黙ってアオイのことを見つめていた。
いつもならまだ寝ていても良いはずの時間だが、
すでに身だしなみも整えていて看護用の白い洋服姿である。

呆気にとられている間もないことに気づいたアオイは、我に返って口を開いた。

「今日は、さんのお出迎えをしなくちゃいけないから、
 カナヲと一緒にいられないのよ。
 何か用事があるならまた今度にして」

アオイが先を急ごうとすると、カナヲの手がアオイのエプロンの端を掴んだ。

思わず、瞬いてカナヲを振り返る。

カナヲは自分の感情や思いを主張することをしない。
いつもニコニコと微笑んで、ぼうっとしていることが多い。

唯一自分から何かをしようとしたことと言えば、
胡蝶姉妹の稽古に参加しようとしたことくらいだが、
カナエもしのぶも、鬼とはなんの因縁のないカナヲを
鬼殺の剣士にさせたくないと思っていたようで、竹刀は決して握らせなかった。

それでも、カナヲは姉妹のそばにいたいのか、ずっと二人の稽古を眺めていた。

それ以外は本当に、食べることさえ誰かの許可がないと難しかったカナヲが、
今、アオイのことを引き止めている。

「私に、何か用事があるの?」
「……、」

カナヲは口を開きかけて、やめた。
自分でもどう言葉にして良いか、迷っているように見えた。

アオイはしばし逡巡すると、カナヲに尋ねる。

「……じゃあ、一緒にお出迎えする?」

カナヲは顔を上げると、頷いてみせる。

さんは、そんなに、多分、きっと、
 ものすごく悪い人というわけではないと思うけど、
 ……怖い人ではあるから、気をつけて」

アオイは小さくため息を零し、キビキビとカナヲの手を引いて歩き出した。

どうしてカナヲがアオイを訪ねて来たのか、アオイにはよくわからなかったけれど、
気詰まりだったの出迎えに、
カナヲがそばに居てくれると思うとなんとなく、心強い気がした。



蝶屋敷の門の前でカナヲと二人、客人を出迎えに待っていると
遠くから隊服姿の男がやって来るのが見えた。

アオイに気がつくと、男は爽やかな笑顔を作る。

「本日よりお世話になります。です。
 お久しぶりですね、神崎さん。お元気そうで何より」

は藤襲山の試験の時と全く変わらぬ雰囲気である。
が、隊服はさっぱりと着こなしているものの、
槍を持つ腕は心なしか太くなったように見えた。

が鬼を相手に多くの実戦をこなして来た者独特の雰囲気を醸し出しているのは
アオイにも分かる。明らかに隊士として腕を上げている。

「……さんも、息災なようで。
 蟲柱・胡蝶しのぶ様は任務に出られているため
 出迎えられないことを詫びておくようにとあらかじめ言付けられています。
 お戻りは大体十一時過ぎとのことですから、それまで屋敷の案内をしますね」

「ご厚意感謝いたします。
 どうやら蟲柱には過分にお気遣いいただいたようですね。……それにしても」

アオイの挨拶に答えると、は申し訳なさそうな顔をする。

「試験の時は何も言わずに別れてしまってすみませんでした、神崎さん。
 こんなこと言うと言い訳がましいかもですけど、
 あの時は俺だけ日輪槍の用意があったのでね。
 玉鋼の選別を邪魔するのはかえって心苦しく思ったんですよ」

試験の道中を共にしたアオイに言葉をかけなかったことを気に病んでいたようだ。
アオイは「妙なところで義理堅いことを言う」と内心呟きつつ、
首を横に振った。

「……お気遣いなく、気にしておりませんので」
「それなら良かった」

は安堵した様子で、アオイに向けてまた快活な笑みを浮かべる。

「でも、蝶屋敷に神崎さんが居るのは納得だな。藤の山でも治療の手際がよかったし。
 任務に出たとき医療の心得があると安心ですもんね。
 合同任務の時だって、一緒に組んだ人は助かると思いますよ」

――は、アオイが鬼殺の任務に就いていないことを知らない。

そのことに今更ながら気がついて、アオイは眉根を寄せて言い澱む。

「……いえ、私は」

そばにいたカナヲが、うつむいたアオイの手のひらをぎゅっと握った。
ハッとカナヲの顔を見てもいつもどおり、
ニコニコしながらアオイを見ているだけである。

アオイは唇を引き結ぶと顔を上げて、に向き直った。

「私は、現在鬼殺の任務には就いていません」
「ああ、そうなんですか」

意を決しての告白だが、は驚くでもなく、至って平然と頷くばかりだった。

アオイはなんだか肩透かしを食らった気分でこくりと頷く。

それよりも、はアオイの手を繋いで離さない、カナヲのことが気になるらしい。

「ところで、そちらの方は?」

不思議そうなに、アオイは惚けてはいられないと
キリリとした顔を作ってカナヲを紹介した。

「彼女は栗花落カナヲ。蝶屋敷で看護の仕事をしています」

「あれ? 隊士の方じゃないんですね?
 栗花落さん、全集中の常中を使っているでしょうに」
「……」

カナヲはを見上げてパチパチと瞬くと、常のぼんやりとした微笑みを浮かべた。
肯定も否定も返さないカナヲに、は先に自己紹介をせねばと思い至ったらしい。

「おっと、いきなり話しかけちゃ不躾か。
 改めまして、おはようございます。です。
 本日から胡蝶様の世話になりますので、鍛錬など共にする機会もあるかと思います。
 その際はよろしく頼みますね」

優しげな口調で挨拶したであるが、カナヲは黙ったままだった。

「……」
「……?」

さすがに怪訝に思ったのか、が笑顔のまま首を傾げる。

埒が明かないとアオイが助け船を出した。

さん、カナヲからの返事は期待しないでください。
 気持ちを言葉にするのが苦手な子なので」
「……へぇ? 左様ですか?」

ぼんやりとした様子のカナヲに、は常の笑みを含みのあるものに変えたようだった。

アオイは、の関心がこれ以上カナヲに向くのは良くない気がしたので、
気を削ぐように釘を刺す。

「それにさんがカナヲと一緒に鍛錬する機会というのは、おそらくないかと」

そもそもカナヲには鬼をどうしても殺さなければいけない理由はない。
剣士になる必要のない娘を鬼殺の任務に就かせることをしのぶはよく思っていないし、
アオイだって心配だ。

「常中についても、見よう見まねで覚えているだけですから。
 しのぶ様はカナヲを隊士にしようとは思っていませんので」

「そうなんですねえ、向いてるように見えるのに」

は呟くように言うと、不意にカナヲからアオイに目を向けた。

「蝶屋敷には、蟲柱と神崎さん、栗花落さんの三人以外にも
 人が居るんでしょうか?
 診療所の役割をしているなら、もう何人か居るかなと思ったんですが」

アオイはの質問に頷いた。

「はい。看護師の子が三人居ます。案内の最中に会うと思うので、その時紹介しましょう。
 内部を案内いたしますので私の後に続いてください」
「ありがとうございます。では遠慮なく」

アオイとカナヲの後ろをは歩く。

カナヲはの顔を一度だけ見たが、それ以降は何も言わず、
アオイの横について回った。



病室、手洗い場、厨房、風呂、訓練場などを巡り、
寺内きよ、中原すみ、高田なほの看護師の少女たちと挨拶を済ませたである。

屋敷の半分を案内し終えたあたりで、アオイにこんな感想を零した。

「広いですねえ、蝶屋敷。
 居住区と病棟が分かれてて、病棟の方は真新しい。
 病棟の造りが西洋風なのは蟲柱の趣味ですか?」

アオイはの言う趣味の意味がピンとこなかったらしく、
やや困惑した様子で答える。

「趣味? と言うよりは、
 最新式の設備を導入すると自ずとこのような仕様になるんですよ」

「あはは、それもそうか。いや、生家を思い出しましてね」
「洋館なんですか、ご実家が?」
「……」

感心とも呆れともつかない表情のアオイと、まったく表情を変えず黙っているカナヲに
は付け加えるように笑った。

「洋館と呼ぶにはちょっと狭いかな! 猫の額みたいな家でした。
 蝶屋敷と比べちゃ月とスッポンですよ。でも、雰囲気は似ています。
 診療所も併設した家で、蝶屋敷同様に実益も兼ねて西洋風の造りでしたが、
 こちらは母の趣味が多分に反映されていたようでして」

は蝶屋敷の渡り廊下、ガラス窓から見る青空を見て目を細める。

「だからかな。ちょっと懐かしい感じがしますね蝶屋敷。俺ここ好きだなぁ」

アオイはの顔をまじまじと眺めた。

「……珍しいことを言いますね」
「そうですか?」
「消毒液の香りを嫌がる方は多いですよ。畳を恋しがる人も」

アオイ曰く、疲労困憊で床に着いた際、寝台に慣れずに転げ落ちる人もいるらしい。
二、三日で慣れるがたまに文句を言われることもあると言う。

「なるほどね、みなさんい草の香りの方が馴染み深いのかな。
 手入れは布団よりも楽なんですけどねぇ」

顎を撫でては最もらしいことを言う。

「しかし患者には適切な対処のあと慣れてもらうのが一番ですよ。
 俺は消毒液がお香がわりの病院育ち新しい物好きなので、
 寝台から転げ落ちたりはしませんけど! アハハ!」

「はいそうしてもらえると助かりますとても」

の軽口をアオイは流して、次の部屋に向かった。

「こちらは調合室です」



ドアノブを引いたアオイの後について足を踏み入れたのは
の知る限り、最も好ましい部屋の一つだった。

壁一面の本棚には多くの本が並べられている。
いずれも深く読み込まれて背表紙の色が褪せていた。
だが、よくよく見れば真新しい、最近発売されたばかりの本も差し込まれている。
西から東にかけての医学書、薬学書を網羅していた。

もう一面の壁には、年季の入った立派な薬棚が備え付けられていた。
用途に応じて丁寧に、薬の材料や製薬した錠剤が分けられている。
顕微鏡、メス、ハサミなどの器具も磨かれ、清潔な光を反射していた。

父の書斎を訪ねた時に、覚えた感覚と似ているとは思う。

は父の書斎が大好きだった。
人が生活するための空間とは違う書斎には、
主人の勉強してきた事柄、好きなもの、愛したものがぎっしりと詰め込まれていて、
独特の霊気を放っているかのようだった。

幼い頃のは、書斎の入り口近くに鎮座する
来客用のソファで眠るのがお気に入りだった。
うたた寝の後に目を覚ますと、夜遅くまでランプを灯して本を読み、
ものを書く父の横顔を見ることがある。

その顔を見るたび、こんな風に、一生懸命に誰かを助けようと
勉強する人は立派だと仰ぐようになった。
ペンを走らせる父のことを、どんな武勇伝の主よりも、
格好がいいと思ったから――。

父の書斎とよく似た蝶屋敷の一部屋は、
やはり独特の霊気を持って、の在りし日の思い出を喚起する。

しかし、この部屋には父の書斎とは一点異なる部分があった。

――おそらく、この部屋を作り上げたのは一人ではない。

きっと長い時を経てそこにある使い込まれた医療器具、算盤が
最新式の顕微鏡などと並んでいた。

この部屋を行き交った誰もが、真剣に人の命に向き合う術に
手を伸ばしてきたのだろうとにはわかる。
これほどの蔵書、これほどの設備を整え、
維持するには莫大な金と時間がかかっただろう。

それが今日まで残っているということは、
蝶屋敷の主人は皆、注ぎ込んで惜しくないと思っていたのだ。

槍術師範・宝田種篤から目利きの仕方なども教わったであるが、
どんな美術品もどんな装飾品も敵わない、価値あるものを知っていた。

人を助けるために血反吐を吐くような思いをして培われた知識。
それを広めようと言葉を尽くした書物。学び取ろうとする人の努力。

医学・薬学というのは、人を生かしたいと、死なせまいと、
運命に抗い、戦う人の学問である。

――己が手で他者を救いたいと願う傲慢は、おぞましく、美しい。

だから、は眩しいものを見るように目を細め、
敬愛の眼差しで部屋を眺めるのだ。



蝶屋敷の調合室に、屋敷の主人が戻ったのは客人が薬棚を仰ぎ見る最中のことだった。

「案内は捗っていますか、アオイ」

優しげな声に、アオイは弾かれたように振り返った。

「しのぶ様! お戻りだったのですね。ご無事で何よりです。
 ……お出迎えできず申し訳ありません」

「構いませんとも。あら、カナヲも一緒なんですね」

カナヲは沈黙したままだが、しのぶが現れてから
ほんの少し纏う雰囲気が緩んだように思えて、アオイはぱちくりと目を瞬いた。
もしかしたらに緊張していたのはアオイだけではなかったのかもしれない。

そのやり取りの最中も、は薬棚を眺めていた。
しのぶが戻ったことに気がついた様子もなく、
一つ一つのラベルを目で追って、いつになく穏やかに目を細めている。

「……素敵だ」

思わず口からこぼれ出た、そういう言葉に聞こえた。

アオイの横に居たしのぶの顔に、意外そうな表情が浮かんだ。

確かに、一見は残酷無慈悲の評価がついてまわるとは思えない、
穏やかな印象の男である。
手に武器を持たず、黙って何かに没頭しているならなおさらだ。

は向けられた視線に我に返った様子で少女たちに注意を払い、
一行に加わったしのぶに気がつくと申し訳なさそうに眉を下げた。

「おや、すみません挨拶もせず……とても立派な薬棚だったので、
 つい、夢中に」

ばつが悪そうに襟足を撫でるに、しのぶはよそ行きの笑顔で答える。

「いえいえ。そのように手放しで褒めていただけるなんて
 棚の管理をしている者としては嬉しい限りです」
「では、あなたが……」

棚の管理者と聞くや否や、しのぶが己の上司にあたる人物であると悟ったらしい、
は居住まいを正した。

「申し遅れました。本日よりお世話になります。です」
「蟲柱・胡蝶しのぶです。藤の山の選別ではアオイがとてもお世話になったようですね。
 その節はありがとうございました」

しのぶはの挨拶ににこやかに答えたが、
は一瞬眉を軽く上げたように見えた。

「なるほど、では神崎さんに応急処置の手ほどきをされたのは
 胡蝶様、あなたですか」

なにやら得心した様子だが、その納得はの常に浮かべている薄笑いに紛れてしまう。

「世話になったなんてとんでもない! 俺が神崎さんに助けてもらったんですよ。
 彼女の手際は素晴らしかった。俺は楽させてもらったみたいなものですし……」

に惜しみなく褒められてアオイは赤面した。
照れはもちろん、に褒められるほどの働きをしたとは思えない上、
助けられたのは紛うことなくアオイの方だと自覚があるので恥ずかしくなったのである。

「そうご謙遜なさらずに。選別の報告で読みましたが、君の処置は的確でしたよ。
 なにしろ私は君の医療知識を買って、蝶屋敷で預かることに決めたのですから」

しのぶはの言葉を半ば遮るように言うと、胸の前でぎゅっと自身の両手、拳を握った。

「私が君に教えるのは薬学と鬼の生態。毒を用いた鬼殺を指導します。
 メキメキ腕を上げてもらいますよ」

「アハハ、お手柔らかにお願いします」

軽口にしのぶの目がスッと伏せられ、まつ毛が繊細な影を落とした。
頰に手を当て、しのぶは優しくに告げる。

「どうでしょう? ついて来られないようでしたら“優しく”お教えしますけど」

の表情が固まるが、ほとんど間髪をいれず腕を組んで口を開く。

「……そうですね。どうせなら“優れた”ご鞭撻を賜りたいものです」

笑顔のまま、しのぶのこめかみにビシッと青筋が立った気がした。

「……ふふふ」
「ははは」

急に調合室の体感温度が真冬のようになったのは、気のせいではないだろうとアオイは思う。

微笑み合うしのぶとのやりとりは
一見和やかなのだが会話の内容がいけない。

幾重にもオブラートに包まれているものの
「馬鹿野郎には期待しないからせいぜいついて来られるよう頑張れよ」と
「教え方が悪けりゃ身につくものも身につかねぇんだから、
 あんたの教え方が良いことを祈るわ」
のようにしかアオイには聞こえず、どことなく胃のあたりがキリキリと痛んだ。

「愉快な人ですね君は。授業がとても楽しみになってきました」
「ええ本当に。楽しく有意義な時間になりそうです!」

――その言葉を本当に言葉通りに受け取っていいものだろうか。

アオイはなんだかカナヲがこの場にいてくれたことに、
感謝したい気持ちになってきていた。
とても一人ではしのぶとの作り出す、
和やかを装った不穏な空気に耐えられそうにない。

「柱が忙しいのは存じておりますので、
 すぐにでもお時間拝借したいところなのですが、いかがでしょうか」

は早速しのぶから薬学の講義を受けたい様子だったが、
しのぶは「その前に」と前置いて悪戯めかした笑みを浮かべた。

君にはちょっとびっくりしてもらおうかと思っていまして、
 玄関先まで出てもらって良いですか?」
「え? びっくりですか? なんです?」

さすがのもしのぶの意図が読めなかったらしく、
「いいから、いいから」と背を押すように言うしのぶにされるがまま、
蝶屋敷の玄関先まで移動させられていた。

を先頭に、しのぶ、アオイ、カナヲが横並びになって
蝶屋敷の門の前にたつ。

青空高く爽やかな陽気であるが、
ぞろぞろと並んで何か待つような格好になる理由はわからない。
とアオイはやや困惑した面持ちである。

アオイに顔で「なにか聞いていませんか」と尋ねるに、
アオイはブンブンと首を横に振って「わかりません!」の意を伝えた。
カナヲも多分なぜこのような状況になっているのかはわかっていないだろうが、
平然とした様子でそばに寄ってきた紋白蝶を眺めるばかりだ。

この場において目的をわかっているのはしのぶだけである。

「……胡蝶様、これ一体なんの時間なんでしょう?」

「そろそろだと思います。あ、来ましたよ」

しのぶが目を向けた方向を一斉に見た瞬間、チリンチリン、と鈴のような音が響いた。

向かいから黒い自転車が近づいてくる。

「え? ……はあっ?!」

は目を疑った様子である。
アオイもまた自転車の主を見て驚き、横にいたと咄嗟に何度も見比べる。
なぜなら、三つ揃えの上着の代わりに白衣を纏い、
颯爽と現れた男は一目では見紛うほどに、風貌がと似ているのだ。

しかし、自転車の主がすぐそばまで寄ると、若々しく見えても壮年の男であること、
と比べて心なしか穏やかな人相であることが見て取れる。

蝶屋敷の前で自転車を止めた男はにこやかに挨拶をした。

「こんにちは、皆さん」
「はい、先生こんにちは」

しのぶが応じると、男は照れたように襟足を撫でる。

「アハハ、揃って出迎えてもらってしまいましたか。
 なんだか恐縮いたします……」

ぴかぴかに磨き上げられた黒い自転車に乗るのは明峰。
の父親である。

明峰は仰天している息子に目を止めると、ムッと唇を尖らせた。

「久しぶりだな、
 お前ね、全然こっちに顔出さないんだから。手紙で済まさず少しは帰って来なさいよ」

無精を咎められた本人はと言うと、全くもってそれどころではない。

「いや、ちょっと待って?!
 父さん一体何やってんの!? 今日平日だろ?! 仕事は!?」

「ああ、本郷の医院は人に貸してるよ。
 ちょうど開業したがってる知り合いがいたから家ごと引き渡した。
 この近くに新しく医院を建てたから、本院はこっち。移転したんだ」

「な、え? 貸してる? 建てた? 移転!? 何?!」

が情報量に圧倒されるのに構わず、明峰は自転車に跨ったまま続けた。

「新しい医院は蝶屋敷から歩いて15分ってとこかな。自転車だとすぐだよ、見る?」

親指で来た道を指す明峰だったが、は絶句して明峰を見やるばかりである。
なんの反応もないに明峰は咳払いすると
自転車から降り、腕を組んでに言った。

「月水金の週3日は本郷に通って、残りはこっちで仕事をすることにしたんだ。
 私は鬼殺隊の協力者になったからね。業務提携とも言う」

ようやっと説明らしい説明を受け、は我に返り、
それでも信じられないと言ったそぶりで明峰に食ってかかった。

「ぎょう、……俺何も聞いてないんですけど!?」
「ハハハハハ! そりゃあ、いま言ったからなぁ」

あっけらかんと言い放ってはばからない明峰の姿に、
の脳裏を宇髄天元の茶化すような言葉が過ぎる。

『がっつり首輪つけられたってわけだな』

まさしくその通りの状況になったわけである。

は「全く普段通りです」というそぶりで微笑む新しい上司と、
穏やかでなんの曇りもない目をした、己と瓜二つの父親の笑顔とを見比べ、
思わず口から本意を零した。

「や、やりづら~~~!」
「あっはっは! まあ、頑張りなさい」

気軽な調子で息子の肩をたたく父とうなだれる息子の図を見て、
しのぶはくすくすと小さく笑う。

「ふふふ、びっくりしました?」
「したよ、しました。……驚天動地だこんなもん!」

ヤケクソ気味に応じるの様を見て、
最初は一連の顛末に驚いていたアオイもつられるように苦笑したのだった。