夏空の瞳

浅草百鬼夜行

鬼殺の覚悟

浅草へと向かう道中、は炭治郎に全集中の呼吸を使えるかを尋ねた。

「はい! もちろん!」

炭治郎は威勢良く頷くが、が聞きたかったのはその先のことである。

「ではそれを、四六時中保つことは?」
「え? 四六時中? 全集中の呼吸を、ですか?」

全く考えたこともないと言った様子で、炭治郎の顔が強張った。
はなるほど、と一人納得したように顎を撫でている。

「呼吸を極めた者たちは食事時も寝る時も全集中を欠かさない。
 貴様は全集中を短時間しか行ってないようだが、
 より強くなりたいなら全集中・“常中”は会得するに越したことがないぞ」

「でもそれ、相当キツいんじゃ……?」

炭治郎は全集中を行った時の、息苦しさ、痛む肺のことなどを思い出して
恐る恐るに問いかけるが、はしれっとした顔で肯定するばかりである。

「キツいと言えばキツいが、できるとできないとでは雲泥の差だ。
 実力のある隊士は皆会得している。無論、この私もな!」

はビシ、と凛々しい表情を作った顔を親指で指差してみせる。

しかし、炭治郎はぱちくりと瞬くだけでぽかんとしていた。
はちょっと残念そうに肩を落とす。

「竈門、そこはな、『さん、さすが!』とかそういう……、
 いや、無理に言わせるのは美しくない。私の美しさが足らんかった。忘れろ」

がため息をつくのを見て、炭治郎は慌てて頭を下げた。

「な、なんか、すみません!」
「謝るな、そして気にするな! 逆に恥ずかしいわ!」

炭治郎をは一喝すると、咳払いをして本題に戻った。

「……まぁ、急に出来るようになれ、と言っても無理なことは承知している。
 全集中・“常中”は一朝一夕で身につくものではない。
 まずは肺活量を増やし、より早くより強く、集中力を高められるようになるところからだ。
 なので任務の合間、道中見計らって訓練を課す。そのつもりでいるように」

「はい、よろしくおねがいします!」

明るく返事をした炭治郎には笑みを浮かべる。

「うん。鬼との戦闘は過酷を極める。
 私は選別を突破して鼻も利く貴様を弱いとは思わんが、
 生き残る隊士、強い隊士というのは常に鍛錬を欠かさぬものだ。
 精進しよう、お互いに」

確かには常に自分に鍛錬を課していた。暇さえあれば筋力を鍛えているようだ。
今もただ歩いているように見えるが、任務の時には外していた重石代りの腕輪足輪をつけている。

炭治郎も持たせてもらったが、
よくこれを両手両足につけて普通に身動きできるな、と思う程度には重かった。

禰豆子を背負いながら道中を行く炭治郎だが、
のかけている負荷は同じか、それ以上である。

「ちなみに呼吸によって筋力を強化したりとかもできるからな。
 あくまで一時的な効果だが。
 非力な私でも大人の男を持ち上げることが造作もなくなる。
 和巳さんを持ち上げて跳躍、移動できたのも呼吸のおかげよ!」

「……」

だから、炭治郎は非力を自称したに無言で応える。
は炭治郎の顔を覗き込んで半眼になった。

「……竈門、貴様私の膂力 りょりょく が完全に自前だと思ってたな?
 『さん、力強 ちからつよ っ』とか思ってたか?
 もしくは『非力? 誰が?』とでも言いたいのではないかなァ?」

「俺、何も言ってないですよ?! そ、そんなこと思ってないです!」

炭治郎は慌ててぶんぶんと首を横に振った。

しかし、その顔は眉を顰めて白目を剥き、
唇を噛み締めているというとんでもない表情に変わっている。

炭治郎の額をはべし、と軽く指で突いた。

「顔に書いてあるわ、たわけ。
 このに嘘ごまかしの類が通用すると思うなよ」

そして、額を抑えながらも未だに白目をむいたままの炭治郎に
は呆れを隠さず首をかしげた。

「というか本当になんだその顔。
 貴様、絶望的に嘘が下手だぞ。逆に大丈夫か?」

「大丈夫です……」

炭治郎はため息をこぼした。
今、口に出しては言えまいが、炭治郎は嘘を吐くのが苦手である。
自分ではわからないが、全部顔に出ているらしい。

きっと勘のいいでなくとも、炭治郎の嘘を暴くのは簡単だろう。

「まぁ、たおやかでなよなよしてるだけが美しいわけではない。
 力強い美しさというのもあるものよ。
 貴様も私の側にいればそのうちわかるだろ。ハッハッハ!」

は独り呟くと大笑して炭治郎の前に立ち、スタスタと先を歩んだ。



炭治郎らが東京府、浅草についたのは沼鬼を討伐して二日経った夜の事である。

炭治郎は禰豆子を箱から出して手を繋ぎ、周囲を見渡しながら歩いていたが、
目抜き通りにさしかかったところでついにその足を止めた。

平然と横を歩いていたに、声をかける。

「あの、さんこれ、祭りか何かですか? 
 人……人が多くないですか!?」

「なんだ竈門、都会は初めてか?」

は人通りの多さや街明かりの眩さに
目をむいて驚いている炭治郎へ、眉を上げて答えた。

「祭りでなくともこの人通りよ。
 何しろ帝都だ。人が集えば商売、文化が盛んになるものだからな。
 この人混みでは私の見目も美貌も目立たないし、芝居なども好きだからよく来るが。
 ……しかし貴様はキツそうだな。人酔いか?」

「船だけじゃなくて、人にも、酔うものなんですね……」

フラフラと足元もおぼつかなく、息を荒らげる炭治郎に、
は腕を組んで悩ましげに首をかしげた。

「貴様は鼻が利くからなァ。余計にクラクラするのだろう。
 妹を背負っていくのも厳しいのだろう?
 少し休んでから情報収集に当たろうか」

の提案に炭治郎は頷いて、すまなそうに頭をかいた。

「はい、……すみません」
「構わない。なるべく万全の体調で任務に当たるべきだ。
 落ち着いたら戻るぞ」

「さっき屋台があったな」とはげっそりする炭治郎と
眠そうな禰豆子を率いて、休めそうな場所へと向かった。

の記憶通り、うどんの屋台があったので一行は適当に注文すると、椅子に腰掛けた。
炭治郎は手ぬぐいをかぶって出された茶をすすっている。

うつらうつら船を漕いでいる禰豆子を見やって、は炭治郎に尋ねた。

「竈門妹は普通の食事がとれないのだよな?」
「そうですね。眠って体力を回復するみたいです」

鱗滝の推察だが、そう考えるとしっくりくることも多い。
も炭治郎と同意見なのか、禰豆子に目を向けて頷いている。

「ふむ。言われてみれば大体寝ている」

は腕輪と足輪を外して、炭治郎同様に湯飲みに口をつけた。
任務の合間の、どこか穏やかなひと時ではあったが、それも長くは続かなかった。

炭治郎が椅子から立ち上がる。
その顔は月明かりの下でもわかるほど緊張で強張っていた。
は怪訝そうに声をかける。

「おい、竈門? どうした?」
「この匂い、どうして突然、こんな……!?」

突然走り出した炭治郎を、追いかけようとは立ち上がる。

「待て竈門……!?」

炭治郎の優れた嗅覚が何を嗅ぎ取ったのかはわからないが、
の直感も働いていた。

 まず間違いなく鬼が居る。気配を薄めて悟らせまいと偽装している。
 この気配の消し方の巧みさ……かなり強力な鬼かもしれない。

だがは、横でまどろむ禰豆子を見て逡巡した。

 通りからは外れているが、いかんせん、人通りが多い。
 箱に禰豆子を入れるところを見られれば騒ぎになる。

炭治郎と合流するには禰豆子を置いていかねばならない。

 だが今、私と炭治郎が離れた時に何かのきっかけで
 禰豆子が食人衝動に襲われたら?
 このまま禰豆子を置いて行くことは果たして正解だろうか?

悩むを前に、まどろんでいた禰豆子がうっすらと目を開いた。
自身を見下ろすの青い瞳を見上げ、食い入るように見つめている。

その目を見返して、は禰豆子の肩を掴み、口を開く。

「……禰豆子、炭治郎に貴様を斬らせるような真似をするなよ」

禰豆子はぼうっとの顔を見ていたかと思うと、
こくりと頷いて、またうつらうつら、船を漕ぎ始める。

「よし、少し離れるからな! いい子で待ってろ!」

は炭治郎のあとを追うため、地を蹴った。



「地獄の果てまで追いかけて、必ずお前の頸に刃を振るう!!!
 絶対にお前を許さない!!!」

現場に駆けつけたが最初に耳にしたのは炭治郎の怒号だった。
どう考えても尋常の様子ではない。

「竈門! 何があった!?」

炭治郎が鬼化して暴れる男を抑えている。
そばには肩から血を流す女性が青ざめた顔で座り込んでいる。

状況を飲み込んで、は眉を顰めた。

 確かに鬼が潜伏している噂はあったが、
 なぜこんな人通りの多い場所で鬼が現れている?
 何より炭治郎の抑えている鬼は、人を食った気配がない。
 ほとんど獣のような状態だ。鬼化して間もないように見える。

「鬼舞辻です! 鬼舞辻無惨が!」
「なっ……?!」

思いもよらぬ名前が出てきて、思わずは絶句する。

「この人は、あいつのせいで……!」

はその時悪寒を感じ、勢いよく振り向いた。

人波に紛れてその場を立ち去ろうとしたその男と、
目を合わせたのは一瞬のことだったと思う。

帽子を被った仕立ての良い洋装の、子供を抱え、怯える妻の肩を抱いた男。
その男の赤く冷たい眼差しを見た時、身の毛のよだつような感覚を覚えていた。

 あれが鬼の首魁。あれが鬼舞辻無惨。

「貴様ら何をしている!? 酔っ払いか!? 離れろ!!」

は我に返り、短く舌打ちする。

 周りに人が多すぎる……!

その上警官まで出てくる事態になってしまった。

 これではこの場で鬼殺に当たることができない。

は素早く炭治郎の抑える男のそばに寄り、手刀で男を気絶させる。
それから懐に手を入れ、やけに鍛え抜かれた体つきのネズミを取り出した。

「白い帽子を被った洋装の男。黒いシャツに白いネクタイを締めている。
 目は紅梅色、年齢二十代後半。鬼舞辻無惨だ。
 同じく洋装の妻子を連れている。
 妻子の方 ・・・・ 足跡 そくせき を辿れ、夜明けまでには戻れ」

チュウ、とネズミはひと鳴きして走り出す。
は自身の羽織を怪我をした女性に被せると、深く息を吐いた。 

「竈門、場所を変えるぞ、……怪我をした女性は彼の連れ合いだろう。
 一緒に来い。ひとまず裏道にいる。私の匂いを辿れ」

は炭治郎に硬い声色で囁いた後、気絶した男を抱えて、
その場から目にも止まらぬ速さで移動した。

周囲は騒めき、警官らは姿を消した男とに混乱していたが、
炭治郎は意を決したように怪我をした女性に声をかけ、
彼女とともにの後を追った。

その様を人混みの中から見る、二人の鬼には気づかずに。



炭治郎は怪我をした女性を連れ、の跡を追い、人通りのない裏道に入った。
そこにいたのは縄で拘束された男と、である。

「あなた!?」

拘束されている男の姿を見て、傷口を押さえながら女性が青ざめた。
は淡々と口を開く。

「我々は鬼殺隊の人間です。
 奥さん、残念ですがご主人は鬼になりました」

「鬼……?!」

怪訝そうに眉を顰めた女性に、は静かに、ただ当たり前の事実だけを言う。

「鬼となった人間は人を殺して喰らいます。そして元には戻らない。
 ご主人を我々は退治せねばなりません」
「退治、って」

「殺すということです」

さん!」

声を荒らげた炭治郎に、は小さく息を吐いた。

「竈門、一度鬼になった人間を元に戻す術を、鬼殺隊は持っていない。
 それはわかっているよな?」

「……この人は誰も殺していません!」

納得ができないと叫ぶ炭治郎に、は頷いた。

「そうだな。だが彼は自分の妻を噛んだ。
 ……理性で食欲を抑えられる貴様の妹が特殊なんだ」

鬼というのは普通、成り立てであれば親兄弟、
夫婦であろうとも構わずその肉を食おうとする。
鬼になるのにかなりの体力を使うからだ。
飢餓状態に陥った鬼は、人間を目の前にして食欲を抑えることができない。

「目を覚ませば遅かれ早かれ、彼は人を殺すだろう。それが大事な人間でもだ」

が出会った鬼の中で、人を食わぬ例外は禰豆子ただ一人である。
おそらく、それは炭治郎も同じだろう。
だからの言葉に、炭治郎は歯噛みしながらも反論できずにいる。

はその様に目を眇めながら、腰に携えた刃を抜いた。

「……どうにもできないのなら、人を殺さぬうち、何も罪を犯していない今のうちに、
 彼を人として介錯してやるのも慈悲ではないのか」

炭治郎は眉根を寄せて首を横に振った。

さん、でも。……でも! それじゃあ、あなたは人殺しじゃないか!」
「そうとも」

は炭治郎の言葉に、いとも簡単に頷いてみせる。

「彼が鬼にならぬよう。鬼が罪を重ねないよう、
 他ならぬ私が鬼の代わりに殺しの罪を背負うのだ。
 私は鬼を斬る時に、そういう気持ちで刃を振るっている」

炭治郎をまっすぐに見る青い目が、月明かりに冴え冴えと光った。

「他の誰がどう思って鬼殺に当たっているのかは知らんが、少なくとも、
 鬼殺隊に属して己の口を養うとはそういうことだと、私は思っている」

炭治郎は奥歯を噛んだ。

気丈に振る舞うからは、強い決意と、無力感の匂いがする。

炭治郎はのことを、禰豆子を許容してくれたから、優しい人なのだと思っていた。
だが、それだけの人ではなかった。
どうにもならないのなら、自分が罪を負っても鬼を殺すことを厭わない人なのだ。
ずっとそうやって鬼殺に当たってきた人なのだ。

 でも、何か他に方法がないのだろうか。
 本当に、このまま彼を死なせてしまっていいのだろうか。
 まだ彼は誰も殺してないのに。
 さんだって、本当は殺したくないと思っているのに……!

炭治郎が黙り込むと、傷口を押さえた女性が涙を浮かべ、に縋るように口を開く。

「どうにも、どうにもできないんですか? 本当に?」
「はい。申し訳ありません」

は静かに、刀を構える。

「なるべく苦痛のないように済ませます。私のことは恨んでくれて構いません」

そして女性から男の姿を隠すように立ち、は刀を振り上げた。
その時だった。

「待ってください」

女の柔らかな声がその場に響く。
振り返ったと炭治郎は息を飲んだ。

華やかな花柄の着物の女性、珠世と、
書生風の着こなしの少年、愈史郎が裏道の入り口に立っている。

彼らは鬼だった。

しかしらと敵対する様子はなく、落ち着いた所作で気絶した男を指差してみせる。

「その方の正気を取り戻す方法があると言ったら、あなたは矛を収めてくれますか」

「貴様ら、鬼だろうが?! 一体どういう了見で物を言っている……!?」

は刀を珠世に向けるが、彼らの纏う気配の異様さにもまた気づいていた。

さん、この人、嘘をついていないです」

匂いを嗅ぎ取った炭治郎がに半ば呆然と告げる。

鬼になった夫を目の前で失おうとしていた女性は、
ハラハラと涙をこぼしながら、助かる方法を示した珠世に尋ねた。

「夫は元に戻るんですか?!」
「はい」

珠世は間髪入れずに頷いてみせる。
藁にもすがる思いで、炭治郎はに頼み込んだ。

さん! お願いです、彼らの話を聞いてみましょう」

は険しい表情を浮かべ、刀を収めることなく珠世を厳しく追及する。

「一つだけ聞かせろ……なぜ鬼が鬼殺隊に協力するような真似をする?!」

「あなた方が、鬼となった者を人として扱ってくれたから。
 彼を殺そうとしたあなたの言葉にも、やるせなさが見えたから。
 ……本当は助けたいと思ってくれているのでしょう?」

指摘されたは眉を寄せ、自身の無力感を八つ当たるように声を荒らげた。

「……ああ、出来るものならな!
 助けられるのならば、助けたいに決まっているだろう!」

珠世はの言葉を聞いて少しばかり口角を上げると、
胸に手を当てて告げる。

「私はその手段を持っている。
 少なくとも、人を喰う衝動を軽くすることができます。
 鬼ですが、医者なのです。そして……」

珠世はをまっすぐに見つめ、静かに口を開いた。

「私は鬼舞辻を抹殺したいと思っている。
 目的は、同じなのではないですか?」

はしばし珠世とにらみ合うように目を合わせていたが、
やがて向けていた刀を下ろすと、腰に携えた鞘に戻した。