悦楽主義者の肖像 02


ハンコックが王下七武海となってもう十数年が経つ。
幾度かマリンフォードに招集されたが、その地を踏むのを頑に断り続けたのは、
ハンコックの背に刻まれた苦い記憶に起因する。

それを知るのは血を分けた二人の妹と、一人の老婆だけだ。
希望を見いだすことが出来ない地獄のような日々、
その中で一際異彩を放つ、鮮やかでおぞましい記憶がある。

リフレインするのは、緩やかにカーブする唇。金色の髪。細められた赤い瞳。
整った顔が形作る、酷薄な笑顔。

回想する女帝


ハンコックは愛蛇サロメに背を預けながら白酒を口にする。
城の外から聞こえてくるのは誰かが手習いに行っている琵琶や琴、笛の音色だ。
その旋律はハンコックのささくれ立った神経を逆撫ですることは無い。
だが、ふと耳元で”あの男”の低く甘く、柔らかい声が蘇るのであれば話は別だ。

”弾いてごらん、ハンコック。音楽を嗜むレディはとても素敵なのだから”

パリン、と音を立てて手の中で猪口が砕けて割れた。
血が滴って、ハンコックは手の平を見やる。
その美貌にはっきりとした怒りと苦悶が滲んでいた。
慌てる側近のエニシダにハンコックは声を荒げる。

「癪に障る・・・!エニシダ、手習いを止めさせろ!
 ヘタクソな音楽など聞きとうない!」
「は、はい・・・、ハンコック様・・・すぐに!」

ばたばたと軽く走る音がする。
ハンコックは額に手を当てて唇を噛む。

「・・・わらわは誰にも支配されぬ」

自分に言い聞かせるように呟かれた言葉に、答えるものは誰も居ない。

回想:不自由な男


人買いに売り飛ばされ、背に一生消えることの無い奴隷の烙印を押された
ハンコック、サンダーソニア、マリーゴールドの3人を”買った”のは、
聖と呼ばれる男だった。

幼いハンコックが見た中で、理知的な顔立ちの”男”というのはこのくらいのものだ。
が天竜人の中でも一目を置かれているらしいというのは
他の礼服を着た天竜人の畏怖と敬意の眼差しからも読み取れる。

はシンプルな、それでいて上等だと分かる家具で設えた部屋にハンコックらを招いて、
あろう事か菓子を出した。もてなす様なそぶりだった。

「遠いところから良く来たね。菓子は好きかな?お上がりなさい」

警戒と戸惑いに混乱する3姉妹にはふむ、と
口元に手をあてて考えるような仕草を見せた。

「随分警戒しているね。
 僕は君達から話を聞かせてもらいたかっただけなのだが・・・。
 もしかして、君たちを殴ったり、悪趣味なゲームの標的にでもすると思ってる?」

小首を傾げてみせたの”悪趣味なゲーム”という単語に、びく、と肩が震えた。
売られるまでに売人からは散々脅されたのだ。
天竜人は奴隷を生きた玩具のようにしか思っていない、
粗相しようものならすぐにむごたらしく殺されるだろうと。
競売に来ていた下卑た笑いを浮かべる人間の顔が蘇り、冷や汗が背を伝う。

は青ざめた少女達を見てため息を吐いた。

「・・・脅されでもしたのか。
 やれやれ、世間での天竜人の評価というものがどういったものか、伺えるな。
 全く、下品な遊びが流行ってしまったものだよ」

の口ぶりに、同じ天竜人への軽蔑が滲んでいることに驚く。

ハンコック、サンダーソニア、マリーゴールドはこのときから錯覚してしまったのかもしれない。
は他の”天竜人”と違うのかもしれない、と。

だが、優し気な眼差しや柔らかい声に惑わされてはいけなかったのだと、
3姉妹は後悔することになる。
幼い彼女達は知らなかったのだ。
穏やかな外面にどす黒い本性を隠すことができる人間がいるということを。



ボア3姉妹は警戒を解くまいと努力しながらもに対して好感を持たずにはいられなかった。
は子供に対する、あるいは女性に対する扱いを心得ているようだった。

可愛らしい菓子や絵本や、洋服を惜しみなく3人に与え、
外界を知らなかった3人に博識を披露し、誰かの冒険譚を聞かせてみせるに、
最初は頑に口を開かなかった3姉妹も数日が経つと思わず笑いかけてしまうことさえあった。
そうするとはその唇を緩やかに解き「笑っていた方が可愛らしいね」と頭を撫でるのだ。

ハンコックは未だ必死に抗ってはいるものの、
サンダーソニアやマリーゴールドはを優しい男だと認識してしまったようで、
おずおずとに親愛を示し始めている。

「だめじゃ!気を許してしまっては・・・!」
「ご、ごめんなさい姉様」
「ごめんなさい・・・でも・・・」
「いくら聖が優しいからといって、あの男は天竜人。
 わらわ達を”買った”人間なのよ」

首輪を掴み、自分に言い聞かせるようなハンコックにサンダーソニアとマリーゴールドは口を噤んだ。
それでもに頭を撫でてもらえると嬉しくてはにかんでしまう。
それは妹達を嗜めるハンコックとて同じだった。

頑固な態度を見かねてかの周囲に居る使用人の奴隷達は、
よく口を酸っぱくしてハンコックらにこう呟くのだった。

聖に買われたあなた達は幸福なのです。
 他の天竜人に買われていたら、どんな目にあったことか・・・」と。

ハンコックはその辺りにも疑問を持っていた。
がなぜ3人を買ったのか、不思議だったのだ。
使用人の奴隷はみな成人した男女だったし、ましてハンコックらは子供だ。
仕事を任されることなどなく、ただひたすらに甘やかされ、
気まぐれに教育を受けているように思えてならなかった。

聖、なぜわらわ達、3姉妹を買ったのじゃ?」

海の見える窓辺で本を読んでいたに問うと、
は本から顔を上げてハンコックに目を合わせる。
赤い瞳はルビーのようだ。だがその色合いは穏やかに凪いでいる。

「君たちが九蛇から来たと聞いてね。色々と話が聞けたらと思ったんだ」
「・・・九蛇に興味があるのか」

そう言えばはやたらと九蛇の文化について尋ねてくる。
ハンコックが攻め入るつもりか?と嫌悪の眼差しを向けるとは苦笑してみせた。

「そんなことしないさ。第一、九蛇の戦士達は強いのだろう?
 僕は護身くらいしかできやしないんだから。
 コテンパンに伸されてしまうんじゃないかな、情けないけれど」

頬をかいたに、ハンコックは「当たり前じゃ!」と声を上げた。
だがハンコックは内心で不味いことになっているのかもしれない、と思った。
は弱くは無い。たまにステッキを使った武術を練習しているところをみるが、
国を守る戦士達にひけをとらない武芸を身につけている。
もしも本当に九蛇に手を出そうとするのなら、その時は止めねばならない、
とハンコックが決意していると、が海辺に目をやった。

「ハンコック。僕はね、色んな人から冒険譚を聞くのが好きなんだ。
 見たことも無い島、見たことの無い風景、見たことの無い文化に触れることが出来る。
 ・・・きっと僕は中枢から出ないからね」
「なぜじゃ?おつきを伴えば外界に幾らでも出れるのではないのか?」

ハンコックが首を傾げると、は寂しそうに笑った。

「そうだね。でもそこは作られた景色の場所なんだよ。天竜人の旅行はとても大掛かりだ。
 訪れる場所に断りをいれると、皆歓待してくれるが、
 街に降り立つことはとてもじゃないけど出来ないと言われることが殆どだ。
 僕は屋台や市場で食べ物を口にしてみたり、その街を散歩したいんだけどね。
 屋敷で屋台を開いたこともあるが、活気ある雰囲気は味わえはしなかった。
 僕が見たいのはそこで生きている人間の顔や文化だ」

が眩しそうに海を眺めている。

「だがそれは、僕が天竜人である限り見ることの出来ない景色なのかもしれない。
 天竜人は”自由”とほど遠い人種なんだよ、ハンコック」

その顔はに見せてもらった、大理石の彫刻に良く似ていた。
白く輝く肌や髪が、青い空と海と調和している。
ハンコックは見蕩れていた。

「だから、僕は誰かの故郷の話を聞くのが好きなんだ。
 そこに行ったような気がするから。
 ねえ、ハンコック。僕に九蛇の話をしておくれ」

まるで母親に寝物語を強請る子供の様な口ぶりに、ハンコックはぷい、と横を向いた。

「・・・仕方の無い奴じゃ」
「フフフ、ありがとう、ハンコック」

頭を大きな手の平で撫でられると、むずがゆいような、
小さな喜びのようなものが胸に巣食っていくようで、ハンコックは唇を噛む。
ダメだと分かっているのに、心を許してしまいそうだった。

回想:瀟洒な男


はハンコックらに洋服を仕立てさせるつもりらしい。
一着きちんと仕立てた、よそ行きの物をもっておくと良い、と夕食の席では言った。

「九蛇ではどんなものを着るんだい?」

故郷で来ていた毛皮の羽織やアラベスク模様の腰巻き、よそ行きの服にはフリルをあしらうこと、
などをできるかぎり正確にに伝えようと3姉妹は努めた。

は聞き上手なのだ。
さして説明の上手くないはずの3人が話す九蛇についてを実に興味深い、と言った体で聞いている。

「なるほど、毛皮をあしらうとは贅沢だね。豪奢だ」
「・・・聖は、服が好きなのか」

はおしゃれだ。
毎日違う印象の、仕立ての良い服を着ている。
男の格好についてハンコックはあまり詳しく無いが、
は天竜人の正装を好んで居ないらしいのはなんとなくわかる。

外に出かける時は勲章を沢山つけ、まげを結っているものの、
自宅ではベストにシャツ、きちんと折り目のついたスラックスでいることが多いし、
服を選んでいるは楽しそうだ。
今日は深い緑色のリボンタイをつけている。
濃い茶色のジャケットと揃いのスラックスに良く合っていた。

ハンコックの問いに、は目を細めた。

「好きだよ。とてもね」

思わせぶりな含みを持たせた言葉に、思わずどきりとしてしまう。
マリーゴールドとサンダーソニアが頬を僅かに染めているのが見える。
はクスクスと笑いながら、どんな服を仕立てようか、
と3姉妹の想像をかき立てるように呟くのだった。



想像よりも遥かに早く、その服は仕上がった。
が信頼しているという仕立て屋に作らせた服は、とても贅沢で美しい代物だった。
上品な黒いワンピースだ。裾にフリルと、細やかで繊細なレースがあしらわれている。
アクセントに金色のカフスと、同じ作りのボタンがキラキラと光っていた。
襟には動物の毛皮がアクセントに少しだけ張られていた。
思わず感嘆のため息を漏らしたハンコック、サンダーソニア、マリーゴールドに、は満足そうに頷く。

「着てごらんなさい。ハンコック、ソニア、マリー。
 ハンコックは赤、ソニアは緑、マリーはオレンジのリボンにしたんだ。
 裏地もそれぞれのリボンの色に合わせたんだよ。
 見えないところに気を配るのも”スタイル”だ」

お揃いのワンピースに袖を通した3人に、は微笑む。

「可愛いね、3人ともお姫様みたいだ」

恥ずかし気もなく紡がれる賛辞にカッ、とマリーゴールドの頬が染まる。
ハンコックが嗜めるようにマリーゴールドの名前を呼ぶと、
蚊の鳴くような声でごめんなさい、と呟く。
3姉妹で目配せし合う。
ハンコックが渋々頷いた。

「あ、ありがとうございます、聖」
「・・・うれしいです」
「悪くは無い」

ぽつぽつと礼を口にすると、はにこ、と朗らかに笑う。

「喜んでくれて、嬉しいよ」

その言葉に、嘘偽りはなかったと思う。
は正直な男だった。

回想:孤独な男


聖はおおよそのことを器用にこなせる人物だった。
中でもハンコックが一番驚いたのが、の楽器の腕前だ。
初めてが音の出る鍵盤を叩いているのを見たときは思わず息を飲んだものだ
ハンコックはこんなにも大きな楽器を見たのは初めてだったし、
癖の無い音色は新鮮で、すぐにが素晴らしい楽器の弾き手なのだと気がついた。

贈られた黒いワンピースを着たハンコックが部屋に入って来たのに気がついて、
はその指を止める。
ハンコックは少し残念に思う。の奏でる音色はとても美しかったからだ。

「やぁ、ハンコック」
聖。その楽器は?」
「これかい?ピアノだよ。こちらでは割にポピュラーな楽器なのだが・・・」

はハンコックに目を合わせた。

「九蛇の音楽はどんなものなんだい?」

に問われ、ハンコックが琴や笛なんかが主流だ、と答えれば、
は頷いた。

「なるほど、ではピアノは珍しいかな。近くにおいで、見せて上げよう」
「・・・おぬしは随分と手練のようじゃが」
「フフフ、貴族としての振る舞いや教養にうるさい両親だったからね、
 幼い頃から兄と良く二人で弾けと言われたものだ」

兄弟が居るのか。とハンコックは驚く。
に家族の気配は無かった。
妻子を持っている様子もなく、言い方は悪いが天涯孤独の身の上だと思っていたのだ。

「弾いてみるかい、ハンコック」
「何故わらわが」
「そんなことを言わずに。
 弾いてごらん、ハンコック。
 音楽を嗜むレディはとても素敵なのだから」

いつの間にかドアの横に居て様子を伺っていた
サンダーソニアとマリーゴールドに気がついて、が手招きをする。

「ソニアもマリーも、僕と一緒に弾いてくれるかい?
 皆で弾けるようになったら演奏会をしよう」

そういってはピアノを教え始めた。
簡単なものなら器用な3人はすぐに弾けるようになったが、
ハンコックはの弾いていた曲が気になっていた。

「ラ・カンパネラだよ。僕も弾けるようになるのに、とても苦労したんだ。難しくてね」
「・・・聖でも難しいと思うことがあるのか?」
「・・・フフ、僕を買ってくれているようで嬉しいけれど。
 これを作った作曲家はヴィルトゥオーソ。
 完璧な演奏技巧によって困難をやすやすと克服することのできる、卓越した演奏能力の持ち主だった。
 僕には彼程の才能はなかったからね。
 支援することは出来ても彼になることはできない。
 彼は随分前に病に倒れてね・・・。
 もうあの素晴らしい音を聞くことが出来ないと思うと、残念だ」

ハンコックはのその声に寂しさを感じ取って、ピアノを眺める。

「では、わらわが弾けるようになってやろう」
「え!?」
「姉様!?」
 
サンダーソニアとマリーゴールドが思わず声を上げる。
は驚きに目を見張るが、夕焼け色の瞳をゆっくりとほどけさせた。

「ありがとう、ハンコック」

その笑みを見ることが出来るのなら。
その声で名前を呼んでくれるのなら何を差し出しても構わない。
そんな風にを慕う者たちの気持ちが、今のハンコックには分かる気がしていた。

だからすぐ側に、手酷い裏切りと別れが迫っていることに、誰も気がつきはしなかったのだ。