悦楽主義者の肖像 03
回想:狡猾な男
ハンコックがその美しくも難解な音楽を奏でられるようになったのは数十日を経てのことだった。
サンダーソニアやマリーゴールドと共に練習したが、
一番に弾けるようになったのはハンコックだった。
なにか忙しそうにしていたをグランドピアノのある部屋へと呼び出し、
ハンコックは完璧な演奏を披露してみせた。
サンダーソニアも、マリーゴールドも固唾を飲んでその様子を見守っていた。
サンダーソニアもマリーゴールドも、ハンコックの奏でる調べを美しいと感じたが、
は天竜人であり、相当の弾き手だ。姉の演奏がどのように映るのか不安だった。
は目を閉じて演奏に聞き入っていた。
ハンコックが演奏を終えるとゆっくりとその目を開く。
は微笑み、拍手した。
「ありがとう、ハンコック。素敵だった。僕はとても嬉しいよ。
きっと沢山練習したんだろうね?」
「・・・そんなことはない」
ぷい、と横を向いたハンコックの頬がバラ色に染まっている。
サンダーソニアは少しうらやましそうに、マリーゴールドは微笑まし気に
ハンコックを見つめていた。
はにこにこと微笑みながら手を叩いてみせた。
「そうだ、客人を招いて演奏会をしようじゃないか」
「・・・客人?」
「そうだよ。君たち3姉妹と僕で、楽器を弾くんだ」
は良い考えだ、と一人呟き、不安そうに顔を曇らせた3人を見て安心させるように言った。
「大丈夫だよ。君たちの腕前は僕が保証するとも」
「聖・・・」
「ソニアはテンポの速い曲が上手だし、マリーは感情豊かに弾くのが得意だもの。
音楽は大勢と共有することで素晴らしいものになる。きっと素晴らしい日になるはずだ」
がそう言うのなら、と3姉妹は頷いた。
※
演奏会には大勢の人間が詰めかけた。
の演奏には誰もがため息を零し、うっとりと耳を傾けた。
また、意外にもハンコックらの演奏も悪くはないらしかった。
天竜人達は拍手を送ってみせる。
パーティの様相が強くなってくると、天竜人達の挨拶が増えて来た。
に対しての賞賛、ハンコック達3姉妹を育て上げたに対する驚嘆。
ハンコックにとっては怒りを覚えるような感想をに漏らす者も多かったが、
はハンコック達を貶めるようなことを言う人間にはやんわりと嗜めるような姿を見せる。
その姿を見て、ハンコックは何とかその場に留まっていられた。
演奏そのものは嫌いではないが、
こんな催し、二度とゴメンだ、とに言ってやらなくては、と思っていた、その時だった。
「やぁ、ご機嫌麗しゅう、聖」
「ああ、フリードリヒ聖。久しいね」
細身の、目つきの卑しい男が話しかけて来た。
天竜人の一人だった。だが、への接し方がどこか馴れ馴れしい。
ハンコックを舐める様な目で見下ろした男に嫌悪感を覚え、の後ろに隠れる。
「あなたの演奏もさることながら、彼女達の演奏も素晴らしかったえ」
「お褒めいただき嬉しいよ」
は愛想良く微笑んだ。
「ピアノも結構だが、どうだえ?バイオリンなど弾かせてみるのは。
音楽は貴族の嗜み。どれほど出来ても困らないえ」
「そうですとも。そう言えば、フリードリヒ聖は確か素晴らしいバイオリンの弾き手でしたね」
「ああ、今日の催しを見て、あなたのように教えるのも”楽しそう”だと思ったよ」
ハンコック達はゾッとした。
”楽しそう”と言った男の目が嗜虐的な色を帯びて3姉妹を射抜いたからだ。
もその目を見ていたはずなのに、顎に手を当てて、考える様なそぶりを見せている。
「ええ、自分が弾くだけでなく、人に教えるのも勉強になるものですから」
「そうだ、私に預けて見るのはどうだえ?
きっと素晴らしいバイオリンの弾き手にしてみようじゃないか」
3姉妹が息を飲んだ。だが、次の瞬間には大丈夫だと思った。
きっとは断るだろうと思ったからだ。
だがそれは、淡い期待だった。
「ああ、いいよ。良い子たちだ。
しばらくの間君に下げ渡そう」
ハンコックは唖然としてを見つめていた。
この男は何と言ったのだ?
下げ渡すと、そう言ったのか?
の赤い瞳が、ハンコックら3姉妹を見下ろしていた。
まるで路傍の石を眺めるような無機質な瞳に、ざっ、と全身の血の気が引いた。
鼓動だけが、その時やけにうるさかった。
回想:残酷な男
『他の天竜人に買われていたら、どんな目に遭っていたことか』
『天竜人ってのは残酷でどうしようもない生き物なんだよ』
かつてハンコックらに忠告した奴隷の女の言った通り、
かつてハンコックらを売った仲介人の言った通り、
天竜人は外道だった。
フリードリヒは3姉妹に楽器を弾かせ、間違えると鞭を振った。
上達させるのが目的ではないとすぐに分かった。
すこしでもハンコックらが上達する気配を見せるとその楽器を取り上げ、
別の楽器を渡される。その繰り返しだった。
「物覚えの悪い娘共め!聖の言うことは聞けて私の言うことは聞けないのかえ!?」
鞭がその背中を打った。に贈られたワンピースが破ける。
悔しかった。なによりも、それがこのような目に遭うと分かっていながら
3姉妹を下卑た男に下げ渡した、恨むべきあのから贈られた服。
それを破かれたのを悲しく思ってしまう自分自身が。
優しく頭を撫でられたことを忘れられない自分自身が。
永遠に続くかと思われた責め苦は、ものの2週間程で終わりを告げた。
ボロボロの身なりの3姉妹に差し込んだ光は、他ならぬ、によって齎された。
整えられた身なりで現れた美しい男と、鞭を振るい息を乱していた卑屈な眼差しの男は、
同じ生き物とは思えない程だった。
久しぶりに見るはまるで絵画やおとぎ話に描かれる、勇者のようにさえ見える。
「君の最近の振る舞いは目に余るな、フリードリヒ聖」
「・・・聖!」
「君の治める領地だが、幾分痩せてしまっているね?嘆願書が僕の元に届いたよ。
あそこは素晴らしい農産地だったろうに、天候が不順だったにも拘らず、
なにも手だてを打たなかったそうじゃないか?」
フリードリヒと言われた天竜人は震えている。
の口ぶりは柔和で、決して威圧する様なものではないにも関わらずだ。
「そう。僕が君ならば、と思って任せた領地だ。
天候不順の時の対処法も、僕は教えるつもりだったんだよ?
それに加えて彼女達に対しての、この所業はなんだ?」
「・・・わ、私に命令するのか?!」
「何を言っているんだね?同じ天竜人だよ。僕と君は。
・・・だが、立場の違いと言うものがあるだろう、わからないのかえ?
フリードリヒ」
わざとらしく天竜人らしい言葉遣いで問いかけたは恐ろしかった。
フリードリヒは青ざめ、動揺している。
ハァ、とはため息を吐いた。
「次は無い。心しておきたまえ」
フリードリヒ聖がとなんらかの取引をして去っていくと、
がゆっくりと震える3姉妹に向けて口を開いた。
「辛かったね、ハンコック、サンダーソニア、マリーゴールド。
僕は君たちがこんな風に扱われるだなんて思っても見なかったんだ」
眉を顰め、痛まし気な表情を作るに、走り寄ろうとする妹を止めた。
ハンコックはを睨みつける。
分かっていた。サンダーソニア、マリーゴールドだって本当は理解しているはずだ。
でも理解したく無いと思っているんだろう。
あのような冷たいまなざしで、ゴミを見るような目で姉妹を見下ろしたが、
なにもかもを仕組んだ。
それがハンコックの中で出した結論であり、
そしてまた、真実だった。
「よくもぬけぬけとそのようなことが言えるな!お前が全て仕組んだのだろう!
お前、お前が、わらわ達の油断を誘い、気を許したところで利用する・・・!
何もかも計算のうちなのじゃろう!わらわにははっきりと分かる!
今更騙されるものか!」
ハンコックの当たり前とも言うべき叫びに、
”天竜人”は眉根を寄せ、何か吟味するように言葉を舌で確かめる。
「・・・”お前”?」
の顔から表情らしい表情が消えた。
整った顔から感情が抜けると、人形めいたその顔が、
意外な鋭さを隠し持っていることに気づく。
「・・・誰に向かって”お前”などと口を聞いている?」
のその声色が、今まで振るわれたどんな暴力よりも恐怖を煽った。
覇気が込められた声色。思わず膝をついたハンコックに、
は少し息を吐いて言葉を続ける。
「まだ、自分の立場と言うものを理解していないようだね、
君はもう少し賢い女の子だと思っていたが」
その目には何の感情も映っていない。虫けらを見る様な目だった。
それに気がついて、ハンコックは胸を裂く様な痛みが走った気がして、
ボロボロの服を握りしめる。
は謳うように言った。
まるでそれが演劇のセリフかのように、滑らかに言葉を紡ぐ、
その声は凄まじいまでに冷酷だった。
「勝手に僕に期待する人間は掃いて捨てるほど居るんだ。煩わしくて仕方が無いよ。
君たちは一体僕に何を期待した?優しくされること?甘やかされること?
どうして僕が君たちに永遠に興味を持っていられると勘違いするんだ?
自分が特別な人間だとでも?”は私たちを見捨てない”とでも思っていたのかい?
その根拠はなんだ?君たちにその価値があるのか?
あるとするなら、証明してくれよ、この僕に」
赤い瞳の奥に見えるのは暴虐だった。
爛々と光るその瞳が嗜虐的に細められる。
「吹けば飛ぶ様な命の価値を、証明してごらん、お前達」
ハンコックは気づいた。
は異常だ。何もかもを、見下ろしている。
誰にでも優しいのではない。誰のことも同じ人間だと思っていない。
この男にとっては、世界のすべてが彼の玩具だ。
きっとこの男は、誰よりも天竜人らしい、天竜人なのだ。
ハンコックは愕然として涙を流す妹達の手を叱咤するように握りしめ、
以前したことのある質問をもう一度口にする。
確かめるために。
「・・・聖、なぜ、わらわ達を買ったのじゃ」
「言っただろう?話をするためだ。見ることの出来ない土地の話が聞きたかった。
もう大体のことは聞き尽くした。君たちが熱心に教えてくれたおかげでね」
は肩を竦めてみせた。
その顔が冷たく己を見つめるのを見て、ハンコックは唇を噛み、キッと睨み据えてみせる。
「・・・わらわたちはそなたに支配されぬ」
「ふぅん?」
は頬杖をついて、笑った。
悪意を内包した笑みはそれでもなお魅力的だった。
「・・・フフフ、君は分かっているんだね。
僕の手をとってしまったら、そこに暴力は無くても。
君たちはきっと容易く僕に”支配”されるのだと。
やはりハンコック。君は賢い女の子だ」
の差し出した手を、ハンコックは振り払った。
「侮るな!
わらわ達は幼くとも九蛇の戦士・・・!
そなたに膝を折ったりはしない」
「どうかな?皮膚が破けるまで鞭で打たれるのは辛いだろう?
紳士的とは言えないあの豚のような男達に、
地位を振りかざされて膝を着かねばならぬのも屈辱だろう?
誇り高い”九蛇の戦士”ならばこそだ。
僕なら君たちに一定の敬意を払ってあげるのに」
の言葉はまるで蛇の誘惑のようだった。
の側に居さえすれば、恐らくフリードリヒのような下衆な男からは逃れられるだろう。
だがそれは、に支配されることを意味する。
永遠にの顔色をうかがい、のための生きた”ストーリーテラー”になるのだ。
「・・・だれが好き好んで心まで奴隷になるものか」
「フフフ、君は屈服したがっているんだ。
僕に褒めて欲しくてピアノを覚えたことだって立派な兆候だ」
「だまれ!」
「まぁ。どっちだっていいか、”そんなこと”は」
必死に抗うハンコックに、 は酷薄な笑みを浮かべる。
「でもね、ハンコック。この先に、君たちの望む未来なんか無いんだよ」
まるで悪魔が囁くような、甘ったるい声だった。
「だって、僕に膝を折って”支配”を受け入れるのか。
それとも他の天竜人に暴力で”支配”されるのか。
違いなんてそんなものだ。賢い君ならお分かりだろう?
それに、もしも万が一この聖地を抜け出せたとして、九蛇に帰れたとしてだ。
君たちを故郷が受け入れてくれるとでも思っているのか?
奴隷のお前達を、強く気高い戦士達が」
考えないようにしていたことを、残酷に、は突きつけてみせる。
「お前達は、誇り高く、強く、美しい、そんな九蛇の戦士になることなんてできない」
言葉が姉妹の中で、反響する。
「仕方ないよね。運命なんだ。僕が自由を許されないように。
君たちにだって自由は無い。だって背中に足跡がついている。
焼き痕は消えないんだ。皮膚を削り、肉を割いても。また同じ印が現れる。
それはね、呪いなのだよ」
が愕然とするハンコックの顎をするりと撫でる。
「好きになさい。僕はいつでもお前たち姉妹に、
暴力による支配から抜け出せる手を差し出そう。
だがお前の言った通り、それは僕への服従の証しにほかならない。
どの選択肢を選んでもお前たちの行き着く先は愉快ではないだろうな、ハンコック」
ハンコックは唇を噛んで、を睨みつける。
「・・・地獄へ堕ちろ」
「フフッ、さぁ?どっちが先に堕ちるのだろうね?」
が笑っている。
誰よりも無邪気で、誰よりも邪悪な生き物が、
本性をさらけ出して高らかに哄笑していた。