テンタクルス・アヴァンチュール


海の森の外れ。
ハチがの屋敷を尋ねると、
その日、は薬を瓶に移し替えているところだった。
身なりもきちんと整えられている。

「珍しいな、週末は夜遅くまで実験するのが日課だっただろ?」

ハチが手みやげのタコ焼きを渡すと、
が礼を言いながら肩を竦めてみせる。

「そうなんだけどね。ここ最近は、きちんと眠るようにしてるの」
「・・・、お前、なんかあったか?」
「どうしてそんなことを聞くの?ハチさん」

ハチは戸惑うようにに言った。
は首を傾げるが、その唇は弧を描いている。
それから自分の洋服をつまみ上げてみせた。

「いつもと変わらない格好だと思うけれど」
「そりゃ、格好とかは、いつも通りだ。
 ・・・前から思っていたが、
 お前暑くないのか?魚人島は夏島とおなじような気候だってのに」
「平気よ、寒がりなの」

話を反らしたにハチは6本あるうちの2本の腕を組んだ。
回りくどい言い方を避けて、ハチは意を決して言った。

「・・・お前、海賊の男と会ってるそうじゃないか。
 おれは心配なんだ。お前は若い人魚だし、世間知らずだ。
 騙されてるんじゃねぇかと・・・」

の唇は弧を描いたままだ。
ハチは思う。はこんなにも笑う娘だっただろうか。
分厚い前髪に隠された眼差しはそのままだが、
その鼻から下の表情が妙に柔らかい気がする。

「もしも、私と会っている人が、私を騙してるなら、どうするつもりだと思う?
 誘拐して売る?それとも私の肉を食べて、不老不死にでもなるのかしらね?」

ハチは狼狽える。
以前のなら『私を騙したところで、得る物は何も無いでしょう?』と首を横に振る。
そんな反応をしたはずだ。
ハチが余りに驚いていたからだろうか、が少し困った様な声で言った。

「そんなに慌てないで、ハチさん。冗談よ」
「ニュー・・・冗談になってないぞ」
「ごめんなさいね。
 ・・・私は人間のお医者様と勉強会をしているだけよ」
「医者?勉強会?」

ハチは首を傾げる。
ハチが聞いた話では、背の高い海賊の男と、
が一緒に居るのを見た、ということだったが。
は薬に封をしながら、ハチの疑問に答えた。

「魚人島には人間も多く訪れるでしょう?
 でも魚人島に住む人間は少ないし、人間に対する知識のある医師は少ないから、
 少しは勉強しておこうと思ったの。
 ちょうど図書館で人間のお医者様と知り合ったから。良い機会だと思って」
「それ自体は、良いことだと思うが・・・」

ハチはが騙されているのでは、という疑念を払うことは出来なかったが、
自身がそれを否定している上に、
引きこもりがちだった彼女が進んで誰かと交流を持っているのは良い傾向だと分かっているので、
それ以上何も言うことは無かった。

オクトパ子のペットのハリセンボンも無事回復したようだ、喜んでいたとハチが続けて言うと、
もほっとしている。
その仕草や話し方に、少々いつもと違うところがある気もするのが、懸念ではあるが。

「ところで、。それ喉の薬だろう?
 先週も作ってなかったか?」

透明な小瓶に分けられ、丁寧に封をされたその薬は、
魚人島の薬剤師なら誰でもレシピを知っている薬だ。
以前はそう頻繁に作っている様子が無かったので、
尋ねてみると、は小さく笑った。
どこか艶めいた笑い声だった。

「フフ・・・喉を嗄した人が居てね。分けてあげたの。
 良く効くから、喜んでいたわ。とてもね」



「・・・、おれはもうあの薬に世話になるのはゴメンだ。脚、どけろ」

ローが言うと、は奔放に遊ばせていた脚を緩やかに折り畳んだ。
寝台の上で、ぴったりと隙間なく重なっていた身体が離れる。
は息を整えながら、目尻を赤くしたまま、ローの脚を舐るように冷たい脚で撫であげた。
一瞬顔を強ばらせたローに、多少溜飲を下げたらしいは、しかし不満げに口を尖らせる。
その声は酷く掠れていた。

「・・・だからって、今度は私の喉を潰すなんて酷いわ」
「やられっぱなしは性に合わねェんだよ」

が水の代わりのようにその薬を飲み干した。
何度か声を出すと、しわがれていた声が徐々に元の声へと戻りはじめる。

「しかし本当によく効くらしいな」
「そうでしょう?よろしければ調剤方法を教えましょうか。
 材料はそう特殊なものを使っているわけではないのよ」
「頼む」

ローが素直に頼ると、ははにかむように笑ってみせた。
こういう顔をすると、は擦れていない、純粋な人魚なのだが、
その実、はここ数日でますますその手練手管を洗練させているのだから、
その見た目に騙されてはいけないのだと痛感する。

はローの入れ墨に人間のものと同じ指を這わせた。

「海賊旗が入ってるのね」
「気になるか」

ローが聞くとは頷く。

「こんなに間近で入れ墨を見ることは無かったから
 ・・・彫り師が家に来て墨を分けてくれと言うこともあるの」
「へえ、なら魚人島では
 お前の墨で彫られるかもしれないんだな」

は「原料になるだけだから・・・」と苦笑する。
ローの肌の、かなりの面積を占めるハートの意匠に
は素直な疑問を口にした。

「・・・痛くは無いの?」
「今は別に」
「彫る時は?」
「そりゃ痛ェよ」

ローが呆れたようにの顔を見下ろした。
頬を撫でてやると、はぱちくりと瞬いた。

その艶やかな目の瞳孔は横に走っていて、確かに山羊の目のようである。
のいくつかあるコンプレックスのうちの一つらしいが、
ローはこの目が嫌いじゃなかった。
なにもかもを見透かすような瞳。
なにを打ち明けてもいいと錯覚させるような。

「・・・痛く無かったら入れる意味なんてなかった。
 少なくとも、おれにとっては」

思わず呟いた言葉に、は目を伏せて、何か考えるように俯いた後
ゆっくりと瞬きをして、ローと視線を合わせた。
柔らかな、少し掠れた声が名前を呼んだ。

「ロー」

がローの頬を覆う。
人間と違ってひんやりとした手は心地よかったが、
同時にしゅるしゅると絡み付いてきたの”脚”にローはぎょっとした。
慌てて距離を取ろうとするが、絡み付くように抱きつかれ、
おまけに手首もそっと握り込まれたために、それは敵わなかった。
実のところ、能力を使ってまで止める気はしなかったのだが。

、止めろ」
「どうして?」

の脚の一つがローの背中の入れ墨を撫でた。

「難しい顔をしてたわ。ロー。
 私はその顔より、違う顔の方が好き」

ぞくり、とローの背筋を甘い痺れが駆け上る。
の脚が好き勝手にローの肌を撫でている。
ひんやりとした、少し水気のある、”蛸”の脚だ。

「は、すっかり火遊びに夢中になりやがって・・・」

息を乱しながら憎まれ口を叩くローに、は困ったように微笑んだ。

「”遊び方”を教えたのはあなたじゃない」

違う。勝手にお前が覚えたんだろ。

そう言い募ろうとした唇が冷ややかな唇に塞がれる。
触れ合った唇は潤んでいる。その舌は驚く程熱い。
角度を探る。お互いを飲み干すように、口づけた。

蛸の人魚であることをコンプレックスに思い、
その顔や脚をなるべく露出しまいと服や髪で覆い隠した
大人しく、理知的で、いわゆる”従順そう”な見た目をしていた。
本来の性格というのも概ね見た目通りではあるのだが、
床を共にするとその様相はがらりと変わる。

その脚がいけない、とローは思う。
柔らかくしなやかな、のコンプレックスの一つでもあるその脚が、
奔放に身体を探ってくるときの、尋常ならざる感触と快感は、筆舌にし難いものがある。
その快楽に溺れている。今もだ。
そうでなければ、女に一方的に身体を弄られ上り詰める様な、
屈辱的とも言える異様な交合を許したりはしないだろう。

しかし、にいつまでも溺れているわけにはいかない。
そう、分かっては居るのだが、

「ん、まだ難しいことを考えてるの?」
「・・・!あっ、おい、馬鹿、どこ触ってる!?」
「”勉強”したの。人間の男の人ってどうすれば悦ぶのかって」

の脚の一本、その先が、触れては行けない場所に触れている。
ぐ、との脚が押し込まれて声にならない声が溢れそうで、必死に奥歯を噛み締めた。
頭の中でアラートが鳴っている。痛みより先に小さい疼きの方が先に来てる。

「前立腺ってこの奥にあるんでしょう」

耳元で囁かれたその言葉に、全身の毛が逆立った気がした。
の目は快楽に蕩けていて、その脚にためらいは無い。

「ね、ロー、私、頑張るから」
「が、んばらなくていい・・・!」
「そんなこと言わないで・・・もっと顔を見せて、」

ローの唇から噛み殺した息が漏れる。
の脚の小さな吸盤の形さえも正確に分かりそうだ。
緩やかに探られていると、身体に電流が走ったような、そんな感覚を味わう。
明らかに動揺したローを見ては目を細め、
信じられないほどしなやかに、そして容赦なく、その脚で擦り上げた。

「───ッ!」

頭が真っ白になる。
視界が点滅するような強烈な感触と共に、
が甘く呟いた声がやけに耳に残った。

「また喉嗄れちゃうね?ロー」



いつかは去り行く人だと知っている。

はどこかあどけない寝顔を晒す、ローの汗で張り付いた髪を払ってやる。

図書館での問答はまだ続けているし、
海の森へ案内したり、薬の原料となる貝や海藻を教えたりもした。
ローもその見返りに、人間の治療法や、それまで歩んで来た航海についてを話してくれる。
にとって、ローはとても刺激的な人間だった。

蛸の人魚であるはずのを平等に扱ってくれる。
知らなかったことを教えてくれる。

とて、ハチの言うように自分が世間知らずだとは分かっていた。
恐らくこのように肌を合わせるようになったのも、
ローの気まぐれか、好奇心のようなものがきっかけなのだと承知している。

それでもと会うのを止めないローに、は喜びと憐憫を感じていた。
可哀想に、と素直に思う。
ローが何か、ほの暗いものを背負っていることを、はすぐに理解出来た。
押しつぶされそうな心の一端を、身体をつなげることでに、預け始めているのだと。
きっと心まで許しつつあるのだ。
それをローが自覚しているかどうかは、には分からないけれど。

それでもローはそろそろ潮時だと分かっているに違いない。
時折何か言いたげな瞳と目が合うのだ。
その都度先延ばしにしようと、はいろいろと誤摩化して来たけれど、
それももういつまで使える手だか分からない。

ローはかなり長い間魚人島に滞在している。
高額賞金首である彼が、ここに留まり続けたら、
半ば治外法権の魚人島だからといって、海軍が黙っては居ないだろう。
船員達も不審に思っているだろうと思う。

いっそのこと、私を攫っていってはくれないだろうか。

の脳裏にそんな言葉が浮かび、一人は苦笑した。
出来るわけが無いことだった。



海の森を歩く。
は彼女にしては珍しく、フードを下ろして、髪を風に遊ばせていた。

「陽樹・イブの恵みを受けてサンゴが広がっているでしょう。
 あなたも存じ上げているかもしれないけれど、サンゴは薬の宝庫。
 今研究しているこのシヌラリア、新しく抗ガン作用が発見されたの。
 まだ実験段階だから実用化までは時間がかかるけれど」

ローはがしゃがみこんで、サンゴを愛でながら言うのを黙ってみていた。
は振り返る。
前髪の隙間から、金色の瞳が覗く。
ローの瞳と視線が重なる。

、おれはこの島を発つ。・・・少し長居し過ぎた」

緩やかに細められた目は、胸が締め付けられるような哀切を浮かべていた。

「ええ、分かっていたわ」

は立ち上がった。長いスカートが風でふわりと揺れる。
黒く冷たい蛸の脚が覗く。
色鮮やかなサンゴの海に、くっきりとモノクロのシルエットが浮き立っている。

「・・・一緒に、来るか」

は息を飲んだ。ローは唇を真一文字に結ぶ。
きっと言うつもりの無い言葉だったに違いない。
はゆっくりと口角を上げる。

「ありがとう」

の頬を、大粒の、宝石のような涙が伝う。

「でも、あなたの重荷になりたくない。
 ただでさえ、あなたは何か、使命のようなものに駆られているのに」

ローは黙り込んだ。
見抜かれていたのだ。はローに近づいた。

「その気持ちだけで十分よ。とても楽しかった」
「・・・そうか」
「少しは楽になった?」
「・・・楽になって、良いような、そんな人間じゃないんだ、おれは」

眉を顰めたローに、背伸びをして、その頬を撫でる。
は苦笑する。

「私を騙して売り飛ばしたり、
 人魚の肉を食べて、不老不死になるつもりなんか、微塵も無かったのに?」
「なんだその、荒唐無稽な話は」
「そういう迷信があるのよ。”お前は蛸なんだから脚が生えてくるからいいだろう”って、
 人間に捕まりそうになったこともあるわ。・・・昔の話だからそんな怖い顔しないで」

の涙を拭いながら、苛立ちに目つきを尖らせるローは息を吐いた。

「お前はそんな目に遭ってなんでああも警戒心が薄いんだ。バカなのか」
「失礼な」

む、と口を尖らせるにローはほんの僅かに眉を下げた。

「・・・悪い」
「気にしてないわ。楽しかったって、言ったでしょう。
 それにどちらかと言えば、騙されたのはあなたのほう、」
「自分で言うなよ」

自覚があるのかと、あきれ顔のローには微笑んでみせた。

「いつ発つの」
「明日の朝には」
「随分急ね」
「クルーにせっつかれてる」

はやっぱり、と小さく呟く。
その唇に齧り付いて来たローが、緩やかにの首を撫でた。
本当はローに付いていきたかったし、ローにここに残って欲しいとも思っている。
それが出来ないと分かっているからこそ、この手を必要以上に愛おしく思うのかもしれない。

「ふふ」
「・・・何を笑ってる?」

先ほどまで泣いていたとは思えない笑みに、ローは首を傾げる。
はその笑みを艶めいたものに変えた。
ローの背筋に冷たい予感が駆け巡るのより先に、
はローの手をとって、その指先にキスをする。

「いいえ、これが最後なら、忘れられないように頑張らなくては、と思って」

ローはたっぷりと時間をかけての言葉を理解したようだった。
の手を取って脚を速める。

「お前が頑張るとろくなことにならない」

は声を上げて笑った。



!久しぶり!」
「あら、ケイミーじゃないですか、お久しぶりです」

海の森の外れ、こじんまりとした屋敷を尋ねると、内気な蛸の人魚が迎え入れてくれた。
蛸の人魚、は手紙を見ていたらしい。

お茶を淹れるわね、と立ち上がったの背中は随分と華奢だ。
ケイミーは首を傾げる。
ハチにの様子がおかしいのだ、と相談を受けたケイミーだったが、
に特別変わった様子は見えない。ただ・・・。

、ねえ、何かあったの?」
「ハチさんにも同じことを聞かれた。どうしてそんなことを聞くの?」
「だって、なんだか、綺麗になってるから・・・」
「そう?」

首を傾げるにケイミーは頷く。
は静かに俯いた。
それからゆっくりと「内緒よ」と言って指を立ててみせるは、可愛らしかった。

「ねぇ、ケイミー。私ね、恋をしたの」

ケイミーは息を飲んだ。の目は相変わらず、前髪で隠れていて、
その表情を伺うことはできない。
それでもはその時、だれが見ても美しい人魚だった。
以前とは違う。
身体の内側から発せられる芳しい香気のようなものを纏っている。
同性であるはずのケイミーでさえ息を飲む程のそれを、は持て余しているようだった。

「相手は多分どうしようもない人だった。
 いつも難しい顔をしていたの。何かに追われてるみたいに」
「・・・海賊だったの?」
「そうよ。最初に会った時なんて睨まれて、とても怖い思いをしたの」

の声は静かだ。

「でもね、彼は私と居る時、私のことをちゃんと見るの。没頭するの。
 他にやるべきこととか、やらなくては行けないことがあって、
 それに集中しなければいけないみたいなのに、私と一緒に居る時だけは、
 それを忘れてる」

は自身の手を見つめている。
掴み損ねたものがそこに見えているのか、何かを思い返しているのか、
ケイミーには分からなかった。
それでも、は静かに言葉を紡ぐ。
その声と裏腹な情熱的な言葉を。

「何もかも忘れて、溺れるあの人の顔を見れるのは、私だけだった。
 きっとそうなの。私、確信しているのよ。ねえ、」

開け放たれた窓から、風が強く吹いた。
の髪が舞い上がる。晒された顔の目尻は赤く染まっていたけれど、
その唇は微笑んでいた。

「それってとっても、素敵なことだと思わない?」