テンタクルス・アヴァンチュール
魚人島。海の森の外れの、こじんまりとした屋敷。
まるで童話の世界に紛れ込んだような、陸の上ではお目にかかれない、
サンゴや貝で出来たこの家は、蛸の人魚、の住処だ。
動物を専門にしているとはいえ、医院を兼ねているこの屋敷は、
ローにとって懐かしい香り、気配がする。
そんな家で目を覚ましたものだから、
ローは彼にしては珍しく、起き抜けから酷く感傷的な気分を味わうことになった。
その感傷を振り払うように頭を振ると、
隣に眠っている女が小さく身じろぎをしたのに気づいた。
屋敷の主、は未だ深い眠りの中にいるようだ。
華奢な肩がなだらかな曲線を描いている。
昨晩はローがを攻立てる番だった。まだしばらくは起きないはずだ。
ローは小さな寝息を立てるの、鬱陶しそうな前髪を払ってやった。
脚もシーツに隠れ、瞳孔の横に広がった瞳も今は目蓋の奥にある、
はまるで人間のようだ。
だからといって、さして思うところがあるわけではない。
人間だろうが人魚だろうが、はさほど変わらないだろうとローは思っている。
ぐっすりと眠るを邪魔する気にはなれず、ローは静かに寝台から降りた。
軽く身支度を整え、小さな屋敷を闊歩する。
の蔵書の中には、気になる本が幾つかあった。
頼めば快く読ませてくれるだろうが、事後報告でも問題あるまい。
の書斎、ローの身長よりも大分背の高い本棚に近づくと、本棚のすぐ側、
のデスクにレポートがいくつか積み上げられていることに気づいた。
紙の束にラベルを申し訳程度につけたような簡易的なものだったが、
ローはそのタイトルに興味を引かれた。
『人魚・魚人と魚の病における類似性について』『海獣の特性から考える海獣被害を防ぐ方法』
『人魚・魚人の遺伝学』『魚・人魚・魚人・人間の病気感染の経路について』
ローはぱらぱらとそのレポートを流し読みする。
人魚の特徴である、”魚と意思疎通ができる”という特性を駆使して書かれている論文は
専門分野の違うローにとっても興味深かった。
特に、病の感染経路についての論文は、魚と人魚・魚人の間でも感染が起こりうる病気と
そうでない病気の性質を事細かにまとめていて、それだけで十分な完成度を持っていたが、
は結論で、より多くの人間とも比較検討したいと綴っていた。
日付を見ると、結論はがローと出会った後に書かれたものらしい。
少しばかりの面映さを覚え、ローは手の平で口元を覆う。
「ロー?ここに居たの?」
「」
は扉から半分身体を覗かせている。
「姿が見えないから、てっきり船へ戻ったのかと、」
「戻ってて欲しかったのか?」
「・・・意地悪、分かってる癖に」
唇をへの字に曲げるにローはくつくつと喉を鳴らすように笑った。
はローの手元にある紙の束を見て首を傾げる。
「書斎に居るなら医学書を読んでると思ったのに。
人魚が書き散らしたものを、人間が読んでもつまらなくはない?」
「誰が書いてもつまらないものはつまらないし、面白いものは面白いだろう」
ローはに言う。
はローが遠回しに褒めていることに気がついたらしい、
はにかむように笑った。ローは僅かに目を細める。
「どこか、海洋学の研究所に送るつもりはないのか?
見たところ、どこにも発表している様子は無いが」
レジュメもないし、論文はぞんざいに机に積まれていた。
は前髪の奥で大きく瞬いた。
「そんなこと、考えもしなかったわ。
必要に駆られてまとめたりとか、考えを整理するための、
半ば、趣味みたいなものなのよ。それは」
「へぇ、どうりで分野が多岐にわたるわけだ。
そのとき興味があるものを集中して掘り下げて、
満足したら次のテーマを探すタイプだろう?」
「そこまで分かるのね・・・」
「見ればな」
は感嘆のため息を吐くが、
ローでなくとも、多少の知識のある人間がのレポートをみたら、
の性格をすぐに理解出来るだろう。
それに何より、その論文は受け入れられるのではないだろうか。
流し読みしただけだが、ローは確信めいたものを感じていた。
だがは首を振る。
「気が進まないわ。
魚人島内部の獣医や学者との付き合いもあまり良くないの。
学会は派閥や政治の世界だもの。
できることなら好きなだけ、研究だけをしていたいのだけど」
「・・・前から思ってはいたが、惜しいな」
「惜しい?」
の博識は、図書館での問答や、
こうして書かれたレポートを見ても確かなものであると分かる。
それなのに引っ込み思案な態度と言動のせいでその長所がなかなか見えてこないのだ。
「もっと堂々としろ、お前は知識もあるし治療の腕も悪くは無いだろう。
態度や言動で、お前が見くびられるのは惜しい」
「それは・・・、そうじゃなければ、学者なんて出来ないでしょう?」
「世の中にはそうじゃねェ医者も学者も五万と居るんだよ」
おまけに箱入りだ。
・・・だからローのような海賊に誑かされるのだ。
ほんの僅か、皮肉な笑みを浮かべるローに、は考えるようなそぶりを見せる。
「そういう、ものかしら?」
「ああ」
ローはの、その頬に手を伸ばす。
もう片方の手で前髪を払うと、金色の瞳がローを見上げていた。
その目が艶やかに光ってみえるのは、ローの錯覚なのだろうか。
顎を持ち上げると、は微かに首を傾けた。
鼻先が触れ合う。額が緩やかに当たる。
の手がおずおずとローの背中に回った。
親指で唇を、他の四本の指で、輪郭をなぞる。
少しくすぐったそうには肩を丸めた。
唇が重なる。触れ合ったまま食むように口づける。
深くなって行く口づけに、はローのシャツの背を掴んだ。
身体ごと夢中になって行く。唇の端から唾液が滴るのも気にならない。
は息継ぎの合間に小さく抗議する。
「まだ、外が明るいのに、」
「時間指定があるわけじゃないだろう」
「なら、場所を、変えて。落ち着かないから」
「そうしなきゃいけない規則があるのか?」
「・・・あったとしても、守るつもりなんて、無いでしょう?」
ローはその唇に笑みを浮かべた。
もその目の奥に、密やかな熱を持ったようだった。
悩まし気に吐かれたため息が熱い。
「悪い人ね」
海賊相手に今更なことを囁いて、今度はからローに口づけた。
※
は1枚の手配書を眺めていた。
本棚を整理して居る最中、書きかけだった論文を見つけて、
ローのことを思い出してしまったのだ。
声を聞くことも、触れることも敵わないのなら、せめて顔が見たくなって、
手配書を見つめる。
魚人島をローが発ってしばらく経っている。
ローの首に懸けられた金額も、随分と値をつり上げたものだ。
今やその賞金額は4億に迫ろうとしていた。
それに伴い、手配書の写真も更新されている。
は不思議な気分だった。
ローと同じ時間を過ごしていたのが、もう何年も前のことのようだ。
いつかローの声を忘れ、その感触も忘れ、
手配書の中の顔が緩やかに変化していくのを見るだけになるのだろうか。
は微かに眉を顰める。
感傷に浸るのはよくないと、息を吐き、立ち上がった。
竜宮城へ、行かねばならない。
メガロの治療は順調だった。
宮廷医師との意思疎通も概ね取れている。
経験豊富な伊勢海老の人魚は若いの意見もきちんと汲んでくれる医者だ。
はカバンを手に竜宮城まで急いだ。
硬殻塔の人魚姫、しらほしはメガロの往診を終えたを招き、
さまざまな話をねだる。
島の外の話はには出来なかったが、魚人島のことは話すことができた。
海の森のサンゴの鮮やかさ、町の様子。訪れる人々。
拙いだろうの話に目を輝かせ、
硬殻塔の外の世界への憧れを純粋に露にするしらほしは幼気でかわいらしい。
そんなしらほしにつられてか、
は思わず心の奥底に押しとどめていた望みを口にしてしまっていた。
「私もいつか、魚人島の外の世界に行ってみたいものです。
人魚にとっては、あまり安全な世界とは言い難いですけれど」
「まぁ・・・!様は、沢山論文を発表なさっている、学者の方なのだと聞いています。
外の世界のことも研究したいと、お考えなのですか?」
しらほしの眼差しに、は微笑んだ。
「もちろん、それもあるのですが、会いたい人が居るのです」
「会いたい人・・・、以前おっしゃっていた、師のような方ですか?」
「ええ」
しらほしはが、控えめながら上品な仕草で紅茶を口にするのを見て、
ほう、とため息を吐いた。
若い人魚というのを、しらほしは見た経験が少ない。
自身と、城に使える女官たちくらいのものだ。
だからだろうか、は同じ魚人島に住む人魚だというのに、
別世界の住人のように見える。
はとてもミステリアスな女性だ。
肌を隠し、瞳を隠し、控えめで、口数もそんなに多い方ではないのだろう。
そんながしらほしを楽しませようと、
一生懸命に話す姿は年上の女性なのに、とても可愛らしかった。
「様、様は、暑くはないのですか?」
「・・・ああ、私の格好が気になりましたか?しらほし姫様」
は口元に手を当てて少しだけ笑った。
「私は、・・・寒がりなのです。あまり肌を出すのも、苦手なので」
「そう、なのですね」
なんとなく、誤摩化されたことは分かってはいたが、
しらほしはそれ以上の質問をする気にはなれなかった。
「いつか、」
どことなく気落ちしたしらほしに気づいたらしい。
は躊躇いを見せながらもしらほしを見上げる。
「いつか、デッケンが捕まったなら、姫様ご自分の目で魚人島を、
あるいは、外の世界を見て回れると良いですね」
「・・・!ええ、いつか、きっと!」
しらほしの、外の世界への憧れを咎めない人魚は、が初めてだった。
きっと同じ憧れを抱いているからに違いないと、
しらほしはどこかで核心めいたものを感じている。
は人間を愛しているのだ。
「・・・しらほし、殿はお帰りの時間だ」
「もう、そんな時間なのですか?」
フカボシ王子が迎えにくると、しらほしは残念そうな顔をした。
が少しだけ微笑んで、手を振る。
「名残惜しいですが、また次の往診で」
「ええ、お待ちしております!様」
手を振り返したしらほしを背に、は竜宮城の廊下を歩く。
「いつも、すみません、時間をとらせてしまっていて」
「いいえ、とんでもございません。
しらほし姫様、せめて城の中を散歩できれば、気分転換になるでしょうに。
・・・マトマトの呪いというのは厄介ですね」
「なかなか尻尾を掴ませない男です。
・・・いつか必ず捕まえてみせます」
フカボシの言葉には強い意思が見える。
は微笑む。
「そうなれば、しらほし姫もさぞお喜びになるでしょう」
フカボシは微笑み返した。
しかし、に告げねばならぬことがあると、その表情を真剣な物に変える。
「殿は、魚人島の外に行きたいと、仰っていましたね」
「聞こえていましたか」
は足を止めた。フカボシは振り返る。
「あまりに危険ではありませんか」
「そうですね。
私は、特別身を守る手段を持っている訳ではありませんし。
それでなくとも、何かを研究することしか能のない人魚ですから。
・・・しらほし姫様を唆すように、聞こえていたのなら謝ります。
そういうつもりでは無かったのですが」
「責めているわけでは無いのです
私は、あなたが心配で、」
どこか切実なものの混じるフカボシの声に、は何か感じるものがあったのか、
微かに息を飲んだが、すぐに首をふった。
それから繕うように、笑みを浮かべる。
「・・・これでも、人魚柔術も、習い始めたのですよ?
あまり、上達が目覚ましいとは言えませんけれど」
「あなたは」
フカボシは目を眇める。
「あなたの師を、追いかけたいと、そう思っているのですね。
・・・愛しているのですか、人間を」
フカボシにはどこか、含むものがある。
以前なら、もっと取り乱してもおかしくはなかったのに、
は不思議と心が凪いでいることに気がついた。
「人間を愛しては、いけませんか?」
フカボシは答えなかった。
きっと答えられないだろうとも分かっていた。
フカボシの母親、オトヒメ王妃は”人間”に殺されたのだ。思うところがあるのだろう。
オトヒメ王妃の思想を受け継ぎ、差別や偏見と戦うと誓ってはいても、
フカボシの立場で、心の底から”人間”を許せることができるかと言われれば、
きっと、そうではないのだろう。
狡い問いかけをするようになったものだと、は内心で自身を嘲る。
「・・・戻る相手ではないのでしょう」
「ええ、だから、思い出せてもらえたらと思うのです。
私の名前が、どこか遠くに居るその人の目に届けばと」
書き溜めた論文を発表したのは、そんな理由だ。
人に話せば笑われるような、そんな理由だった。
「それで、ゆくゆくは、この島を出るつもりです。
私が力をつけて、どんな危険にも立ち向かえるようになったなら。
・・・その人の重荷にならずに済むようになったのなら」
「あなたはもっと、近くのものにも目を向けるべきです。
危険に晒されることなく、暮らす方法もあるでしょうに」
フカボシの言葉に、は笑った。
その笑みには、苦く、自嘲するような響きが含まれている。
「夢中になると、そればかり追いかけてしまうの。
私の悪癖なのですが、治りそうもありません」
※
は自宅に戻る。
ポストには新聞と、封書が何通か届けられていた。
論文を送った研究所からの返事の中に、差出人の分からない手紙が一通混じっている。
は首を傾げた。
ペーパーナイフで手紙の封を切り、ざっと目を通す。
先日発表した論文の感想だった。
随分と熟読してくれたのだろう。丁寧な感想には思わず頬を緩める。
だが、差出人の名前が無ければ、返事を出すことが出来ない。
せめて署名でもあればと読み進めて行くうちに、
あることに気がついた。
論文は添削して発表している。
だが、が発表するにあたり、削った部分についてもこの手紙は触れていた。
この手紙で触れられている論文のタイトルは
『魚・人魚・魚人の病気感染の経路について』
人間の感染経路はサンプルが少数しか無く、公式に発表することができないと考えて、
はその記述をばっさりと切ったのだ。
今後さらに調べなくてはと意気込んだのは最近のことだ。
それなのに、その記述について触れることの出来る人物は、
の心当たりには一人しか居なかった。
は胸の内からこみ上げる熱を感じ、その目を手の平で覆い隠す。
「・・・期待を持たせるようなことをするなんて、本当に悪い人だわ、ロー」
手紙の最後の署名には、イニシャルだけが書かれている。
が確証を得るには充分な二文字だった。