幽霊と無愛想な海賊
ローは一連の騒動を概ね面白く思っていた。
麦わらのルフィは全くためらいもなく、感情に任せて、天竜人を殴り飛ばして見せたのだ。
海軍大将が軍艦を引っ張って出て来るとわかっていながら。
率直に言えばイかれている。
だが、正気の海賊など居た試しがない。
ロー自身も海賊だ。その自覚がないわけでもない。
静まり返ったオークション会場、ルフィが拳を抑え、仲間に口を開いたその瞬間、
また”ありえないこと”が起きた。
軽やかに、ルフィの横に”幽霊”が降りてきたのだ。
体も服も透明で、キョロキョロと辺りを見回し、
ルフィと何か話して面白そうな笑みを浮かべている。
屈託のない笑い方だった。
それから何を思ったのか、幽霊は銃撃し始めた天竜人、ロズワードを脅しつけて見せた。
その時は冷酷で、傲慢な振る舞いにも見えたが、
仲間に「様子が変だ」と言われると我に返り、
戸惑った様子で自身の手のひらを見つめていた。
「・・・私、昔はどんな人間だったのかしら」
聞こえてきた言葉に、ローは小さく息を飲んだ。
それから軽く唇を噛み、すぐに無表情を繕ってみせる。
誰も気づいていない。気づかせてたまるものか。
ローは硬く目を瞑り、もう一度目を開く。
どう振る舞うべきか、どうしたいのかは、ロー自身が一番よく理解できていた。
だからローは、薄ら笑いを浮かべたのだ。
心中で渦巻く感情に蓋をして、全てを押し殺しながら。
”笑え、煙に巻け”
それは、11年前に死んだその人が被り続けた仮面と、同じものだとわかっていた。
彼女は今や過去の亡霊。
しかし、もしも彼女が何も覚えては居ないと言うのなら、
それはローの知る、彼女ではないのだろう。
※
混乱の最中、オークション会場に次々とトビウオに乗って一味の面々が揃い始めた。
途中から会場に来て、事態を掴みきれずにいるウソップがルフィに声をかける。
「ルフィ! ケイミーは!?」
「あそこだ!!」
ルフィが指差す先を幽霊は見た。
丸い水槽の中にケイミーが浮かんでいる。
「首の爆弾を外さないといけないわね、フランキーが鍵を取りに行ったと思うけど」
「ああ、すぐ逃げるぞ! 軍艦と大将が来るんだ!」
「ええ!?」
ルフィの指示に、ウソップは驚いている。
そこに男が一人、口を挟んだ。
「海軍ならもう来てるぞ、麦わら屋」
「なんだお前・・・なんだ、そのクマ」
背もたれに腕をかけ、白いまだら模様の帽子をかぶった男は薄ら笑いを浮かべている。
後ろには仲間なのだろうか、落ち着いた様子のつなぎを着た男が二人と
シロクマが一匹、腕を組んでルフィらを伺って居た。
男はルフィの疑問には答えない。
「海軍はオークションが始まる前からずっと、この会場を取り囲んでいた。
・・・誰を捕まえたかったのかは知らねェが、
まさか、天竜人がぶっ飛ばされる事態になるとは思わなかっただろうな」
ルフィを見上げ、不敵に笑みを浮かべる男に、
幽霊は不可思議な感覚を覚えて、眉を上げた。
「・・・あなたも、海賊なの?」
「ああ」
頷いた男に、幽霊は問いかける。
「あの、失礼だけれど、どこかでお会いしたことはなかったかしら?」
男は黙って幽霊の顔を見返した。
つなぎを着た男たちは驚いた後に、顔を見合わせ、小声で冷やかし出した。
「え? キャプテン、ナンパされてる? この状況で?」
「キャプテンやるぅ~、でも相手、なんか幽霊っぽいけど良いのか・・・?」
幽霊はハッと自らの言動を振り返り、みるみる狼狽え始めた。
おそらく幽霊が生きていたなら顔を真っ赤にしていただろう。
「えっ、違う、違います! 誤解しないで!
ごめんなさい、私、記憶喪失なもので、
ええと、あなたを見ていると何か、」
幽霊が覚えた感情は、言葉にするのが難しいものだった。
嬉しいのか、悲しいのかも曖昧で、
ただ、他の人間には覚えたことのない感情だった。
適当な言葉を探し、幽霊は男に尋ねる。
「・・・懐かしい気がしたから、もしかして、知り合いかと、」
男は軽く目を細めたように見えた。
検分するようなそぶりだった。それから、帽子を目深に被り直す。
「人違いだ。おれはお前を知らない」
男の声色は平坦だった。
幽霊は肩を落とす。
「・・・、そう」
では、今感じている胸騒ぎのような、
言語化し難い複雑な感触はなんなのだろう。
幽霊がスカートを握りしめながら、頭に疑問符を浮かべていると、
今度は男が幽霊に問いかけた。
「記憶喪失だと言ったな。
お前、失った記憶を取り戻したいと思っているのか」
「ええ、もちろん」
躊躇わずに頷いた幽霊に、男は軽く目を眇めてみせる。
「忘れたままの方が良いことだってあるぞ、”記憶喪失の幽霊”」
それは、幽霊にとっては意外な言葉だった。
「記憶を失う原因は、何らかの要因で脳が損傷するか、
あるいは、精神的な理由。強いストレス等が考えられる」
「ストレス・・・」
幽霊は男の言葉を反芻した。
記憶を取り戻すことに躍起になって、
記憶を失くした”原因”が何なのかについてはあまり考えることがなかった。
あるいは、”死んでしまった”ことがその原因だと、
決めつけている節があったように思う。
「『人生の全てを忘れてしまいたい』と思わせる出来事があったのかもしれねェ。
・・・大体、それを思い出してどうする」
男は、まるで嘲るような薄ら笑いを浮かべているが、
言葉の内容はいたって真面目なものだった。
幽霊はそれに、誠実に答えなければいけない気がした。
だから、緩やかに首を横に振ったのだ。
「わからないわ。
私は、大切なことを思い出したいと思っているだけだから。
ただ、」
幽霊はフランキーに話したことを思い返していた。
男は黙って幽霊を見ている。幽霊の言葉を待っている。
初めて会った、互いに”海賊”だとしか知らない人間に、
なぜ、話してしまう気になったのかは幽霊自身もわからなかったが、
喉から言葉が溢れるように、その衝動に、従ったのだ。
「私は”誰か”を置き去りにしてしまった気がするの。とても大切だった”誰か”を。
記憶を取り戻さない限りは、私はその”誰か”に会わせる顔もないのだわ。
だって、多分、記憶を失くした”私”は、その人にとっての”私”ではないのだもの」
男の表情は帽子の陰に隠れ、よく見えない。
幽霊は自嘲するようにふと顔を背けた。
「ウフフ、幽霊の私が、その誰かの前に現れたところで、
怖がらせ、傷つけるだけなのかもしれないけどね」
「・・・さぁ、どうだろうな」
男の声色が少しブレた気がして、幽霊は瞬く。
「え?」
「お前は幽霊の割に外見が恐ろしい訳でもないからな。
それにしても、幽霊が実在するとは思わなかった・・・」
しかし、それは一瞬のことだった。
男は好奇心を隠さず、幽霊をまじまじと眺めている。
不躾といってもいい態度だった。
幽霊は腕を組んで首を傾げる。
「あの、お名前を伺っても?」
「・・・人に尋ねる前に自分から名乗るべきだろう」
素っ気なく返されて、幽霊は言葉に詰まった。
「うっ・・・私は記憶喪失なのよ、名前もさっぱり忘れてしまっているの」
男は幽霊を揶揄うように笑った。
「なら教える気にはなれねェな」
「えええ!? それはちょっと意地悪なんじゃないかしら!?」
男は何が面白いのか肩を震わせ笑っている。
「・・・ふふ、”幽霊”も含めて、面白ェもん見せて貰ったよ、
麦わら屋一味」
男はルフィに視線を移した。
ルフィは黙って幽霊と男のやり取りを聞いていたらしく、
幽霊に向かって声をかけた。
「んー・・・、よくわかんねェけど、
とりあえず知り合いじゃなかったんだな。
残念だったなー、幽霊!」
「ええ、・・・本当に」
幽霊はもう話す気のなさそうな男の横顔を見て、ルフィに苦笑して見せた。
しかし、そうしている合間にも、事態は進行していくものだ。
「しまった! ケイミーちゃんが!!!」
その声に幽霊は振り返る。
水槽の前に、天竜人シャルリアが立っている。
銃口は寸分の狂いなく、ケイミーに向けられていた。
焦り、幽霊がケイミーのそばへと飛び出す寸前、
幽霊の体が一瞬、大きく”歪んだ”。
「え・・・!」
それと時を同じくして、シャルリアが突然気絶してしまった。
かけられていた天幕が奴隷と思しき巨人の男に引きちぎられ、
その隙間から老人がはっきりとした足取りで現れる。
酒を片手に、朗らかに笑っていた。
その顔を見て、ハチが呟く。
「れ、レイリー」
それはルフィらが探していたコーティング職人の名前だ。
老人、レイリーはハチを見ると再会を喜び、笑みを浮かべる。
それから周囲の状況を確認し、納得したのか小さく息を吐いた。
「つまり、なるほど・・・全くひどい目にあったな、ハチ。
大方のことは見当がつく」
レイリーはルフィらに向けて小さく微笑んだ。
「お前たちが助けてくれたのか・・・さて」
それは、一瞬の出来事だった。
レイリーが会場全体を、睨んだように見えた。
その時だ。
「きゃあ!?」
幽霊の体はその場に留まっていられず、見えない力に押し出されるように、
吹き飛ばされてしまったのだ。
「え!? 幽霊!?」
ルフィが振り返り、思わず幽霊に向けて手を伸ばしたが、
手のひらは幽霊の指先をすり抜ける。
結局幽霊はオークション会場の外に飛ばされてしまった。
と、同時に、オークション会場に居た衛兵たちが泡を吹いて倒れていく。
レイリー自身も幽霊を吹き飛ばしてしまったのは予定外のことだったらしい。
驚きに目を見張っている。
「おい、爺さん! 幽霊のお嬢さんに何すんだ?! うちの仲間だぞ!」
「おや・・・? すまないね、加減したつもりだったのだが・・・」
サンジが怒りの声をあげるとレイリーは少々困ったように顎を撫でた。
しかし、そう時間も経たないうちに、幽霊がひょっこりと壁から首だけ顔を出した。
「な、生首!? じゃなかった、幽霊!」
ウソップが一瞬ギョッとするが、顔を見て”幽霊”だと気付いたらしい。
「あ、良かった幽霊、無事で!」
「ヨホホ、お嬢さん大丈夫ですか?!」
ルフィとブルックが安堵した様子で声をかけると
幽霊は壁をすり抜けて頷いた。恐る恐るレイリーを伺っている。
「・・・話の腰を折ってごめんなさい、ええと、おじさま? レイリーさん?
私は大丈夫だけれど、もう、近寄って平気かしら?」
「ああ、平気だとも、お嬢さん。すまなかったね」
レイリーはニコリと幽霊に微笑みかけた。
それから、ルフィの麦わら帽子に目を止める。
どうやらレイリーはルフィのことを以前から知っていたらしい。
麦わら帽子を見て、懐かしそうな顔をしている。
ルフィ本人はレイリーを知らないそぶりを見せているので、
顔見知りと言うわけではないらしい。
レイリーは手際よくケイミーの首輪を外し、
麦わらの一味以外の見物の海賊に声をかけていた。
先ほどまで幽霊が話していた男たちと、赤い髪を逆立てた三白眼の男が、
レイリーを”大物””伝説の男”と呼び、こめかみに汗を浮かべている。
もしかすると有名人なのだろうか、と考えを巡らせる幽霊に、
ブルックが小声で声をかけた。
「お嬢さん、本当に大丈夫ですか?」
幽霊もそれに、小声で返した。
「ええ。今はね。
・・・あのおじさまに睨まれたら、吹き飛ばされてしまったみたい。
戻ってきたら衛兵たちは気絶してるし、なんだったの?みんなは平気なの?
突風に煽られるって、あんな感じかしら?」
「私たちは見ての通りですが、・・・不思議ですねェ」
二人で頭に疑問符を浮かべていると、
外から海兵が降伏するように呼びかける声が聞こえる。
オークション会場は完全に包囲されて居ると言っていたから、
おそらく相当の数の海兵がいるはずだ。
「長引くだけ兵が増える。先に行かせてもらおうか。
・・・もののついでだ。お前ら助けてやるよ!」
三白眼の男がひらひらと手を振ったのを見て、
残された二人の船長は気に障ったのか眉を寄せ、
すぐさま先陣を切って、海兵たちの居る入り口へと向かった。
※
3人の船長に遅れて各海賊団の部下たちが入り口に立つと、
前線に配備されていたのだろう、海兵らは瓦礫に埋もれ倒れていた。
中にはバラバラに刻まれた体も見える。
しかし、海軍はこれからも大勢来るだろう。
大乱闘の始まりだ。
ブルックが幽霊に明るく声をかけた。
「それじゃあ、逃げましょうか、お嬢さん!」
「ええ!」
幽霊は先陣を切って逃げる方向を見定めながら、
最後に一度振り返った。
偶然だろうか。
まだら模様の帽子を被った海賊の船長はこちらに顔を向けていた。
その唇に笑みは浮かんでいない。表情は帽子の陰に隠れ、伺い知ることはできない。
「——名前、教えてもらえなかったわ」
名残惜しむ気持ちもあったが、今は逃げなければならないとわかっていた。
幽霊は踵を返し、仲間たちとともに13番グローブへと向かった。