41 and 49
シャンデリア。繊細な織り模様のラグ。
飾り棚には大理石の彫刻が微笑んでいる。
は足を組んで、肘掛に腕を置いた。
そしてテーブルを挟んで向かいに座る、海図と指針を眺めている男に声をかけた。
「お前は狂っている」
ドフラミンゴは唐突な罵倒に眉を上げた。
は革張りのソファに腰掛け、こめかみを押さえていた。
「覚えがないわけじゃねェが、なんだ、いきなり」
「我々が逃亡中の身の上だと忘れているわけでもあるまいに、
なんだ、ここは?」
「フッフッフ! 見ればわかるだろう?」
は胡乱げに、笑うドフラミンゴを眺めた。
2人が居るのは恐ろしく贅沢なホテルの一室である。
少なくとも逃亡生活には相応しくないだろう。
がどこから資金を集めたのかと聞けば、
先日略奪した客船をしかるべきところで売ったのだと言う。
「あの船は広すぎるし目立つからなァ」
もっともらしい理由だが、が納得する理由ではなかった。
「・・・それはそうだ。だが使ってしまって良かったのか? 資金集めが肝心なのでは?」
「地獄に金は持って行けないだろう? 溜め込んでもどうせ逃げ回るだけなら意味がねェ」
指針と地図を片付け始めたドフラミンゴに、は眉を上げた。
「ほう? 返り咲くつもりはないのかなァ? 意外だ、とは言えないか。
私はお前の考えがよく分からないからねぇ」
にとって、今のドフラミンゴに野心らしい野心が伺えないのは不可解なことだった。
”妄想”の中では確かに権力に執着していたはずのドフラミンゴだ。
しかし、王位を自ら放棄してとの逃亡を選んだ時点で、
地位にこだわることは辞めたのかもしれない。
そんなの内心を読んだように
ドフラミンゴは口の端を吊り上げた。
「言ったろう? 蜜月だと。
今はお前と過ごす時間にこそ、最も価値を置いているだけさ」
歯の浮くような言葉である。
は淡々と頷いた。
「・・・そうか」
「フフフフフッ、つれねェなァ」
「・・・私はお前が思いの外ロマンチストだったと知って困惑している」
何しろ逃亡生活の間、四六時中似たような言葉を囁かれるのだ。慣れもする。
そしてそんなの困惑をドフラミンゴは楽しむように笑っている。
「お前が知らなかっただけだな、それは。
・・・というよりも、お前は鈍かった」
「失礼な」
「本当のことだろう。さァ、手をだせ」
手を出せ、と言いながらも半ば強制的に
糸で右手を差し出すような形に固定され、は眉を顰める。
もう日課になりつつあるが、慣れることはなさそうだ。
ドフラミンゴが嬉々として取り出したのはエナメルのネイルだ。
血のような赤色だった。
の手を取って、壊れ物でも扱うように丁寧に、
ドフラミンゴはの爪先を彩っていく。
は不気味に思っている。
外ではこのような姿を見せることはないが、
2人きりになるとドフラミンゴはまるでの召使いのような振る舞いをするのである。
甲斐甲斐しくアクセサリーを選び、服さえも着替えさせ、靴まで履かせてみせるのだ。
そして、驚くべきことに、そうしているドフラミンゴは幸せそうだ。
あの、ドフラミンゴが。
「何度もすまないねェ、・・・お前、気でも違ったのか?」
「フフフッ、ヒデェ言い草だな、。
・・・だが、まぁ、お前がそう言うのもわからなくはない」
ドフラミンゴはどうやら自覚があるらしい。
苦笑めいた笑みを浮かべている。だが、治す気はないようだ。
の10本の指を真っ赤に彩って満足そうに頷いている。
生来の器用さも相まって見事な出来だが、は思わず嘆いた。
「落ち着かないなァ」
「そう言うな。おれは楽しいぜ?
お前を着飾るのも、こんな風に跪いてみるのも悪くないと思う程度には」
は黙り込んだ。
ドフラミンゴは愉快そうに笑う。
ドフラミンゴは、近頃”支配”とは何かをよく考えるようになった。
長年ドレスローザの王として君臨したドフラミンゴだが、
それに満足していたかと聞かれれば、答えは否である。
ドフラミンゴは多くの”手段”を求めた。
天竜人の支配する世界を壊すと言う目的のために奔走していた。
地位や名誉、金は手段であって目的ではない。
途方も無く、果てのない夢だった。
そして、突き詰めるならば、その目的はによって明確になったものである。
おそらく、は”妄想”に従ってドフラミンゴを唆したのだと言うだろうが、
そんなものは今となってはどうだっていい。
人一人を支配するだけで、恐ろしく満たされている。
自らが安定しているのがよくわかる。今までにない感触だった。
「フフフ、支配にも種類がある。
おれはお前が何もできなくなっちまえば良いとも思うんだ。
そうすりゃ、お前はおれに頼らざるを得ないだろう?」
「それも一つの”支配”だ」との手を取って笑うドフラミンゴに、
は口角を上げた。
その眉は苛立ちに歪んでいる。
「・・・物好きだな、なら私の手足を千切ってみるとでも言うのか?」
「それも良いなァ」
ドフラミンゴの声色が低くなる。
「お前の生殺与奪を、おれが握っていると思うとゾクゾクする」
の顔から表情が抜け落ちた。
しかし、次の瞬間には喉を鳴らすように笑い出す。
「べへへへへ・・・!
やっと"らしい"言動になったねぇ。安心したよ」
「フフフ、そりゃあ良かった」
皮肉めいた笑みだが、が愉快そうに声をあげて笑うのは久方ぶりである。
「お前は”悪のカリスマ”だった」
の声色には、詰るような響きがあった。
サングラスの奥の瞳は鋭く眇められている。
「傲慢、残酷、凶暴、狡猾、そんな言葉のよく似合う悪党だった。
圧倒的な”悪”は人の価値観を混乱させ、麻痺させる。
お前は完璧だったとも。素晴らしかった。
私の理想とする”悪のカリスマ”そのものだった」
はドフラミンゴに問いかける。
「今のお前はなんだ?」
ドフラミンゴは静かに答えた。
「少なくとも、”悪のカリスマ”では無いだろうな」
それから、懐かしむように言葉を続けた。
「むしろ、おれにとってはお前が”悪のカリスマ”だったよ、」
は驚いたようだった。
ドフラミンゴは気づいていなかったのか、と息を吐き、
昔のことを語り始めた。
”妄想”に定められた運命が狂い出した日があるとするなら、きっとあの日だろう。
「ガキの頃のおれに、お前は暴力と火を讃えろと言った。
どこぞのバカどもを斬り殺し、撃ち殺し、全部燃やしてみせた。
人も、建物も、何もかもを。
フフフッ、火炙りにされかけたガキの、火に対する恐怖を克服させようとしたんだろう?
効果はてきめんだったよなァ?」
は心当たりがあったらしい。
ドフラミンゴは笑いながら言った。
「その時だよ、おれがお前に惚れたのは」
こめかみに手を当てて、頭痛を堪えるような顔をするに、
ドフラミンゴは喉を鳴らして笑っていた。
酒も煽っていないと言うのに、愉快だった。
「お前は、”悪のカリスマ”になれば、『望みはなんだって叶う』と言った。
フフフフフッ、実際には叶わないことの方が多かったがな。
・・・、それはお前も同じじゃないのか?」
「――なんだと?」
はこめかみから指を外し、怪訝そうにドフラミンゴを見る。
「お前は”妄想”に取り憑かれ、おれを”悪のカリスマ”に育て上げた。
そうしなければいけない、という強迫観念にでもかられてたのかもしれねェが、
そのために、お前は何を犠牲にした? 何を諦めた?」
もしも、ドフラミンゴとが出会うことがなければ、
”妄想”に取り憑かれなければ、案外の望みはすぐに叶ったのでは無いかと、
ドフラミンゴは思うのだ。
例えばが望んだのが平凡な幸福の類ならば、なおさら。
「本当は何が欲しかったんだ、?」
は口を噤む。
ドフラミンゴも返答を期待したわけではなかったので、
すぐに別の話題に入った。
「今のおれが、お前の望む物の全てを与えてやれるとは思わねェが、
チョコレートケーキはあるぜ?」
「・・・は?」
の目が瞬いた。
「誕生日だ。お前の」
「――そうか、もうそんな時期か」
呆気にとられた顔は実年齢よりもだいぶ幼い。
それから、チョコレートに目がないのも、
誕生日などの記念日に頓着しないのも変わらないらしい。
差し出されたグラスを受け取り、小さなチョコレートケーキを前に
は目を細めている。
「フフ、死ぬまで祝ってやるよ」
「・・・それはどうも、ありがたいねぇ」
は嘆息しながらもグラスを持った。
「次はどこに行く? 夏島がいいか? それとも冬島か?」
「すっかり旅行気分じゃないか。
・・・そうだな、どうせなら、オペラ座がある島が良い」
ドフラミンゴを咎めるような言葉を吐いたものの、
本人も旅行気分の返しをしている。
「演劇が見たい」
「何が見たいんだ?」
「マクベスに決まっている」
ドフラミンゴは思うところがあったのか、楽しそうに口元を緩めた。
「フフフフフッ、良いぜ。ところでお前はおれを"私のマクベス"と呼んだが、
いつになったらお前、"おれのレディ・マクベス"になってくれるんだ?」
「べへへ、何を言っている。もうなっているだろう?」
の返答に、ドフラミンゴは弾かれたように顔を上げた。
は顎に手を滑らせて、何か考えるそぶりを見せる。
「・・・いや、過去形だろうか、今となっては」
はグラスを眺めている。
「私はお前を玉座につけるために、
誰を犠牲にしようが、何を蹴落とそうが構わなかった。
私の心臓が、良心の呵責や罪悪感などで青ざめたことは無い。
全てはそういう脚本だった。定められたことだった、少なくとも私に取ってはねぇ。
お前はそれを、下らないと言ったが、」
「私が望んだことには変わるまいよ。ドフィ」
は目を閉じた。
思い返すのは、全てがひっくり返されたその日のことだ。
「私の目論見がお前に暴かれた後、口にした言葉は全て真実だ。
私は運命を愉しんでいたのだとも、ファミリーのことも、単に利用していたわけではなく、
愛着も情も覚えていたよ。お前がどう思っているかは定かでは無いけれどねぇ」
「お前は私を血も涙もない、鬼のような女だと思っているだろう」と、
は小さく笑った。「事実だ」とも言った。
結局は皆を見殺しにして逃げるつもりだったのだからと。
「・・・私は運命からはみ出すことがね、怖かったのだ。
一応は抗うこともあったのだが、ほとんどが妄想の通りになった。
お前は私に出会ったし、私もお前に出会った。
なあ、ドフィ、お前はマクベスをきちんと見たことはあるのか?」
ドフラミンゴは頷いた。大体のあらすじも知っている。
は「なら何故わからない?」と呆れたように首を傾げる。
「”マクベス”は王になって、マクベス夫人と心を通わせなくなるのだよ」
鼻水を垂らした大柄な醜男が、の脳裏で笑う。
思えば常に妄想の中で、あの男は笑っていた。
「私の”妄想”の中でも、”トレーボル”はお前の野心の踏み台にされていたように思えてねぇ。
”トレーボル”はローにもお前にも『間抜け』と罵られていた。
お誂え向きだろうと思ったものだよ。だからお前の破滅を見届けてやろうとしたのさ。
お前の操り人形となったフリをして、出し抜いてやろうとした。
笑ってやろうと思っていた。私を虐げた、天竜人の乗る船を焼いた時のように。
故に、お前は”私のマクベス”だった」
ドフラミンゴはサングラスの下で目を瞬いていた。
は”妄想”の中の”トレーボル”が侮られて利用されていたことが、
まるで自分のことのようで許せなかったらしい。
「・・・お前の妄想に対する盲信には呆れるぜ。
おれがお前を見縊ったことがあったか?」
「さァ、どうだかな。私はお前がわからないからねぇ」
とんだ杞憂だと、ドフラミンゴは呆れていた。
ドフラミンゴは一度として、を侮ったことなどなかったと言うのに。
「だがドフィ、お前は脚本から逸脱した。
全く、理解に苦しむ限りだ」
グラスを煽り、は赤く彩られた指をドフラミンゴに向けた。
「お前はもう破滅の王では無い。マクベスとは違う。
先に玉座を捨てたのはお前だ。
ああ、でも」
皮肉めいた笑みを浮かべ、は呟いた。
「共倒れて死ぬ運命だと言う意味では、今でも変わらないのかな?」
ふ、との顔に影が落ちた。
手首を掴まれ、引き寄せられた。持っていたグラスが床で砕け散る。
つり上がったサングラスの奥に透ける目が、を射抜いていた。
その意味に気がついて、の顔に驚愕と少しの恐怖が混じる。
気がつけば両手をまとめ上げられていた。
柔らかい果物に遠慮なく齧り付くような仕草で唇が重なった。
深みのあるワインと、チョコレートクリームの残り香が互いの舌に移ったころ、
顎を取り、深く探るように続けようとしたドフラミンゴの手が粘液で滑った。
「ッ・・・いい加減にしろ、ドフラミンゴ!」
流石はかつてのドンキホーテ・ファミリーのNo.2だ。は拘束から逃れた瞬間、
ドフラミンゴの顎を思い切り殴りつけ、腹を蹴り飛ばし距離をとった。
は肩で息をしながら黒いワンピースの肩紐を直し、
ドフラミンゴを睨みつける。
得物を持っていたなら首を切られていただろう。そんな燃えるような眼差しだった。
ドフラミンゴは口の端を拭う。
かけていたサングラスは壊れてはいなかったが、床に転がっている。
ドフラミンゴはの顔を見て自分がしくじったことに気がついた。
もう少し待つべきだった。
しかし、ドフラミンゴは言い訳する。
「・・・今のはお前が悪い」
先ほどの言いようでは、死ぬまでドフラミンゴのそばに居ると、
は半ば認めたようなものだった。
その言葉を聞いた瞬間、忍耐と自制心の糸が切れたのだ。
「はぁ?・・・本当によくわからない男だな、お前は」
当人は相変わらず気づいていないが、
徐々にはドフラミンゴを”妄想”という色眼鏡なしに見るようになりつつある。
だが、ドフラミンゴは焦ってはいけなかった。また一から信頼させなければならない。
傷ついた野良猫を懐かせるような作業は根気と継続が求められるものだ。
ばつが悪そうに目をそらしたドフラミンゴが幾分冷静になったと見て、
は深いため息を吐いた。
「拒んでおいてなんだが、お前、私を力づくでどうこうすることもできるだろうが。
それとも何か? いつか私がお前を受け入れる日が来るとでも思っているのか?」
はドフラミンゴを嘲笑う。
道理を知らない、”頭の悪いガキ”でも見下ろすような目つきだ。
だが、ドフラミンゴは怯まなかった。
「――だったら悪いか?」
まっすぐに見つめ返され、視線を千切ったのはの方だった。
「・・・お前は狂っている」
「フッフッフッフッフ! 今更だなァ」
ドフラミンゴはサングラスを拾い上げ、笑った。
常のような貼り付けたような笑みではなく、少しだけ口角を上げた、
珍しい静謐な笑みだった。
「おれを狂わせたのはお前だよ」