退屈
代わり映えのしない1日が始まる。
朝起きて、一杯のコーヒーを淹れる。
トースターでパンを焼いている間、卵とベーコンをフライパンに落とし、目玉焼きを作る。
食事を終えて洗い物を済ましている時には意識が明瞭になっている。
歯を磨き、丁寧に髭を剃り、顔を洗い、昨晩アイロンをかけておいたシャツに袖を通す。
櫛を通し髪を撫で付けて、レンズを磨いたメガネをかけ、身だしなみを整える。
そして・は職場へと向かう。
今日も、明日も、明後日も。
※
ドフラミンゴは何日かの講義を聞いたあと、ついに彼の研究室を訪ねることにした。
の講義はそつがなかった。だが手を抜いていたとドフラミンゴは思う。
あくまで職務に則った授業で、書いた本から伺えるの
ある種のエンターテイナー的な要素が見えなかったからだ。
それなりに面白い授業ではあったが、おそらくはもっと人を熱狂させることもできるだろう。
なぜ手を抜いているのかはわからない。
ただ、がどのような人間だとしても、ドフラミンゴは彼を引き抜くつもりでいた。
打ち明けると、大学教授を海賊に引き入れるなど突飛な考えだと、トレーボルらは笑い、驚いていたが、
適当に理由をつければドフラミンゴの忠実なる幹部たちはそれ以上何も言わなかった。
しかし、彼らに語った『交渉に強い人間が欲しい』とか、
『将来必要な、”カタギ上がりの真っ当な感性を持ったブレーン”として使いたい』とか、
そう言う理由は方便で、実のところ、
ドフラミンゴはあの死人のような男がどうも気に障って仕方がなかったのだ。
破滅させてやりたかった。
あの青白い、暗澹とした無表情を苦痛と苦難に歪めてやりたかった。
それを特等席で、一番近くで眺めたかった。
強い憎悪のような感情をに覚える理由はさておき、
ドフラミンゴは”そうしたいからそうする”ことにしたのである。
ノックの後、入室を許され、ドフラミンゴはの研究室に足を踏み入れた。
研究室はいかにも知識に耽溺する学者らしい、本と紙に溢れている。
壁一面の本棚にはぎっしりと専門書が並べられ、
デスクには資料や学生の書いたレポートが積み上げられている。
湯気の立つコーヒーがデスクに置かれ、ほのかに香っていた。
は手に持っていた紙束から顔を上げ、ドフラミンゴを見やると小さく首を傾げたが、
ソファを指差してドフラミンゴに言った。
「かけたまえ、君は、」
「ドンキホーテ・ドフラミンゴだ」
はドフラミンゴの顔を注視したように見えた。
無理もない。ドンキホーテ海賊団は近頃北の海を荒らしている海賊だ。
世俗に疎そうなにもその名前は覚えがあったのだろう。
「・・・君、ウチの学生じゃないだろう」
「フッフッフッ! だがあんたの授業は何度か受けてるぜ、”先生”」
突然現れた海賊相手にもは随分と落ち着いた様子だった。
は持っていた紙束をデスクに置くと、ドフラミンゴの向かいのソファに自らも腰掛ける。
「それはどうも。早速用件を聞こうか。質問かね?」
「いいや、あんたをうちの海賊団に招き入れたい」
は眉を上げた。
「冗談にしては随分と質が悪いように聞こえるが」
「本気さ。交渉に長けた人材が欲しい。暴力はコストとリスクがかかる。
それと将来のために”カタギ上がりの真っ当な感性を持ったブレーン”も必要だ。
ウチに居るのは皆叩き上げのスラム上がりばかりだからな」
幹部にも説明した適当な理由を口にすると、は顎に手をやって小さく呟いた。
「他の大学に招聘されたことはあるが、海賊から勧誘を受けるのは初めてだな」
「嫌なら嫌と言ってもらっていいが、その場合、どうなるかわかってるよな?」
ドフラミンゴがさらりと脅しをかけると、
は驚くほど平然とした様子で、もともと青白い顔をドフラミンゴに向ける。
「メリットはなんだ?」
「フフフッ、おれだってあんたを勧誘しに来てるんだ。
じゃなかったらこうして”穏便な”手段はとらねェ。
多額の報酬を約束しよう」
金に目が眩んでくれるならこっちのものだと笑うドフラミンゴに、
は首を横に振った。
「違うよ、君のだ」
今度はドフラミンゴが怪訝そうに首を傾げる番だった。
「さっき説明しただろう」
「あれは方便だ。嘘ではないが、”決定的な理由”でもない」
淡々と問いかけるに、ドフラミンゴは奇妙な居心地の悪さを覚えていた。
べっ甲でできた眼鏡越しに覗く目は、講義の時と変わらず暗澹と濁って居るのに、
その時とはまるで違う印象だった。
まるで、カマキリのような、巨大な昆虫を目の前にしたような気分だ。
「君は私の何が欲しいのだね、”ドンキホーテ君”」
その呼び方に妙に違和感を覚えて、ドフラミンゴは思わず口を開いていた。
「・・・ドフラミンゴだ」
「うん?」
は少々困惑しているようだった。不思議そうに首を傾げている。
だが、ドフラミンゴ自身もなぜに名前を呼ばせようなどと思ったのか
理解できておらず、沈黙する。
ラチがあかないと察したのか、先に口を開いたのはの方だった。
「”ドフラミンゴ君”で、いいのかな」
「ああ・・・そっちの方が呼ばれ慣れてる」
ドフラミンゴは嫌に馴染む呼び方に内心、神経がささくれ立つのを感じながら
表には出すまいと指を組み、笑みを深めた。
はかすかに目を細める。
「君、本当に私を手元に置きたいのか?」
「だから、何度もそうだと言ってるだろうが」
ドフラミンゴは口元に浮かべた笑みをそのままに眉を顰めた。
はドフラミンゴが不機嫌になっていくのにも動じず、足を組んだ。
「では・・・、なぜ君は私を警戒している?
丸腰で、体格も幾分劣る、おそらく暴力沙汰になれば容易く屈服させられるだろう私を」
ドフラミンゴの口元から、ついに笑みが消えた。
「君は私を見て想起するものがあるのだね? であるならば、”何”を?」
いっそ無神経なほど平坦な声が、ドフラミンゴを逆撫でした。
「あるいは、”誰”を?」
ドフラミンゴは気づけばテーブルを砕き割っていた。
資料と木片が床に散らばっていく。
ドフラミンゴは怒りを冷まそうとするように深く息を吐き、口を開く。
「交渉は、」
腹立たしくも涼しい顔のがドフラミンゴを見遣った。
「決裂ってことでいいのか、先生?」
「雇用関係になるには、ある種の信頼が必要だ。
まして君は私に現職を退くよう迫っているわけだから」
は淡々と言葉を述べる。
不思議と先ほどまで感じていた、無機質な昆虫のような雰囲気は霧散していた。
「しかし君は信頼関係を築く努力を私に提示していない。
つまり、”君が私を勧誘する本当の理由”を。
だが、察するに、君はそれを明らかにしたくないらしい」
残念そうにも見えるに、ドフラミンゴは口角を無理やり上げた。
「フッフッフッ! よく言うぜ。
おれにはあんたが今の職に執着してるようには見えねェんだがなァ」
「ほう? なぜそう思う」
眉を上げたに、ドフラミンゴは笑う。
「あんた講義では手ェ抜いてるだろ。
書いた本では親切すぎるほど丁寧だったってのに。
もっと他人を熱狂させることも、心酔させることもできるはずだ。その上、」
はドフラミンゴを何の感情も浮かばない顔で眺めていた。
ドフラミンゴがこう言うまでは。
「死ぬほど退屈そうだ」
はその時、一切の挙動を停止した。瞬きも、息さえも。
ドフラミンゴにはそれが、虚をつかれたように思えたが。
「・・・ふふ」
薄い唇を少しばかり持ち上げて、小さく笑みをこぼした時に
の纏う雰囲気が一瞬、歪んだ。
「お引取り願おう」
扉を指さされ、ドフラミンゴはサングラスの下で目を眇めた後、それに従った。
「後悔するぜ、先生」
※
また代わり映えのしない1日が始まる。
朝起きて、一杯のコーヒーを淹れる。
作り置いていたベシャメルソースを温め直し、
フライパンを振るって作るのはクロックムッシュだ。作り慣れたそれに舌鼓を打つ。
食事を終えて洗い物を済ましている時にはもう目が冴えてきている。
歯を磨き、丁寧に髭を剃り、顔を洗い、昨晩アイロンをかけておいたシャツに袖を通す。
櫛を通し髪を撫で付けて、レンズを磨いたメガネをかけ、身だしなみを整える。
鏡を見てネクタイを締めると、
上背はあるが肉がないので生地を詰めなければならないとテーラーの主人に言われたことを思い出す。
少し太るべきだろうか、と思わないこともないが、
そうすると今持っている服を取り替えなくてはならないので不経済だとすぐに考えを取りやめた。
鍵を閉め、職場へと徒歩で向かう。
15分もすれば研究室まで到着する。そのあとは講義の準備だ。
このルーティーンをは5年近く繰り返している。
それは、今日も、明日も変わらない。そう思っていた。
だが、その時なぜかの耳に、先日訪ねてきた海賊の声が囁いた気がした。
『死ぬほど退屈そうだ』
揶揄するような幻聴に瞬くより先に、耳をつんざくような轟音が響く。
熱風が吹き荒れる。焦げ付くような匂いが鼻をついた。
が振り返ると、つい先ほどまでの家だった場所が音を立てて燃えている。
悲鳴と怒号が上がっているのを、はしばし呆然と眺めた。
それから、ふと、直感のようなものを覚えて、職場へと駆け出した。
案の定というべきか、の研究室のあったはずの建物も荒れ狂うような炎に飲まれている。
避難する関係者が横をすり抜けていくのを横目に、はただただ立ち尽くしていた。
※
炎を呆然と眺めるに、ドフラミンゴは声をかけた。
「よォ、教授。今日の講義はできそうにねェなァ」
唖然としていても、の明晰さは変わらなかったらしい。
ドフラミンゴに目を向けて、呟く。
「・・・これは、君が?」
「さァ? フッフッフッ!」
はぐらかしはしたが、ほとんど認めたようなものだ。
はしばしの沈黙の後、ドフラミンゴに尋ねた。
「なァ、ドフラミンゴ君。もし、君の誘いを断り続けたら、
私の行く先々で”火事”や”爆発事故”が起こったりするのかな?」
「フフフフフッ!!! 何が賢い選択か、もうわかってるだろ?」
肯定して笑うドフラミンゴを見上げ、は軽く瞬いた。
が、すぐに俯いた。拳は強く握られて白くなっている。
「・・・本当に、私を引き抜くためだけに、こんな騒ぎを?」
常に平坦な声が、その時ばかりは震えていた。
ドフラミンゴは愉快だった。より近くでその顔が歪んでいる様を見たいと思った。
だからしゃがんで、を、見た。
「・・・くっ、ふふ、はははははッ!!!」
は確かに表情を歪めていた。
だが、そこにあるのは心底愉快そうな笑みだ。
「君ねぇ! くくッ、普通、っ、そこまでするかな!? あっはははははっ!!!」
ヒーヒー言いながら腹を抱えて笑うを、今度はドフラミンゴが唖然と眺めていた。
予想だにしなかった反応に、しゃがみ込んだまま固まっているドフラミンゴの背を、
は遠慮なく叩いた。
常の淡々とした喋り口調に砕けたものが混じる。
「おい君、ちょっと見たまえ、燃えてるよ、おれの研究室。家も。ふふふっ!
燃やしたのも君だけど。・・・くふっ、はっはっはっは!!!
はーッ、おかしい! 最高だな、これ。向こう10年は笑えるぞ」
「・・・お前、おかしくなっちまったのか?」
ドフラミンゴが思わずといったように呟くと、
息を整え落ち着いて来ていたがまた吹き出した。
「ふっ、ふふふっ! やめてくれよ君、まだ笑わせるつもりなのか?
あははッ! まァ、否定はしないが君ほどじゃないさ、ドフラミンゴ君。さて、」
は炎を背後に小さく笑みを作った。
「君の要求を飲もうじゃないか、ドンキホーテ・ドフラミンゴ。
私を雇い入れて遠慮なくこき使ってくれたまえ。ところで君、この後時間はあるか?」
「は?」
怪訝そうな声を上げたドフラミンゴに、は愉快そうに笑った。
「報酬と仕事内容について詳しく聞かせて欲しいのだが、立ち話ではよろしくないだろう。
ちょうどこの先に喫茶店があるので案内しよう」
そう言ってどこか朗らかささえ感じさせるに、
ドフラミンゴはもしかすると、
自分は何か異様なものをファミリーに持ち込もうとしているのかもしれないと思ったが、
すぐに考えを改めた。
は先日自分でも言った通り、
『丸腰で、ドフラミンゴより体格も幾分劣る、
おそらく暴力沙汰になれば容易く屈服させられる男』である。
手元に置いておけばいつでも殺せる。
そう思い立ったドフラミンゴは、に案内を任せて、燃え盛る建物を後にした。
何しろ火事にはろくな思い出がない。