名前の無い幽霊


もう、何日、何年この海を彷徨ったのだろう。
ここは現実なのか、私の夢の世界なのか、
それとも天国なのか、地獄なのか、よくわからない。

私はたまたま出くわした船の一つに勝手に乗船して、あちこち見て回る。
この深い霧の中でたまに現れるこんな味気ない幽霊船でも、暇つぶしにはなるのだ。
その最中だった。

気配に振り向いて、私は目を見開く。
黒いシルクハット。ステッキを持った背の高い、・・・白骨死体が、
欠けたカップを片手にこちらを伺っていたのだ!

「いやああああああ!!!」
「キャアアアアアア!!!」

初対面、顔をあわせて開口一番。
私たちはお互いに叫んでいた。

「骸骨が動いて喋ったぁああああ!?」
「お、お、お、オバケー!?」

お互いに相手の事をよく知らない、”異形の姿”である私たちは、
落ち着くまでしばらく時間がかかったし、物理的な小競り合いにも発展した。

何を勘違いしたのか、叫ぶ骸骨は私に思いっきり塩をぶつけてきやがったからだ。

残念。私は塩が効かないタイプの幽霊です。
なので私は思いっきり骸骨の身体をすり抜けてやった。

これをやるとゾワッとするらしい。
出会った海王類を通過したらみるみる身を震わせて逃げていったので効果は実証済みである。

「ヒヤァッ!つめたい!何するんですか!?」

「塩なんかぶつけてくるからでしょ!効かないけどムカつくわ!
 ・・・・あなたなんなの?死んでるの?」

「あなたに言われたくないですよ!
 ・・・あれ?よく見るとあんまり怖くないですね」

上から下までじろりと眺め回すような骸骨の所作に、私は腕を組んだ。
随分不躾な骸骨だ。

「あなたは見れば見るほど恐ろしいわ。骸骨って動いて喋るものなの?」

ふわふわと骸骨の周りを飛び回る私に、骸骨はちょっと首を傾げてみせた。

「・・・幽霊のお嬢さん、あなた、お名前は?」
「さぁ?分からないわ。意思疎通が出来る生き物に、私初めて出会ったんだけど。
 ここってどこなの?死後の世界?」

骸骨は驚いたようだった。

「あなた、記憶が無いんですか?」
「・・・そうなの。自分の格好が、”まともじゃない”ってことは分かるんだけどね」

何しろ私には足が無い。
両手を見れば透明で、透けている。
纏っている丈の長い、フリルのついたワンピースもグラデーションがかかっているように、
下の方に行くにつれ、透明だ。
空に浮いている。ものに触れもしない。
お腹もすかなければ疲れる事も無い。
そう。前述した通り、私は”幽霊”だ。

「物心ついたと思ったら、辺りは霧深い海だし、たまーに船に出くわしても、
 人っ子一人居やしない。おまけに自分の名前も分からない。
 たまったもんじゃないわ。
 どれくらい時間が立ったのかも、この海じゃあ、わかりやしないもの」
「ええ、ええ、わかります」

骸骨はしみじみと頷いてみせた。

「ヨホホホホ・・・お嬢さん、幽霊なのに怖くない。不思議ですねぇ。
 申し遅れました。私”死んで骨だけ”ブルックです。
 ここで出会ったのも何かのご縁。ちょっとお話ししませんか?」



ブルックと話した収穫は大きい。
まず、ここがどこなのかが理解出来た。
グランドライン、フロリアントライアングル。魔の三角地帯と呼ばれる海域だ。
どうやら天国でも地獄でもないらしい。

世界地図を見せてもらったが、あまりピンとこなかった。
かつての私は、日常的に地図を見るような職業の人間では無かったようだ。

そして、ブルックの過去。
ヨミヨミの実という悪魔の実を食べた復活人間。
白骨死体と化した自身の身体に、魂が宿って、この異形の姿なのだと言う。

おまけにこの魔の海の主に影をとられ、
光にも海にも嫌われるという散々な目に遭って来たようだ。

「へぇ、じゃあ、影をあなたは取り戻さないといけないんだ・・・大変だね。
 それに、何十年も一人で?」

ブルックは頷く。

「ええ、それにしても、あなたも自分の事が分からないと言うのは、不便ですね。お嬢さん」
「そうなんだよね・・・私自分がどうして死んだかも、覚えていないの。
 ただ・・・」

私はブルックと話しているうちに、
脳裏に像が浮かび上がるのを感じていた。
感覚などろくに持ち合わせていないくせに、胸が苦しい気がする。
とても大切な事を忘れているのだと頭の中で警鐘が鳴っている。

「私、大事な事を忘れている気がするの。
 ブルック、あなたと話してたらなんとなく、思い出して来たことがある」

私は空中を泳ぐようにふわふわと浮かびながら仰向けになった。

「私、誰かに殺されたのかも。
 少なくとも、恨まれてはいたみたい。
 こんな風に、手を伸ばした記憶がある。
 逆光で見えない誰かの顔、灰色の空・・・」

私は右手を上げた。

「私、窓から突き落とされたんだと思う」
「こ、怖い話ですね・・・」
「そんなに震えなくてもいいじゃない。血みどろなわけでもあるまいし」

震えるブルックに呆れていると、ブルックは気を取り直すように、バイオリンを取り出した。

「暗い話は止めましょう!
 景気付けに歌いましょうか。私、大抵の楽器は使えるんですよ!」
「へぇ!それは素敵ね」

ブルックは陽気に歌いだした。
海賊の歌だった。
不思議とそのことに、恐れも、嫌悪感も覚えない。

歌い終えたブルックに、私は拍手した。
ブルックは照れたように頭を掻く。

「いやあ、聴いてくれる人が居るだけでも気持ちが違いますねぇ」
「ウフフッ、私幽霊だけど」
「それでもです」

感じ入るようなブルックに、私は笑みを浮かべる。

「・・・私も、同じような気持ち。
 やっと人に・・・人に?ええと・・・意思疎通が出来る誰かに会えた」
「そこは人って認識してもらいたかったですね」

ボーン、と影を背負ったブルックに、私は踊るように近づいた。

「私は幽霊だし、名前も覚えてない。
 キスも出来ないし、ものに触れもしないけど。
 あなたとお喋り出来る。きっと歌も歌える」

ブルックは何を考えているのか分かり辛い顔でこちらを見ている。

「多分、誰かと話していたほうが、記憶を思い出せる。
 そんな気がするの。私、他に行く宛ても無いし、あなたと一緒に居ても良いかな?」
「ヨホホホ・・・お嬢さん・・・」

ブルックは顔を手の平で覆うようなそぶりをみせた。

「私、ちょっと泣いちゃいそうです。骸骨だから、涙なんて出る訳ないんですけど」
「ウフフフフッ、よろしくね、ブルック」

こうして、記憶喪失の幽霊と、死んで骨だけブルックは出会ったのだ。
確かにそのとき、止まっていた時間が動き出したのである。